「サシアイ」1~16話まとめ読み

「結局、日本酒は米が一番重要だよな」
 そう言って俺は徳利を差し出した。
 対面に座る友人、槇村卓(まきむらたく)の杯に酒を注ぐ。
 いずれも備前焼、味わいある桟切模様の逸品━槇村に舐められたくない一心で、俺はこれらの酒器を買い揃えた。
「うまい酒を飲むための手間は惜しめないからな。
 もちろん、農水省の作況指数を鵜呑みになんかしないぜ?
 ここぞと思う産地には自分の足で出来不出来を確認に行く━で、近郊の蔵元で買い付ける。これで十中八九はうまい酒にありつけるな」
「ふ~ん、米ねぇ……」
 俺の主張をニヤニヤ笑いながら聞いていた槇村は、ぐいっと酒をあおると熱い息を吐いた。
「まあ、間違っちゃいないとは思うけどね。
 僕は絶対に水が先だと思うな。味噌や醤油と一緒だよ━まずは、清水ありき、さ」
 明らかに俺より飲んでいるはずなのに、槇村の弁舌は乱れない。
 外科医がパニックに陥った助手を窘める様に、穏やかに、しかして理路整然と切り返してくる。
「老舗の蔵元はきれいな水源に集まっているだろう?
 そして動かない、というか、動けない。米の不作が続く事もあったろうさ。でも、不動のままだった。水が最も重要とされてきた証拠だよ」
 槇村は更に杯を重ねた。

 実際、槇村の酒に関する造詣の深さは、俺も一目置かざるを得ない。
 しかも、細面で、鼻梁が高く、なかなかの美男といえる。イケメンの解説は、不思議と説得力が増すものだ。
 まあ、俺にとっては、槇村の解説を不快にする要素のひとつでしかないが……。
「それに現代人の感覚では、米も水も運搬に差異は感じないけど━いや、むしろ水道の発達で水の方が気安いかな。
 日本酒の蔵元は江戸時代から続く老舗がほとんどだよ。その当時、大量の水を確保する事がどれほど大変だったか分かるでしょ?
 君の考えは、原材料の熟成に重きを置いた洋酒や果実酒になら当てはまるかもしれないが、こと日本酒に関しては━」
 これ以上、槇村に意見されるのはプライドが許さなかった。槇村の言葉尻を潰し、俺はいささか声を荒らげた。
「そんな事は常識の範疇だ! それじゃあ進歩がないだろうが!
 本当の酒好きだったら、自力で新しい蔵元の、新しい酒を見つけ出す喜びを知れって話だ!」
「ふっ、そんな話をしてたっけ?」
 興奮する俺の様を鼻で笑い、さらに酒をあおる槇村━そのまま杯を伏せた。どうやら、今日の試飲会はここまでのようだ。

 俺と槇村は、毎週末、この酒の試飲会を開いている。
自他共に認める酒好きの俺たちは、大学一年の歓迎コンパで知り合い、自然と意気投合━事あるごとに自慢の酒を持ち寄るようになっていった。
 ただ、神聖なキャンパスにアルコールを持ち込むのは如何なものかと、いっそ定期的な酒宴を催す事にしたものだ。
 今日はたまたま日本酒だったが、洋酒、果実酒、蒸留酒━アルコールが入っていれば何でもござれの暴飲会である。
 大学生の分際で酒道楽とは我ながらどうかとは思うが、酒屋の息子だ。温情願いたい。
 ちなみに槇村の実家も醸造業で、国内屈指の作り酒屋である。いわゆる御用聞きのうちとは天地の差だ。この点でも、槇村は俺のプライドを傷つける存在だった。
「来週はお前の番だな━何を飲む?」
「ちょっと珍しい酒が手に入ってさ。まあ、任せてよ」
 自信ありげな槇村の表情と、生来の負けず嫌いが俺の闘志に火を点ける。
「へぇ、ちょうど俺も面白い酒を見つけたところだ。あれはそう簡単に手に入る代物じゃないな」
 別にそんな酒は用意していない。
 口は災いの元とはこの事だ━結果、自慢の酒を用意するため、俺は翌日から全国を奔走する破目に陥った。
「じゃあ、お互いに持ち寄る感じでいく?」
「いいとも、楽しみだな」
 次の試飲会の時間を約束して、俺達は別れた。

