「もう少し、様子を見て、彼に別れ話をしてみます。彼にも考える時間は必要ですよね」
レナはアスカの目をしっかりと見て言った。ここ数日でレナは見る見る逞しくなっている。別れを決めた女は強いということをアスカもわかっているつもりでいたけれど、なんだか嬉しくなった。
その後、アスカもレナも美味しい食事に舌鼓を打ち、他愛ない会話を楽しんだ。アスカは次が控えているので、飲み過ぎないように注意しながら、飲み進めていく。数時間が経った頃、アスカとレナは店を出ることにした。レナがトイレで席を立った時にアスカは会計を済ませておいた。それにしても、レナがなかなか帰ってこない。不安に思って、アスカは席を立ち、辺りを見回した。すると、幼馴染だと言っていた男に腕を掴まれ、何やら口論になっているようだった。
アスカはレナの元に駆け寄ろうかと考えたが、しばらく様子を見ることにした。
揉めている理由がわからなかったし、もし何かまずい状況になったら、店員がどうにかしてくれるだろう、と思ったからだった。
「彼に限って、そんなことってあるんでしょうか……」
レナはやけに冷静だった。不倫をやめると決めてから、いろんなことが客観的に見られるようになってきたのだろう。きっとヒサシの良いところも悪いところも的確に判断出来るようになっているに違いない。
「どんな人だって、大切な人を失くす喪失感は経験したくないものよ」
「……」
アスカの言葉にレナは黙った。アスカの言っていることが一理あると思ったのか、自分の考えがまとまらないのかはわからない。ただ少なくとも、アスカの発言でレナがアスカを怪しむということはなさそうだった。勿論、レナがヒサシに会えば、今後の展開は変わってくる可能性がある。ヒサシからレナに自分の存在をバラされる可能性はあるのだ。
どうすれば……。
そこまで考えて、シンゴの顔が浮かんだ。シンゴを頼れば、何か良いアイデアをもらえるかもしれない。けれど、今のシンゴを頼るのは何だか申し訳ないような気がしていた。
シンゴだって、仕事で忙しい。そんな時に、毎回、自分の仕事の相談をされたら、きっとうんざりしてしまうだろう。
ここは自分で切り抜けるしかない、とアスカは思った。
アスカは久々に朝から事務所でゆっくりと書類に目を通していた。
いつものように煙草をふかし、脚は机の上に乗せ、手を伸ばせば届く位置には紅茶の入ったカップを置いていた。
仕事とはいえ、毎朝、カフェに通うのは正直アスカにとっては疲れることだった。最初のうちは珍しいことに多少はウキウキしたが、そのウキウキもしばらくすれば、退屈に代わる。仕事なのだから、当たり前と言ってしまえば、それまでだったが、その疲労から解放されたことは大きい。
アスカは書類を確認し終えると、くわえていた煙草の灰を灰皿に静かに落とした。そのまま、煙草をカップに持ち替えて、紅茶をゆっくりと飲んだ
久しく、事務所の掃除をしていないな、と思って、床に視線を落とすと、床がキレイになっているのに気が付いた。他の所員が掃除してくれていたのだろう。アルバイトとして雇って数年が経つが、気の利く所員に育ったことを嬉しく思っていた。
最初はどんなことでもいちいち言わなければ、することが出来なかった。これが噂のゆとり教育世代か、とも思ったが、一つずつ丁寧に教えれば、確実にこなしていく。
数年経てば、何も言わなくたって、気が付いたことをしてくれるまでに育つのだ。ゆとり世代だと揶揄されることも多いし、人に寄るのだろうが、育て方次第だな、とアスカはキレイになった床を見ながら思った。
アスカが煙草に手を伸ばそうとした時、アスカのケータイが鳴った。見慣れない番号に一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに通話ボタンを押す。
「はい」
――あの……アスカさんのケータイでしょうか?
「そうですが」
聞き覚えのある声がケータイから聞こえてきた。レナだ、とアスカはすぐに気が付いた。
――あの、レナです。名刺を見て、電話しました。今日の夜、お時間いただけませんか?
