小説「サークル○サークル」01-131~01-140「加速」まとめ読み

「おかえり」
 何食わぬ顔でシンゴは帰宅したアスカを出迎えた。
「こんな遅くまで起きてるなんてどうしたの? もう寝てると思ってたわ」
「仕事をしてたんだ」
「小説の?」
 アスカは驚いたように言う。
「そうだよ。依頼が来たんだ」
「良かったじゃない。これでまた小説が書けるのね」
 アスカは嬉しそうに微笑んだ。アスカのこんな顔を見られることは滅多にない。シンゴは心の底から嬉しかった。幸せな気持ちのまま、今日を終わろらせようかと思ったけれど、やはり気になってしまい、訊くことにした。
「最近、仕事はどうなの?」
「仕事? いつも通りよ」
「ターゲットとは接触出来てる?」
「それは勿論。お風呂入って来るわね。まだ起きてるなら、あとで一緒にビールでも飲みましょう」
「大丈夫なのかい? こんな遅くに飲んで」
「大丈夫よ。今日はそんなに飲んで来てないし。あなたの仕事の再開を祝いたい気分なの」
 アスカはそう言って、風呂場へと消えていった。
 ターゲットとの接触について、アスカは詳しく喋らなかった。それはシンゴを心配させまいとしているのか、それとも、やましい気持ちがあるからなのか。アスカに訊かなければわからないことだった。でも、シンゴに訊くことは出来ない。きっと両方なのだろう、とシンゴは思うことにした。
 
 
 アスカは上機嫌だった。それもそうだろう、とシンゴは思う。主夫に徹していた夫がやっと重い腰を上げ、仕事を始めたのだ。少なくとも、出会った頃のように作家として小説を書くことをアスカはずっと望んでいたのだ。それを知りながら、アスカが何も言わないことをいいことに、シンゴはアスカに甘え続けていた。
「本当に良かったわ。小説の依頼が来て。あなたは小説を書いているのが一番似合ってる」
 アスカは気持ち良さそうに酔いながら、嬉しそうに言う。シンゴが嬉しくなるような言葉を口にするけれど、シンゴは本嫌いのアスカから作品の感想をもらったことなど一度もなかった。
「ありがとう。僕も小説を書ける環境をもらえて、本当に安心しているよ」
 祝われているのだから、と思い、シンゴは当たり障りのない返答をする。さっきから、ずっとビールを飲んでいるのに、なかなか酔えない。どうしても、アスカがヒサシに言い寄られているシーンが過ぎってしまい、アルコールに浸れないのだ。
「苦労をかけてしまってごめん」
 シンゴはビールの入ったコップを置いて言う。その神妙な面持ちにアスカは面食らっているようだった。
 
 
「どうしたのよ。急に」
「いや、不甲斐ない夫だったなって思って」
「そんなことないわ、って言ってあげたいけど、それは言えてるわね。でも、いいじゃない、また小説を書くことになったんだから」
「もうこれからは心配かけないから」
「大丈夫よ。最初から心配なんてしてないから。ただ困った夫だな、って思ってただけよ」
 歯に衣着せぬアスカの言葉にシンゴはぐさりぐさりと心を刺されるような思いがしたが、自分の蒔いた種なので仕方がない。
「でも……いつも家事を一生懸命やってくれて、とても感謝してるわ。あなたも仕事が忙しくなるだろうし、昔みたいに分担しましょう」
「えっ……」
「何か不満?」
 意外なアスカの申し出にシンゴは間の抜けた声を出す。アスカの愛情がヒサシに向かいつつあると思っていただけに、予想外だった。
「ありがとう。そうしてもらえると、僕も助かるよ」
「でも、料理はお願い。私より、あなたが作った方が何倍も美味しいわ」
「わかったよ。今まで通り、夕飯作って待ってるから」
「ありがとう」
 シンゴは夫婦らしい会話をしている自分たちにホッとしていた。
 これでこそ、夫婦だ。
 そう強く思った。
 きっと夫婦らしい会話が消えていったのは、いつまでも腐って、小説を書こうとしなかった自分に原因があると思った。ここから、どうやって、巻き返していくかが肝心だ。ヒサシにアスカを取られたくない。シンゴはより一層、そう強く思った。
 
 
 それからしばらくの間、シンゴはアスカの尾行を続けた。けれど、あれ以来、ヒサシがアスカを強引に口説こうとするシーンに出くわしたことはなかった。アスカはシンゴの仕事の依頼の話を聞いてから、ずっと上機嫌だったし、何も不安に思うことなどないような気もしていた。けれど、現実はそんなに甘くない。シンゴは自分の目に飛び込んできた光景を見て、息を飲んだ。
 ヒサシが店から出て来るのと同時にアスカも出て来る。店はまだ閉店の時間ではない。見送りかと思ったけれど、様子がおかしい。アスカがコートを着ているのだ。
 ヒサシとアスカは仲良さそうに並んで店を出ると、繁華街の奥へと消えていく。
 嘘だろ……? とシンゴは思った。慌てて、自転車に乗って、二人の消えていった方向へとひた走る。
 二人の後ろ姿を見つけ、自転車を路肩へ止めると、気付かれないように後をつけた。
 シンゴの祈るような思いとは裏腹に、二人はホテルの前で立ち止まると、辺りを確認しながら、ホテルの中へと入っていった。
 
 
 ホテルに入ったのは今なのだから、すぐに二人のところに行き、ことに及ぶ前に止めることも出来る。けれど、シンゴにはその勇気がなかった。今更自分が二人の元へ行って、何を言えばいいのだろう。すでにアスカの気持ちがヒサシに向いていれば、何を言ったところで後の祭りだ。
 今まで、アスカを散々がっかりさせてきたのは自分だ。アスカが他の誰かに心を奪われても、文句なんて言いようがないことも自覚している。けれど、こんなにもあっさりと別の男のところに行かれると、立つ瀬がないとも思った。
 シンゴは複雑な気持ちを抱えたまま、しばらく、ホテルの入口を見つめていた。ひょっこりアスカが出て来るのではないか、と期待すらした。けれど、いくら待ってもアスカが出て来る気配はない。泣きそうになるのをぐっと堪えて、シンゴは踵を返す。
 シンゴは自転車を止めた場所まで戻ると、自転車に乗り、ゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。
 その日の夜、アスカは帰って来なかった。
 
 
 夜が明けるまで、シンゴはリビングのソファでアスカを待ち続けた。けれど、やがては睡魔に負けて寝入ってしまった。目が覚めれば、アスカの姿があるかと思ったけれど、アスカはいなかった。家に帰宅した形跡もない。
 あの時、ホテルに入るのを止めていれば、とも思ったが、今更そんなことを思っても後の祭りだ。昨日の夜も思ったことだが、あの時、止めていたからと言って、アスカの気持ちがシンゴの元に戻ってくるわけではない。場合によっては、別れを告げられる可能性だってある。それならば、何も言わず、何もせず、ただ真っ直ぐに家に帰り、アスカが帰ってくるのを待った方がいい。そう結論づけたはずだった。けれど、シンゴの口からは溜め息が漏れる。
 ソファで眠っていた所為であちこちが痛い。寝返りもろくに打てない状況が肩こりと腰痛を増進させたような気がしていた。
 一つ大きな伸びをして、そのまま風呂場へと向かう。ぼんやりとしたままの頭で、シンゴは熱いシャワーを浴びた。憂鬱な朝の始まりだった。
 
