芸能人は大変だな、とシンゴは思った。一夜限りのお遊びも浮気も、全て電波を使って、全国に流されてしまうのだ。普通だったら、せいぜい、パートナーとその両親くらいにしか責められないのに、見ず知らずの人間にまで叩かれる。有名税と言ってしまえばそれまでだけれど、叩いている人間がその芸能人を応援していたとは考えにくい。そうなると、叩かれ損だ。
自分とアスカの場合はどうだろう……とシンゴは思った。
果たして、アスカを責めるだろうか。責めるだけの熱量を自分が持っているとは、シンゴには到底思えなかった。事実確認をして、腹が立っていることを冷静に伝え、その後、離婚の手続きについて話をするだろう。
浮気相手の男は一流企業に勤めているようだし、慰謝料請求をしてもしっかり払ってもらえそうだな、とそこまで考えて、苦笑する。
自分が欲しいのはお金なんかじゃないはずだ。シンゴだって、真面目に仕事をすれば、食べていけないわけではない。僅かばかりの印税だって、数か月に一度振り込まれている。
余計なことを考えたくなかったからだろうか。気が付けば、シンゴは数十枚の原稿を書き上げていた。
コーヒーでも飲もうと書斎を出ると、すでにアスカの姿はなかった。シンゴは溜め息をつく。それは安堵からくるものなのか、落胆からくるものなのか、よくわからなかった。
シンゴはキッチンに向かう途中、ふいにダイニングテーブルの上に置いてある紙が目に入った。なんとはなしにそれを手に取る。それはアスカからの置手紙だった。
そこには整った字で“仕事に行ってきます。今日は夜、事務所に寄って帰宅しないかもしれないので、心配しないで下さい”と書かれてあった。
事務所に寄る? とシンゴは眉間に皺を寄せた。ターゲットとの密会の間違いではないだろうか。そんなことを考えて、シンゴはふっと自嘲した。
電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。湯を沸かし始める音が聞こえた。
ソファに座り、テレビを点けると、見慣れたワイドショーが芸能人のゴシップを伝えているところだった。
シンゴは書斎に戻り、大きな溜め息をついた。
椅子に腰をかけ、パソコンを起動させる。
起動音が鳴り、画面が表示されると、パスワードを入力し、いつものようにワードを立ち上げた。
並んでいる文字を見ながら、シンゴは文字を打とうとして、手を止めた。アスカのことが脳裏を過ったからだ。
あの時、あのタイミングで書斎に戻るというのは、不自然だったかもしれないと思ったからだ。せめて、キッチンを片付けてから、書斎に戻れば良かったと思う。
けれど、温泉旅行をあんなに嫌そうな顔をされて、平気でいられるわけがない。
シンゴはこんなにもアスカのことが好きなのだ。好きなのに、その相手には別に好きな人がいる。
恋人同士だとしたら、まだ諦めもつくけれど、結婚しているということが、想いの複雑さをより深いものにしていた。
シンゴはもやもやした気持ちを振り払うかのように、パソコンに向かった。
白い画面が文字で埋まっていく。その光景を不思議だと思いながら、シンゴはひたすら文字を打ち続けた。
「原因はきっとそれだよ。睡眠不足で疲れが抜けきらないんじゃないかな。今回の案件が終わったら、そうだな……。温泉でも行こうか」
勇気を振り絞って、シンゴは言った。
「……そうね」
少し間があって、アスカは答える。アスカの表情は曇っていて、全く嬉しそうではない。その顔を見て、シンゴは「ああ、そうだよな」と思った。好きでもない旦那に温泉旅行を持ちかけられたら、鬱陶しいとは思っても嬉しいとは思えないだろう。
シンゴは言わなければ良かった、と思った。けれど、もう後の祭りだ。
「指はもう大丈夫?」
シンゴは怒りと悲しさで気が狂いそうだったけれど、平静を装ってアスカに訊いた。
「うん、平気」
「じゃあ、僕は仕事に戻るね。後片付けはそのままにしていていいよ。あとで僕がやっておくから」
「……うん……」
アスカは元気のない様子で頷いた。
シンゴはアスカの方を見ることもなく、立ち上がる。彼女のことを直視出来る程、シンゴは強くなかった。
「ごめんね。こんな話して」
アスカは少し困ったような顔をして言った。きっと作り笑いをしているつもりなのだろう。そんな不器用さにシンゴは、ふと本当はこんなに不器用なアスカに浮気なんて器用なことが出来るのだろうか、と不思議に思う。
けれど、すぐにシンゴの頭には別の考えが過ぎる。彼女は別れさせ屋なのだ。男女関係のことに関しては、器用不器用は別なのだろう。シンゴは自分をそう納得させた――はずなのに、どこか腑に落ちない。シンゴは一体、なんの為に尾行をするのだろう……と一瞬考え込みそうになったけれど、シンゴはそれ以上深く考えなかった。考えたって、自分1人の考えだけでは、堂々巡りになってしまうからだ。
「気にすることはないよ。少し疲れてるんじゃない?」
「……確かに、今回の案件も山場だし、プレッシャーもすごく感じてて、最近、夜中でも何度も目を覚ましちゃうのよね」
アスカは視線を床に落とし、少し困ったように笑って言った。