今までメールでのやりとりを主にしていたこともあり、アスカはレナの番号を登録していなかったのだ。
「ええ、いいわよ」
――良かった……。
「場所と時間はどこにする?」
――アスカさんのご都合のいいところでお願いします。
「そうね……。それじゃあ……」
そう言って、アスカはレナのアルバイト先の最寄駅を指定した。
――わかりました。よろしくお願いします。
「それじゃあ、またあとで」
――失礼します。
そう言って、レナは電話を切った。
待ち合わせまで、あと二時間。アスカは煙草をふかしながら、自分の格好を見た。事務所で仕事をするには十分だ。けれど、レナと食事に行くには少しダサい。しばし悩んだ後、アスカは一度、着替える為に自宅に戻ることにした。
がちゃりと玄関で音がした気がして、シンゴは書斎から出た。玄関を見ると、明かりが点いていた。アスカが帰って来るにはまだ早い。シンゴは不審に思いながら、恐る恐る玄関の方へと歩いて行った。玄関とリビングを繋ぐドアに手をかけようとした瞬間、ドアが押し開けられた。
「っ……」
シンゴは息を飲み、ドアの向こうの相手を見た。
「びっくりしたぁ……」
アスカはシンゴの予想外の出現に目を丸くする。
「なんだ、アスカか……」
「なんだとは何よ」
「いや、泥棒かと思って……」
「泥棒は電気点けたりしないわよ」
「それもそうだね……」
アスカは胸を撫で下ろしているシンゴをよそに、リビングを通り抜け、寝室へと向かった。しばらく呆然としていたシンゴだが、不思議に思い、アスカの後を追った。
「どうしたの? 何かあった?」
ノックもなしに寝室に入るなり、シンゴはアスカの後ろ姿に向かって言う。
「ちょっと、入って来ないでよ」
アスカは振り向きざまにシンゴを睨んだ。アスカはトップスを脱ぎ、下着姿でワンピースに袖を通そうとしていた。
「ご、ごめん……!」
久々に見る妻の下着姿にシンゴはあたふたとし、寝室のドアをパタリと閉めた。
不意のことだったとは言え、こんなにもドキドキしてしまっている自分にシンゴは驚いていた。
そう言えば、いつからか、アスカとは男女の関係にすらならなくなった。いわゆるセックスレスというヤツだ。いつからだろう、と考えて、シンゴは結婚して、自分が小説を書かなくなった頃からだと気が付いた。
ああ、なんだ。全ての原因は自分にあるのではないか、とシンゴは溜め息をついた。
アスカはワンピースに着替えると、寝室から出て来て、リビングへとやって来た。
「さっきはごめん。まさか、着替えてるとは思わなくて」
「いいわよ。減るもんじゃないし」
だったら、あんなに怖い顔して怒ることないじゃないか、と喉元まで出てきたのを慌てて飲み込んだ。そんなことを言ったって、さっきの怒りをぶり返すだけだということは、長い付き合いでわかっている。こういう時は何も言わないに越したことはない。
「着替えて、どこに行くの? もしかして、男のところとか?」
シンゴは少しおどけて言う。真剣な顔をして言って、重い男だと思われたくなかったのだ。
「バカね。どこの男のとこに行くのよ。レナと食事することになったのよ」
「それで、そんなおめかし?」
「そういうこと」
「さっきの格好でもいいと思うけど……」
そう言うシンゴにアスカはあからさまな溜め息をついた。
「わかってないわね」
「えっ……?」
「男と会う時より、女同士で会う時の方か格好に構わなきゃいけないのよ」
「どうして?」
「どうして……って訊かれると困るけど、そういうものなのよ」
シンゴにはアスカの言っている意味が理解出来なかったが、取り敢えず、それ以上は何も言わなかった。別の質問をしたところで、自分に理解出来るとは思えなかったからだ。
「シンゴは仕事?」
「ああ、さっきまで書いてた。玄関で物音がしたから気になって、書斎から出て来たんだ」
「そうだったんだ。時間になったら、適当に出掛けるから、私のことは気にしないで大丈夫よ」
「ああ、うん」
「あ、そうだ」
「……何?」
「仕事が落ち着いたら、行きたいところがあるんだけど」
アスカの言葉にシンゴは驚いて見る。
「どこに?」
シンゴの問いに答えようとアスカが口を開こうとしたその時、アスカのケータイが鳴った。
「ごめん。もう行くね」
アスカはケータイのディスプレイに視線を落とすと、そう言って、急いで出て行ってしまった。
一体、アスカの行きたい場所とはどこなんだろう? とシンゴは思いながら、ゆっくりと閉まっていく玄関のドアを見つめていた。