 
 アスカは事務所の机の上に足を上げ、書類に目を通していた。昨日、バーでの仕事が終わると、すぐに事務所に戻り、書類の整理をしていた。マキコからの依頼以外にもエミリーポエムには様々な依頼が舞い込んでくる。アスカ以外の従業員が担当している案件であっても、所長であるアスカが確認をしないわけにはいかない。たまたま、バーでの潜入と書類のチェックの日程がかぶってしまったのだ。家に連絡も入れず、事務所に直行したことで、シンゴが心配しているかもしれないな、と煙草に火を点けながらアスカは思った。
 電話でもしようかな……と思ったものの、仕事をしていたら邪魔はしたくない、と思い、結局、シンゴに電話はかけなかった。
 アスカは煙草の煙を天井に向かって吐き出しながら、昨日の夜の出来事を思い出す。
 バーで仕事をしていたら、いつものようにヒサシが女連れでやって来た。自分のことを誘っておいて、別の女と店に来るなんていい度胸をしているな、と思ったのも束の間、やはり動揺していたようで、アスカは普段しないようなミスをした。
 
 
 ヒサシが連れてきた女のコートにカクテルを零してしまったのだ。コートをハンガーにかけず、膝の上に置いていた為、カクテルでその大半が濡れてしまった。アスカは丁寧に謝ると自分のコートを女に渡した。後日、カクテルで汚れてしまったコートをクリーニングに出して返すので、今日はそのコートを着て帰って下さい、とアスカが提案したのだ。
 女は最初遠慮していたものの、コートなしではとてもじゃないけれど、外は寒くて歩けないし、アスカの申し出を受けることにした。
 おかげでアスカはバーでの仕事を終えると、寒い中、コートも着ずにタクシー乗り場へと行き、そのまま事務所に向かったのだった。
 漸くに朝になったので、コートをクリーニングに持って行くことが出来るな、と思う。アスカはカクテルで汚れたコートを横目で見て、溜め息をついた。
 クリーニングに出したら、そのまま、帰宅して、一眠りしようと思い、立ち上がる。
 アスカは煙草の火を消すと、コートを紙袋に入れ、事務所を後にした。
 
 
 アスカはコートをクリーニングに出すと、急いで家に帰った。けれど、すでにシンゴの姿はなかった。きっとどこかに息抜きにでも行っているのだろう、と思い、アスカはシャワーを浴びに行く。
 人を好きになることで気持ちがこんなにもやもやすることがあるなんて、今までのアスカは知らなかった。いつだって、恋愛を客観的に見て、涼しい顔をして、対峙してきたのだ。けれど、ここに来て、ヒサシと出会い、余裕がなくなっていった。本来の恋愛の形がこうであるのならば仕方がないことなのかもしれないが、アスカにとっては、自分のペースを乱されたような気がして、癪に障る。しかし、この状況に抗えないのも確かだ。
 熱いシャワーを浴び、バスルームから出ると、用意していた洋服へと袖を通す。今日はバーの仕事は休みだ。このまま、今日は事務所に顔を出す必要もない。たまには料理をするのもいいかもしれない、と思ったアスカは髪を乾かすとそのままスーパーへと向かった。
 
 
 シンゴは落ち込んでいた。あの時、やっぱり止めておけば良かった、と何度も後悔の念が頭を過る。しかし、今更後悔したとて、遅いのも事実だった。
 公園のベンチで一人寂しくぽつんと座っているシンゴの溜め息だけが、冷たい空気に溶けていく。今日何度目かの溜め息をついた時、隣に気配を感じた。ユウキだった。
「どうしたの?」
 シンゴは隣に座ったユウキを見て言った。
「それはこっちのセリフですよ。どうされたんですか? 溜め息ばっかりついて」
「あぁ、見られてたんだ」
 シンゴは苦笑しながら、前を見た。だだっ広い公園はがらんとしていて、なんだか寂しく感じる。
「何かあったんですか? 話くらいなら、俺でも聞けますよ」
 ユウキは心配そうにシンゴの顔を覗く。
「これ、どうぞ」
「ありがとう」
 ユウキがコンビニで買ってきた温かい缶コーヒーをシンゴは受け取ると、プルタブを引っ張った。温かな液体が身体の中を流れていく。シンゴはほっと一息つくと、話し出した。
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小説「サークル○サークル」01-121~01-130「加速」まとめ読み

時計を見ると、そろそろバーに向かわなければならない時間だった。憂鬱な気持ちのまま、アスカは身支度を整える。今日はラストまでいる日だった。事前にシンゴには食事はいらないと言って出てきている。帰ってから食べることも考えはしたが、夜中に食事をして、そのまま眠ってしまうのは太る為の儀式でしかない。体型維持の為にも休憩中に軽くすませるつもりでいた。

バーには人がまばらにいるだけだった。時間も深まっていき、日付が変わろうとしていた。今日はまだヒサシが来ていない。この時間になっても来ないということは、今日はもう来ないのだろう。そう思って、諦めていた時にドアが開いた。期待に胸を膨らませて、ドアを見ると、少し疲れた顔をしたヒサシが入ってくるところだった。眼鏡の奥の瞳は床を見つめている。ヒサシがふと顔を上げるのと同時にアスカはヒサシと目が合った。
ヒサシは疲れを感じさせないように笑顔をアスカに向ける。それだけで、アスカの胸は高鳴った。これが恋でなければ、なんだというのだろう。アスカはカウンターに近づいて来るヒサシにとびきりの笑顔を向けていた。

「いらっしゃいませ。もう今日は来られないのかと思っていました」
アスカは少し頬を紅潮させ、ヒサシを見上げた。そんなアスカを見て、ヒサシは満足げに口元を綻ばせる。
「それは私が来るのが待ち遠しかったって、解釈してもいいのかな?」
言われて、アスカはドキリとした。確かにヒサシの言葉の通りだったが、それを認めてしまってはいけないと思った。ヒサシとの接触はあくまで仕事だ。今の一言を認めることは、仕事ではなく、恋愛感情を認めることになる。勿論、今の一言を仕事として肯定することは出来る。けれど、すでに仕事ではなく、恋愛としてヒサシとの関係を築きかけているアスカにとっては、そのような肯定の仕方が一番難しかった。
アスカはヒサシから視線を外し、躊躇いがちに口を開いた。
「えぇ」
一瞬の間に計算し、答えを見つけ、アスカは返事をする。その答えには仕事以外の意味合いも含まれていた。
「それは嬉しいね」
「何になさいますか?」
「いつもので」
アスカはいつものようにオーダーを取ると、マスターに告げた。マスターから渡されたバーボンをヒサシの元へと運ぶ手が微かに震えている。アスカはそんな自分に内心苦笑した。今更、恋くらいで緊張してしまうなんて、馬鹿みたいだと思った。

