「それより、お仕事はいいんですか?」
アスカはヒサシを見て言った。
「俺の心配? 随分と優しいんですね」
ヒサシはアスカをからかうように言う。一瞬、むっとしたがアスカは表情には出さないように努めた。
「仕事は午後休をもらってるんで大丈夫ですよ」
「わざわざ、そこまでして時間を作られるなんて、よっぽど重要なお話なのかしら?」
アスカは慎重に言葉を選びながら言った。
「そうですね……。そうなるかもしれません」
ヒサシが視線を動かしたことによって、アスカは自分の注文したアールグレイティーが来たのだということに気が付いた。
ポットからアールグレイティーを一杯注いで、店員は立ち去った。
アスカはアールグレイティーには手を伸ばさず、ヒサシに再び視線を戻す。
「私をここに呼ばれたということは、何か結論が出たのかしら?」
「そういうことになりますね」
「では、どういった結論になったのか教えていただけますか?」
アスカは平静を装っていたものの、内心ドキドキしっぱなしだった。
電車に揺られること約十分。アスカはレナたちの待つカフェのある最寄り駅に着いた。
改札を抜け、改札前にある地図で方向を確認すると、歩き出す。
駅から更に十分近く歩くと、ガラスの扉が印象的なオシャレなカフェがあった。
店名を確認して、ドアを開ける。中は思ったより、広かった。
店員に待ち合わせだということを伝えると、アスカは店内を見回した。入り口付近の他の席と隔離された個室にレナとヒサシがいた。
「お待たせしました」
アスカはそう言うと、二人を交互に見た。
ヒサシは「どうぞ」とアスカに席に座るよう促す。
レナは困り顔でアスカを見ていたが、アスカは表情を変えることなく、バッグを置き、コートを脱ぐと椅子に座った。
おしぼりとお冷を持って来た店員にアールグレイティーを頼むと、座り直して、レナを見た。
「アスカさん、お忙しいところすみません。急にお呼び立てしてしまって……」
「気にしないで。大丈夫よ」
仕事だから――と言いそうになったのをアスカはぐっと飲み込んだ。アスカにとって、これは仕事だけれど、レナにとっては、自分のことに親身になってくれる相手なのだ。それをわかっているアスカは、レナをがっかりさせないように言葉を飲み込み、その代わりに微笑んだ。
「どうして、浮気をするのかしら?」
アスカはなんの脈絡もなく言った。
「それはパートナーにない魅力が別の人にあるからじゃない?」
「でも、そんな人、たくさんいるでしょう?」
「僕が言ったことは大前提で、その上で性的な魅力があるからじゃないのかな」
「セックスしたいってこと?」
単刀直入なアスカの言葉にシンゴは思わず苦笑した。ぼかした言い方をしないところを見ると、アスカはすでに随分と酔っ払っているように見える。
「そうなるね。男女の関係になりたいと思う、という部分が浮気では占めるウエイトが大きいと思うよ」
「どうして、パートナーじゃダメなのかしら?」
「よく言うマンネリの場合もあるだろうし、そもそも、パートナーとのセックスに満足していない場合もあるだろうね」
「最初から相性が良くないってこと?」
「そう。どちらかが我慢している。様々な嗜好があるけれど、食べ物のようにその嗜好を簡単に伝えられるっていうわけでもないだろう? だから、どちらかに我慢が生じる」
「確かに……」
そう言って、アスカはシンゴの顔をじっと見た。
「何……?」
黙ったまま、自分をじっと見据えるアスカにシンゴは困ったように訊いた。
「そう言えば、シンゴの嗜好を知らないなぁ、と思って」
「あははは、今はいいよ。僕のことは」
シンゴは笑いながらも、話を元に戻そうとする。まだシンゴは酔っ払っていない。そんな時にセキララに話すなんて芸当は出来そうになかった。
「セックスだけが全てなのかしら?」