アスカは電話にかかってきた声を聞いて、驚いた。
「誰だかわかる?」
その声にアスカは聞き覚えがあった。
――ヒサシだ。
アスカはそう思うと、息が止まりそうだった。
「どうして、この番号を?」
アスカは声をひそめて話した。マンションの廊下は意外に声が響くからだ。
「名刺」声は淡々と言った。
「名刺……?」
鸚鵡返しに問うて、それがどういう意味なのかに気が付いた。
レナだ。レナの持っているアスカの名刺をヒサシは見たのだ。
しかし、それが事実だったとしても、アスカはヒサシが名刺を見た理由を敢えて自分では口にしなかった。場合によっては、カマカケの可能性もあるからだ。
「わからない? いや、君のことだ。ホントのことがわかっていて、黙っているね」
ヒサシは自分より上手かもしれない、とアスカは思った。
「なんのことだか、さっぱり」
「白を切るつもりなのか……。まぁ、いい。取り敢えず、いつものバーで待ってる」
そう言って、電話は切れた。
アスカはケータイを握りしめたまま、溜め息をついた。
やっかいなことになった。
ヒサシが別れさせ屋の自分に気が付いた、ということは、マキコには失敗したことが筒抜けになっているかもしれないし、レナは自分の正体を知ってしまっているかもしれない。
レナからの電話があった直後、ヒサシから電話があるなんて、あまりにもタイムリー過ぎる。もしくは、何か交換条件をつきつけてくるか――。
アスカはレナとの待ち合わせに行きたくない、と思ったが、そうも言っていられない。待ち合わせの時間は迫っていた。もう一度、深い溜め息をつくと、アスカはレナとの待ち合わせ場所に向かった。
アスカが慌ただしく出ていってから、シンゴは再び書斎に戻った。今の自分がしなければならないことは、小説を書くことだ。
この小説をきちんと出版して、再び、作家としての自分を取り戻す必要があった。世間は自分が消えたと思っているかもしれない。けれど、もう一度本を出せば、消えたわけではない、ということを明示することが出来るだろう。
シンゴはひたすらパソコンに向かった。
アスカが浮気をしていない、とわかったことで、心のもやが晴れたのだろうか。今まで以上に原稿は進んだ。
アスカはドキドキしながら、レナを待っていた。こんな嫌な緊張をするのは久々だった。この仕事も長くなり、どこかあぐらをかいてしまっていたのかもしれない。
アスカは帰宅する人たちでごった返す駅の改札前で腕時計に視線を落とした。レナとの待ち合わせまで、あと十分もある。あと十分間もこの緊張感を持ったまま、ここに立ち続けているのかと思うと溜め息が出た。
駅のホームに向かう為、改札を通って行く人たちを見ながら、なんだか羨ましかった。これから二つも仕事をこなさなければならないのだ。アスカはもう一度溜め息をつく。嫌なことから逃げたいという気持ちの溜め息というよりは、自分の気持ちを落ち着かせる為の溜め息のようにも感じられた。
「すみません。お待たせしてしまって」
前から小走りで近づいて来たレナは、アスカの前に着くなり、申し訳なさそうに言った。
「さっき来たばかりだから、大丈夫よ」
実際、本来の待ち合わせ時間にはまだなっていなかった。
「行きましょうか」
アスカはレナに言うと、歩き出した。
中華レストランに向かう途中、レナといろんな話をしたけれど、アスカは上の空でろくに話を聞いていなかった。きちんと会話が成立していたのか、ふと気になる。
「ここ……ですか?」
思わず通り過ぎそうになったアスカの腕を取り、レナは言った。
「う、うん。そう。ここよ」
「ふふっ、アスカさんがぼーっとしてるなんて珍しいですね」
「そうね……。最近、仕事が忙しいからかな」
「お仕事のしすぎはダメですよー? 体調崩しちゃったら、元も子もないですから」
レナは笑顔でアスカを見る。この屈託のない笑顔を見ていると、アスカはレナは何も気が付いていないのだ、と思った。もし何もかも知っていて、こんな笑顔を向けられているのだとしたら、レナのしたたかさは大したものだ。不倫だって、納得がいく。けれど、レナはきっとそんな子じゃない、とアスカは思いたかった。
中華レストランの重いドアを開けると、赤を基調とした店内が見えた。すぐさま、ウェイターがやって来て、人数と喫煙の有無を訊いた。アスカの返答を聞くと、ウェイターは歩き出す。アスカとレナもそれに続いた。
アスカとレナが通されたのは、比較的静かな奥の席だった。席に着こうとした瞬間、視線を感じて、アスカは立ち止まる。すると、一人の男がこちらをじっと見据えていた。