「お待たせ致しました」
アスカが平静を装って、ヒサシの前にバーボンを置こうとした瞬間、ヒサシがアスカの手を握った。
「えっ……」
驚いて、アスカはヒサシの顔を見る。ヒサシは笑顔を絶やさず、そのままじっとアスカを見つめた。
「そろそろ、私の相手をしてくれてもいいんじゃないかな?」
ヒサシは余裕の笑みを浮かべ、アスカを見ていた。その笑顔を見て、彼女はヒサシに全て見透かされていることに気が付いた。
「なんのことでしょうか?」
しかし、アスカも怯まず、笑顔で返す。この程度のことで怯んでいては、別れさせ屋の所長など務まらない。自分に言い聞かせるように、アスカは心の中で何度も大丈夫と唱えて、しっかりとヒサシの目を見据えた。
「駆け引きはやめにしない? 私は君に惹かれている。そして、君も私に惹かれている。違うかな?」
「……」
アスカは何も言い返すことが出来なかった。気の利いた台詞も突き放す言葉も何も思い浮かばなかったのだ。ただ黙って、ヒサシの目を見た。今ここでそらしてしまっては、相手の思うツボだ。毅然とした態度を取らなければ、完全に相手のペースに持って行かれる。それだけは避けたかった。

「何をそんなに怖がっているの?」
「怖がってなんかいません」
「それは嘘だ。君は私に惹かれながら、けれど、それを否定しようとしている。それはなぜか……。私の素性がよくわからないからかな?」
「……」
アスカは敢えて答えない。素性は全て知っていた。誰と結婚し、どんな会社に勤めているのか。ここのバーで働くようになってから、ヒサシがどれほど沢山の女を抱いているのか。わかっていても、ヒサシに惹かれているのだと思って、アスカは泣きたくなった。馬鹿にも程がある。
「何も不安に思うことはないよ。だって、私と君は同じだろう?」
何を言っているのかわからず、アスカは眉間に皺を寄せた。
「何を言っているのか、わからないって顔だね」
「えぇ……」
「お互い既婚者ってことさ」
「!」
アスカは今度ばかりは心底驚き、一瞬頭の中が真っ白になった。どうして、ヒサシは気が付いたのだろうか。アスカは仕事柄、結婚指輪もしていなかったし、一度だって結婚しているなんて話はしなかった。
「どうして、わかったのか……。不思議かな?」
ヒサシの微笑みがアスカを追い詰めていく。

すぐさま、ヒサシの言葉を否定しようと思ったが、ヒサシの確信に満ちた態度にアスカは否定するのをやめた。ここで余計なことを口にすれば、マキコから依頼されていることがバレる可能性がある。それよりも、ヒサシが握っている情報を全て聞き出す方が先だ。
「どうして、そうお思いに?」
「簡単なことさ。私と同じ匂いがする」
ヒサシの余裕の表情にアスカは言葉を思いつけずにいる。抽象的な言葉は肝心なことを何も示さない。アスカはヒサシが何を知っているのかを聞き出そうと思考を巡らしてはみるものの、有効な質問を思いつけなかった。
「どうしたの? 難しい顔をして、黙って。キレイな顔が台無しだよ」
嘘つき、とアスカは内心思う。自分が美人ではないことをアスカが一番知っている。過小評価ではない。事実として、アスカはそれを受け入れていた。ヒサシの妻であるマキコは美人だ。あれだけの美人を毎日見ていて、よく自分を美人と言えるな、とアスカはヒサシのしたたかさに嫌悪する。

「心にもないことは言わない方が身の為ですよ」
アスカは口からつい出た台詞にはっとする。これではまるでヒサシの妻がマキコであることを知っているみたいではないか。
「謙遜は良くないな。私は思ったまでを言っただけだよ」
ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つ。
「そうでしょうか。私にはお世辞にしか聞こえません」
アスカはぴしゃりと言う。しかし、ヒサシはアスカの視線に動揺する気配もない。
「お世辞なんて言わないよ。……今日の夜は空いてる?」
お互いが既婚者だとわかっていながら、堂々と誘ってくるあたり、ヒサシはアスカが思っている以上に女に慣れている。ここで引き下がるのは簡単だが、誘いに乗らなければ始まらない。別れさせ屋として状況を把握する為に、普段なら誘いに乗って、根掘り葉掘り情報を聞き出すけれど、今回は少し勝手が違った。アスカは確実にヒサシに思いを寄せている。この状況でヒサシの誘いに乗ってしまえば、ミイラ取りがミイラになる可能性は高い。誘いに乗る怖さがアスカを躊躇させていた。

ヒサシと不倫相手を別れさせる為の方法は、ヒサシにアプローチをかける以外にも用意している。そちらの方法を取ればいいだけ、とは思うものの、ヒサシへのアプローチが上手くいっている以上、別れさせ屋として、こちらの方法を優先すべきだという気持ちもあった。
「黙っているということは、イエスととってもいいのかな?」
ヒサシは眼鏡の奥のその大きな目でアスカを見上げた。
「それは……」
はっきりとノーとは言えない自分に苛立ちが募る。アスカはヒサシの視線を遮るように床に視線を落とした。
「今日は閉店まで?」
「……はい」
「ふーん……そっか」
ヒサシはそれきり何も言わなかった。アスカは不安を募らせながらも、どこか期待している自分に溜め息を零した。

バーでの仕事が終わり、アスカは裏口から出て、駅の方向へと歩き出す。タクシー乗り場へ向かう為だ。
「お疲れ様」
声がした方に視線を向けば、そこにはヒサシが立っていた。閉店からすでに三十分が経っていた。

「どうして……」
「私がここで待っていることは予想済みだと思うけど」
「そんなこと……」
「まぁ、いいよ。こんなところで立ち話もなんたがら、飲み直しに行こう」
「でも……」
「でも? 拒否する理由があるとは思えないけど」
「十分あると思います」
「たとえば?」
「お互い既婚者です」
「やっぱり、そうだったんだ」
「えっ?」
ヒサシの言葉にアスカは間抜けな声を出す。
「君が既婚者かどうか、ホントは知らなかったんだ」
「それじゃあ、引っかけたってこと?」
「引っかけただなんて、人聞きが悪い。確かめただけだ」
ヒサシの言葉にアスカはあからさまに嫌そうな顔をすると、
「もう遅いんで、それじゃあ」
とその場を立ち去ろうとした。けれど、ヒサシがそれを許さない。ヒサシはアスカの腕をぎゅっと握ると、そのまま抱き寄せた。鼓動が一つ大きく跳ねる。アスカはそんな自分に嫌気がさした。
「抵抗しないんだね」
ヒサシの挑発するような言葉にアスカはその手を振りほどこうとする。
「離して下さい」
「どうして?」
「どうしてって、わからないんですか!?」
「もっと私を好きになってしまうから?」
ヒサシに言われ、アスカは自分の体温が急激に上がるのを感じていた。

「そういうわけじゃ……」
「いい加減、素直になれよ」
そう言うと、ヒサシはアスカを抱き寄せた。突然の出来事にアスカは一瞬呼吸をするのを忘れた。
「……ずっとこうしたかった」
アスカはヒサシの言葉に胸の奥はぎゅっと鷲づかみにされたような錯覚に陥る。こんなセリフ、随分と聞いていない。少なくとも、シンゴはこんなことを言ってくれたことなどなかった。
「今日は一緒にいてくれるよね?」
ヒサシの言葉に頷こうとしたけれど、あと一歩のところでアスカは思い止まった。相手ターゲットだ。ここでアスカがヒサシと一晩を共にしてしまったら、契約不履行だ。
「それは出来ません」
「旦那に後ろめたいから?」
「……はい」
そういうわけじゃない、と思ったものの、それは口には出さなかった。
アスカはヒサシの腕から逃れると、ヒサシの方を一度も見ずにその場を去った。
――そして、その一部始終を見ている人影が一つ。
そっと胸を撫で下ろしていたのは、二人のやりとりをずっと見ていたシンゴだった。