 槇村のマンションは港区白金の一等地にある。
 36階建、白亜の殿堂といった趣の、一般庶民の妬みと嫉みが地縛霊を招き寄せそうな佇まいである。有名な酒造メーカーの御曹司ともなれば、その最上階に居座るのも当然と感じられるものなのだろうか。
 部屋にあがると、小型のハウンド犬が唸り声をあげて“歓迎”してくれた。
 犬の抜け毛が盃に付着する可能性から、酒飲みの風上にも置けぬ奴、と槇村を責め立ててみる事を思いついたが、塵ひとつない室内を確認するに至り胸中に留めた。
 既に酒宴の仕度は済ませてあった。俺は槇村に勧められるまま上座へと着く。
「で? 面白い酒ってのはどれ?」
 俺が口から出まかせを言った事を見透かしていたのだろう。出せるものなら出してみろ、と切れ長の目が語っている。
「こいつだ━」
 俺はこの一週間、東奔西走して入手した(急ごしらえの)自慢の酒を取り出した。
「蒸留酒? シードルかい? 珍しくもないなぁ」
「使われている林檎が特別なんだ。
 フランスのブルゴーニュ地方で取れるプラティーヌ━白金と名付けられた希少種さ」
「ふ~ん……」
 俺からグラスを受け取り、一口含んだ槇村の顔に驚愕の色が走る。
 なかなか心地良い瞬間だ。大学の講義を一週間もさぼった甲斐があったな。

「どうだ? 変わった味だろう?
 深い甘みがある半面、成熟過程での酸味もまったく失われていない」
「…………」
「プラティーヌは傷みやすい品種らしく、農薬も受け付けない。
 収穫できるようになるまでにはかなりの手間がかかるんだ。そいつをふんだんに使って蒸留した酒だからな。
 なかなか手に入らんのよ」
「確かに、面白いな。
 鼻に抜けるような芳醇さがあり、それでいて癖が無く飲みやすい……、まあ、うまいよ」
 いつもの穏やかな笑みを浮かべたつもりなのだろうが、槇村のそれは口角の筋肉を歪める程度に留まった。
 どうやら平素の自信をいささかなりとも傷つけられたようだな。
「それで? お前も酒を出せよ」
 俺はここぞとばかりに畳みかける。
 自然と声が大きくなっているのが分かった。
 応じて槇村が取り出したのは茶色の大瓶━底の部分で何かが“とぐろ”を巻いている。
「おいおい、ハブ酒かよ。
 まあ、意外ではあったけど、別段、珍しくはないぜ」
 奇を衒うとは槇村らしくもない━今日の勝利を確信し、俺は内心ほくそ笑んだ。
「そのハブをよく見てよ」
 そう促され、俺は酒に浸けられた瓶底のハブを凝視した。

(あっ━)
 驚いた事に、そのハブは一つの胴体から二つの頭が生えている。いわゆる“双頭の蛇”という代物だったのだ。
「これは……、頭が二つ!?」
「珍しいでしょ? 稀にある奇形でさ。
 このハブ酒の製法自体は特別なものじゃないけど、縁起物と見る向きもあって結構な値がしたよ」
 確かに希少価値としては抜群だろう。
 珍しい酒を持ち寄るという今日の試飲会の趣旨からすると、これは一歩譲らざるを得ない気もする。
 しかし、チラリとのぞき見た槇村の表情に、勝者の色はなかった。槇村は槇村で、俺の酒の方が、稀少と思っているのかもしれない。
 ここで下手なアピールをしては恥をかく事になりそうだ。引き分け、再戦へと持ち込もう。
「ま、まあ、これは俺が集めた秘蔵の酒のごく一部だけどな」
 案の定、槇村は俺の話に乗ってきた。
「ああ、僕も見せたいお酒がまだまだあるよ」
「じゃあ、希少酒という同じテーマでリマッチといくか?」
「OK、そうしよう━」
 うまく話をまとめた様で、何の事はない、すべての問題の先送りである。
 そして、この日を境に俺達の流浪の旅が始まった。

