「いつから気が付いてたの?」
アスカはモヒートに口をつけてから訊いた。
「結構前からかな」
「結構前……?」
「レナの様子が変わったんだ。誰かの影響を受けていることはすぐにわかった。最初は男かと思ったよ」
「でも、違った」
「ああ。まさか、君が絡んでいるとは思わなかったけど」
アスカはヒサシの言葉には答えずに再びモヒートに口をつけた。
「ここで俺と接触したのも計算のうちだろう?」
「ええ。隠しても無駄だから言うけど、その通りよ」
「俺にバレるってことは、作戦は失敗だな」
「そうね。でも、きっと彼女はあなたと別れるわ」
「どうして?」
「だって、あなたには他にも女がたくさんいる。彼女はそれを知らないわ」
「知ったら、別れる……か。俺としては、彼女を取られるのは痛いんだけどな……」
勝手な言い分だな、とアスカは思っていた。ヒサシは何か考えているのか、黙ったまま、グラスを見つめている。カランと氷の溶ける音がした。
「……取引をしないか?」
「取引?」
アスカはヒサシの言葉に怪訝な顔をした。
アスカは嫌な予感がした。ヒサシはきっと自分がイエスと言わざるを得ない条件をつきつけてくるだろう。そうして、自分の都合の良いように、全てを回していくのだろう。
このままではまずい、とアスカは思った。けれど、思うだけで、解決策はすぐには浮かばない。
マキコからの依頼のこともある。どうしたものかと頭を悩ませた。
「依頼者の男に伝えてほしいんだ。彼女と俺は別れたって」
アスカは口の中で小さく「えっ……」と言ったが、ヒサシには辛うじて聞こえなかったようだ。
アスカはヒサシが勘違いしているのだということに、ワンテンポ遅れて気が付いた。
ヒサシはレナのことを好きな男が不倫をやめさせようとしていると思っているのだ。きっと、レナからさっき中華レストランで会った、レナとヒサシを別れさせようとしている幼馴染の話を聞いたことがあったのだろう。だから、依頼者のことを「男」と言ったと考えれば、辻褄が合う。
アスカはほっと胸を撫で下ろし、モヒートを一口飲んだ。
何も言わないアスカをヒサシは見ている。視線を感じながら、アスカはカウンターの向こう側にあるグラスの置かれた棚をじっと見つめていた。
「君の答えは?」
ヒサシは落ち着いた調子で言った。余裕があるのが見て取れる。
アスカはヒサシの方を向くと、にっこりと微笑んだ。
「わかったわ。その代わり、私が別れさせ屋として依頼されているということをあなたが気が付いたことは黙っててくれる……ということね?」
「そういうことだ。やっぱり、君は頭の回転が速いね」
「でも、上手くいくかしら?」
「何が不安?」
「あなたたちが別れたということを相手にどうやって信じさせればいいのかな、と思ったのよ」
「それは難しいね。そうだなぁ……」そう言って、ヒサシは考え込む素振りを見せて、続けた。「彼女にも別れたと言わせて、一ヶ月くらいは会わないようにするよ」
「破局を偽装するってことね」
「ああ」ヒサシは頷く。
「それはいいかもしれないわ」
アスカは言って、にっこりと微笑んで見せた。
「それから、メールの連絡も絶った方がいいと思うけど、我慢出来る?」
「一ヶ月くらいならね。元々、メールはあんまり好きじゃないんだ」
「でも、マメそうよね」
「それは、女性の為さ」
この男は筋金入りの女たらしなのだとアスカは思った。相手の女を愛しているから、マメにメールをしたり、オシャレなバーに連れて行ったりするわけではないのだ。ヒサシがそれらをこともなげにこなすのは、自分が女を囲っておきたいからに他ならない。
「あなたの本音を聞いたら、がっかりする女性は多そうね」
「だろうね。でも、いつだって、本音と建前は用意されているものだろう?」
「そうかもしれないけど、恋愛してる時は相手の全てをそのまま信じたいものよ」
「へぇ、気味がそんなことを言うなんて意外だな。もっと現実主義かと思ってたよ」
「仕事とプライベートは別なの」
アスカの一言にヒサシは笑った。
「一体、何人の女の子と付き合ってるのよ」
アスカはずっと前から気になっていたことを訊いてみた。
「何人だと思う?」
「そうね……。五人くらいかしら?」
「惜しいな」
「もっといるの?」
「まさか。四人だよ。ご飯を食べるだけの関係なら、片手じゃ足りないけど」
「あの子も四人のうちの一人……か」
「ひどい男だと思った?」
ヒサシは悪戯っぽく微笑んで、アスカを見た。
「前から思ってるわ。あなたのことを探る為に、ここでアルバイトを始めてから、沢山の女の子と一緒にいるところを見てきたもの」
「妻だけじゃ足りないんだよ」
「足りない?」
「ああ、結婚は見合いで、家柄も悪くないし、性格も普通、外見は良かったし、結婚してもいいかな、と思ったんだ。ちょうど、少し前に五年付き合った彼女と別れたところでね。思考が鈍っていたんだと思う」
ヒサシはいつも以上に饒舌だった。きっと今まで誰にも言えなかった鬱憤が溜まっていたのだろう。
「結婚してみてわかったのは、料理も大して上手くないし、夜もいまいちつまらない。美人は三日で飽きるっていうけど、外見しか取り柄のない女ほどつまらないものはないよ」
ヒサシは一気にそこまで言うと、グラスを煽った。
「結婚を楽しいものだけだとでも思ったの?」
アスカはモヒートを飲みながら、ヒサシに視線を向ける。ヒサシはアスカの視線を受け止め、自嘲した。
「そんなこと思うわけないじゃないか。結婚が墓場だなんて、よく聞く話だろう?」
「じゃあ、どうして、そんな不平不満を?」
「結婚なんて、バカげた選択をしてしまった自分に対しての愚痴みたいなものだよ」
ヒサシは言いながら、溜め息をついた。
きっと少し前までのアスカなら、ヒサシと似たような溜め息をついていただろう。けれど、今のアスカがシンゴの存在を疎ましく思うことはなかった。それどころか、シンゴのことをそんな風に思ってしまっていたことに申し訳なさすら感じていた。
「結婚に対して、不平不満を言うのは、筋違いだってことくらいわかってるよ。全て、自分の選択の上に今の自分は成り立っているんだからね。だけど、愚痴を言わずにはいられない。まぁ……独身の君にはわからないだろうけど」
ヒサシは言いながら、左手の薬指に光る指輪に視線を落とした。
「あら、いつ私が独身だなんて言ったかしら?」
アスカの言葉にヒサシは大袈裟に驚いてみせる。
「冗談だろう?」
「冗談なんかじゃないわ。既婚者よ」
「まさかなぁ。俺の目も随分悪くなったらしい」
「どういう意味よ」
「俺が相手にするのは、独身の女だけって決めてるんだ。今まで、一度だって、既婚者の女を口説いたことなんてなかったんだよ」
「てことは、あのお誘いは本気だったってこと?」
「そうなるね」
ヒサシは悪びれることもなく、あっさりと認めた。
「でも、そんな仕事をしていて、既婚者とはね……。旦那は怒らない?」
「そんな小さな男と結婚なんてしないわよ」
アスカは特に考えることもなく、口をついて出た言葉に驚いていた。
そうだ、シンゴの大らかで、懐の深いところにアスカは惹かれたのだ。すっかり忘れてしまっていたことに思わず戸惑う
「それは良く出来た旦那だね」
「あなただったら、別れさせ屋なんて辞めさせる?」
「そうだなぁ……。辞めさせはしないだろうけど、快くは思わないだろうね」
「どうして?」
アスカは間髪入れずに問う。
「他の男とこうやって、接触するような仕事に奥さんに就いてほしいと思う男なんていないよ。ただ……辞めさせたりしたら、自分の器の小ささを露呈してしまうから、辞めさせたりしないんだよ。男なんて、ほとんど虚栄心で出来てる」
「その意見を否定はしないけど……。あなたの理屈から言ったら、私の夫は我慢してることになるわね」
「でも、全ての男がそういう考え方なわけじゃない。心の広い男だっているさ」
「そうね……」と言って、アスカはシンゴの本心はどうなのだろうと思った。今まで一度だって、きちんと自分の仕事について、シンゴに意見を求めたことはない。それだけ、シンゴの気持ちを考えてこなかったということのような気がした。
「そう言えば、お子さんはいないの?」
アスカはヒサシの妻であるマキコが妊娠中であることを知っていたものの、そ知らぬ顔で訊く。
「いないよ。ここ、一年くらい関係も持ってないから、出来ることもない」
ヒサシの言葉にアスカは自分の耳を疑った。
――子どもが出来ることもない……?
