翌朝、アスカはジムで汗を流すと、レナの働くカフェへと向かっていた。アスカは今日何度目かの欠伸をかみ殺す。
さすがに久々の早起きはアラサーの身体には堪えた。しかも、その後、アスカを待っているのは、ジムのトレーニングマシーンだ。元々、文科系で運動とは無縁の学生時代を送って来た。そんなアスカがジムに通って、運動をすることになるとは、誰が予想出来ただろうか。アスカ自身、全く想像のつかない出来事だった。人生は何があるかわからないものたなぁ、としみじみ思う。これから、毎日この生活をしなければならないのかと思うと、アスカは憂鬱だった。
アスカはジムから数分の場所に位置するカフェへとやって来ていた。問題はヒサシと鉢合わせないかということだった。少しだけ緊張しながら、カフェの自動ドアの前に立つ。
「いらっしゃいませー!」
自動が開いた瞬間、笑顔で迎えてくれたのは、他でもないレナだった。
アスカは澄ました顔でレジへと向かう。カウンターにはドリンクメニューが置かれてあった。
食事を終え、シンゴは自室にこもる。仕事をする為だ。書き出しから、いくらか進んでいた。今までのアスカと自分のことを書けばいいのだ。執筆に詰まるということは特になかった。
けれど、いつか執筆が現実に追いついてしまう。その時が問題だ。
そして、シンゴは事実をもっと詳細に知りたいと思うようになっていた。アスカはいつからヒサシと関係を持っているのか、何がきっかけでヒサシに惚れたのか、今後、どうするつもりなのか――。
そこまで考えて、シンゴは深い溜め息をつく。空しかった。
原稿を書く度に訪れる悲しみとも切なさともとれる、痛みを伴った感情は、シンゴの心を蝕んでいく。
シンゴは原稿を書く手を止めた。
パソコンの画面の明るさがやけに眩しく感じる。
「……そうだ」
シンゴは画面を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……もう一度すればいいんだ……」
シンゴが思いついたのは、至極単純なことだった。
――そうだ、もう一度、尾行をすればいいんだ。
この答えが正しいかどうか、シンゴにはまだわからなかったけれど、シンゴにはそれ以外に方法はないように思えていた。
「仕事大変なのね」
アスカは心配そうに言う。
「そんなことないよ。アスカに比べたら、楽だと思うな」
「ううん、何もないところから作品を生み出すのって、想像が出来ないくらい大変なことだと思うの。私には出来ないことよ。本当にすごいと思うわ」
シンゴは素直に嬉しかった。自分の仕事を認めてもらえるということが、自分の存在価値を認められたような気がしていた。
「アスカは明日からレナに接触するの?」
「ええ、ジムの入会も終わったし、ジムに通いながら接触して、様子を見るつもり」
「仕事とは言え、ジム通いは健康の為にも良かったかもね」
「ふふ、そうかもしれないわね」
アスカはまた楽しそうに笑った。夫婦の会話が皆無だった、あの寒々しい雰囲気が嘘のようだった。
けれど、シンゴの脳裏にはいつだって、ヒサシのことが過ぎっていた。
アスカがこうやって、楽しそうに笑うのは、ヒサシの存在が関係しているかもしれない。そう思うと、胸の奥が痛んだ。
生活をしていると特別なことよりも、日常の当たり前の出来事の方が圧倒的に多い。いかに、その当たり前の時間を一緒に過ごして楽しいかが結婚をすると大切になってくる。
くだらないことでも話せて笑い合える方が、断然楽しい。そういうことに、シンゴは結婚してから気が付いた。
それはシンゴ自身、一度結婚に失敗しているから気が付けたことかもしれない。
アスカとジムの近くのパン屋の話をして、笑い合える。傍から見たらどうでもいいような、そんなことでさえ、シンゴにとっては、意味を持つ。それは相手がアスカだからだ。
シンゴは楽しそうに話すアスカを見ながら、自分にとっての幸せや結婚を考えていた。
「手が止まってるけど……口に合わなかった?」
アスカは心配そうにシンゴに訊く。
「いや、そんなことはないよ。とても美味しい。ちょっと考え事をしてしまっただけだよ」
「仕事のこと?」
アスカはすかさず問う。
「ああ」
シンゴは誤魔化す為に嘘をつく。
アスカのことを考えていたとは、さすがに言えなかった。
洗面所からリビングへ戻ると、アスカがテーブルに食事を並べていた。今日はクリームシチューだった。
「ちょうど今出来たところよ。座ってて」
アスカは手際よく、食卓にサラダやパンを並べる。シンゴは席に着くと、甲斐甲斐しく働く妻の姿をまじまじと見た。
「これで全部揃ったわね」
テーブルに並べられた料理を見て、アスカは小さく頷くと、椅子に座った。
「食べましょうか」
アスカに笑顔で言われ、「ああ」とシンゴは答えた。
「いただきます」
二人で声を揃えて言うと、アスカとシンゴは食事に手をつけた。
「そうそう、このパン、今日ジムの帰りにパン屋さんで買って来たの。すごく美味しいって有名みたい。雑誌でも取り上げられたことがあるんですって」
アスカは嬉しそうにパンの説明をする。
「へぇ、そんなパン屋があの辺にあるなんて知らなかったなぁ」
シンゴは言いながら、パンに手を伸ばした。
一口サイズにちぎり、ぽんっと口に放り込む。ふんわりとした食感とパンの甘味が口いっぱいに広がった。
「有名店だけあるね。美味しいよ」
「良かったぁ」
アスカは柔らかな笑顔で応えた。こんな笑顔をずっと見ていたいとシンゴは心の底から思った。何気ない日常にこそ、幸せはあるのだな、とシンゴは痛感していた。