「ユウキ……」
レナは目を大きく見開いて、ぽつりとつぶやいた。
「知り合い?」
「はい……。幼馴染で……」
しかし、その様子は明らかにただの幼馴染という感じではなかった。アスカはレナとユウキの顔を交互に見る。二人とも言葉を発しない。
視線を先に反らしたのは、レナの方だった。
「ごめんなさい。座りましょう」
レナに言われて、アスカは黙ったまま、頷くと席に着いた。
「いいの? 挨拶しなくて」
アスカに言われて、レナは左右に頭を振った。
「いいんです。関係ありませんから」
「……」
関係ないと言うわりには、随分動揺していたように見えたけれど、アスカは敢えて、その話題には触れなかった。
レナの幼馴染とは少し離れた席に着いた為、こちらの会話が聞こえることはないだろう。けれど、やはり、レナは視線が気になるようで、たまに幼馴染の方をちらちらと見ていた。
アスカとレナは思い思いに注文をして、シェアすることにした。料理が運ばれてくる前に飲み物がすぐに運ばれて来た。二人の注文したのは、ビールだった。
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「でも、あなたは別れたいのよね?」
アスカは棒棒鶏を皿に取りながら言う。
「はい。別れるつもりではいます。でも、彼が取り合ってくれないと、どうすることも出来なくて……」
「そうよね……」
アスカは次の作戦を考えていた。ここでレナに音信不通にさせてしまうのも一つの手ではあるけれど、ヒサシはそんことを許さないだろう。きっと何かしらのアクションを起こしてくるはずだ。そうなれば、アスカの対応は後手に回ってしまう。勝負に勝とうとするのならば、先手を打たなければならない。
今、ここで結論を急ぐのは得策じゃないわね……。
アスカはこの後に控えているヒサシとの待ち合わせを考えて、敢えて、レナにアドバイスするのをやめることにした。
「少し時間をおいた方がいいのかもしれないわね」
「えっ……」
「だって、彼だって、きっと戸惑っているはずよ。いくら不倫とは言え、好きな人から別れを告げられたら、どうしていいかわからなくなると思うの」
アスカはもっともらしく言った。内心では、そんなことを思っていないのに、だ。
アスカはバーのドアを開ける。ドアベルが静かに鳴った。
バーに一歩足を踏み入れた瞬間、懐かしさが込み上げてくる。薄暗い店内の中、アスカはヒサシを探した。
入口付近から、店内を見回して、アスカはカウンターに見慣れた後ろ姿を見つけた。隣には誰もいない。幸い、ヒサシは一人のようだった。
アスカは高鳴る胸を抑えつつ、ヒールの音を小さく響かせながら、背後からヒサシへと近付く。気配を感じ取ったのか、ヒサシが振り向いた。
「……」
ヒサシは息を飲む。まさか、という顔をして、アスカを見上げた。
「お久しぶりです」
アスカは言った。戸惑いもあったけれど、微かに微笑んで見せる。
「ああ、これは驚いた」
口では「驚いた」と言いながらも、ヒサシは余裕の表情でアスカを見た。
「隣、いいかしら?」
アスカは少しドキドキしながら言う。
「勿論。どうぞ」
ヒサシはにこやかに席を勧めた。
アスカが席につくと、女の子がお通しを運んできた。アスカは受け取ると、モスコミュールを注文する。アスカが辞めた後、別のバイトの女の子が入ったらしい。
モスコミュールが運ばれてくるまで、アスカもヒサシも無言だった。
しばらくして、モスコミュールが運ばれてくると、アスカとヒサシは軽く乾杯をする。グラスとグラスがぶつかる小気味よい音は、店内の騒がしい音にかき消されてしまった。
「こんな偶然があるとはね。それとも、偶然を装った必然?」
アスカはさすがに鋭いな、と思った。ヒサシはアスカがやって来たことを偶然だなんて思ってはいない。わざわざ、自分に会いに来たと思っているのだ。
それはヒサシ自身の自信から来るものなのか、はたまた、アスカの正体を見破ってのことなのかはわからない。どちらにせよ、アスカは心して接しなければならないと思った。
「ご想像にお任せするわ」
アスカは一口モスコミュールを飲んで言った。
「今日は女の子と一緒じゃないの?」
「ああ、いつも一緒っていうわけじゃないよ」
「あら、てっきり、いつも一緒なのかと」
「一人で来ていたことがあるのも、知っているだろう?」
「それは約束をすっぽかされたからじゃなくて?」