アスカは心の中がざわつくのを感じていた。
一体、マキコはなんでそんな嘘をついたんだろう……。
アスカはつい考え込みそうになるけれど、目の前にヒサシがいるので、心に留めるだけにした。
「お子さんがいれば、また少しは環境が変わってたんじゃないかしら?」
「そうだと信じたいね。でも、子どもがいなくて、少しほっとしているんだ」
「どうして?」
「だって、子どもがいたら、離婚を躊躇うだろう? 周りにも離婚を考えている奴らは何人もいるけど、結局、子どものことがネックになって出来ないでいるんだ。子どもは可愛いとか、養育費を払うのが難しいとかね」
「そもそも、離婚しないような相手を選べば良かったんじゃないの?」
アスカは仕事を忘れて、思ったことを口にする。言ってから、しまった、と思った。
「あははは。君の言う通りだよ。相手を選んだのは自分だからね。全ての責任は俺にある。でも、人間は間違うものだろう? 俺はうっかり間違えてしまったんだよ」
ヒサシは自嘲するように言った。
「本当に選ぶべきはレナさんだったと?」
「いや、違う」
「最低」
「最低なことは、俺をずっと見てた君なら、とっくに気が付いていると思ってたけど」
「そうね。気が付いてたわ。でも、言わずにはいられない程、最低だと思ったのよ」
「そう思われても仕方ないだろうね。さっきも言っただろう? 付き合っているのは四人いるって」
「ええ」
「君がコートを汚してしまったあの女性がしいて言えば、本命ってところかな」
「彼女は自分以外に三人いることは知っているの?」
「知るわけないだろう? 知ってたら、付き合うわけがない。男は浮気する生き物だからなんてカッコつけて、浮気は平気なんて言う女は沢山いるが、心の底から許している女なんていやしないんだよ」
「そして、不倫をしている女は自分が一番愛されている、と思い込む」
「その通り。奥さんよりも愛されている、と勘違いしている。でも、まぁ、俺の場合は、少なくとも妻よりは愛してるけどね」
ヒサシの言っていることは、きっと多くの男の本音なのだろう。けれど、本音だからと言って、正しいと認めることは出来ない。ただこんなにストレートに言われてしまっては、否定のしようがなかった。
彼は嘘をついているわけではないのだ。事実を述べているだけなのだ。
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乾杯した後、冷たいグラスになみなみ注がれたビールを二人は一気に喉に流し込む。外の寒さを思うと、飲みたいなんて思わなかったのに、店内の暖かさに触れるとこんなにも美味しいものか、と思い、二口三口と続いた。
「今日は何を話したくて、電話をくれたの?」
アスカはビールを半分くらい飲み干すと訊いた。
「実は彼とこの間、話をしたんです」
「へぇ……。彼はなんて?」
「取り合ってくれませんでした」
「えっ……」
「君が突然そんなことを言い出すなんて、おかしい。誰かに何か言われたの? って言われて……」
さすがヒサシだ。レナの行動理由のほとんどはお見通しなのだろう。
「それであなたはなんて答えたの?」
「……何も言えませんでした。否定も肯定も出来なかったんです」
だから、ヒサシはきっと確信したのだろう。レナの後ろに誰かがいる、と。そして、それがアスカであるということにも気が付いた。アスカの名刺を何かのタイミングで見て、彼の中での点が全て線で繋がったに違いない。
「でも、あなたは別れたいのよね?」
アスカは棒棒鶏を皿に取りながら言う。
「はい。別れるつもりではいます。でも、彼が取り合ってくれないと、どうすることも出来なくて……」
「そうよね……」
アスカは次の作戦を考えていた。ここでレナに音信不通にさせてしまうのも一つの手ではあるけれど、ヒサシはそんことを許さないだろう。きっと何かしらのアクションを起こしてくるはずだ。そうなれば、アスカの対応は後手に回ってしまう。勝負に勝とうとするのならば、先手を打たなければならない。
今、ここで結論を急ぐのは得策じゃないわね……。
アスカはこの後に控えているヒサシとの待ち合わせを考えて、敢えて、レナにアドバイスするのをやめることにした。
「少し時間をおいた方がいいのかもしれないわね」
「えっ……」
「だって、彼だって、きっと戸惑っているはずよ。いくら不倫とは言え、好きな人から別れを告げられたら、どうしていいかわからなくなると思うの」
アスカはもっともらしく言った。内心では、そんなことを思っていないのに、だ。
「彼に限って、そんなことってあるんでしょうか……」
レナはやけに冷静だった。不倫をやめると決めてから、いろんなことが客観的に見られるようになってきたのだろう。きっとヒサシの良いところも悪いところも的確に判断出来るようになっているに違いない。
「どんな人だって、大切な人を失くす喪失感は経験したくないものよ」
「……」
アスカの言葉にレナは黙った。アスカの言っていることが一理あると思ったのか、自分の考えがまとまらないのかはわからない。ただ少なくとも、アスカの発言でレナがアスカを怪しむということはなさそうだった。勿論、レナがヒサシに会えば、今後の展開は変わってくる可能性がある。ヒサシからレナに自分の存在をバラされる可能性はあるのだ。
どうすれば……。
そこまで考えて、シンゴの顔が浮かんだ。シンゴを頼れば、何か良いアイデアをもらえるかもしれない。けれど、今のシンゴを頼るのは何だか申し訳ないような気がしていた。
シンゴだって、仕事で忙しい。そんな時に、毎回、自分の仕事の相談をされたら、きっとうんざりしてしまうだろう。
ここは自分で切り抜けるしかない、とアスカは思った。
「もう少し、様子を見て、彼に別れ話をしてみます。彼にも考える時間は必要ですよね」
レナはアスカの目をしっかりと見て言った。ここ数日でレナは見る見る逞しくなっている。別れを決めた女は強いということをアスカもわかっているつもりでいたけれど、なんだか嬉しくなった。
その後、アスカもレナも美味しい食事に舌鼓を打ち、他愛ない会話を楽しんだ。アスカは次が控えているので、飲み過ぎないように注意しながら、飲み進めていく。数時間が経った頃、アスカとレナは店を出ることにした。レナがトイレで席を立った時にアスカは会計を済ませておいた。それにしても、レナがなかなか帰ってこない。不安に思って、アスカは席を立ち、辺りを見回した。すると、幼馴染だと言っていた男に腕を掴まれ、何やら口論になっているようだった。
アスカはレナの元に駆け寄ろうかと考えたが、しばらく様子を見ることにした。
揉めている理由がわからなかったし、もし何かまずい状況になったら、店員がどうにかしてくれるだろう、と思ったからだった。