シンゴはアスカにもヒサシにも気が付かれないように、自転車に乗ると、大急ぎで家へと戻った。
近道を最大限に活かして自転車を飛ばした。
アスカが駅まで歩く時間とタクシーで通れる道から導き出した時間を考慮すると、どうにかシンゴの方が早く家に着ける程度だった。
北風が吹く寒い夜なのに、帰ってきたら汗だくになっていたけれど、仕方がない。
こうでもしなければ、アスカの後をつけることは出来ないのだ。
シンゴがアスカを尾行しているのには、きちんとした理由があった。
小説を書く為だ。
小説を完成させる為にアスカがどんな風に仕事をしているのかを知りたかったのだ。しかし、無論、理由はそれだけではない。
アスカの素行が知りたかったのだ。尾行するなんて、お世辞にも褒められることではないことはシンゴだってわかっている。けれど、そこまでさせる程、シンゴは追い詰められていた。
アスカが浮気をするのではないか、と思う度にいつも憂鬱な気持ちがシンゴにのしかかっていた。その結果として、もやもやとする気持ちはお腹の底に滞留した。けれど、それをアスカにぶつけることは出来ない。かと言って、他の誰かに言うことも出来ない。
もやもやは溜まる一方で、出口を見つけられずに、シンゴは随分と苦しんだ。苦しんだ結果の尾行だった。
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小説「サークル○サークル」01-111~01-120「加速」まとめ読み

シンゴは久々にノートパソコンの電源を入れた。起動音が懐かしい。真っ暗な画面が点滅し、やがてパスワードの入力画面が出た。シンゴはパスワードを入力すると、メーラーを立ち上げる。読まれていないメールはゆうに百を超えていた。仕事関係者からのメールから読もうと、日付順から差出人順にメールを並べ替えた。けれど、いくらスクロールしても、仕事関係者からのメールは見当たらなかった。
「……こんなもんだよな……」
シンゴは溜め息をついて、シャットダウンもせずにノートパソコンを閉じようとした。いくらスクロールしたって、仕方がない。しかし、シンゴがノートパソコンを閉じようとしたその瞬間、見覚えのある名前が目に飛び込んできた。
「嘘……だろ……」
言葉が掠れ、自分の動揺にはたと気付く。画面にはシンゴが小説を書けなくさせた張本人の名前があった。
急速に速まっていく鼓動を落ち着けようともせず、シンゴは急いでその差出人からのメールをクリックした。

息を止めて、シンゴはメールの本文に目を通す。そこには相手の近況と仕事の依頼をしたいという内容が書かれていた。
「まさか……」
シンゴは信じられないといった面持ちで、再度メールに目を通した。何度読んでもメールには仕事の依頼について書かれていた。シンゴは高鳴る胸を落ち着けようと、席を立ち、コーヒーを淹れた。ミルクをたっぷり入れて、口をつける。そして、もう一度、画面を見た。そこには先程、二度読んだメールが表示されている。シンゴはマグカップをパソコンの隣に置くと、キーボードに手を伸ばした。
なんて書こうかなんて考えてはいなかった。けれど、書くべきことは一つしかない。仕事を請けたい、それだけだ。勿論、今のシンゴに小説が書けるのかなんてわからない。書こうとしても書けないかもしれない。けれど、いつまでも書けないと立ち止まっているわけにはいかないのも確かだ。
差出人の名前を見て、シンゴは大きく息を吐く。酸素が身体中を駆け巡るような気がした。呼吸を整えると、シンゴは元妻にメールを書き始めた。

「やけに機嫌がいいわね」
アスカはいつもよりどことなく、浮かれ気味の夫を目の前にして、訝しげに言った。
「そんなことないよ」
シンゴはそう言いながらも、自分の頬がにやつくのを感じていた。
「そう……」
アスカはシンゴが何かを隠していると思ったけれど、それ以上は追及しなかった。シンゴに限って、浮気なんて芸当は出来ないだろうし、きっとシンゴが喜ぶことなのだから、些細なことだろうと思ったのだ。
シンゴはアスカが追及してこないことに少しの物足りなさを感じたが、その反面、ほっとしていた。本当ならば、すぐにでも仕事の依頼が来たことをアスカに伝えたかったけれど、依頼が来ただけであって、その仕事が確定したわけではない。依頼があっても仕事の依頼が流れてしまうことがあるのも、この世界では珍しいことではなかった。流れてしまえば、ぬか喜びさせてしまうことになる。それはアスカにとっても、シンゴにとっても、良いことだとは思えなかった。シンゴは仕事が確定したら、アスカに報告しようと決めていた。

シンゴは浮かれながらも、アスカの様子をしっかりと観察していた。今日のアスカは特に浮き沈みはないように感じられた。帰ってきた時間を考えても、きっとターゲットと食事に行ったり、それ以上の関係を持ったりはしていないだろう。そう思って、胸を撫で下ろした。
シンゴにとって、女性はアスカだけであり、離婚なんてことになったら、精神的にも経済的にも困窮することは目に見えていた。何があっても、離婚は避けたい。困窮したくないのは勿論のことだが、離婚したくないのには他にも理由があった。
離婚をすれば、心も身体もボロボロになってしまう。まるで、使い古された雑巾のようにだ。あの何とも言えない心の奥底のもやもやとした感情は、失恋なんか足元にも及ばない程の破壊力を持っていた。そんな思いを味わうのは一度だけで十分だった。仕事柄、どんなことを経験しても無駄にはならない。経験が作品に繋がっていくし、経験したことを書けば、作品にリアリティが出てくる。だが、作家と言えど、人間だ。経験したくないことだってある。それがシンゴにとっての離婚だった。
離婚の原因は元妻の仕事にあった。彼女の仕事は編集者だった。しかも、担当していたのは、シンゴだ。彼女は、良き妻であり、良き編集者だった。けれど、そのことがシンゴを苦しめた。元妻はシンゴには勿体ないくらい出来た人だった。消極的なシンゴに対し、恋愛でも仕事でも積極的だったから、消極的なシンゴが恋愛をし、結婚出来たのは彼女のおかげだったとも言える。年上でしっかりしていて、シンゴは甘えっぱなしだった。無論、そこに原因などあるはずもなかった。原因はシンゴの心の持ちようだった。仕事でもプライベートでも、シンゴは担当編集者といると思ってしまっていたのだ。元妻がただの妻に戻る瞬間をシンゴは見つけられなかった。そうなってくると、プレッシャーしかない。そのプレッシャーを外で発散させれば良かったのかもしれないが、シンゴにはそんな器用なことは出来なかった。そのことがシンゴを兎に角苦しめた。自分の心が安らぐ場所がどこにもなく、結局、シンゴは悩んだ末、離婚という選択肢を選んだ。
そして、シンゴは作家として、機能しなくなった。

