小説「サークル○サークル」01-276. 「加速」

「僕は仕事に一生懸命なアスカが好きだし、カッコイイと思ってる。だから、今のままでいいよ。勿論、家事を頑張ってくれるのも嬉しいけど、無理をしてまでやってほしいとは思わない」
 シンゴはアスカを傷つけないように言葉を選びながら話した。そんなシンゴの言葉を聞いたアスカは、どことなく嬉しそうだった。しかし、目は未だに潤んでいる。
 その反面、シンゴは自分の口から出た言葉に驚いていた。さらりと「アスカが好き」と口をついて出たのだ。その事実に戸惑いを隠せない。
 シンゴは浮気をしているアスカのことをただ憎いと思っているのではないか、と思っていた。けれど、違ったのだ。
 好きだから、ただ浮気をやめてほしい。その思いだけでシンゴはアスカの尾行をし、気持ちを抑えつける為に小説を書いているのだ。アスカに直接自分の思っていることをぶつけてしまえば、アスカとの関係がぎくしゃくし、終わりを迎えてしまう。そのことをシンゴはまだ受け入れたくなかったのだ。
 そうした自分の本心に気が付いた時、人は面食らい、呆然とするのだということをシンゴは身をもって知った。

小説「サークル○サークル」01-275. 「加速」

シンゴはアスカの口から「嫌いにならないで」なんて言葉が出てくるなんて思ってもみなかった。
これは不倫相手と別れたことを意味しているのだろうか? それとも、継続している上での謝罪なのだろうか?
シンゴは考えてたみたものの、いまいちわからなかった。
「呆れちゃうよね、ホントにごめんね……」
アスカは申し訳なさそうに繰り返した。思わず、シンゴは口を開く。
「それは今までの家事に対するごめんなさい?」
「そうよ。小説を書くようになったシンゴはいつも疲れてるのに、文句も言わず、家事をしてくれるでしょう? しかも、完璧に。なのに、私は家事が下手過ぎて、いつも悪いなって思ってて……」
どうやら、アスカが謝っているのは、浮気のことではないらしい。シンゴは腑に落ちなかったが、作り笑顔を浮かべてアスカを見た。
「気にすることないよ。家事は得意な方がやればいいし、実際、アスカは一生懸命してくれているだろう? 僕はその気持ちだけで十分だよ」
「シンゴ……」
アスカは感動したようにシンゴを見た。
シンゴはアスカの隣に座ると、近くでアスカの目を見つめた。

小説「サークル○サークル」01-274. 「加速」

アスカは黙ったままのシンゴから視線を外し、視線を床に落とした。
「料理もシンゴの方が上手だし、家事を張りきったら、ケガするし……」
「……気にすることないよ」
辛うじて、シンゴは返事をする。きっとアスカは軽い前置きをしているのだろう。シンゴはそう思いながら、アスカの次の言葉を待った。
「私、奥さんとして失格だよね」
「……」
それは浮気のことを指しているのだろうか? だとしたら、間違いなく、イエスだとシンゴは思った。けれど、シンゴは何も言わない。浮気の話を自分から切り出すまで、シンゴは核心に触れるつもりはなかった。
「私ね、仕事を一生懸命して、家事もそつなくこなしてくれるシンゴを見ていて思ったの。私って仕事を言い訳にしてるだけなんだなって。これからはもっともっと頑張るから。だから……」
「……」
「嫌いにならないでね」
「……?」
シンゴはアスカの言葉に違和感を覚える。シンゴが予想していたのは、こんな言葉ではなかった。

小説「サークル○サークル」01-273. 「加速」

手当を終えると、アスカはぼんやりとシンゴのことを目で追っていた。
「どうしたの?」
シンゴは救急箱を片付けて戻って来るなり問う。
「シンゴ、ごめん」
アスカの顔が苦痛に歪む。
シンゴはとうとう来たか、と思った。きっとアスカは浮気を告白し、別れを告げて来るに違いない。一瞬のうちにシンゴは覚悟する。黙ったまま、アスカ次の言葉を待った。
「シンゴ、私……」
アスカは涙目でシンゴを見上げる。シンゴは座るタイミングを失い、立ったまま、アスカを見下ろした。
「……」
本当は「言わなくていい」とアスカに言いたいと思ったが、ここでそんなことを言ってしまったら、アスカが別れを告げるタイミングを先延ばしにするだけだ。シンゴは開きそうになった口をつぐんだ。
「……なに?」
シンゴは代わりに優しく訊いた。
「……私、奥さんとして失格だよね」
「……」
アスカの言葉にシンゴは何も言えなかった。ここで肯定することも否定することも早すぎると感じたのだ。

小説「サークル○サークル」01-272. 「加速」

「全然大丈夫じゃないじゃないか」
「ごめん……」
「救急箱持ってくるから、止血して、そこ座ってて」
シンゴはダイニングテーブルの椅子を指差すと、寝室へと消えた。
アスカは溜め息をついて、血の流れる人差し指を抑えて、椅子に座った。シンゴが寝室に行く寸前、椅子を引いてくれていたおかげで、簡単に椅子に座ることが出来た。
近くにあったティッシュで指を覆い、シンゴが戻ってくるのを待つ。
随分とケガなんてしていなかったし、消毒液があったかな、とアスカは思いながら、ぼんやりとテレビの方を見た。
テレビ画面の映像はアスカの位置から見えなかったけれど、画面から放たれる光がちらちらとローテーブルに反射しているのが見えた。
しばらくすると、シンゴが救急箱を持って、戻って来た。
「ごめん」
アスカは救急箱をダイニングテーブルに置くシンゴに申し訳なさそうに言う。
「気にしなくていいよ。それより、まだ血、止まりそうにないね」
「結構、深いのかな……」
「いや、指はよく血が出るから。取り敢えず、消毒しよう」
そう言って、シンゴは救急箱から消毒液を取り出した。


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