 珍しい麹を使った日本酒だの、歴史上の人物が醸造した焼酎だの、果ては酒瓶自体が年代物の陶磁だの、珍しい酒の噂を耳にすれば、東西南北、何処へでも向かった。
 槇村に試飲会で勝利する━プライドと嫉妬、伴う知識探究への喜び、様々な要素が相まって、いまや俺の生活はそれだけに占められていた。
 自然と大学は休みがちになり、この一ヶ月は顔も出していない。
 今日等、同じ学科の友人が心配し、電話をよこしてくれた。
「おい、どうして大学来ないんだよ!
 このままじゃ単位が足りなくなるの、分かってんだろ!?」
「いや、心配させて悪いな。ちょっと調べ物が忙しくってさ」
「調べ物?
 論文か何か、か? なんなら協力するぜ?」
「ああ、うん、そうだな。
 お前さ、何か珍しい酒とか、うまい酒とか知らないか?」
 絶句に次いでの深いため息。俺の酒好きを知っているせいもあり、さすがに友人は呆れたらしい。
 そのまま電話を叩き切ろうとするのを慌てて止める。ひとつだけ確認したい事があったのだ。
「時に槇村━槇村卓はどうしてる?」
「ああ、お前と同様にずっと休んでるよ。
 休みの時期が完全に被っているもんだから、お前らおかしな仲なんじゃないかと疑われてるぜ」
 予想通りだ。試飲会では余裕を見せてはいるが、既に槇村もネタ切れに違いない。俺と同様、全国を駆けずり回って、奇酒を求めているのだろう。

「あははは、やっぱりな、ははははは!」
 クールな槇村が懸命に値段交渉する様子を想像し、俺は思わず吹き出してしまった。
「何が可笑しいんだよ、お前、大丈夫か?」
「ははは、大丈夫さ! むしろ爽快だぜ!」
「お前、まさか……」
「ん?
 いやいや誤解だ! 一口も飲んでないって!」
 講義をさぼって昼間から酒を飲んでいやがった、そんな悪い噂━まあ、ほとんど真実なんだが━を触れ回られてたまらない。俺は込み上げる笑いを奥歯で噛み殺した。
「とにかく大学に来いよ。一応、みんな心配してるんだからな」
「分かった、分かった、ありがとな」
 あの槇村がそこまで追い詰められているのだ。先に降りられるものか。
 しかし、自ら志望し、親に仕送りを強いてまで通わせてもらっている大学だ。
 この不景気、酒屋の上がりなど知れている。これで留年となれば、親がどれだけ落胆するか。さすがにそれは辛い。
 俺は酒を探索する忙しさにプラスして、最低限の講義に出席せざるを得なくなった。

 大学の講義と酒探し━睡眠時間すら削られる状況だったが、俺も槇村も例の試飲会を止める事はなかった。
「これは知ってる?
 “雄蛾酒”っていう中国の薬酒だ。雄の蛾の胴体部分を浸けたものさ。強烈でしょ?」
「そんなのは常識の範疇だな。
 中国ならこっちの方が凄いぜ━ガマガエルの脂肪を浸け込んだ酒だ」
「悪くないけど、稀少ってほどではないかな。
 これは“虎骨酒”━トラの骨を酒に浸けて、その強さを得ようというシャーマニズム的な意味合いから生まれた珍品さ」
「それも常識━。
 こいつはこっそり紹介するが……、様々な動物の睾丸を浸けた違う事な強壮酒だぜ」
 より珍しいもの、相手が入手していなさそうなものを追い求めるうち、試飲会に用意される酒は、どこか奇を衒った、アンダーグラウンドな珍品が多くなった。結果、二人とも一口も飲まずに終了する日さえあった。
 それでも、槇村がすでに所有済みの酒を紹介するのは屈辱的だったのだ。恐らくは槇村もそうなのだろう。
 試飲会に持ち寄られる酒のラインナップは、徐々に珍妙さの度合いを増していった。

