ヒサシの振る舞いは女から見れば魅力的だ。女が男に欲する色気も十分とは言えなかったが、若い女を虜にするのに必要な分は持っている。だからと言って、不倫というリスクを犯してまで付き合いたいと思えるほど、イイ男かと訊かれれば、アスカはノーだという気もしていた。不倫はリスクが高すぎる。不倫していたことが相手の奥さんにバレれば、慰謝料だって請求されるのだ。そんなスリリングな恋愛を好んでしたいとは、いくら旦那に不満のあるアスカでもやはり思えなかった。
けれど、ヒサシと付き合っている不倫相手たちにはそんなことは関係ないのだろう。それくらい、ヒサシに入れあげているのだとしたら、一体何が理由なのか。アスカは首を捻った。そして、一つの結論に辿り着く。そうか、テクニシャンなのか、と。そこまで考えてアスカは一人苦笑する。自分がそんな下世話なことを考えてしまったことに、急に気恥ずかしさと居た堪れなさを感じたのだ。いくら自分が最近ご無沙汰だからと言って、そんなことを想像してしまうなんて、とも思った。でも……とアスカは思う。そう考えるのが、一番しっくり来るのも事実だった。
マキコが来てから、1週間が経った。けれど、アスカは今日もバーにいる。店内の薄暗さも静かに流れるBGMも何もかもがいつもと同じだった。アスカはオーダーされたドリンクやフードを運びながら、空いた時間でグラスを拭く。オーダーが落ち着いたおかげで、漸く3つ目のグラスに手を伸ばすことが出来た。
マキコに調査をやめていいと言われてから、アスカはバーでの仕事をどうするか悩んだ。しかし、働き始めて数日で唐突に辞められるわけなどなかったし、何より調査の停止がマキコの一時の気の迷いの可能性であることも否めなかった。そうなると、しばらくの間はバーで働かざるを得ない、というのが彼女の出した結論だった。
相変わらず、ヒサシは毎回違う女を連れてバーにやって来た。今日、連れてきた女は黒髪のストレートヘアが印象的なエキゾチック美人だった。毎日毎日違う女を連れてくる、そんな光景を見ていたアスカは大学の食堂の日替わりメニューをなんとなく思い出していた。それくらい、見事な日替わり振りだったのだ。
勿論、代金を支払うのはヒサシだ。決して、毎日の出費として、財布に優しい金額ではなかったが、当の本人は涼しい顔をして支払いを済ませて帰っていく。一体、どれだけ稼いでいるんだろう、とアスカはそんなヒサシを見送りながら少し羨ましくなった。
アスカが黙っていると、マキコは静かに言った。
「勿論、今までかかった費用は全てお支払させていただきます」
当たり前だ、と頭の中では思ったが、アスカはそれ以上に妙な引っ掛かりを覚えていた。パートをして貯めたお金を全額はたいてでも、旦那と不倫相手を別れさせようとしていたマキコが、突然自分の元に旦那が戻ってこない気がする、というぼんやりとした理由だけで依頼を断ってくるなんて到底思えなかった。理由があるとすれば、もっと別の理由だ。アスカは思考を巡らすが、一向にその理由を思いつけないまま、時間だけが過ぎて行った。
「ご主人が不倫をやめたら、あなたのところに戻ってくる、と思えない事情でも?」
アスカは仕方なく、疑問をそのまま口にした。マキコは眉間に皺を寄せたが、小さな声で「いいえ」と答え、その後に「女の勘、みたいなものです」と付け加えた。
アスカは腑に落ちなかったが、依頼主からそう言われれば、無理に引き留めるわけにもいかない。かかった金額を算出して、また連絡すると伝え、今日のところは帰ってもらうことにした。
「お邪魔しました」
マキコは深々と頭を下げると、エミリーポエムを後にした。階段を降りる度、くるくると巻かれたマキコの髪が揺れるのを見ながら、アスカは苦虫を噛み潰したような顔をした。
しばらくすると、アスカはクッキーと一緒に紅茶をマキコの前へと置いた。
「今日はどのようなご用件でしょうか」
予想はついていたが、アスカは取り敢えず訊いた。
「主人のことなんですが……」
マキコは口を開き、申し訳なさそうに言った。
「もう別れさせなくても結構です」
きっぱりと言い放ったマキコの言葉にアスカは自分の耳を疑った。
「今、なんて……?」
我ながらマヌケな返答だと思ったが、それ以外に適当な言葉も思いつかなかった。
「ですから、主人と不倫相手を別れさせなくて、結構だと言ったんです」
マキコは表情一つ変えることなく、もう一度はっきりと言った。
「どうしてですか? こちらの対応に何か不満でも?」
「そういうわけではありません……。ただ別れさせたところで、主人が私のところに戻ってくるとは、とても思えなくて」
マキコは俯いて、紅茶を見つめると、そっと手を伸ばして、カップに口をつけた。
沈黙が落ちる。
アスカはマキコの言葉の真意を探るのに精一杯だった。
アスカは慌てて、机から足を下ろす。あともう少しで灰皿を蹴飛ばすところだったが、掠る程度で済んだのを見て、安堵の溜め息をついた。そして、自分の溜め息の多さに1人苦笑する。
「どうぞ」
アスカはドアに向かって言った。ドアは遠慮がちに開くと、ひんやりとした風を一緒に運んできた。ドアの向こう側にいる人物に目を凝らす。そこには髪を丁寧に巻き、お腹が隠れるようなふんわりとしたワンピースを着たカイソウ マキコが立っていた。
「お久しぶりです。どうしました? 取り敢えず、こちらにどうぞ」
突然のマキコの訪問にアスカは驚きつつも、平然とマキコを中に招き入れた。
「すみません……。突然、押しかけてしまって……」
マキコは申し訳なさそうに言った。彼女がどうしてここに来たのかの検討はつく。きっとヒサシと不倫相手の現状を聞きに来たのだろう。アスカは「大丈夫ですよ」と営業スマイルを向けた。
「今、お茶を淹れますから、かけてお待ち下さい」
アスカは言いながら、キッチンへと消える。
「いえ、お構いなく」
マキコは一応遠慮したが、それが建前であることをアスカも知っている。アスカはポットを用意すると、マキコの身体を気遣って、ノンカフェインの紅茶を選んだ。