「本当に何もないのよ」
「そうか」
腑に落ちないといった表情でシンゴはアスカを見ている。けれど、アスカは意に介する風もなく、西京焼きに箸を伸ばした。
「おいしい」
西京焼きを口に入れ、アスカは言った。正直、緊張の所為か味はよくわからなかった。けれど、シンゴの料理がまずかったことなど一度もないのだから、この西京焼きも美味しいに違いない、とアスカは思って口にした。
「良かった」
シンゴはほっとしたように言う。
「シンゴの作る料理でまずかったものは今まで何もないわ」
「僕の取柄は料理が上手いことくらいだからね」
「そんなことない。他の家事だって、完璧だわ。私がするより、よっぽど丁寧よ」
「それは君より時間があるからさ」
自嘲気味に言ったりしないところを見ると、シンゴは心の底からそう思っているようだった。
「違うわ。元々の性格よ。私は大雑把だけど、あなたは几帳面」
「結婚した頃、よく君はO型で、僕はA型だから仕方ないって話をしたね」
「そうね、若い頃はそんな話もよくしたわ」
「懐かしいな」
シンゴは目を細めた。きっと昔のことを思い出しているのだろう。アスカはそんな夫を見て、なんだか嬉しくなった。
「どうしたんだよ」
「えっ?」
「ニヤニヤしてるから」
「そんなことないわよ」
アスカは慌てて否定すると、西京焼きをもう一度口の中に放りこんだ。
「はい、お味噌汁とご飯。何もせずにすぐ座っちゃったんだね」
シンゴはアスカの向かいの席に腰を下ろした。
「うん……」
「アスカが面倒くさがりなのはいつものことだけど……。今日は何かあった?」
「えっ……」
「顔に書いてある」
「何もないけど……」
「話したくないなら別にいいけど、僕にはお見通しだよ」
「嘘ばっかり」
「嘘なもんか。一体、何年夫婦をやっていると思ってるんだよ」
シンゴのセリフにアスカは言葉に詰まった。本当にこの人は自分を見透かしているのかもしれない、と思ったのだ。アスカはシンゴをまじまじと見据えた。相手は作家だ。小説は人を書くことだ、と昔シンゴから聞いたことがある。それだけ、沢山の人を観察し、感情の機微を感じ取るとも言っていた。「だったら、あなたの方がこの仕事に向いてるかもしれないわね」とアスカが言うと、シンゴは「いつでも力を貸すよ」と笑いながらアスカに言ってくれた。そんな随分と昔のことを彼女は思い出していた。あの頃は本当に幸せだったとも思った。
「あれ? 今、帰って来たの?」
アスカは突如現れたシンゴに驚き、顔を上げる。
「お醤油、かけ過ぎじゃない?」
寝ぼけ眼でシンゴはアスカに言った。アスカは手に持った醤油差しに目を向けると、すでに小松菜は黒い液体に浸かっていた。
「あーあ。それじゃあ、食べられないくらい辛くなってるだろうね。器換えるから待ってて」
シンゴはそう言って、キッチンへと消える。アスカは今日のヒサシとの一件で自分が少しぼーっとしているのかもしれない、と思った。
「アスカ、お味噌汁って温めた?」
「ううん。温めてない」
キッチンから別の器を持って来たシンゴは、小松菜のおひたしを新しい器に入れ直しながら問う。
「やっぱりね。電子レンジを使った形跡がなかったから。今、温めて来るよ」
そう言って、シンゴは新しい器に入った小松菜のおひたしをアスカの前に置くと、味噌汁の入ったお椀を持って、再びキッチンへと向かった。
アスカはシンゴが戻ってくるまでの間、ただただ食事を見つめていた。
しばらくして、会計の為にアスカはヒサシに呼ばれた。いつも通りの手順で会計を済ませ、ヒサシはバーを出て行こうとする。思わず、視線で追っている自分にアスカは苦笑した。十分過ぎる程、アスカはヒサシに心を掻き乱されているのだ。
ヒサシはドアの前で一度立ち止まり、アスカの方を見た。アスカは慌てて、視線をそらす。ヒサシは何も言わずに、バーを出て行った。寂しげにドアベルが鳴った。
家に着くと、アスカは玄関の電気を点けた。シンゴは寝ているのだろう。部屋の灯りは全て消されており、玄関より先は真っ暗だった。アスカは靴を脱ぎ終えると、玄関の電気を消して、真っ暗な廊下を進む。慣れた手つきでスイッチを見つけ、リビングの灯りをつけた。食卓テーブルには今日も美味しそうな料理が並べてあった。
コートをハンガーにかけ、手洗いとうがいを済ませると、アスカは溜め息混じりで食卓テーブルにつく。椅子に腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
食卓テーブルに視線を落とし、思わず頬が緩む。今日は和食だった。鮭の西京漬け焼きと小松菜のおひたし、味噌汁の横にはレンジで温めてのメモが置いてあった。アスカは席を立つ気にはなれず、冷えた味噌汁に口をつける。それはそれで悪くはないな、と思いながら、お椀を置き、おひたしに醤油をかけ始めた。
ヒサシもアスカのその動作に我に返ったのか、はたまたこれ以上は無理と踏んだのか、アスカから手を離し、席に座る。
アスカは言いたいことをぐっと堪えて、ヒサシを睨みつけると、その場を後にした。
まさか、ヒサシがあんな行動に出るとは、アスカは夢にも思っていなかった。
適当に女を口説き、自分に靡きそうな女だけを相手にしているのだと思っていた。けれど、ヒサシは違う。自分が手に入れたいと思った女は悉く手に入れないと気が済まないタイプなのだ。タチが悪いな、とアスカは思う。マキコから再依頼があれば、手段を選ばないような男と対峙しなければならないのだ。勿論、今までだって、こういうケースがなかったわけではなかった。けれど、自分がここまで標的にされることもなかったのだ。あくまで、アスカ自身が近付いていき、相手をその気にさせる程度だった。しかし、今回の場合は違う。まだ本格的に接近もしていないのにアスカはターゲットにされているのだ。作戦をきっちり練らなければ相手のペースにハマるだけだ、とアスカは分析する。だが、彼女は狼狽えてもいた。あの時――キスをされた時、不覚にもトキメキを覚える自分がいたのだ。こんなこともこの仕事を始めてから初めてのことだった。