 大学から帰宅してポストを覗くと、衛星放送テレビの機関紙が投函されていた。
 普段ならそのままゴミ箱に直行なのだが、表紙にコミカルなイラスト文字で描かれた“酒”の一字に引っかかり、ぱらぱらと捲ってみた。
 記事を読み始めて直ぐ、俺は息を飲んだ。進新気鋭な酒の評論家として槇村が紹介されていたのだ。
 しかも、CSとはいえ、テレビ出演の予定も掲載されている。
(槇村のヤツ……)
友人の誉れを讃えたい気持ちは微塵も無い。イケメンはいいよなぁとおどける余裕もない。
言い様のない怒りと寂しさ、敗北感で胸がいっぱいになり、俺は機関誌を丸めて地面に叩きつけた。
確かに肝胆相照らすという仲ではなかっただろうが、共通の趣味を持つ者として黙っていられた事に腹が立った。
そして、槇村の知識には俺が教えたものも少なからず存在するはずという自負が、その感情を延焼させていく。
俺は昂る気持ちに任せて、CSテレビのクレーム受付に電話をかけてしまった。
それが八当たりでしかない事は、憤懣の最中でも判断が出来ていた。それでも抑えきれなかったのは、このままでは自分だけが置いていかれるという恐怖にも似た寂しさのためだった。
(あるいは、試飲会で打ち負かせば……)
それで槇村が自らの未熟を悟って評論家を辞退する? 我ながら夢想の範疇と思わざるを得ない。
それでも俺は更に深く酒選びに没頭するのを抑える事が出来なかった。
睡眠時間は更に短くなった。

深夜2時、携帯電話が鳴った。
貴重な睡眠を妨げられ、俺は極めて不遜に応対した。
「……もしもし?」
槇村だった。いつもの穏やかな中にも冷徹さを感じさせる声音ではない。どこか怯えたような、不安で押し潰される寸前といった様子が伝わってくる。
「例の試飲会、今からやらない?」
「今から? 夜中の2時だぞ?」
「いや、悪い……。
 でも、たった今、珍しい酒が手に入ってさ……」
嫌な予感はした。それでも評論家の件を知って以来、多少の隔たりを感じていた俺は、槇村の申し出が嬉しかったのだ。
行くと返答してからの身支度、外出は、思い掛けずに早かった。

「悪いな、遅くに……」
そう言って玄関のドアを開けた槇村の顔に、俺は思わず息を飲んだ。
「酷い顔だな、大丈夫か?」
暗い顔色と目の淀み、お洒落な槇村には珍しいボサボサの髪━やつれたと表現しても差し支えのないレベルだ。普段は様相のいい男だけに余計に目立った。
苦笑した槇村は、俺の顔を指差した。
「人の事は言えないな。
 フラフラした足取りで今にも倒れそうに見えるよ」
それは意外な答えだった。
まったく気付いていなかったが、俺もこんな感じにやつれているのだろうか?
睡眠不足? アルコールの過剰摂取? 単位不足への不安? 槇村への嫉妬と焦燥? 様々な要素を羅列してみたが、目の前の槇村のやつれを形成するほどとは思えなかった。

「まあ、上がってよ━」
そう手招きした槇村の袖口に奇妙な染みを見つける。
(赤い……、血か?)
「なかなか忙しくてさ……。
 君もだろうけど、酒の知識に関してだけは誰にも譲れないところがあるんだ。実際、頼られたりもしているし、日々勉強で疲れているのかもしれないな」
評論家の事を言ってやがるな━嫉妬の苦味が俺の胸に滲み出した。
「“狗肉酒”ってのがあってさ。
 犬の肉を浸け込んだ強壮を目的とした薬酒なんだけど、何故か、これがなかなか手に入らないんだ……」
 リビングは薄暗かったが、ダイニングテーブルの上に口の大きな酒瓶の置いてあるのは分かった。同時に独特の強いアルコール臭が鼻を刺す。
「でも、製法は分かったんでね。
 これはひとつ、自家製“狗肉酒”を試してみるしかないかなって……」
俺は足を止めた。いつまで経っても槇村の友人と認めず、無遠慮に吠えかかってくるハウンド犬の“歓迎”がない事に気付いたのだ。
嫌な予感に佇む俺に嘆息し、槇村がリビングの照明のスイッチを押した。