「はは、手厳しいなぁ」
ヒサシは楽しそうに笑った。
「君がここに来たということは、何か俺に用があるんじゃないの?」
ヒサシは平然と言った。無駄な話はしたくないようだ。
「察しがいいわね」
「それなりにね」
「コートをそろそろ返してもらおうと思って」
ヒサシははっとする。
「私がお酒をこぼして、汚してしまったコートは、クリーニングして、もう渡してあるでしょう? だけど、あの時、私があなたの女性に貸したコートはまだ返してもらえていないの。別のコートはあるけど、あれお気に入りだったのよね」
「ああ、それはすまなかった。早急に返してもらうようにするよ」
「そうしてもらえると嬉しいわ」
「用件はそれだけ?」
「ええ。他に何かあるかしら?」
「やっと俺の誘いに乗ってくれる気になったのかと」
ヒサシの言葉をアスカは思わず鼻で笑う。
「そうね。少し前の私なら、あなたの誘いに乗ったかも」
「本当かなぁ。君は一度だって、俺の誘いには乗ってくれなかった」
「そうね。その必要がないと思ったからじゃないかしら」
アスカは残りのモスコミュールを一気に飲み干すと、席を立った。
アスカが「チェックを――」と言いかけたのをヒサシが制する。
「今日は俺がご馳走するよ」
「それじゃあ、遠慮なく」
アスカはそう言って、立ち上がる。
「そうそう、コートはバーのマスターに預けてもらえればいいから」
「ああ、わかった。一週間後には受け取ってもらえるようにしておくよ」
「よろしくね」
アスカはにっこり微笑むと、ヒサシに背を向け、歩き出した。
ドアに向かって歩くアスカのヒールの音が雑音に消えていく。
アスカはドアの取っ手に手をかけた。
シンゴは少し離れた席でアスカとヒサシの会話を全て聞いていた。
“君は一度だって、俺の誘いには乗ってくれなかった”とヒサシはアスカに向かって言っていた。ということは、以前、シンゴが尾行し、ヒサシと一緒にラブホテルに消えていったのは、アスカではないということになる。だったら、あれは一体誰だったのだろう。シンゴは数分のうちにいろんな可能性を探った。そして、アスカの“コートをそろそろ返してもらおうと思って”という言葉で真相に気が付いた。シンゴがアスカだと思っていたあの女性は、アスカのコートを着た別の誰かだったということだ。
シンゴはずっとアスカがヒサシと浮気をしていると思っていた。だから、何度も尾行をしたし、悩みもした。けれど、アスカは浮気などしていなかったのだ。
一時期、アスカの様子は少しおかしかった。きっとヒサシに恋をしていたのは確かだろう。だが、彼女はあと一歩のところで踏みとどまっていたのだ。ヒサシは言っていたではないか。“やっと俺の誘いに乗ってくれる気になったのかと”と――。
アスカはヒサシに誘われていながらも、ヒサシの誘いは乗らなかったということだ。アスカはシンゴを裏切ってなどいなかった。その事実にシンゴは安堵し、それと同時に罪悪感を覚えずにはいられなかった。
シンゴは頼んだドリンクを半分も飲んでいなかったけれど、立ち上がった。家に帰らねば、と思ったのだ。
シンゴが家に着くと、アスカがシャワーを浴びているところだった。
アスカと顔を合わせたら、一体、どんな顔をしたらいいのだろう、と思った。良い案は浮かばない。速く打つ鼓動にシンゴはさまざまな思いを巡らせた。
「あれ? 帰ってたの?」
しばらくすると、アスカがバスタオルで髪を拭きながら、リビングへとやって来た。
「うん、ただいま」
「あら、シンゴも飲んで来たのね」
「たまにはね」
「私も久々にいっぱい飲んじゃった。シンゴもお風呂入ってきたら?」
「ああ」
シンゴはアスカからの質問に簡単な相槌を打つことしか出来なかった。
取り敢えず、熱いシャワーを浴びて、考えようと思った。
「ねぇ、飲み直さない?」
シャワーを浴びて、リビングにやって来たシンゴにアスカは言った。
「明日、仕事なんじゃないの?」
「いいわよ、休むから」
「そんな……所長がそれでいいの?」
「いいの。むしろ、所長だからいいのよ。たまには休まなきゃ」
「それなら、付き合うよ」
「そうこなくっちゃ!」
アスカは嬉しそうに言うと、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを二本取り出した。
アスカはグラスにビールを注ぐと、ソファに座っているシンゴに手渡す。
「結構、飲んできたみたいだけど、飲んで大丈夫なの?」
シンゴは心配そうにアスカに訊いた。