シンゴが作家として機能しなくなった理由は二つある。一つ目は優秀な編集者を失ったこと、二つ目は離婚のショックが思いの外、大きかったことだ。このどちらもが彼が作家として生きていくことを難しくさせた。作家はそれ単体で生きているわけではない。勿論、作品を書いている時は一人での作業だが、作品をチェックし、より良いものへと昇華させるには担当編集者の力が必要だ。一概には言えないが、担当編集者によって、良くも悪くもなる部分がある。本来なら、依存関係にはないものの、シンゴは自分の妻であるという身近な存在だった為に、いつしか通常の作家と担当編集者というだけの関係を越えすぎてしまっていた。精神的にかなり寄りかかっていた彼は離婚するまでそのことの大きさに気が付いてはいなかった。けれど、元妻は一切そのことについて触れることはなかった。内心、重く感じていたのかもしれない。それでも、シンゴへの愛情が途切れることはなかったから、じっと耐えていてくれたのかもしれない。なのに、シンゴは元妻に離婚を切り出した。元妻は最初頑なに別れたくないと言い、考え直してほしいとも言った。しかし、嫌だと言われれば言われる程、シンゴは別れたくなっていった。そうして、元妻の意見が聞きいれられることはなかった。

シンゴにとってはこれで肩の荷が下りて、清々しい生活が戻り、もっと小説に打ち込めると思っていた。けれど、実際は違った。全く書けなくなったのだ。こんなはずはない、そう思った。しかし、何度パソコンに向かっても、何も浮かばなかった。原因が良くわからなかったけれど、そう言った日々が長く続くにつれて、元妻の存在が自分にとってどれだけ大きな存在だったのかを知ることになった。勿論、元妻の代わりに新たな担当編集者が寄越されたが、元妻とは比べ物にならないくらいポンコツだった。元妻がいかに出来た担当編集者だったのかも同時に思い知り、どん底に落ちた気分を味わった。そこから、シンゴは小説を書けなくなった。小説が書けなくなったからと言って、仕事をしないわけにもいかない。生活をしていかなければならなかったから、コラムやエッセイなどの連載をいくつか掛け持ちし、生計を立てた。それだけではままならなかったが、幸いにもそれまでの著作の印税がシンゴの生活を助けてくれていた。テレビドラマとまではいかなかったが、運良く、ラジオドラマ化はされ、二次使用料も入ってきて生活に困ることはなかった。

やがて、アスカに知り合うけれど、その時はすでにシンゴはうだつのあがらない作家だった。それでも、彼女はシンゴを愛してくれたし、シンゴも彼女を愛していた。自分の仕事の状況を考えると不安しかなかったけれど、シンゴは意を決してプロポーズをし、めでたく彼はアスカと結婚出来ることとなった。しかし、不幸にもその数日後、持っていた数本の連載が改変期と共に全て消えてしまった。シンゴは仕事はなくなったものの、アスカと結婚していた為に生活が出来なくなるという非常事態を避けることが出来た。ただアスカにとっては災難だったとしか言いようがない。勿論、シンゴはそのことをとても申し訳なく思っていた。
けれど、不思議なものでそういった感覚と言うのは、日に日に麻痺してくる。その証拠にシンゴは小説を書かず、家事に勤しんでいた。家事のやりがいや楽しさに気付いたシンゴは、急激にのめり込んでいった。作家というよりは、主夫だ。シンゴの手の込んだ料理はその頃のなごりだった。
このままではいけない気持ちが全くなかったわけではない。いつだって、シンゴの心の片隅には危機感があった。だからこそ、彼は小説を書こうと何度も試みた。試みるだけで終わってしまったのは、彼にやる気がないのではなく、それが上手く実を結ばなかっただけだったのだ。

翌日、シンゴは小説を書く為にパソコンを開いた。まだ何を書いていいのかもわからない。書きたいこともない。ただ何もしないわけにはいかなかった。書けないなりに努力は必要だとも思った。ふいにシンゴは外付けHDDの一つのフォルダに目を止めた。「新しいフォルダ」と書かれているそれに見覚えがなかった。ダブルクリックをし、中身を表示させると、一つのワードファイルが入っていた。不思議に思って開けてみると、たった一文だけ、こう書かれていた。
『僕の奥さんは別れさせ屋で働いている――』
アスカが今回の仕事を始めて、様子がおかしくなった当初に書こうとした小説だった。
ユウキに話した話はあながち嘘ではなく、自分が書こうとしていたのを忘れているだけだったのだ。シンゴはなんだか嬉しくなった。数週間前の自分に思わず「でかした!」と言いたくもなった。
深呼吸をして、気持ちを落ち着けると、シンゴはパソコンに向かって、続きを書き始めた。

アスカは悩んでいた。マキコから依頼の再開を告げられたのは嬉しかったし、安心もした。けれど、どこかもやもやとした感情がお腹の下の方で渦巻いているのを感じていた。なんとも言えない嫌な感じだ。
煙草に火をつけ、くゆらす。吐き出した煙はしばし空気に滞留して、ふわりと消えた。机の上に足を上げ、天井を見上げる。浮かぶのはヒサシの顔だ。思わず、目を伏せた。自分の感情が上手くコントロール出来ないことに苛立ちを感じながらも、アスカにはどうすることも出来なかった。
ヒサシを不倫相手と別れさせるのが、アスカの仕事だ。けれど、別れさせれば、ヒサシはマキコの元に戻るだろう。子どもがいるのなら、尚更だ。アスカのつけいる隙はない。だいたい、アスカだって結婚をしていて、シンゴがいる。それでも、ヒサシに心惹かれてしまう自分に溜め息をついた。
理屈では割り切れない。だから、人は恋をするのだ、と誰かが言っていたのを思い出していた。

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小説「サークル○サークル」01-101~01-110「加速」まとめ読み

「ホントはずっと前から声をかけたいなって思ってたんですけど、勇気がなくって。でも、今日は勇気を出して良かったです!」
青年の嬉しそうな顔にシンゴは面食らっていた。自分の書いた作品がこんなにも人に喜ばれているのを初めて目の当たりにしたような気がしていた。大抵、作品の感想をくれるのは友人や家族くらいのもので、どうしたって、読者の声は著者には届きにくい。今はインターネットがあるから、ショップのレビューで自分の作品の評価を間接的に知ることは出来るけれど、こうやって、直接読者の一人から感想を聞くことは稀だった。
軽快な音が電子レンジから聞こえた。弁当が温まったようだ。青年は手際良く、弁当を取り出して、手提げのビニール袋へと入れた。何も言わず、箸も一緒に入れてくれるのを見て、気が利くな、とシンゴは思った。
「大変お待たせ致しました。ぜひ、またいらっしゃって下さいね!」
笑顔で青年に言われ、シンゴは「あぁ、はい」と言った。青年の勢いに押され、その程度の返事をするのが精いっぱいだったのだ。
「あっ! オレ、キトウ ユウキって言います!」
突然、思い出したかのようにユウキは名乗ると、笑顔のままシンゴを見送った。

世の中にはいろんなタイプの人間がいるものだ、とシンゴは自分とは全く違うタイプの人間に出会うとよく思った。それはまるで異世界の住人よろしく、全くの別物に見えたのだ。同じ時代に生き、同じ言語を操るなどとは彼には到底思えなかった。
シンゴは生まれてこの方、一度も髪を染めたことがない。染めたいと思ったこともなかったし、染める必要性も感じなかったからだ。どうして、多くの人間が折角の黒髪を茶色に染めたいのか、理由も気持ちもわからなかった。だから、「今時」と言われる自分より若い人たちを見ると不思議な気持ちになってしまう。勿論、シンゴが若い頃から、茶髪にするのは当たり前のことだったし、茶髪じゃない方が逆に目立った時代でもあった。そんな環境にいたので、シンゴにとって、茶髪の人間を見ることは然して珍しいことではなかったけれど、その違和感だけは大人になった今でも拭いきれなかった。
ビニール袋に入った温かな弁当を提げながら、シンゴは元来た道を静かに戻る。それはいつもなんだかシンゴを寂しい気持ちにさせた。寂しさはシンゴに溜め息をつかせ、行き場のない気持ちを心の片隅に増殖させていった。シンゴは同じことを繰り返す日々にもういい加減、嫌気がさし始めていた。