果たして、照らし出されたダイニングテーブル上の酒瓶の中には、正体不明の肉片が沈んでいる。それが何の肉なのか、どこで入手したものなのか、問い質してみる気にはとてもなれなかった。いや、軽い嘔吐感がこみ上げていたので、出来なかったというのが正しいかもしれない。
「野良犬でもと思ったんだけど……。
 なんというか、飼い犬を間違える可能性を鑑みると、ひと様に迷惑をかけるのは良くないかな、と思ってね」
淡々と答える槇村は、笑っているような、悲しんでいるような、奇妙な表情を浮かべていた。その場にへたり込んだ俺の顔を覗いてくる。
「さあ、ここまでやったんだ━僕の勝ちだよね?」
そう言って詰め寄る槇村の瞳には、狂気の陰りが見て取れた。そして槇村の報告を鑑みれば、恐らく俺の瞳にも同種のものが宿りつつあるのだろう。
まずい。この流れはまずい。
負けたと言え━このまま付き合えば、俺も槇村も……。
胸中、冷静に叫ぶ俺がいる一方、自分だけが置いていかれる恐怖、それを完全に払拭する好機だと囁く何者かもいた。
また同じスタートラインに立つために避けては通れない、そんな啓示が痺れた頭蓋に鳴り響く。
やがて、俺の唇は、別の意思を持ったかの様に蠢き、細く震える声を漏らした。
「常識の範疇だな……」

ナイフの切っ先が震えている。
罪の無い動物を傷つける悲しみや辛さは、まともな神経を持った現代人であれば、誰でも持っているはずだ。しかも享楽を目的に━作業中、俺は何度も涙を拭った。
「ははは、槇村か?
 俺も珍しい酒を手に入れたぞ。今から試飲会をやろうぜ」
ここまでやったんだ、俺の勝ちでなければ困る━それは強迫観念に近い。言わば思い込み、捏造された安堵感に自然と笑いが込み上げた。
「……珍しい、酒?」
電話口の向こうから、槇村の不安げな声が聞こえてくる。
「ああ、猫の心臓を酒に浸けた“猫肝酒”っていう薬種だ。滅多に手に入らない珍品だぜ」
そんなものは世界中どこにもなかった。たった今、俺の手で生み出されたオリジナルだ。
「ははは、それは珍しいね。あはは、酷い奴だな、君も━」
「ああ、そうとも。
 どうだ? あはは、俺の勝ちだろう?」
すがる様な思いで携帯電話を耳に押し付ける。じっと槇村の返答を待った。
「うふふ、どうかな。僕なら、もっと珍しい酒を入手できるけどね━」
明るく笑いながらも、槇村の声音は震えていた。対する俺は悲鳴に近いトーンで、判定に不服を申し立てる。
「いやいや、俺の勝ちのはずだ!
 なぁ、槇村、そうだろう!? これは俺の勝ちだぜ!」
「まだだよ。
 勝手に決めないでよ、僕はまだできる……」
「駄目だ、俺の勝ちだ! 頼む、槇村、そうだろう!?」
「あはは、楽しみにしていてよ」
無情にも通話と共に俺達の精神の糸が断ち切られた。