アスカはテーブルでレナが戻ってくるのを待ちながら、ケータイのメールボックスを見た。そこには珍しくシンゴからのメールがあった。
“明日打ち合わせで帰りが遅くなるのを伝え忘れたのでメールしました”と簡素な文面が表示されて、アスカはなんだかほっとした。
自分の仕事や置かれている状況は、明らかに今殺伐としているように思える。そんな時、夫の何気ない日常メールに、自分の居場所を見たような気がしたのだ。
アスカは“わかりました。お仕事頑張ってね”と返すと、ケータイをテーブルの上に置く。きっとシンゴから返信はないだろう。必要なこと以外、彼はメールをしないことをアスカは知っている。けれど、こんな時はくだらない内容でもいいから、シンゴからのメールが欲しかった。今、アスカは今回の依頼が成功するか、失敗するかの瀬戸際に立たされているのだ。誰かに弱音を吐いていいわけでもなかったし、吐けるような状況でもなかった。ただ気を紛らわす為だけのシンゴからのメールが欲しかった。
五分経っても、十分経っても、レナは席に戻ってこない。アスカは次第に心配になってきた。もう一度、席を立ち、レナがいた場所へと視線を向けた。すると、幼馴染の男がレナと真剣な顔をして話しているのが見えた。レナの表情はアスカの位置からは見えない。
アスカは痺れを切らして、レナとその幼馴染の男のところへと行った。
「どうかしたの?」
アスカはレナの背後から声かける。
「アスカさん……」
レナは振り返ると、困り顔でアスカを見た。
「彼女と今一緒に食事をしているんだけれど、何かご用かしら」
アスカは落ち着いた口調で言う。幼馴染の男は罰が悪そうに俯いた。
「もういい? 私、あなたと話すことは何もないの」
レナはそう言うと、男の前から立ち去ろうとする。けれど、男はそれを許さなかった。男はレナの腕を離さなかったのだ。そして、そのまま立ち上がる。
「行かせない」
「離してよ! 私はアスカさんと食事してるだけなの。だいたい、ユウキには私が誰と付き合おうと関係ないでしょ!?」
レナの言葉にユウキはレナの腕を掴む力を緩めた。その隙にレナはユウキの手をふりほどき、アスカに駆け寄る。
「アスカさん、行きましょう!」
レナの強い口調に圧倒されながら、アスカはレナとともに元いた席に戻った。
アスカとレナは中華レストランを出ると、しばらく無言で歩いた。
レナはきっとあの状況を説明する言葉を探しているのだろう。
アスカはそれをわかっていたので、何も言わなかった。レナが話したいタイミングで話し出せばいいと思っていたのだ。
駅まであと数メートルというところまで来て、レナが口を開いた。
「すみません……。みっともないところを見せてしまって……」
「別にいいのよ。みっともないなんて思ってないわ」
アスカの言葉に安心したのか、レナはぽつりぽつりと話し始める。
「彼は――ユウキは私の幼馴染なんです。ユウキは私が不倫していることを知ってて、ずっとやめるように言ってきてて……」
「そうだったんだ」
「はい……。何度放っておいてと言っても、顔を合わせる度に別れろって言われて、その度にケンカして……。さっきもお手洗いから帰ってくる時にまたその話をされて、口論になって……」
「そうだったの……。きっとレナちゃんのことが心配なのね」
「違います! ただのお節介なんです。ユウキは昔からああだから……」
窘めるように言うアスカにレナはむきになって答えた。
「あなたは気が付いてないのね」
「えっ……」
アスカの言葉にレナは一瞬眉間に皺を寄せた。
「彼はあなたのことが好きなのよ。だから、あなたに不倫をやめてもらいたい。ただそれだけだと思うわ」
「そんなことないですよ!」
レナはアスカの言葉を即座に否定した。
「どうして、そんなことが言い切れるの?」
「だって、私とユウキは幼馴染で……」
「それはあなたの主観でしょう? 彼は幼馴染であり、好きな人として、あなたを見てるんじゃない?」
「……」
心当たりがあるのか、レナは黙った。黙って、そのまま、ふと足を止めた。
「どうして、アスカさんはいろんなことを上手に考えられるんですか……?」
“上手に考えられる”という言い方にアスカは違和感を覚えたけれど、レナの言いたいことはなんとなくわかった。
今、彼女の頭の中は混乱しているのだ。
必死で整理しようとしているのに、上手くいかない。そんな彼女の心情が表されている言葉のような気がしていた。
「いろんな経験の上に思考は成り立つから、かな」
アスカは言いながら、回りくどい言い方をしてしまったな、と思っていた。けれど、レナはアスカの言葉に深く頷いている。
「私はまだ経験が足りないのかな……」
「そうね。今回のことも良い経験になったんじゃない?」
「はい……。でも、彼に納得してもらわないと別れられないから……」
「時間はかかるかもしれないけど、きっと大丈夫よ。それより、さっきの幼馴染の彼には別れること言ったの?」
「いえ……。関係ないことですから」
レナはアスカにきっぱりと言い放った。なんだか幼馴染の青年が可哀想になる。
「そろそろ、行きましょうか」
アスカは立ち上がる前にバッグに手を伸ばした。
「あの支払は……」
「もう済ませてあるわ」
アスカはそう言って、レナに微笑んだ。
アスカはレナと別れると急いで、ヒサシの待つバーへと向かった。
見慣れたバーのドアも今となっては懐かしい。
アスカはドアの前で大きく深呼吸をすると、ドアノブに手を伸ばした。
ドアを引き開けると、カランカランとドアベルが鳴った。
アスカは一歩店内に足を踏み入れる。
店内は相変わらず薄暗く、微かにBGMがかかっていた。アスカはカウンター席に視線を走らせる。
ドアベルの音に反応してか、振り向いた男が一人――ヒサシだった。
アスカは何も言わず、空いているヒサシの右隣に座った。
マスターが一瞬驚いたような顔をしたけれど、マスターのいる位置とは席が離れていたので、特に言葉を交わすこともなかった。
新しく入ったであろうアルバイトの女の子がアスカの前におしぼりを持ってくる。注文を聞かれたので、アスカは「モヒートを」と答えた。
しばらくすると、お通しのワカメスープが運ばれてくる。それから、モヒートが間を開けずに運ばれて来た。
「来ないかと思ったよ」
ヒサシはアスカの方を見ずに言った。
「先約があったのよ」
「レナと会ってた、とか」
「もう全部わかっているみたいね」
「まぁ、夜は長い。取り敢えず、乾杯」
そう言って、ヒサシはアスカの持つモヒートのグラスに自分のグラスを軽くあてた。
続き>>01-331~01-340「加速」まとめ読みへ
アスカは久々に朝から事務所でゆっくりと書類に目を通していた。
いつものように煙草をふかし、脚は机の上に乗せ、手を伸ばせば届く位置には紅茶の入ったカップを置いていた。