ワインを水のように飲みながら言うアスはの空になったグラスに、シンゴはワインを注いだ。
「セックスは全てではないと思うけれど、肝心なものではあるとは思うよ」
「……」
「どうかした?」
アスカが少しムッとしているような気がして、シンゴは彼女を恐る恐る見る。
「なんだか言葉を選んで喋っているような気がして」
「僕が?」
「そう。作家だからかなぁ……。なんだか、遠回しな言葉を言われている気がするのよ」
「そんなつもりはないんだけど……」
シンゴは苦笑しながら否定する。さすが、別れさせ屋だけあって、人をよく見てるなぁ、と思った。
「私は別にやんわり言ってほしいなんて思ってないの。むしろ、その逆よ。はっきりきっぱり言われた方が安心するの」
アスカは言いながら、グラスに口をつける。かなりのハイペースでアスカは飲んでいた。つまみなどほとんど口にしていない。
シンゴはカットチーズを口に運んだ。答えるのに詰まった時は食べるのに限る。もぐもぐと口を動かしている時は単なる時間稼ぎだ。シンゴは咀嚼しながら、自分の頭の中で話すことを組み立てる。
「わかった。じゃあ、はっきり言うよ。男女の関係において、セックスの重要性は半分から三分の二を占めるんじゃないかと思うよ。セックスのない関係で良いのであれば、友達でいいんだからね」
「男女間の友情は成立する、とした場合はでしょ?」
「アスカは成立しないと思ってる?」
「そうね。絶対ないとは言い切れないけど、ほとんどの場合が無理だと思うわ」
だとしたら、セックスのない関係は知り合い程度ってことなのかな、とシンゴは思ったけれど、敢えて口にはしなかった。今はそこを掘り下げるべき時じゃないな、と思ったからだ。
「セックスレスが原因で浮気を始めたのか、浮気をしていたからセックスレスになったのか、考えれば考えるほど、ドツボにハマるっていうかさ。私は別れさせ屋だし、別にそんなこと考える必要はないんだけど、時々思っちゃうんだよね。私のしてることって正しいのかなぁって。お金をもらって、成立している仕事だし、必要ともされているのはわかっているんだけど、どちらかに有益に働いているだけで、良いとか悪いとかって基準で考えるのだとするならば、もしかしたら、悪い方に加担してしまっている可能性もあるわけでしょう?」
「浮気をする原因を作ったのが依頼者だった場合ってこと?」
「そう。または自分も浮気をしている場合とかね」
「あまり考え過ぎない方がいいんじゃない? 必要とされている、仕事として成立している、それだけじゃ不満?」
「不満っていうか、なんだかもやもやしちゃって」
アスカはそう言って、残っていたワインを一気に飲み干した。アスカの白い首が上下するのを見ながら、シンゴは自分の仕事について考えていた。
作家は自分とは全く別の人物の人生を描く。それはどこかに自分と共通点を持った他の誰かだ。
シンゴが新しく書き上げた小説はアスカをモチーフに書いた。勿論、アスカのことが出てくるのだから、自分のアスカへの想いも十分に反映されている。そして、それがシンゴやアスカの知らない誰かに読まれるのだ。
シンゴは自分の経験を元に小説を書くことに抵抗がなかったわけではない。けれど、書かなければならない、という一種の使命感とも取れる感情に突き動かされて、一気に書き上げた。
自分の根底にある部分を露呈させなければ、小説を書けないことをシンゴは知っている。それが仕事だと思うからするのであって、仕事でなければ隠して生きていただろう。そういったことすらも、厭わないのが作家だ。
仕事と割り切ることが時に必要となる。それは仕事が好きだからかもしれないし、その仕事をこなさなければならないからかもしれない。または、それ以外の理由からかもしれない。いずれにしろ、アスカのように考え過ぎてしまうのは良いことだとは思えなかった。