次にシンゴがユウキに出会ったのは、あれから数日後のことだった。アスカは仕事に行き、部屋の片付けや洗濯を終えたシンゴは、気分転換にふらふらと近くの公園にやって来ていた。シンゴはベンチでぼーっと何の変哲もない景色を眺めているだけだった。人はほとんどいない。何かくれるんじゃないかと期待して鳩が数羽、シンゴの周りへ寄って来たが、何もくれないとわかると、愛想を尽かしたように一斉に飛び立って行った。
何かの相手をするほどの気力はシンゴには残っていなかった。家事をしただけで、体力と気力を奪われてしまう自分に溜め息をつきたくなる。
空は晴れ、時折、風に乗って雲が流れた。空を見ていると、自分がとってもちっぽけで、自分の仕事の悩みやアスカが浮気に走りそうだということがどうでも良いことのような気になった。それは嫌な気持ちが和らぐという意味では良いのかもしれないが、何も解決に導かれていない、ということを考えると必ずしも良いとは言い切れなかった。シンゴはそのことに気が付いて、はっする。思わず、今度は本当に大きな溜め息が口から零れた。
「どうしたんですか? 溜め息なんかついて」
突然、声が飛んできて、シンゴはドキリとした。声のした方を向くと、そこにはユウキが立っていた。

「あぁ、君は……」
「覚えててくれたんですね。コンビニではいつもありかどうございます。この間はお話出来て嬉しかったです。隣、いいですか?」
ユウキに言われて、シンゴは「あぁ」と言い、少し左端に寄った。
ユウキは遠慮がちにベンチに腰をかけると、シンゴの方を向いた。
「いつもこんな風に公園で小説の構想を練っているんですか?」
ユウキに問われて、シンゴは口籠る。ただぼーっとしていただけだったが、それを口にしてしまうのは憚れた。なんだか読者の夢を壊してしまうような気がして、申し訳ないような気分になったのだ。
「たまにね、こうやって、外の空気でも吸おうかな、と思うことがあるんだ」
シンゴはあたかも仕事のことを考えていたというような体で話し出す。折角の、数少ない読者の為についた嘘だった。
「やっぱり、すごいですね。モノを書くなんて、オレには到底無理ですよ。小学校の読書感想文で精いっぱいです」
「すごくはないよ。日本人なら誰でも日本語で文章が書ける」
自分の仕事のことを話すと、必ずと言っていいほど、読書感想文を引き合いに出されることが多かった。読書感想文が上手いからと言って、小説が書けるわけではなかったし、小説が書けるからと言って、読書感想文が上手いわけでもない。その証拠にシンゴは読書感想文で賞をもらったことなど一度もなかった。

「君、仕事は?」
「今日は遅番でちょうど今帰りなんです。あっ、お昼ご飯もう食べました?」
「いや、まだだけど……」
「廃棄するおにぎりもらってきたんですけど、一緒にどうですか?」
「でも……」
「どうせ、一人でご飯食べるんなら、オレと食べましょうよ。今、自販機でお茶買ってきますから」
ユウキはそう言い残すと、ビニール袋に入ったおにぎりを置いて、自動販売機まで走って行ってしまった。空を見上げれば、さっきと変わらず、雲が静かに流れている。
「お待たせしました! ウーロン茶と緑茶、どっちがいいですか?」
「緑茶をもらってもいいかな」
「はい、どうぞ」
シンゴはユウキからペットボトルの緑茶を受け取ると、ポケットから財布を取り出した。
「わざわざ買ってきてくれて、ありがとう」
そう言って、シンゴは二人分の小銭をユウキの前に差し出した。
「いいですよ、そんなの。オレが無理やり誘ったようなものですし」
「遠慮せずに取っておいてよ。大人に気を遣うものじゃない」
ユウキは渋々シンゴからお金を受け取って、怪訝な顔をした。
「あの……多いんですけど……」
「このくらいご馳走するよ」
シンゴの微笑みにユウキは笑顔で頷いた。

「おにぎりは気にしないで下さい。タダでもらってきたものですから。鮭とたらことツナマヨどれがいいですか?」
「じゃあ、鮭で」
「はい、どうぞ」
ユウキはがさがさとビニール袋から鮭のおにぎりを取り出すと、シンゴに手渡した。続いて、自分のたらこおにぎりも取り出すと、包装を慣れた手つき取り外した。
「ありがとう、いただきます」
シンゴもユウキに少し遅れて、おにぎりの包装を外し始める。
「それにしても、こうやって、コンビニ以外で会えるのって新鮮ですよね」
「確かにそうだね。生まれて初めてだよ。店で知り合った店員さんとご飯一緒に食べるの」
「オレも初めてです。しかも、憧れの作家さんと一緒なんて」
ユウキが嬉しそうにおにぎりにかぶりつくのを見ながら、シンゴは不思議な気持ちになった。売れなくなり、書店にさえ、過去の作品が数冊しか置かれなくなった自分のことをこんなにも憧れているのだ。隣で楽しそうに喋る彼を見ていると、このままではいけない、と思った。作家としてやるべきことをしていないのではないか、とシンゴは胸の奥が痛むのを感じていた。

「新作、書かれてるんですか?」
「あぁ、今、ちょうど書いているところだよ」
そう言って、シンゴはしまった、と思った。特に何かを書いているわけではなかった。依頼がないということもあるが、何より書きたいものが今の彼には見つからなかった。何を書いていいのかわからない。小説を一年に何冊も書いていた時は、そんなことが自分に降りかかるなんて思いもしなかったけれど、現実に今、シンゴは書くべきことも書きたいことも見つけられず、主夫業に専念している。作家として、仕事はしたい。けれど、自分の引き出しが空っぽになって、何も出てこなくなってしまったのだ。空っぽの引き出しはいくら開けたって空っぽのままで、とうとう何も出て来ることはなかった。そして、今に至る。
「どんな話を書いてるんですか?」
「……」
ユウキに訊かれて、シンゴは咄嗟に言葉が出てこなかった。何も書いていないのだから、何も答えられなくて当たり前だ。どんな話かをでっちあげるには、少しの時間が必要だった。
「すみません……。そんなこと、俺に言えないですよね」
「いや、少しくらいなら、大丈夫だよ」
そして、シンゴは書いてもいない小説の話を始めた。

「別れさせ屋の女の話を書いているんだ」
咄嗟に出た言葉に、シンゴ自身も驚いた。それは紛れもなく、自分の妻のことだった。別れさせ屋という職業についてならば、いくらだって、いろんな説明が出来る。シンゴが自分の仕事以外で最も――編集者という一番身近な仕事関係者を除いてという意味だが、知っている職業だったからだ。
「別れさせ屋ですか?」
「そう。少し変わった主人公だろう?」
「そうですね。そんな小説は今まで読んだことがありません」
「探偵と少し迷ったんだけど、別れさせ屋は別れさせることに特化している分、面白いかなって思ったんだ」
「ってことは、恋愛小説ですか?」
「恋愛小説……になるのかな……。いまいち、僕はジャンルに疎くってね」
「どんな話なんですか?」
「どんな話か……」
「言える範囲内でいいので、教えて下さい!」
ユウキにせがまれて、シンゴは腕を組み、しばし考え込む。それはいくらかポーズを含んでいた。すでにシンゴは話す内容を決めていた。決めていたというよりは、それしかなかったといった方が正しかった。