仕事とはいえ、毎朝、カフェに通うのは正直アスカにとっては疲れることだった。最初のうちは珍しいことに多少はウキウキしたが、そのウキウキもしばらくすれば、退屈に代わる。仕事なのだから、当たり前と言ってしまえば、それまでだったが、その疲労から解放されたことは大きい。
アスカは書類を確認し終えると、くわえていた煙草の灰を灰皿に静かに落とした。そのまま、煙草をカップに持ち替えて、紅茶をゆっくりと飲んだ
久しく、事務所の掃除をしていないな、と思って、床に視線を落とすと、床がキレイになっているのに気が付いた。他の所員が掃除してくれていたのだろう。アルバイトとして雇って数年が経つが、気の利く所員に育ったことを嬉しく思っていた。
最初はどんなことでもいちいち言わなければ、することが出来なかった。これが噂のゆとり教育世代か、とも思ったが、一つずつ丁寧に教えれば、確実にこなしていく。
数年経てば、何も言わなくたって、気が付いたことをしてくれるまでに育つのだ。ゆとり世代だと揶揄されることも多いし、人に寄るのだろうが、育て方次第だな、とアスカはキレイになった床を見ながら思った。
アスカが煙草に手を伸ばそうとした時、アスカのケータイが鳴った。見慣れない番号に一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに通話ボタンを押す。
「はい」
――あの……アスカさんのケータイでしょうか?
「そうですが」
聞き覚えのある声がケータイから聞こえてきた。レナだ、とアスカはすぐに気が付いた。
――あの、レナです。名刺を見て、電話しました。今日の夜、お時間いただけませんか?
今までメールでのやりとりを主にしていたこともあり、アスカはレナの番号を登録していなかったのだ。
「ええ、いいわよ」
――良かった……。
「場所と時間はどこにする?」
――アスカさんのご都合のいいところでお願いします。
「そうね……。それじゃあ……」
そう言って、アスカはレナのアルバイト先の最寄駅を指定した。
――わかりました。よろしくお願いします。
「それじゃあ、またあとで」
――失礼します。
そう言って、レナは電話を切った。
待ち合わせまで、あと二時間。アスカは煙草をふかしながら、自分の格好を見た。事務所で仕事をするには十分だ。けれど、レナと食事に行くには少しダサい。しばし悩んだ後、アスカは一度、着替える為に自宅に戻ることにした。
がちゃりと玄関で音がした気がして、シンゴは書斎から出た。玄関を見ると、明かりが点いていた。アスカが帰って来るにはまだ早い。シンゴは不審に思いながら、恐る恐る玄関の方へと歩いて行った。玄関とリビングを繋ぐドアに手をかけようとした瞬間、ドアが押し開けられた。
「っ……」
シンゴは息を飲み、ドアの向こうの相手を見た。
「びっくりしたぁ……」
アスカはシンゴの予想外の出現に目を丸くする。
「なんだ、アスカか……」
「なんだとは何よ」
「いや、泥棒かと思って……」
「泥棒は電気点けたりしないわよ」
「それもそうだね……」
アスカは胸を撫で下ろしているシンゴをよそに、リビングを通り抜け、寝室へと向かった。しばらく呆然としていたシンゴだが、不思議に思い、アスカの後を追った。
「どうしたの? 何かあった?」
ノックもなしに寝室に入るなり、シンゴはアスカの後ろ姿に向かって言う。
「ちょっと、入って来ないでよ」
アスカは振り向きざまにシンゴを睨んだ。アスカはトップスを脱ぎ、下着姿でワンピースに袖を通そうとしていた。
「ご、ごめん……!」
久々に見る妻の下着姿にシンゴはあたふたとし、寝室のドアをパタリと閉めた。
不意のことだったとは言え、こんなにもドキドキしてしまっている自分にシンゴは驚いていた。
そう言えば、いつからか、アスカとは男女の関係にすらならなくなった。いわゆるセックスレスというヤツだ。いつからだろう、と考えて、シンゴは結婚して、自分が小説を書かなくなった頃からだと気が付いた。
ああ、なんだ。全ての原因は自分にあるのではないか、とシンゴは溜め息をついた。
アスカはワンピースに着替えると、寝室から出て来て、リビングへとやって来た。
「さっきはごめん。まさか、着替えてるとは思わなくて」
「いいわよ。減るもんじゃないし」
だったら、あんなに怖い顔して怒ることないじゃないか、と喉元まで出てきたのを慌てて飲み込んだ。そんなことを言ったって、さっきの怒りをぶり返すだけだということは、長い付き合いでわかっている。こういう時は何も言わないに越したことはない。
「着替えて、どこに行くの? もしかして、男のところとか?」
シンゴは少しおどけて言う。真剣な顔をして言って、重い男だと思われたくなかったのだ。
「バカね。どこの男のとこに行くのよ。レナと食事することになったのよ」
「それで、そんなおめかし?」
「そういうこと」
「さっきの格好でもいいと思うけど……」
そう言うシンゴにアスカはあからさまな溜め息をついた。
「わかってないわね」
「えっ……?」
「男と会う時より、女同士で会う時の方か格好に構わなきゃいけないのよ」
「どうして?」
「どうして……って訊かれると困るけど、そういうものなのよ」
シンゴにはアスカの言っている意味が理解出来なかったが、取り敢えず、それ以上は何も言わなかった。別の質問をしたところで、自分に理解出来るとは思えなかったからだ。
「シンゴは仕事?」
「ああ、さっきまで書いてた。玄関で物音がしたから気になって、書斎から出て来たんだ」
「そうだったんだ。時間になったら、適当に出掛けるから、私のことは気にしないで大丈夫よ」
「ああ、うん」
「あ、そうだ」
「……何?」
「仕事が落ち着いたら、行きたいところがあるんだけど」
アスカの言葉にシンゴは驚いて見る。
「どこに?」
シンゴの問いに答えようとアスカが口を開こうとしたその時、アスカのケータイが鳴った。
「ごめん。もう行くね」
アスカはケータイのディスプレイに視線を落とすと、そう言って、急いで出て行ってしまった。
一体、アスカの行きたい場所とはどこなんだろう? とシンゴは思いながら、ゆっくりと閉まっていく玄関のドアを見つめていた。
アスカは電話にかかってきた声を聞いて、驚いた。
「誰だかわかる?」
その声にアスカは聞き覚えがあった。
――ヒサシだ。
アスカはそう思うと、息が止まりそうだった。
「どうして、この番号を?」
アスカは声をひそめて話した。マンションの廊下は意外に声が響くからだ。
「名刺」声は淡々と言った。
「名刺……?」
鸚鵡返しに問うて、それがどういう意味なのかに気が付いた。
レナだ。レナの持っているアスカの名刺をヒサシは見たのだ。
しかし、それが事実だったとしても、アスカはヒサシが名刺を見た理由を敢えて自分では口にしなかった。場合によっては、カマカケの可能性もあるからだ。