「君の仕事はいい仕事だと思うよ」
シンゴは静かに言った。アスカは空になったワイングラスから、シンゴへと視線を移す。その表情は複雑さをたたえていた。
「いい仕事、か」
アスカはぽつりと言うと、立ち上がり、新しいワインを持ってくる。
「シンゴも飲むでしょう?」
「ああ。アスカが飲むのをやめるまで付き合うよ」
「ありがとう」
アスカは赤らんだ頬を緩ませた。
アスカは新しくワインを開けると、新しく出したグラスに注ぐ。今度はロゼだった。
「珍しいね。アスカがロゼを買うなんて」
「たまにはね」
「何かで気分転換をしたかったんだね」
「そうなのかなぁ」
本当は泣きたいのかもしれない、とシンゴは思ったが、それは言わなかった。泣かせてあげるのも優しさだけれど、泣きたいことに気付かない振りをするのも優しさだからだ。
「乾杯」
シンゴとアスカはどちらからともなく、グラスを合わせる。
「美味しい!」
アスカは嬉しそうに言う。
いつもこんなアスカを見ていたいとシンゴは思った。
アスカが悩んだり、悲しんだりしているのは、やはり見ていて辛い。
そう思った時に、シンゴはどれだけ自分がアスカのことを好きなのかを知った気がした。
翌日、シンゴはひどい頭痛で目が覚めた。喉もひどく乾く。吐き気がしないだけマシだな、と思いながら、アスカを見ると、アスカはぐっすりと眠っていた。
シンゴはキッチンへミネラルウォーターを取りに行くと、ソファに腰を下ろして、ペットボトルに入ったミネラルウォーターに口をつけた。
冷たい水が身体の隅々にまで渡っていく。半分くらい飲み終えたところで、飲むのをやめると、大きな溜め息をついた。
頭痛薬を棚から取り出すと、残りの水を使って飲んだ。そして、再び、寝室に戻る。
アスカは小さい寝息を立てていた。
シンゴは音を立てないように布団に入ると、アスカに背を向ける。
男女の呼吸のリズムは違うから、一緒に寝るのは効率的ではないと何かの本で読んだことがあった。けれど、こうして、隣で眠ることがシンゴにとっては良いことのように思えた。
一人で眠るより、良質な睡眠は取れないかもしれない。それでも、どんなに微妙な関係性になっても、別れずに済む最善の方法に感じられたのだ。
寝ているアスカを放っておいて、シンゴはコンビニへと向かった。朝食に食べるパンを切らしていたことを思い出したのだ。
適当に服を選び、パジャマから着替えると、シンゴはそっと部屋を出た。
コンビニ行き、ベーコンマヨネーズパンとメロンパン、チョコクリームパンをレジに持っていくと、さっきまで店内にいなかったユウキが立っていた。
「いらっしゃいませ。こんな時間に珍しいですね」
「君こそ、こんな時間に珍しいね」
「早番のヤツが風邪引いちゃったらしくて、代わりに俺が」
「なるほどね」
「お会計は三六〇円です」
シンゴはポケットに入れておいた財布を取り出し、支払を済ませる。
「あれから、どうなの?」
シンゴは後ろに人が並んでいないことを確認してから、ユウキの目を見て言った。
「レナのことですか?」とユウキは言った後、シンゴが頷いたを確認して、「あのまま進展なしですよ」と苦笑した。
「そうか……。でも、きっといい方向に向かうと思うよ」
シンゴはそう言って、店を後にした。
家に帰って来ても、まだアスカは寝ていた。シンゴはいつものように朝食の準備を始める。
シンゴがお湯を沸かしていると、寝室のドアが開く音が聞こえてきた。
「おはよ……」
アスカはぼーっとしたまま、シンゴを見る。
「おはよう。二日酔いは大丈夫?」
「うん」
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「紅茶」
「顔洗っておいで」
シンゴはアスカにそう言うと、にっこりと微笑んだ。アスカはシンゴの微笑みに小さく頷くと、ぼーっとしたまま、洗面所へと消えていく。