「別れさせ屋の女所長の元に一人の依頼者がやってくる。その依頼者の夫は浮気をしているから、別れさせてほしいというのが、依頼内容だった。いつもの仕事内容と然して変わらないことに安心しつつ、女所長は依頼を受けた。けれど、業務を遂行していくうちに女所長はどんどんターゲットである依頼者の夫に好意を持っていって――っていう話だよ」
「それ、続きが気になります! でも……」
「でも?」
ユウキは少し戸惑ったように言葉を続けた。
「今までの作風と雰囲気違いますよね」
「そうかな……」
言われて、シンゴはでっち上げたストーリーだから、仕方ないな、と思った。
「いつ頃、発売なんですか?」
「それはまだ決まってないんだ」
書きもしていない小説の発売日など決まっているわけもなかった。シンゴは目の前にいる青年のキラキラした目を見て、ほんの少し罪悪感を抱いた。目の前の読者は自分の作品が読める日を楽しみにしている。けれど、小説など書いてはいなかったし、でっちあげたストーリーは自分の身近に起きている事実だった。これがもし事実だと知ったら、目の前
青年はきっとがっかりするに違いない。自分のしてしまったことに、シンゴはなんだかいたたまれない気持ちになっていた。
「発売日決まったら、教えて下さいね!」
そう言って、ユウキは無邪気に笑った。その笑顔がユウキと別れた後もシンゴの心の中に随分と長い間、留まっていた。

シンゴはアスカの帰りを待つ間に夕飯の用意をして、風呂を沸かし、余った時間にぼんやりとテレビを観た。バラエティ番組では最近引っ張りだこのピン芸人がネタを披露している。すでにそのネタは数十回見たことがあった。同じネタばかりやるような芸人はあっという間に消えていく。視聴者が飽きるスピードは瞬きと同じくらい速い。シンゴは飽きが来始めたネタを最後まで見ることなく、チャンネルを変えた。すでにそのネタのオチを知っていたからだ。
ニュースを見ながら、シンゴはぼんやりと昼間のユウキとのやりとりを思い出していた。ニュースを見ているはずなのに、全く映像も音声も頭の中に入ってはこない。自分の話したストーリーを面白そうだと言ってくれたユウキへの申し訳なさを感じると同時に、そろそろ本腰を入れて、小説を書かないとまずい時期に来ていることに頭を悩ませていた。書けと言われて書けるなら、とっくに書いている。シンゴが小説を書けなくなってしまった理由は明々白々だった。

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小説「サークル○サークル」01-91~01-100「加速」まとめ読み

加速していく思いはいつだって、自分ではどうすることも出来ない。それをアスカは今までのいくつもの経験から知っていた。恋はいつだって、恋する自分を振り回す。それに抗える程、アスカはまだ年老いてはいなかった。
会えない時間もついヒサシのことを考えてしまう。まだヒサシの唇の感触を覚えている。自分にはシンゴがいるけれど、シンゴとはもう随分と恋人のような関係ではなくなっていた。だから、余計にヒサシとのことが頭から離れないのかもしれない。得も言われぬ背徳感にただただアスカは、翻弄されているだけだった。
事務所の窓からは暖かな陽射しが差し込み、アスカは一瞬目を細める。机の上にいつものように足をあげ、煙草の煙をくゆらすと、天井を見上げた。しばらく経って、アスカは肺いっぱいに煙草の煙を吸い込んで、一息に吐き出した。自分のしている行動の意味の無さに沸々と可笑しさが込み上げてくる。
アスカが吹き出しそうになった瞬間、ドアが開いた。
慌てて、アスカは机から足を下ろし、煙草を灰皿に押しつけると、姿勢を正して椅子ごとドアの方を向いた。
「ご無沙汰しております」
そこに立っていたのは少し膨らんだお腹が印象的なマキコだった。
「どうぞ、こちらに」
アスカは気まずそうに俯いているマキコに言った。
マキコは言われるがまま、ソファへと腰をかける。アスカは紅茶を淹れる準備を始めていた。お湯を茶葉の入ったポットに注ぎ、アスカはきっかり三分待つと、ティーカップへと注ぐ。もらい物のクッキーを添えて、コーヒーテーブルの上に静かに置いた。
「どうぞ、召し上がって」
アスカはマキコに勧めながら、自分も紅茶に口をつける。マキコはカップの中が赤い色をしていることに少し驚いたような顔をする。それを見たアスカがすかさず、「ルイボスティーよ」と言った。マキコはアスカを上目遣いで見上げ、小さく頷くと、再びカップの中身へと視線を落とした。
「大丈夫よ、ノンカフェインだから。身体にも優しいわ」
アスカの言葉にマキコはほっとした表情を浮かべる。お腹の子どものことが気になっていたのだろう。マキコは紅茶を口にした。
アスカはそんなマキコを見て、ふいにヒサシとのキスが脳裏を過ぎった。アスカは平静を装う為に、もう一度紅茶に口をつけた。

「今日はどういったご用件で?」
アスカは罪悪感を覚えながらも平然と言った。マキコは俯いたまま、静かに口を開き始める。
「実は……調査の継続をお願いしたくて……」
やっぱり、とアスカは内心思った。きっとこうなるだろう、と思っていた。浮気をやめさせたい、という気持ちが途中でなくなるはずがないのだ。マキコは以前、「浮気相手と別れても自分のところには戻ってこない気がする」と言っていた。けれど、シンゴに言わせれば、「女は全て浮気相手になりうる」という心配から、アスカとの接触さえも怖がり、依頼を取り下げることにしたのではないか、ということだった。
シンゴの言うことが正しければ、彼女の中でアスカに対する不安が何らかの形で取り除かれたのか、はたまた、それ以上に浮気相手と別れさせる必要が彼女に出来たのかのどちらかだろう。少なくとも、後者には「子どもが出来た」という明確な理由がある。
「勿論、喜んで引き受けさせていただきます」
アスカは出来る限り自然な笑顔をマキコに向けた。

「バレている気がするんです」
マキコは俯きながら言った。アスカは眉間に皺が寄りそうになるのをぐっと堪えて、涼しい顔をして、それから尋ねた。
「バレている? それは、別れさせ屋に依頼したことが、という意味ですか?」
アスカは問うと同時に今までの自分の行動を振り返っていた。確かに接触はしていたが、だからと言って、自分の正体がヒサシにバレているとは思えなかった。バレていたとしたら、あんなに大胆にヒサシはアスカのことを誘ってきたりしないはずだ。むしろ、距離を置くだろう。これはマキコの思い過ごしだとアスカは思った。
「依頼を取り下げて下さいとお願いしに来る前、実は……主人がやたらあなたの話をしていたんです」
「私の話を?」
シンゴの言っていた通りの展開にアスカは少々面食らう。
「えぇ。行きつけのバーに同い年くらいの女の子が入ったって。頭の回転が速く、会話が楽しいって」
「そうですか……。でも、それがどうして私だと?」
「外見の特徴を聞いた時、あなただと確信しました」
アスカはヒサシが自分の特徴をどんな風に伝えていたかを知りたかったが、それをマキコに訊くのはやめた。いらぬ誤解を与えてしまうのは、別れさせ屋の立場上、良くないことは明白だったからだ。