「わからない? いや、君のことだ。ホントのことがわかっていて、黙っているね」
ヒサシは自分より上手かもしれない、とアスカは思った。
「なんのことだか、さっぱり」
「白を切るつもりなのか……。まぁ、いい。取り敢えず、いつものバーで待ってる」
そう言って、電話は切れた。
アスカはケータイを握りしめたまま、溜め息をついた。
やっかいなことになった。
ヒサシが別れさせ屋の自分に気が付いた、ということは、マキコには失敗したことが筒抜けになっているかもしれないし、レナは自分の正体を知ってしまっているかもしれない。
レナからの電話があった直後、ヒサシから電話があるなんて、あまりにもタイムリー過ぎる。もしくは、何か交換条件をつきつけてくるか――。
アスカはレナとの待ち合わせに行きたくない、と思ったが、そうも言っていられない。待ち合わせの時間は迫っていた。もう一度、深い溜め息をつくと、アスカはレナとの待ち合わせ場所に向かった。
アスカが慌ただしく出ていってから、シンゴは再び書斎に戻った。今の自分がしなければならないことは、小説を書くことだ。
この小説をきちんと出版して、再び、作家としての自分を取り戻す必要があった。世間は自分が消えたと思っているかもしれない。けれど、もう一度本を出せば、消えたわけではない、ということを明示することが出来るだろう。
シンゴはひたすらパソコンに向かった。
アスカが浮気をしていない、とわかったことで、心のもやが晴れたのだろうか。今まで以上に原稿は進んだ。
アスカはドキドキしながら、レナを待っていた。こんな嫌な緊張をするのは久々だった。この仕事も長くなり、どこかあぐらをかいてしまっていたのかもしれない。
アスカは帰宅する人たちでごった返す駅の改札前で腕時計に視線を落とした。レナとの待ち合わせまで、あと十分もある。あと十分間もこの緊張感を持ったまま、ここに立ち続けているのかと思うと溜め息が出た。
駅のホームに向かう為、改札を通って行く人たちを見ながら、なんだか羨ましかった。これから二つも仕事をこなさなければならないのだ。アスカはもう一度溜め息をつく。嫌なことから逃げたいという気持ちの溜め息というよりは、自分の気持ちを落ち着かせる為の溜め息のようにも感じられた。
「すみません。お待たせしてしまって」
前から小走りで近づいて来たレナは、アスカの前に着くなり、申し訳なさそうに言った。
「さっき来たばかりだから、大丈夫よ」
実際、本来の待ち合わせ時間にはまだなっていなかった。
「行きましょうか」
アスカはレナに言うと、歩き出した。
中華レストランに向かう途中、レナといろんな話をしたけれど、アスカは上の空でろくに話を聞いていなかった。きちんと会話が成立していたのか、ふと気になる。
「ここ……ですか?」
思わず通り過ぎそうになったアスカの腕を取り、レナは言った。
「う、うん。そう。ここよ」
「ふふっ、アスカさんがぼーっとしてるなんて珍しいですね」
「そうね……。最近、仕事が忙しいからかな」
「お仕事のしすぎはダメですよー? 体調崩しちゃったら、元も子もないですから」
レナは笑顔でアスカを見る。この屈託のない笑顔を見ていると、アスカはレナは何も気が付いていないのだ、と思った。もし何もかも知っていて、こんな笑顔を向けられているのだとしたら、レナのしたたかさは大したものだ。不倫だって、納得がいく。けれど、レナはきっとそんな子じゃない、とアスカは思いたかった。
中華レストランの重いドアを開けると、赤を基調とした店内が見えた。すぐさま、ウェイターがやって来て、人数と喫煙の有無を訊いた。アスカの返答を聞くと、ウェイターは歩き出す。アスカとレナもそれに続いた。
アスカとレナが通されたのは、比較的静かな奥の席だった。席に着こうとした瞬間、視線を感じて、アスカは立ち止まる。すると、一人の男がこちらをじっと見据えていた。
「ユウキ……」
レナは目を大きく見開いて、ぽつりとつぶやいた。
「知り合い?」
「はい……。幼馴染で……」
しかし、その様子は明らかにただの幼馴染という感じではなかった。アスカはレナとユウキの顔を交互に見る。二人とも言葉を発しない。
視線を先に反らしたのは、レナの方だった。
「ごめんなさい。座りましょう」
レナに言われて、アスカは黙ったまま、頷くと席に着いた。
「いいの? 挨拶しなくて」
アスカに言われて、レナは左右に頭を振った。
「いいんです。関係ありませんから」
「……」
関係ないと言うわりには、随分動揺していたように見えたけれど、アスカは敢えて、その話題には触れなかった。
レナの幼馴染とは少し離れた席に着いた為、こちらの会話が聞こえることはないだろう。けれど、やはり、レナは視線が気になるようで、たまに幼馴染の方をちらちらと見ていた。
アスカとレナは思い思いに注文をして、シェアすることにした。料理が運ばれてくる前に飲み物がすぐに運ばれて来た。二人の注文したのは、ビールだった。
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アスカはバーのドアを開ける。ドアベルが静かに鳴った。
バーに一歩足を踏み入れた瞬間、懐かしさが込み上げてくる。薄暗い店内の中、アスカはヒサシを探した。
入口付近から、店内を見回して、アスカはカウンターに見慣れた後ろ姿を見つけた。隣には誰もいない。幸い、ヒサシは一人のようだった。
アスカは高鳴る胸を抑えつつ、ヒールの音を小さく響かせながら、背後からヒサシへと近付く。気配を感じ取ったのか、ヒサシが振り向いた。
「……」
ヒサシは息を飲む。まさか、という顔をして、アスカを見上げた。
「お久しぶりです」
アスカは言った。戸惑いもあったけれど、微かに微笑んで見せる。
「ああ、これは驚いた」
口では「驚いた」と言いながらも、ヒサシは余裕の表情でアスカを見た。
「隣、いいかしら?」
アスカは少しドキドキしながら言う。
「勿論。どうぞ」
ヒサシはにこやかに席を勧めた。
アスカが席につくと、女の子がお通しを運んできた。アスカは受け取ると、モスコミュールを注文する。アスカが辞めた後、別のバイトの女の子が入ったらしい。
モスコミュールが運ばれてくるまで、アスカもヒサシも無言だった。
しばらくして、モスコミュールが運ばれてくると、アスカとヒサシは軽く乾杯をする。グラスとグラスがぶつかる小気味よい音は、店内の騒がしい音にかき消されてしまった。
「こんな偶然があるとはね。それとも、偶然を装った必然?」
アスカはさすがに鋭いな、と思った。ヒサシはアスカがやって来たことを偶然だなんて思ってはいない。わざわざ、自分に会いに来たと思っているのだ。
それはヒサシ自身の自信から来るものなのか、はたまた、アスカの正体を見破ってのことなのかはわからない。どちらにせよ、アスカは心して接しなければならないと思った。
