アスカの頭に疑問符が浮かぶ。
自分が浮気をしているのだとしたら、こんなに悲しそうな顔を出来るだろうか? 演技にしては上手すぎる、とアスカはマキコの表情を見ながら思った。
「果たして、そうでしょうか」
アスカはヒサシには他にも女がいることを思い出し、口にする。
レナと別れたことは確かにショックだったかもしれないが、不倫相手は他にもいる。もし仮にレナを失ったことでショックを受けているのだとしたら、それは一時的なものに過ぎない。そのうち、ヒサシはけろっとした顔で、他の女に愛を囁くことだろう。
「他に何かショックを受けるようなことは思いつきません」
マキコはきっぱりと言い放つ。どこまでも自分が浮気をしていることはしらを切り続けるつもりだろうか。
それならそれでまわない、とアスカは思った。
アスカがすべきことは、他人の夫婦間の問題に首を突っ込むことではない。別れさせ屋として依頼された案件を解決することだ。それ以上のことは、自分の領域ではない、とアスカは自分に言い聞かせた。
どうかしたかって……とアスカは思う。私が気が付いていないとでも思っているのか、とアスカは言いたくなったが、それをぐっと堪えて、努めてにこやかに微笑んだ。
「ええ、私もあの日、喫茶店にいたんですよ」
「えっ? そうだったのですか? だったら、声をかけてくださればいいのに……」
「ご主人も一緒だったの、お気付きになられませんでしたか?」
マキコはアスカのその言葉を聞いた瞬間、眉間に皺を寄せた。
「主人と喫茶店で? 全然気が付かなかったですけど……」
その言葉に今度はアスカが眉間に皺を寄せた。
彼女はあの場所に不倫相手といながら、しらを切りとおそうとしているのだろうか?
アスカは次に問うべき事柄を考えながら、紅茶に口をつけた。
「その後、ご主人とはいかがですか?」
アスカは意気消沈して、去って行ったヒサシのことを思い出して訊いた。
「最近、元気がありません。きっと、不倫相手と別れたことが堪えているんだと思います」
マキコは悲しそうに俯きながら言った。
「それなら、なんの問題もありませんね。良かったわ。別れさせてもらえて!」
マキコは満面の笑みで言う。
「今日、残りのお支払い分を持って来たんです」
マキコはバッグを開けると、封筒を取り出した。アスカは大金を持って来たことに驚いた。しかし、対照的にマキコは平然としている。
「お手数かけて申し訳ないのだけど、金額が間違っていないか、確認してくださる?」
「お預かりします」とアスカは言って、札束を数え始める。全て数え終ると、アスカは再び封筒の中に戻した。
「ちょうど頂戴致します」
アスカは笑顔を向けて、封筒をテーブルの自分の手元に近いところに置く。
「これで安心して、子どもが産めるわ」
マキコの言葉にアスカは言葉を選びながら、口を開いた。
「あの……この間、喫茶店にいらっしゃってましたよね?」
「喫茶店? ああ、数日前かしら?」
「そうです」
「それがどうかしましたか?」
マキコは何を言っているのだろう、と不思議そうにアスカのことを見た。
「お電話でも少しお話させていただきましたが、今日、こちらに来ていただいたのは、ご依頼いただいた件の結果をご報告をさせていただきたかったからです」
「はい」
マキコはあの日、アスカに不倫相手と一緒のところを目撃されているのに、動揺するとこなく、淡々としている。アスカは深呼吸をして、落ち着きたいのを堪えながら、続けた。
「結果から言いますと、今回のご依頼は無事完遂することが出来ました」
「ありがとうございます」
「正直に申し上げますと、不倫相手の方に私が接触した時点で、ご主人は私が不倫相手とご主人を別れさせる為の別れさせ屋だということにお気付きになられました」
「でも、完遂はされたのでしょう? 結果が全てです。特に過程は重視しません」
マキコからの意外な言葉にアスカは動揺しそうになったが、ギリギリ持ち堪えた。
少し、先が思いやられるな、と思ったが、マキコへの報告はまだ始まったばかりだ。
「そうですか……。そう言っていただけると、こちらとしても、ありがたいです。ですが、一応、別の方からの依頼、という勘違いをご主人がなさっていたので、その勘違いを利用させていただいて、奥様からのご依頼だということはバレずに済みました」
約束の時間から少し遅れて、マキコがやって来た。
「お待ちしておりました」
アスカはドアを開け、マキコを招き入れる。マキコのお腹は傍から見てもわかるほど膨らんでいた。
「ごめんなさい。遅れてしまって」
然して、悪いと思っていないような言い方で、マキコは言った。
「いえ、大丈夫ですよ。今、紅茶をお淹れしますね」
アスカはつも以上に丁寧な口調で話した。きっとアスカ自身も、今からマキコと対峙しなければならないことに少なからず、緊張しているのだろう。
紅茶はノンカフェインのものを選んだ。妊娠しているというマキコの身体に配慮してのことだった。
お湯を沸かし、茶葉の入ったポットにお湯を注ぐ。きっかり、三分経ったのを見計らって、カップに紅茶を注いだ。
「お待たせしました。どうぞ」
「ありがとうございます」
テーブルに置かれた紅茶を見て、マキコは頭を軽く下げる。
「紅茶はノンカフェインのものにしましたから、ご安心下さい」
「はい、ありがとうございます」
マキコは微笑む。この微笑みの下には、一体どんな顔が隠れているんだろう、とアスカは思った。この女がかぶっている猫は一枚や二枚じゃない気がしてならなかった。