小説「サークル○サークル」01-81~01-90「動揺」まとめ読み

「そうだなぁ……。落ち着いているから、既婚者なのかな、と思ったけれど、若そうだし、独身かな?」
ヒサシは然して悩んだ様子もなく、さらりと答えた。
「えぇ、そうなんです」
アスカはあっさりとヒサシの言葉を肯定した。
それが良かったのか悪かったのか、アスカにはわからない。けれど、仕事を遂行しているという点では正解だと思った。少なくとも、これでヒサシが自分を浮気相手の一人にする可能性は上がった、さすがのヒサシも既婚者をターゲットにすることはないだろう、と踏んだのだ。アスカは次に言うべき、適当な言葉を探していたけれど、見つけることが出来ずにいた。ヒサシが口を開こうとした瞬間、遠くの席からアスカを呼ぶマスターの声が聞こえた。
「すみません、失礼します」
アスカは会釈をし、ヒサシの元を後にする。内心、そっと胸を撫で下ろした。あのまま、あの場にいては、きっと何かしらボロを出していたに違いない。アスカはマスターの指示従い、別の客に食事を運ぶ。そんなアスカの姿をヒサシはじっと見据えていた。

「お待たせ致しました」
しばらくして、アスカはヒサシに呼ばれて、再び彼の前に立っていた。
「おかわりを」
静かにヒサシは言い、アスカはドリンクの注文をマスターに伝えに行く。ドリンクが出来上がると、ヒサシの元へと運んだ。
「バーボンでございます」
「ありがとう」
ヒサシはドリンクをコースターの上に置こうとしたアスカから、わざと手を添えて受け取った。初めて触れるヒサシの手にアスカの鼓動は高鳴った。
「キレイな手をしているね」
ヒサシは事もなげに言う。
「そんなことありませんよ」
アスカは速まる鼓動に気付かれないよう、俯きながらヒサシの言葉に応えた。
「白くて、細くて、もっと触れたいと思ってしまう」
歯の浮くようなセリフもヒサシは照れることなく口にする。それは酒が入っている所為なのか、生まれ持った才能なのか、アスカには測りかねたが、それでも彼に言われると嫌な気はしなかった。まるで、漫画や小説の主人公になった気分さえするのだから、自分も手に負えないな、と呆れてしまう。アスカが顔を上げると、ヒサシの両の瞳がアスカをじっと見据えていた。

ヒサシの言葉に浮かれている自分がいる。けれど、これは仕事なのだと冷静なもう一人の自分が諭す。揺れ動く気持ちの中でアスカはヒサシに笑顔を向けた。どうとでも取れる笑顔だ。嬉しいとも、ふざけたことを言わないでとも。アスカはヒサシの前から去ろうと、踵を返した。ふいに強い力で腕を引っ張られて、彼女は振り向く。ヒサシの大きな手がアスカの左腕を掴んでいた。
「何か?」
アスカは冷静を装いながら言う。それ以上の言葉はとてもじゃないが、思いつけなかった。
「離したくないと言ったら怒る?」
「それは……」
ヒサシの目はいつになく真剣で、アスカは答えに詰まった。目を伏せ、適当な言葉を探すけれど、気の利いたセリフを思いつけない。アスカが迷っている間にも、ヒサシの手に込める力が強くなる。「離して下さい」と言おうとして、顔を上げた瞬間、アスカは自分の身に起きたことを一瞬理解出来なかった。
ヒサシの唇が喋ろうとしたアスカの唇を塞いでいたのだ。あまりの出来事にアスカはされるがまま、その場に立ちつくしていた。反論しようにも唇を塞がれていては、声を発することさえ出来ない。やっとの思いで、アスカはヒサシの肩に手を当て押しのけようとした。

ヒサシもアスカのその動作に我に返ったのか、はたまたこれ以上は無理と踏んだのか、アスカから手を離し、席に座る。
アスカは言いたいことをぐっと堪えて、ヒサシを睨みつけると、その場を後にした。
まさか、ヒサシがあんな行動に出るとは、アスカは夢にも思っていなかった。
適当に女を口説き、自分に靡きそうな女だけを相手にしているのだと思っていた。けれど、ヒサシは違う。自分が手に入れたいと思った女は悉く手に入れないと気が済まないタイプなのだ。タチが悪いな、とアスカは思う。マキコから再依頼があれば、手段を選ばないような男と対峙しなければならないのだ。勿論、今までだって、こういうケースがなかったわけではなかった。けれど、自分がここまで標的にされることもなかったのだ。あくまで、アスカ自身が近付いていき、相手をその気にさせる程度だった。しかし、今回の場合は違う。まだ本格的に接近もしていないのにアスカはターゲットにされているのだ。作戦をきっちり練らなければ相手のペースにハマるだけだ、とアスカは分析する。だが、彼女は狼狽えてもいた。あの時――キスをされた時、不覚にもトキメキを覚える自分がいたのだ。こんなこともこの仕事を始めてから初めてのことだった。