動物愛護法と窃盗、あるいは廃棄物の処理関係か━様々な法に抵触しながら、俺と槇村の狂気は加速していった。
「“兎耳酒”というのを入手したよ!」
「今日は“鶏冠酒”というのが見つかったぜ!」
「あははは、“雀舌酒”━これはなかなか洒落てるね!」
「こっちは“羊骨酒”だ! うははは、ウールマークでも申請するか!」
「“猿尻酒”っていうのを見つけた! もちろん赤色さ!」
「ひひひひ、“豚足酒”だぜ! これは料理酒でアリだろ!」
俺は初めて精神(こころ)を麻痺させるために飲む酒を知った。
毎日、浴びる様に酒を飲み、大脳辺縁系が望むに任せて、時に大泣きし、時にはゲラゲラ笑いながら“作業”を進めた。常に発狂の予感と隣り合わせの毎日だった。
しかし、正気と狂気の縁を走る俺達のチキンレースは、槇村の“馬蹄酒”の提出をもって手詰まりになる。
これを超えるには、ゾウ酒? カバ酒? そんなもの捕まるわけがない。
いや、それ以前に、巨体を浸す酒瓶が存在しないのではないか。
既に正常な判断力を失いつつあるのか━俺は用意し得るものなのかを、あくまで真面目に河童橋の容器専門店で訊ねてみた。
店主は呆れながらも、その問い合わせが本日二度目である事を教えてくれた。獲物はクロサイ━確認するまでもない。槇村も同じ所に行きついているのだ。
俺は焦った。アルコールで蕩けた脳みそを駆使し、懸命に打開策を探った。

実は、ひとつだけ、確実に相手を凌駕し得る方法が見つかっている。恐らくは槇村もそれにたどり着いたはずのものだ。
(あとは、先に実行できれば……)
そう、実行さえできればすれば勝利は確実だった。
しかし、痛飲した大量の酒も今度ばかりは頼りにならず、結局、俺は躊躇してしまう。
この時点で、少なくとも俺の勝利は無くなった━。

どうしてこうなった? 何故、止められなかった? 槇村のマンションへの道すがら、答えが出るはずも無い自問を繰り返した。
水は自然が生み出したもの、酒は神が分け与えたものという━槇村の知識と美貌は、神様の招聘に適うものだったのかもしれない。
これから目の当たりにするであろうそれを夢想し、俺は神々しさに胸打たれた。同格を望むなど、土台無理な存在だったのだ。
俺の来訪を予測していたように、槇村のマンションのドアには鍵が掛かっていなかった。俺も迷うことなくリビングへと向かう。
すべてを確認するため、照明を点けた。
「クロサイの、間に合ったのか……」
果たして等身大の酒瓶の中、勝利を確信した微笑みを死相に浮かべ、全裸の槇村が浸かっていた。

「サシアイ」16話

実は、ひとつだけ、確実に相手を凌駕し得る方法が見つかっている。恐らくは槇村もそれにたどり着いたはずのものだ。
(あとは、先に実行できれば……)
そう、実行さえできればすれば勝利は確実だった。
しかし、痛飲した大量の酒も今度ばかりは頼りにならず、結局、俺は躊躇してしまう。
この時点で、少なくとも俺の勝利は無くなった━。

どうしてこうなった? 何故、止められなかった? 槇村のマンションへの道すがら、答えが出るはずも無い自問を繰り返した。
水は自然が生み出したもの、酒は神が分け与えたものという━槇村の知識と美貌は、神様の招聘に適うものだったのかもしれない。
これから目の当たりにするであろうそれを夢想し、俺は神々しさに胸打たれた。同格を望むなど、土台無理な存在だったのだ。
俺の来訪を予測していたように、槇村のマンションのドアには鍵が掛かっていなかった。俺も迷うことなくリビングへと向かう。
すべてを確認するため、照明を点けた。
「クロサイの、間に合ったのか……」
果たして等身大の酒瓶の中、勝利を確信した微笑みを死相に浮かべ、全裸の槇村が浸かっていた。