「でも、ご主人が私のことを話したからって、私のことがバレているとは限らないでしょう?」
「そうかもしれません。でも、やたらにあなたの話を聞かせるんです。それに耐えられなくなって……」
アスカにはマキコの言っている意味が漸く理解出来た。好きな相手から、別の女の話を聞きたくない、というのはよく聞く話だ。多少なら、我慢も出来るだろうが、それが毎晩ともなれば、嫌になってもなんらおかしくはない。それにシンゴが言っていたではないか。「女は全て浮気相手になりうる」と。マキコは口にこそ出しはしないが、そう思っているのだろう。だから、余計にアスカをヒサシから遠ざけたくなったのだ。
「そうですか……。でも、調査を再開したいんですよね?」
アスカの問いにマキコは力強く頷いた。
「はい……。勝手なお願いだとは思いますが、やっぱり、彼と不倫相手を別れさせてほしいんです」
「わかりました。お引き受けしましょう」
アスカは敢えて、調査を継続していたことは告げなかった。
「ところで……」
「なんでしょうか?」
アスカの言葉にマキコは不安げな表情を浮かべる。
「最近、旦那さんは私を含め、女性の話をされますか?」
「いえ……。していませんけど、それが何か?」
「していないのなら、それで構いません」
アスカはそう言って、にっこり微笑んだ。

その夜、バーの仕事がなかったので、アスカは真っ直ぐに帰宅した。
食卓を挟んで向かい合うシンゴはなんだか嬉しそうだ。
「何かいいことでもあったの?」
アスカはパイコー飯に箸を伸ばしながら、シンゴに訊いた。
「だって、今日はアスカの帰宅が早いから」
「それだけ?」
「そうだよ。奥さんが早く帰って来てくれて、一緒に夕飯が食べられるなんて、幸せなことだろ?」
当たり前のように言うシンゴの言葉にアスカは驚いていた。そんなことを彼女は考えたこともなかったのだ。
「それより、アスカ、今日何かあっただろ?」
シンゴに言われ、アスカはドキリとする。その一言で自分の今日の出来事を全て見透かされているような気がした。
「えぇ、ちょっと驚くようなことが」
アスカはパイコー飯を口に運ぶ。癖のある牛肉の味が口の中いっぱいに広がった。美味しいな、と思いながら、アスカは咀嚼する。
「依頼者が事務所に来た、とか?」
「……正解」
「やっぱり」
アスカはシンゴの洞察力に心底驚いていた。作家はこんなにも人のことがわかるのだろうか。アスカ自身も仕事柄、観察力がある方だと思っていたが、ここまで簡単に言い当てられる自信はなかった。

内心、シンゴのことを凄いと思っていたアスカだったが、敢えてそれは口にしなかった。口にすることで、自分の負けを認めてしまうような気がしたからだ。
「それで、どうなったの?」
シンゴはスープをすすりながら問う。
「調査の再開をしてほしいって言われたわ」
「さすがだね。調査を継続していて正解じゃないか」
「そこの読みは当たったみたい。ただ……」
アスカはそこまで言って、言葉を区切った。しかし、思い直して、口にするのはやめた。何でもかんでも話す必要はないと思ったのだ。ヒサシがマキコにアスカの話をしなくなったことの意味を考えれば尚のことだ。夫という立場のシンゴには聞かせるのは、ナンセンスだと思った。
「どうしたの?」
「いいえ、なんでもないわ」
アスカは笑顔で答える。それを見たシンゴは、珍しいアスカの笑顔に違和感を覚えた。そういうことか、と思った。
アスカは後ろめたさに、鼓動が少し速まっていくのを抑えることが出来なかった。

その日の晩、シンゴはなかなか眠れなかった。アスカが口籠った理由はだいたい察しがつく。それを考えると、とうとう来てしまったか、という気持ちになった。勿論、ヒサシとアスカが関係を持ったなどとはさすがに思ってはいなかったが、アスカがヒサシのことを特別に意識し、ヒサシもまた同じ気持ちでいることは安易に想像がついた。でなければ、あの動揺は説明がつかないと思った。
シンゴが寝返りを打つと、隣で寝ているアスカの気配も動いた。こんなに近くにいるのに、気持ちはこんなにも遠い。その事実を目の当たりにして、シンゴは遣る瀬無い気持ちになった。
言葉で伝えることは容易い。けれど、正確に相手に気持ちを届けることは容易ではない。正しく伝わらないのなら、伝える意味はあるのか、問いたくなる。けれども、何もしないでただじっとしているよりは、それが無駄なことに思えても何かした方がいいとも思った。堂々巡りの思考を打ち切るように大きな溜め息をつくと、シンゴは静かに目を閉じた。夜はまだ始まったばかりだった。

あくる朝、アスカを仕事に送り出すと、シンゴはぼーっとする頭のまま、コンビニエンスストアへと向かった。買う物は決めていない。ただ家でじっとしていられなかっただけだった。
「いらっしゃいませ」という明るい声がシンゴの元に届いて、はっとして顔を上げた。二十歳前後の茶髪の青年がこちらを見て、笑顔を向けていた。つられて、シンゴは引きつった笑顔を青年に向ける。適当に雑誌を立ち読みし、弁当を一つ手にしてレジへと向かった。
「いらっしゃいませ」
少年はまた愛想良く言った。
「398円です。お弁当は温めますか?」
「はい」と答えて、シンゴは財布の中の小銭をのぞき込む。キリの良い小銭がありそうだと思って、しばし財布の中とにらめっこしたものの、1円足りずに諦めて、千円札を出した。野口英世に笑われているような気がした。
「ごめん、これで」
シンゴが言うと、少年は「千円お預かりします」と言った。会計を済ませ、つり銭を受け取り、弁当が出来上がるまでレジの横にどこうとした時だった。少年がシンゴの目をしっかりと見据えた。シンゴは思わず息を飲んだ。

「いつも、いらっしゃってますよね」
青年は少し照れたように笑ってシンゴに言った。八重歯がちらりと見える。
「あぁ、そうかな……」
そんなに頻繁に来ているわけではなかったが、青年がシフトに入ってる時にいつも来ていたのかもしれない。まじまじと顔を見たことがなかったシンゴだったが、この時ばかりは顔を上げて、青年の顔をしっかりと見た。少し長めの髪に奥二重の目、笑顔の度に零れる八重歯が印象的だった。
「間違ってたら、申し訳ないんですけど……。作家さんですよね?」
「えっ、どうしてそれを……」
突然の言葉にシンゴは呆気に取られた。こんな時間にふらふらと一人でコンビニエンスストアに来ているからと言って、作家だとは限らない。最近は本だって出してないし、こんなに若い人に作家だと知られているわけがないと思った。
「実はオレの親父があなたの本が好きで、よく読んでたんです。本に写真が載ってたから、もしかしたらそうかなって……」
「ありがとう。でも、最近の僕は全く本を出してないから」
「でも、出ていないだけで書いてはいるんですよね? 刊行ペースは作家によってそれぞれだって、親父から聞いたことがあります」
「あの頃は……ハイペースだったからね」
「えぇ、次から次へと出るので、読むのが大変でした」
青年は嬉しそうに話し続けた。

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