「ご想像にお任せするわ」
アスカは一口モスコミュールを飲んで言った。
「今日は女の子と一緒じゃないの?」
「ああ、いつも一緒っていうわけじゃないよ」
「あら、てっきり、いつも一緒なのかと」
「一人で来ていたことがあるのも、知っているだろう?」
「それは約束をすっぽかされたからじゃなくて?」
「はは、手厳しいなぁ」
ヒサシは楽しそうに笑った。
「君がここに来たということは、何か俺に用があるんじゃないの?」
ヒサシは平然と言った。無駄な話はしたくないようだ。
「察しがいいわね」
「それなりにね」
「コートをそろそろ返してもらおうと思って」
ヒサシははっとする。
「私がお酒をこぼして、汚してしまったコートは、クリーニングして、もう渡してあるでしょう? だけど、あの時、私があなたの女性に貸したコートはまだ返してもらえていないの。別のコートはあるけど、あれお気に入りだったのよね」
「ああ、それはすまなかった。早急に返してもらうようにするよ」
「そうしてもらえると嬉しいわ」
「用件はそれだけ?」
「ええ。他に何かあるかしら?」
「やっと俺の誘いに乗ってくれる気になったのかと」
ヒサシの言葉をアスカは思わず鼻で笑う。
「そうね。少し前の私なら、あなたの誘いに乗ったかも」
「本当かなぁ。君は一度だって、俺の誘いには乗ってくれなかった」
「そうね。その必要がないと思ったからじゃないかしら」
アスカは残りのモスコミュールを一気に飲み干すと、席を立った。
アスカが「チェックを――」と言いかけたのをヒサシが制する。
「今日は俺がご馳走するよ」
「それじゃあ、遠慮なく」
アスカはそう言って、立ち上がる。
「そうそう、コートはバーのマスターに預けてもらえればいいから」
「ああ、わかった。一週間後には受け取ってもらえるようにしておくよ」
「よろしくね」
アスカはにっこり微笑むと、ヒサシに背を向け、歩き出した。
ドアに向かって歩くアスカのヒールの音が雑音に消えていく。
アスカはドアの取っ手に手をかけた。
シンゴは少し離れた席でアスカとヒサシの会話を全て聞いていた。
“君は一度だって、俺の誘いには乗ってくれなかった”とヒサシはアスカに向かって言っていた。ということは、以前、シンゴが尾行し、ヒサシと一緒にラブホテルに消えていったのは、アスカではないということになる。だったら、あれは一体誰だったのだろう。シンゴは数分のうちにいろんな可能性を探った。そして、アスカの“コートをそろそろ返してもらおうと思って”という言葉で真相に気が付いた。シンゴがアスカだと思っていたあの女性は、アスカのコートを着た別の誰かだったということだ。
シンゴはずっとアスカがヒサシと浮気をしていると思っていた。だから、何度も尾行をしたし、悩みもした。けれど、アスカは浮気などしていなかったのだ。
一時期、アスカの様子は少しおかしかった。きっとヒサシに恋をしていたのは確かだろう。だが、彼女はあと一歩のところで踏みとどまっていたのだ。ヒサシは言っていたではないか。“やっと俺の誘いに乗ってくれる気になったのかと”と――。
アスカはヒサシに誘われていながらも、ヒサシの誘いは乗らなかったということだ。アスカはシンゴを裏切ってなどいなかった。その事実にシンゴは安堵し、それと同時に罪悪感を覚えずにはいられなかった。
シンゴは頼んだドリンクを半分も飲んでいなかったけれど、立ち上がった。家に帰らねば、と思ったのだ。
シンゴが家に着くと、アスカがシャワーを浴びているところだった。
アスカと顔を合わせたら、一体、どんな顔をしたらいいのだろう、と思った。良い案は浮かばない。速く打つ鼓動にシンゴはさまざまな思いを巡らせた。
「あれ? 帰ってたの?」
しばらくすると、アスカがバスタオルで髪を拭きながら、リビングへとやって来た。
「うん、ただいま」
「あら、シンゴも飲んで来たのね」
「たまにはね」
「私も久々にいっぱい飲んじゃった。シンゴもお風呂入ってきたら?」
「ああ」
シンゴはアスカからの質問に簡単な相槌を打つことしか出来なかった。
取り敢えず、熱いシャワーを浴びて、考えようと思った。
「ねぇ、飲み直さない?」
シャワーを浴びて、リビングにやって来たシンゴにアスカは言った。
「明日、仕事なんじゃないの?」
「いいわよ、休むから」
「そんな……所長がそれでいいの?」
「いいの。むしろ、所長だからいいのよ。たまには休まなきゃ」
「それなら、付き合うよ」
「そうこなくっちゃ!」
アスカは嬉しそうに言うと、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを二本取り出した。
アスカはグラスにビールを注ぐと、ソファに座っているシンゴに手渡す。
「結構、飲んできたみたいだけど、飲んで大丈夫なの?」
シンゴは心配そうにアスカに訊いた。
「平気よ。まだ飲み足りないんだもの」
「それならいいんだけど」
アスカとシンゴはグラスを傾けて乾杯する。グラスの中に入っている泡が大きく揺れた。
一口ビールを飲むと、アスカは溜め息とは異なる息を大きく吐いた。
「今日ね、レナと会って来たの」
「どうだった?」
「不倫をやめさせる方向で決着したわ」
「良かったじゃない」
全部近くで見ていたよ、とはさすがに言えず、シンゴは初めて知るような素振りを見せる。
「だけど、まだ安心は出来ないわ。あの子がホントに別れ話を切り出すか、切り出したとして、ターゲットに丸め込まれないか……」
「まだ心配な点はあるってことだね。でも、仕事の半分以上はすでに終わったってところかな?」
「そうね。もしこれでダメだったら、ターゲットに再接触して、ターゲットを私が落とすって方向に切り替えるしかないわ」
「そうならないように祈ってるよ」
「ありがとう」
アスカとシンゴはその後、他愛ない会話を続けた。そして、その会話の最中にアスカの言った「飲んでないとやっていられないのよ」という言葉にシンゴは言いしれぬ不安を感じていた。
シンゴが起きた頃には、アスカはすでに仕事に行っていた。壁に掛かっている時計はすでに十一時を指している。朝ご飯を食べるには遅すぎて、昼ご飯を食べるには早すぎる。
取り敢えず、顔を洗い、冷蔵庫から牛乳を取り出すと、なみなみとコップに注いだ。
シンゴはコップを持ったまま、ソファに座ると、テレビをつけた。
昼のワイドショーが始まったところだった。テレビでは相変わらず、芸能人のゴシップが取り上げられている。芸能人というだけで、好奇の目にさらされるというのは、可哀想だな、と思う同時に、有名税にしては高すぎるだろう、とも思う。のんきにそんなことを思いながら、シンゴは牛乳を飲み、ぼんやりと昨日のアスカとの会話を思い出していた。
