小説「サークル○サークル」01-329. 「加速」

「いろんな経験の上に思考は成り立つから、かな」
アスカは言いながら、回りくどい言い方をしてしまったな、と思っていた。けれど、レナはアスカの言葉に深く頷いている。
「私はまだ経験が足りないのかな……」
「そうね。今回のことも良い経験になったんじゃない?」
「はい……。でも、彼に納得してもらわないと別れられないから……」
「時間はかかるかもしれないけど、きっと大丈夫よ。それより、さっきの幼馴染の彼には別れること言ったの?」
「いえ……。関係ないことですから」
レナはアスカにきっぱりと言い放った。なんだか幼馴染の青年が可哀想になる。
「そろそろ、行きましょうか」
アスカは立ち上がる前にバッグに手を伸ばした。
「あの支払は……」
「もう済ませてあるわ」
アスカはそう言って、レナに微笑んだ。

アスカはレナと別れると急いで、ヒサシの待つバーへと向かった。
見慣れたバーのドアも今となっては懐かしい。
アスカはドアの前で大きく深呼吸をすると、ドアノブに手を伸ばした。
ドアを引き開けると、カランカランとドアベルが鳴った。

小説「サークル○サークル」01-328. 「加速」

「あなたは気が付いてないのね」
「えっ……」
アスカの言葉にレナは一瞬眉間に皺を寄せた。
「彼はあなたのことが好きなのよ。だから、あなたに不倫をやめてもらいたい。ただそれだけだと思うわ」
「そんなことないですよ!」
レナはアスカの言葉を即座に否定した。
「どうして、そんなことが言い切れるの?」
「だって、私とユウキは幼馴染で……」
「それはあなたの主観でしょう? 彼は幼馴染であり、好きな人として、あなたを見てるんじゃない?」
「……」
心当たりがあるのか、レナは黙った。黙って、そのまま、ふと足を止めた。
「どうして、アスカさんはいろんなことを上手に考えられるんですか……?」
“上手に考えられる”という言い方にアスカは違和感を覚えたけれど、レナの言いたいことはなんとなくわかった。
今、彼女の頭の中は混乱しているのだ。
必死で整理しようとしているのに、上手くいかない。そんな彼女の心情が表されている言葉のような気がしていた。

小説「サークル○サークル」01-327. 「加速」

アスカとレナは中華レストランを出ると、しばらく無言で歩いた。
レナはきっとあの状況を説明する言葉を探しているのだろう。
アスカはそれをわかっていたので、何も言わなかった。レナが話したいタイミングで話し出せばいいと思っていたのだ。
駅まであと数メートルというところまで来て、レナが口を開いた。
「すみません……。みっともないところを見せてしまって……」
「別にいいのよ。みっともないなんて思ってないわ」
アスカの言葉に安心したのか、レナはぽつりぽつりと話し始める。
「彼は――ユウキは私の幼馴染なんです。ユウキは私が不倫していることを知ってて、ずっとやめるように言ってきてて……」
「そうだったんだ」
「はい……。何度放っておいてと言っても、顔を合わせる度に別れろって言われて、その度にケンカして……。さっきもお手洗いから帰ってくる時にまたその話をされて、口論になって……」
「そうだったの……。きっとレナちゃんのことが心配なのね」
「違います! ただのお節介なんです。ユウキは昔からああだから……」
窘めるように言うアスカにレナはむきになって答えた。

小説「サークル○サークル」01-326. 「加速」

五分経っても、十分経っても、レナは席に戻ってこない。アスカは次第に心配になってきた。もう一度、席を立ち、レナがいた場所へと視線を向けた。すると、幼馴染の男がレナと真剣な顔をして話しているのが見えた。レナの表情はアスカの位置からは見えない。
アスカは痺れを切らして、レナとその幼馴染の男のところへと行った。
「どうかしたの?」
アスカはレナの背後から声かける。
「アスカさん……」
レナは振り返ると、困り顔でアスカを見た。
「彼女と今一緒に食事をしているんだけれど、何かご用かしら」
アスカは落ち着いた口調で言う。幼馴染の男は罰が悪そうに俯いた。
「もういい? 私、あなたと話すことは何もないの」
レナはそう言うと、男の前から立ち去ろうとする。けれど、男はそれを許さなかった。男はレナの腕を離さなかったのだ。そして、そのまま立ち上がる。
「行かせない」
「離してよ! 私はアスカさんと食事してるだけなの。だいたい、ユウキには私が誰と付き合おうと関係ないでしょ!?」
レナの言葉にユウキはレナの腕を掴む力を緩めた。その隙にレナはユウキの手をふりほどき、アスカに駆け寄る。
「アスカさん、行きましょう!」
レナの強い口調に圧倒されながら、アスカはレナとともに元いた席に戻った。

小説「サークル○サークル」01-325. 「加速」

アスカはテーブルでレナが戻ってくるのを待ちながら、ケータイのメールボックスを見た。そこには珍しくシンゴからのメールがあった。
“明日打ち合わせで帰りが遅くなるのを伝え忘れたのでメールしました”と簡素な文面が表示されて、アスカはなんだかほっとした。
自分の仕事や置かれている状況は、明らかに今殺伐としているように思える。そんな時、夫の何気ない日常メールに、自分の居場所を見たような気がしたのだ。
アスカは“わかりました。お仕事頑張ってね”と返すと、ケータイをテーブルの上に置く。きっとシンゴから返信はないだろう。必要なこと以外、彼はメールをしないことをアスカは知っている。けれど、こんな時はくだらない内容でもいいから、シンゴからのメールが欲しかった。今、アスカは今回の依頼が成功するか、失敗するかの瀬戸際に立たされているのだ。誰かに弱音を吐いていいわけでもなかったし、吐けるような状況でもなかった。ただ気を紛らわす為だけのシンゴからのメールが欲しかった。


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