「口説かれたの」
「えっ!?」
アスカの言葉にシンゴは目を丸くした。
「口説かれたって、君が?」
「私以外の誰の話をするのよ」
「そりゃそうだけど……。そうか、君が口説かれたのか……」
「何? 私が口説かれることがそんなに不思議?」
少しむっとした様子で言うアスカに、慌ててシンゴはかぶりを振った。
「そんなこと言っていないじゃないか。いや、まさか、君にまで接触を図ろうとするなんて、大した度胸だな、と思って」
「それどういう意味?」
「あっ、えっと、君が思っているような意味じゃなくて、別れさせ屋である君を口説くなんて、度胸があるって意味」
言い繕うのに必死なシンゴは額に汗を滲ませている。「まぁ、いいわ」と言って、アスカはほうとうを啜った。
「それで、君はどうしたの?」
「断ったわよ」
「なんて?」
「お相手の方に申し訳ないですって」
「へぇ……」
「何よ、誘いに乗った方が良かったわけ?」
アスカは言って、シンゴを睨みつける。シンゴは大袈裟に首を左右に振って見せた。
「そんなこと思うわけないじゃないか。ちゃんと断ってくれて、安心したよ」
「でしょうね」
アスカはつっけんどんに言い放つと、今度ははらこめしに手を伸ばした。
アスカが深夜に家に着くと、シンゴは珍しく起きていた。
「おかえり」
笑顔で出迎える夫にアスカは「ただいま」と応える。昨夜、会話があった所為か、以前ほどシンゴに対して、嫌な感情はなかった。アスカは脱いだコートをハンガーにかけると食卓に着き、シンゴはタイミング良く、温かい食事をアスカの前に並べた。
「夜も遅いから、あまり重くないものにしたよ」
シンゴに言われて、アスカは目の前の食事に視線を落とした。はらこめしとほうとうが湯気を立てている。小鉢には小松菜が入っていた。
「健康的ね」
アスカの言葉にシンゴは満足そうに頷いた。
「君のことだから、カロリーも気にするだろうと思って、和食にしたんだよ」
シンゴの言葉にアスカは素直に「ありがとう」と言った。「いただきます」と言って、彼女は食事を始める。シンゴもそれに付き合う形で向かいの席に座った。
「夜遅くまで大変だね」
「えぇ、そうね。でも、大分慣れたわ」
「今日もターゲットは他の女を連れて来た?」
「えぇ。毎回、違う女なのには本当に呆れるわ。そう言えば……」
アスカはほうとうを持ち上げて、手を止めた。
「そう言えば?」
鸚鵡返しに問うシンゴにアスカは黙ったまま、視線を彷徨わせた。言うか言わないか、一瞬心に躊躇いが生じたのだ。しばらくして、アスカは口を開いた。
「伝票でございます」
アスカは伝票をヒサシに手渡す。ヒサシが受け取る瞬間、ちらりと隣の女を見遣った。栗色の巻き髪がいかにもといった今風の若い女だ。その女のネイルには、凝ったデザインのアートが施され、手にはしっかりとブランドもののバッグがあった。女はカウンターの上にある空になったグラスをぼんやりと眺め、財布を取り出す気配すらない。アスカにはそんな女の態度が理解出来なかったし、気に入らなくもあった。一瞬過ぎった「私の方がいい女なのに」という気持ちは単なる僻みでしかない。第一、成熟しかけている大人という意味では、アスカの方がいくらか年が上なのだから当たり前であったし、何よりこの女はアスカより幾分もキレイだった。アスカにはない美貌を持ち合わせているという点では、明らかに女の方が優れている。
ヒサシは数枚の一万円札を伝票に挟むとアスカに渡した。アスカはそれを丁寧なしぐさで受け取ると、「かしこまりました」と言ってレジへと向かう。釣り金とレシートをカルトンの上に乗せ、ヒサシのところへ再度持って行った。
「お待たせ致しました。お返しでございます」
アスカは小銭の乗ったカルトンをヒサシの前に置いた。「ありがとう」とヒサシは言い、振り向くことなく、店を後にした。
ヒサシと女の後ろ姿を見送りながら、アスカはもやもやとした気持ちだけが心の中で渦巻くのを感じていた。
ヒサシと女のことが気になったが、アスカはちらちらと少し離れた場所から見ることしか出来ずにいた。会話の内容を知りたい――いや、仕事の一環として聞かなければならない、と思うのだが、いかんせん、身体が思うように動かなかった。知りたいと思う反面、どこかで知ることを怖いと思っている自分がいるのだ。
こんなことでどうするの、仕事なのに。そう思ってはみても言いようのない、釈然としない気持ちだけが頃の奥底に滞留するのを感じていた。
そうこうしているうちに、ヒサシが片手を挙げた。アスカは一瞬ドキリとしたものの、平静を装い、ヒサシたちの前に行く。
「お待たせ致しました」
アスカはいつもと同じセリフを口にする。
「チェックをお願いします」
ヒサシは口元に薄っすら笑みを浮かべ言った。「かしこまりました」とアスカは伝票を取りに行く。
これからきっとヒサシと女はベッドをともにするのだろう。仕方のないことだけれど、なんだか遣る瀬ない気持ちになった。アスカは伝票とカルトンを持ち、再びヒサシたちの前へと行く。締めつけるような空しさだけが、アスカの心の中を支配していった。
「お相手の方に申し訳ないです」
遠慮がちに、だがしっかりとアスカは言った。
「君なら、きっとそう言うと思ったよ」
ヒサシは余裕の笑みを浮かべながら、アスカを見遣る。
「仕方ないね、今夜は彼女の相手をすることにするよ」
ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つと、アスカに微笑んだ。そこへタイミング良く、女が戻ってくる。アスカはお辞儀をすると、カウンターの奥へと向かった。
アスカは濡れたグラスを手に取り、一つ一つ丁寧に拭いていく。グラスを持つ手に思わず力が入った。あのセリフはなんなんだ――アスカはヒサシの態度にイライラせずにはいられなかった。「仕方ないね、今夜は彼女の相手をするとこにするよ」とはあまりにも上から目線の発言ではないか。毎晩連れてきている女に自分は興味がないけれど、自分に好意を持ってくれるからここへ連れて来て、ベッドを共にするというのだろうか。ヒサシは自分がモテることを知っている男だと思う。けれど、あの発言はどうしたって、許しがたい。そして、アスカははっと我に返る。どうして、そこまで相手の女の立場で考えてしまっているのだろうか、と。
それは紛れもなく、アスカの意思に反して、アスカが次第にその女の立場に近付いている証拠だった。