「平気よ。まだ飲み足りないんだもの」
「それならいいんだけど」
アスカとシンゴはグラスを傾けて乾杯する。グラスの中に入っている泡が大きく揺れた。
一口ビールを飲むと、アスカは溜め息とは異なる息を大きく吐いた。
「今日ね、レナと会って来たの」
「どうだった?」
「不倫をやめさせる方向で決着したわ」
「良かったじゃない」
全部近くで見ていたよ、とはさすがに言えず、シンゴは初めて知るような素振りを見せる。
「だけど、まだ安心は出来ないわ。あの子がホントに別れ話を切り出すか、切り出したとして、ターゲットに丸め込まれないか……」
「まだ心配な点はあるってことだね。でも、仕事の半分以上はすでに終わったってところかな?」
「そうね。もしこれでダメだったら、ターゲットに再接触して、ターゲットを私が落とすって方向に切り替えるしかないわ」
「そうならないように祈ってるよ」
「ありがとう」
アスカとシンゴはその後、他愛ない会話を続けた。そして、その会話の最中にアスカの言った「飲んでないとやっていられないのよ」という言葉にシンゴは言いしれぬ不安を感じていた。
シンゴが起きた頃には、アスカはすでに仕事に行っていた。壁に掛かっている時計はすでに十一時を指している。朝ご飯を食べるには遅すぎて、昼ご飯を食べるには早すぎる。
取り敢えず、顔を洗い、冷蔵庫から牛乳を取り出すと、なみなみとコップに注いだ。
シンゴはコップを持ったまま、ソファに座ると、テレビをつけた。
昼のワイドショーが始まったところだった。テレビでは相変わらず、芸能人のゴシップが取り上げられている。芸能人というだけで、好奇の目にさらされるというのは、可哀想だな、と思う同時に、有名税にしては高すぎるだろう、とも思う。のんきにそんなことを思いながら、シンゴは牛乳を飲み、ぼんやりと昨日のアスカとの会話を思い出していた。
アスカは上機嫌でありながら、どこか冷静でもあった。まだ喜ぶには早い、というのが長年この仕事をしてきたアスカの感想なのだろう。
けれど、シンゴにとっては、半分くらいはどうでもいいことだった。
シンゴにとっては、アスカの仕事の成功よりも、アスカが浮気をしているか、していないかの方が重要だったし、興味のあることだった。
アスカは浮気をしていなかったのだ。それだけで随分シンゴの気持ちは救われた。これでアスカとシンゴの離婚はないということだ。離婚しなければいけないと思っていた理由はシンゴの勘違いだったのだ。
今ここでアスカを失うのは避けたかったし、最悪のシナリオは免れたのだと思うと嬉しかった。
けれど、手放しで喜べないという気持ちもあった。
アスカが言った通り、レナがターゲットに丸め込まれたら、アスカがターゲットを落としにかからなければならないのだ。そうなれば、疑似恋愛をすることになる。アスカは仕事とは言え、ターゲットは本気になるだろう。ともすれば、アスカだって、なびいてしまうかもしれない。
シンゴはどこまでも自分に自信がないのだということに溜め息をつきたくなった。
冴えない自分。特にこれといって、男として誇れることがないということに、落胆はしても、開き直ることなど到底出来なかった。もし開き直れれば、どんなに楽だろうか、とも思っていた。
シンゴはテレビの電源をリモコンで切ると、飲み終えたコップをシンクに置く。水道の蛇口をひねり、置いたコップに水を注いだ。牛乳は時間が経つと、白く残って、落ちにくくなる。そのまま、洗ってしまえば良いのだが、なんだか今は洗い物をする気にはなれなかった。
冷蔵庫にあったアイスコーヒーを別のグラスに注ぐと、それを持って書斎へと向かう。
書斎の電気を点け、椅子にどっかりと腰を下ろすと、パソコンの電源を入れた。パソコンを立ち上げている最中、シンゴは自分の書くべきことを頭の中で整理する。
小説を書くにあたって、難しいことは何もない。自分の経験したこと、見たことを言葉に置き換えれば済む話だ。勿論、そこには自分のフィルターを通した感情やモノの見方などが反映される。実話を元にはしているけれど、実話だけをたらたらと書き綴ったところで小説にはならない。そこにはいくつかのエッセンスが必要だった。
シンゴは立ち上がったパソコンから書き途中のデータを開くと、キーを打ち始めた。
もうすぐ小説が書き終わる。
アスカの仕事がここで終われば、の話だけれど。
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