アスカは上機嫌でありながら、どこか冷静でもあった。まだ喜ぶには早い、というのが長年この仕事をしてきたアスカの感想なのだろう。
けれど、シンゴにとっては、半分くらいはどうでもいいことだった。
シンゴにとっては、アスカの仕事の成功よりも、アスカが浮気をしているか、していないかの方が重要だったし、興味のあることだった。
アスカは浮気をしていなかったのだ。それだけで随分シンゴの気持ちは救われた。これでアスカとシンゴの離婚はないということだ。離婚しなければいけないと思っていた理由はシンゴの勘違いだったのだ。
今ここでアスカを失うのは避けたかったし、最悪のシナリオは免れたのだと思うと嬉しかった。
けれど、手放しで喜べないという気持ちもあった。
アスカが言った通り、レナがターゲットに丸め込まれたら、アスカがターゲットを落としにかからなければならないのだ。そうなれば、疑似恋愛をすることになる。アスカは仕事とは言え、ターゲットは本気になるだろう。ともすれば、アスカだって、なびいてしまうかもしれない。
シンゴはどこまでも自分に自信がないのだということに溜め息をつきたくなった。
冴えない自分。特にこれといって、男として誇れることがないということに、落胆はしても、開き直ることなど到底出来なかった。もし開き直れれば、どんなに楽だろうか、とも思っていた。
シンゴはテレビの電源をリモコンで切ると、飲み終えたコップをシンクに置く。水道の蛇口をひねり、置いたコップに水を注いだ。牛乳は時間が経つと、白く残って、落ちにくくなる。そのまま、洗ってしまえば良いのだが、なんだか今は洗い物をする気にはなれなかった。
冷蔵庫にあったアイスコーヒーを別のグラスに注ぐと、それを持って書斎へと向かう。
書斎の電気を点け、椅子にどっかりと腰を下ろすと、パソコンの電源を入れた。パソコンを立ち上げている最中、シンゴは自分の書くべきことを頭の中で整理する。
小説を書くにあたって、難しいことは何もない。自分の経験したこと、見たことを言葉に置き換えれば済む話だ。勿論、そこには自分のフィルターを通した感情やモノの見方などが反映される。実話を元にはしているけれど、実話だけをたらたらと書き綴ったところで小説にはならない。そこにはいくつかのエッセンスが必要だった。
シンゴは立ち上がったパソコンから書き途中のデータを開くと、キーを打ち始めた。
もうすぐ小説が書き終わる。
アスカの仕事がここで終われば、の話だけれど。
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「……それがどうかした?」
シンゴは視線を遠くにいるアスカから動かさずに言う。
「いえ、シンゴさんの敵と俺の敵は一緒なんだなって思って」
敵? シンゴはその言葉に違和感を覚えた。
確かにアスカが浮気をしていることは許せるようなことじゃない。けれど、相手の男を敵だと思ったことはなかった。浮気をしている妻を責めたい衝動に駆られることはあっても、相手の男に対して、憎悪に似た感情もなければ、責め立てたいとも全く思わなかった。
理由は自分でもよくわからない。ただアスカに裏切られた、という事実がシンゴをひどく傷つけていた。
「シンゴさん……?」
黙りこくるシンゴにユウキは不安そうな表情を見せる。
「ああ、ごめん。つい考えごとを」
「そうですよね……。今から、浮気相手に会おうっていうんですから、平常心でいられないですよね……」
「それは君も同じじゃないのか?」
「ええ、だからこそ、シンゴさんの気持ちがわかるんです」
ユウキは苦悩に満ちた顔で俯いた。
ユウキにはああ言ったものの、シンゴは然して動揺も緊張もしていなかった。それは今回会うのが初めてだからではないということと、ある程度の覚悟が出来ているからだろう。アスカとターゲットが浮気をしているのが確かならば、アスカはきっと別れを切り出すだろう、とシンゴは思っていた。その時、如何にさりげなく受け入れるかがシンゴの手腕にかかっていた。男のプライドとも言える。
本当は全てを知っていた。知っていて、知らない振りをし続け、自分のところに戻って来るなら、寛大な心で受け入れ、出て行くというのなら、快く送り出す。シンゴは考えに考え抜いて、これが一番スマートな対応だと思ったのだ。
本心は縋りたい。縋って戻って来てくれるなら、プライドなんて捨てて、縋ってやりたいとも思った。けれど、そんなことをしたって、ますますアスカが離れていくだけだ。それをわかっていたシンゴは、アスカが一番心苦しい方法を取ろうとしているとも言えた。
縋られれば鬱陶しくも思うだろうが、あっさり受け入れられてしまったら、その呆気なさに心は乱されるに違いない。
シンゴにはほんの少しだけそんな打算もあった。
悩み、苦しめばいい――。
ほんの、ほんの少しだけ、そんなことを思っていた。
シンゴは自分の考えの底意地の悪さに苦笑してしまいそうになる。
けれど、結婚という契約をした上で、その契約を破ることが一体どういうことなのか、今一度、アスカには考えて欲しかった。あまりにも無責任すぎる、となじりたい気持ちもあった。
別れてからの恋愛は自由だ。どうせ、恋人を作るなら、自分と別れてからにしてくれればいいのに、とも思った。そう思うものの、アスカはきっと今じゃないとダメなの、と言うのだろう、ということがシンゴには容易に想像がついてもいた。
もし結婚さえしていなければ、今ほど、腹も立たなければショックも受けなかっただろう。結婚さえしていなければ、別れるのは簡単だ。面倒な書類の手続きもいらなければ、財産分与で揉めることもない。
「何、話してるんでしょうね?」
ユウキはアスカとレナをちらちら見ながら言う。レナは俯き、アスカは両肘をテーブルにつけて、レナを心配そうに見ていた。
「核心に触れる話……かな」
「……そうかもしれませんね」
シンゴは早く切り込んだな、と思ったけれど、二人のあの様子を見ていると、核心に触れていると考えるのが妥当だとも思った。
「レナは……別れるんでしょうか……」
ユウキは下を向き、つぶやくように言った。
「別れると思うよ。アスカは別れさせるのが仕事だから」
「でも……俺がいくら言っても、レナは不倫相手と別れなかったんですよ……」
「だから、プロが別れさせようとしているんじゃないか」
「……」
「アスカは何があっても、別れさせるつもりだよ。相手の奥さんのこともあるし」
「そうですよね……。でも……」
ユウキは言いかけてやめた。シンゴは「でも、シンゴさんの奥さんはその不倫相手と浮気してるんですよね?」という言葉が続くとわかっていた。けれど、シンゴはそのことに敢えて触れなかった。
レナはしばらく俯いた後、しっかりと顔を上げた。
「私……別れた方がいいかなって……そう思ってるんです」