しばらくすると、顔を洗って、さっきよりはすっきりとした表情を浮かべたアスカが戻ってきた。無言のまま、いつもの席に着くと、シンゴが紅茶を運んでくれるのをじっと待っている。
「お待たせ」
シンゴの言葉にアスカは「ありがとう」と答えると、シンゴが席に座るのを静かに待っていた。
シンゴはコーヒーを入れたカップを持って、席に着くと、目の前にある菓子パンを見て「どれがいい?」とアスカに訊いた。
「チョコクリームパン」
あれだけ飲んだのに、やっぱり、アスカはそれを選ぶのだな、とシンゴは内心感心していた。
「じゃあ、僕はメロンパンにしよう」
そう言って、シンゴはアスカにチョコクリームパンを手渡し、自分はメロンパンを手に取った。
「足りなかったら、これも食べていいからね」
シンゴは言って、ベーコンマヨネーズパンを指差した。
アスカは「うん」と答えて、シンゴを見る。二人は黙ったまま、パンの袋を開けると、かじりつき始めた。
時折、パンの袋のカシャカシャという音と咀嚼音がするだけだった。シンゴはぼーっとしながら、食事をするアスカをたまにちらりと見ていたけれど、話しかけはしなかった。
今のアスカに何かを言っても、明確な返答が得られそうになかったからだ。
二人はほぼ同時にパンを食べ終わる。
「もう少し食べる?」
シンゴの問いにアスカはしばらく考え込んだ。
「ヨーグルト食べようかな。シンゴもいる?」
アスカは立ち上がり、シンゴを見た。
「うん、じゃあ、僕も」
シンゴの返事にアスカは冷蔵庫までヨーグルトを取りに行く。アスカはヨーグルトの蓋を取ると、スプーンを添えてシンゴの前に置いた。
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アスカが事務作業を始めて数時間後、アスカの携帯電話が突然鳴った。
ディスプレイに表示されたのはレナの名前だった。
「はい」
「アスカさん、ですか?」
控えめなレナの声が聞こえる。その声はどこか不安そうだった。
「どうしたの?」
「今、彼と一緒にいるんですけど……」
アスカの心臓が一つ高鳴った。
予想外の電話だった。けれど、いつか来るだろう、と思っていた電話でもあった。
時計に目を遣ると、まだ夕方だ。ヒサシは仕事中ではないのだろうか、と思ったけれど、アスカは「何かあったの?」とだけ言った。
「今から、アスカさんに来てもらうことは出来ませんか?」
レナの声はどこか困惑しているように聞こえる。
「わかったわ。今、どこ?」
アスカは詳細を聞き出すことなく、承諾すると、レナが指定してきた場所へ行くことにした。レナが指定してき場所は事務所から数駅離れたカフェだった。
アスカはレナからの電話を切ると、紅茶のカップもそのままでコートを着ると、急いで事務所を後にした。
この案件が終わったら、シンゴと旅行でもしようかな、とアスカは思っていた。
正直、今回の案件で心も身体も疲れ切ってしまっていたし、少し休みが欲しかった。今までのアスカだったら、1人で旅行したいと思っていただろう。けれど、今のアスカはシンゴと一緒に旅行したいと思っていた。
ここまで自分の心境に変化が起きたことにアスカはもう驚いてはいなかった。
今回の案件を通じて、アスカはシンゴの大切さに気が付いたのだ。
シンゴがいてくれたことで、アスカは今回の案件を乗り切れそうだと思っていたし、ヒサシとの関係を思いとどまれたのも、シンゴの存在があったからだ。
自分の狡猾さや不安定さを目の当たりにして、アスカは自分の夫がシンゴでなければ、誤った選択をしていたのではないか、と思う。
きっかけはシンゴが何かをしてくれたことではない。シンゴがその場にいつもと変わらずいてくれたことだった。
アスカはシンゴの確かな存在感にいつしか安心感を得ていたのだ。