「サシアイ」15話

動物愛護法と窃盗、あるいは廃棄物の処理関係か━様々な法に抵触しながら、俺と槇村の狂気は加速していった。
「“兎耳酒”というのを入手したよ!」
「今日は“鶏冠酒”というのが見つかったぜ!」
「あははは、“雀舌酒”━これはなかなか洒落てるね!」
「こっちは“羊骨酒”だ! うははは、ウールマークでも申請するか!」
「“猿尻酒”っていうのを見つけた! もちろん赤色さ!」
「ひひひひ、“豚足酒”だぜ! これは料理酒でアリだろ!」
俺は初めて精神(こころ)を麻痺させるために飲む酒を知った。
毎日、浴びる様に酒を飲み、大脳辺縁系が望むに任せて、時に大泣きし、時にはゲラゲラ笑いながら“作業”を進めた。常に発狂の予感と隣り合わせの毎日だった。
しかし、正気と狂気の縁を走る俺達のチキンレースは、槇村の“馬蹄酒”の提出をもって手詰まりになる。
これを超えるには、ゾウ酒? カバ酒? そんなもの捕まるわけがない。
いや、それ以前に、巨体を浸す酒瓶が存在しないのではないか。
既に正常な判断力を失いつつあるのか━俺は用意し得るものなのかを、あくまで真面目に河童橋の容器専門店で訊ねてみた。
店主は呆れながらも、その問い合わせが本日二度目である事を教えてくれた。獲物はクロサイ━確認するまでもない。槇村も同じ所に行きついているのだ。
俺は焦った。アルコールで蕩けた脳みそを駆使し、懸命に打開策を探った。

「サシアイ」14話

ナイフの切っ先が震えている。
罪の無い動物を傷つける悲しみや辛さは、まともな神経を持った現代人であれば、誰でも持っているはずだ。しかも享楽を目的に━作業中、俺は何度も涙を拭った。
「ははは、槇村か?
 俺も珍しい酒を手に入れたぞ。今から試飲会をやろうぜ」
ここまでやったんだ、俺の勝ちでなければ困る━それは強迫観念に近い。言わば思い込み、捏造された安堵感に自然と笑いが込み上げた。
「……珍しい、酒?」
電話口の向こうから、槇村の不安げな声が聞こえてくる。
「ああ、猫の心臓を酒に浸けた“猫肝酒”っていう薬種だ。滅多に手に入らない珍品だぜ」
そんなものは世界中どこにもなかった。たった今、俺の手で生み出されたオリジナルだ。
「ははは、それは珍しいね。あはは、酷い奴だな、君も━」
「ああ、そうとも。
 どうだ? あはは、俺の勝ちだろう?」
すがる様な思いで携帯電話を耳に押し付ける。じっと槇村の返答を待った。
「うふふ、どうかな。僕なら、もっと珍しい酒を入手できるけどね━」
明るく笑いながらも、槇村の声音は震えていた。対する俺は悲鳴に近いトーンで、判定に不服を申し立てる。
「いやいや、俺の勝ちのはずだ!
 なぁ、槇村、そうだろう!? これは俺の勝ちだぜ!」
「まだだよ。
 勝手に決めないでよ、僕はまだできる……」
「駄目だ、俺の勝ちだ! 頼む、槇村、そうだろう!?」
「あはは、楽しみにしていてよ」
無情にも通話と共に俺達の精神の糸が断ち切られた。

「サシアイ」13話

果たして、照らし出されたダイニングテーブル上の酒瓶の中には、正体不明の肉片が沈んでいる。それが何の肉なのか、どこで入手したものなのか、問い質してみる気にはとてもなれなかった。いや、軽い嘔吐感がこみ上げていたので、出来なかったというのが正しいかもしれない。
「野良犬でもと思ったんだけど……。
 なんというか、飼い犬を間違える可能性を鑑みると、ひと様に迷惑をかけるのは良くないかな、と思ってね」
淡々と答える槇村は、笑っているような、悲しんでいるような、奇妙な表情を浮かべていた。その場にへたり込んだ俺の顔を覗いてくる。
「さあ、ここまでやったんだ━僕の勝ちだよね?」
そう言って詰め寄る槇村の瞳には、狂気の陰りが見て取れた。そして槇村の報告を鑑みれば、恐らく俺の瞳にも同種のものが宿りつつあるのだろう。
まずい。この流れはまずい。
負けたと言え━このまま付き合えば、俺も槇村も……。
胸中、冷静に叫ぶ俺がいる一方、自分だけが置いていかれる恐怖、それを完全に払拭する好機だと囁く何者かもいた。
また同じスタートラインに立つために避けては通れない、そんな啓示が痺れた頭蓋に鳴り響く。
やがて、俺の唇は、別の意思を持ったかの様に蠢き、細く震える声を漏らした。
「常識の範疇だな……」


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