レナは泣き出しそうなのを堪えながら、切れ切れに言葉を紡ぐ。
「そう……。よく考えたわね……」
アスカは内心ガッツポーズを取っていたものの、表面的にはレナに同情するような素振りを見せていた。
これでレナがヒサシと切れてくれれば、アスカの仕事は無事終わる。マキコの依頼は完遂出来たことになる。
「アスカさんと話をしていて、元々、自分でも不倫なんて良くないなって思ってたから……。だから、私……やめようかなって……」
アスカはレナの話を静かに聞いていた。
「だけど、私、彼がいなくなってしまったら……って思うと怖くて……」
「わかるわ」
アスカは間髪入れずに言った。レナは少し驚いたようにアスカを見る。
「彼がいなくなってしまうことで、自分が壊れてしまうような、そんな不安……。それから、どんな素敵なことがあっても嬉しいとか幸せだとか思えないんじゃないかっていう不安……。いろんな不安が心の中に渦巻くのよね」
アスカは視線をテーブルの上へと落とした。
「……」
レナはアスカの言葉を聞いて、胸がいっぱいになってしまったのか、涙ぐみながら、その涙を零さないように天井を見上げた。
「だけどね、そういった不安って、不倫をやめようとしているから感じるものかしら?」
「え……?」
「どんな恋愛も終わりに向かっている時はそういった不安を感じるんじゃない? そうした不安に耐えたり、時に飲みこまれたりしながら、それを乗り越えられた時に新しい恋愛をするんだと、私は思うな」
アスカはそこまで言うと、にっこり微笑んで、レナを見た。
レナはまだ少し驚いたような表情でアスカを見ている。その表情はアスカの言ったことを理解することだけで精いっぱいのように見えた。
「だから、あなたが感じている不安は、不倫から来る不安ではないと思うの」
「……確かにアスカさんの言う通りかもしれないですね……」
「きっと大丈夫よ。別れた時は寂しくても、時間が癒してくれるはずだわ」
アスカは月並みなセリフだと思いながらも、それ以上の気の利いた言葉を思いつくことも出来ずに言った。
「時間が解決してくれるなら、私も立ち直れるんでしょうか……」
「ええ、あなたにしっかり覚悟があるなら大丈夫なはずよ」
「私、頑張ってみます。彼に、さよならを……言ってきます」
「彼とちゃんと別れられたら、飲みに行きましょう」
「えっ……」
「新しいスタートを切るんだもの。お祝いが必要だわ」
「アスカさん……」
レナは瞳を潤ませて、アスカを見た。アスカは穏やかに微笑み、レナを見据える。
「彼と別れたら、アスカさんに連絡しますね」
「ええ、連絡待ってるわ」
アスカは通りすがりの店員を呼び止めると、ドリンクを頼み、レナは追加で料理を頼んだ。
さっきまでの胸の閊えが嘘のようにレナは楽しそうにアスカと他愛ない話をし始める。
これからのことをレナはどう考えているのだろうか。アスカは少しの不安と心配を持ちながら、レナを見ていた。
彼女を受け止める誰かがいればいい。けれど、もしいないのだとしたら、自分が受け止める誰かになろう、とアスカは決めていた。仕事でレナと接触しただけなのだから、そんなことをする必要は全くない。しかし、アスカには真っ直ぐなレナを放っておくことなど出来なかった。
「なんだか和気藹々としてますよね……」
「表情がころころ変わって、どんな話をしているのか、どういった結果になっているのか……。確かにわかりづらいね」
シンゴは飲みながら、アスカとレナの様子を見ていた。
きっと話は終わったのだろう、とアスカの顔を見て思う。けれど、ユウキには敢えて何も言わなかった。シンゴにとっては、これからが本番なのだ。時間が過ぎていくに従って、落ち着かない気持ちをユウキに悟られまいとするので精一杯だった。
「この後、レナが奥さんと別れたら、レナの後をつけようと思います」
「不倫相手と会うかもしれないから?」
「はい……。もし会っていたら、止めようと思うんです」
「それはやめた方がいいよ」
「えっ……」
ユウキはシンゴの言葉に驚き、グラスを持とうとした手を止めた。
「どうしてですか?」
「もし、今日、彼女が不倫相手と会ったなら、それは別れ話をする為だからだよ」
「でも……」
「折角の別れ話の機会を自分で潰してしまっていいの?」
「それは……」
「アスカは必ず彼女と不倫相手を別れさせてくれるから、心配はいらないよ」
シンゴの言葉にユウキは驚いていた。
「シンゴさんは、奥さんのことを信用しているんですね」
「信用?」
予想外の言葉にシンゴは鸚鵡返しに問うた。
「だって、そうでしょう? 奥さんが必ずレナと不倫相手を別れさせるなんて……。奥さんを信用していなかったら。言えないことですよ」
「……」
「てっきり、シンゴさんは奥さんを信用していないんだと思ってました。不倫してるって、本当は思っていないんじゃないですか?」
「不倫してないって思ってたら、尾行なんてしないよ」
「不倫していないってことを確かめたいから、尾行しているように俺には見えます」
「……」
ユウキの言葉にシンゴは戸惑った。確かに何度も不倫をしていなければいいな、とは思った。けれど、状況を見れば、不倫をしていると思えることだらけだ。不倫をしていない、と思うのは、現実逃避以外の何ものでもないとシンゴは思う。
「不倫されていなければどれだけいいか……。でも、見ちゃったんだ。アスカが不倫相手とホテルに入って行くところ。今でも忘れられないよ。真っ白なコートの白色が鮮やかだった」
シンゴは嫌な記憶を振り払うようにかぶりを振った。
思いは加速していく。嫌なほど、好きという感情が走って行く。けれど、加速したものはいずれ減速し、やがて止まるように出来ている。同じスピードが続くことは決してない。
アスカは加速していく気持ちに気付いた時、いつか止まってしまう時が来ることを恐れ、そして、安心してもいた。
自分にはシンゴがいる。いつまでも、別の誰かを思い、追いかけようとしていいわけなどなかったのだ。結婚は契約だ。けれど、一番簡単に破棄してしまえるものでもあった。否、簡単に破棄してしまう人は、結婚が一つの契約である、ということをそもそも認識出来ていないのだろう。認識出来ていたとしたら、浮気なんてするはずがないのだ。
アスカはレナと別れると、一路バーへと向かった。以前、バイトをしていたあのバーだ。ヒサシがいるのかどうかはわからない。賭けだった。けれど、行かずにはいられなかったのだ。
電車に乗り、歩きなれた道を歩く。夜の風が冷たかった。アスカはぼんやりと灯る街灯に照らされながら、道を急いだ。その後ろにシンゴの姿があることに、アスカは気が付かない。
それぞれの思いを交錯させながら、二人は夜の道を急いでいた。
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