しばらくして、会計の為にアスカはヒサシに呼ばれた。いつも通りの手順で会計を済ませ、ヒサシはバーを出て行こうとする。思わず、視線で追っている自分にアスカは苦笑した。十分過ぎる程、アスカはヒサシに心を掻き乱されているのだ。
ヒサシはドアの前で一度立ち止まり、アスカの方を見た。アスカは慌てて、視線をそらす。ヒサシは何も言わずに、バーを出て行った。寂しげにドアベルが鳴った。

家に着くと、アスカは玄関の電気を点けた。シンゴは寝ているのだろう。部屋の灯りは全て消されており、玄関より先は真っ暗だった。アスカは靴を脱ぎ終えると、玄関の電気を消して、真っ暗な廊下を進む。慣れた手つきでスイッチを見つけ、リビングの灯りをつけた。食卓テーブルには今日も美味しそうな料理が並べてあった。
コートをハンガーにかけ、手洗いとうがいを済ませると、アスカは溜め息混じりで食卓テーブルにつく。椅子に腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せた。
食卓テーブルに視線を落とし、思わず頬が緩む。今日は和食だった。鮭の西京漬け焼きと小松菜のおひたし、味噌汁の横にはレンジで温めてのメモが置いてあった。アスカは席を立つ気にはなれず、冷えた味噌汁に口をつける。それはそれで悪くはないな、と思いながら、お椀を置き、おひたしに醤油をかけ始めた。

「あれ? 今、帰って来たの?」
アスカは突如現れたシンゴに驚き、顔を上げる。
「お醤油、かけ過ぎじゃない?」
寝ぼけ眼でシンゴはアスカに言った。アスカは手に持った醤油差しに目を向けると、すでに小松菜は黒い液体に浸かっていた。
「あーあ。それじゃあ、食べられないくらい辛くなってるだろうね。器換えるから待ってて」
シンゴはそう言って、キッチンへと消える。アスカは今日のヒサシとの一件で自分が少しぼーっとしているのかもしれない、と思った。
「アスカ、お味噌汁って温めた?」
「ううん。温めてない」
キッチンから別の器を持って来たシンゴは、小松菜のおひたしを新しい器に入れ直しながら問う。
「やっぱりね。電子レンジを使った形跡がなかったから。今、温めて来るよ」
そう言って、シンゴは新しい器に入った小松菜のおひたしをアスカの前に置くと、味噌汁の入ったお椀を持って、再びキッチンへと向かった。
アスカはシンゴが戻ってくるまでの間、ただただ食事を見つめていた。

「はい、お味噌汁とご飯。何もせずにすぐ座っちゃったんだね」
シンゴはアスカの向かいの席に腰を下ろした。
「うん……」
「アスカが面倒くさがりなのはいつものことだけど……。今日は何かあった?」
「えっ……」
「顔に書いてある」
「何もないけど……」
「話したくないなら別にいいけど、僕にはお見通しだよ」
「嘘ばっかり」
「嘘なもんか。一体、何年夫婦をやっていると思ってるんだよ」
シンゴのセリフにアスカは言葉に詰まった。本当にこの人は自分を見透かしているのかもしれない、と思ったのだ。アスカはシンゴをまじまじと見据えた。相手は作家だ。小説は人を書くことだ、と昔シンゴから聞いたことがある。それだけ、沢山の人を観察し、感情の機微を感じ取るとも言っていた。「だったら、あなたの方がこの仕事に向いてるかもしれないわね」とアスカが言うと、シンゴは「いつでも力を貸すよ」と笑いながらアスカに言ってくれた。そんな随分と昔のことを彼女は思い出していた。あの頃は本当に幸せだったとも思った。

「本当に何もないのよ」
「そうか」
腑に落ちないといった表情でシンゴはアスカを見ている。けれど、アスカは意に介する風もなく、西京焼きに箸を伸ばした。
「おいしい」
西京焼きを口に入れ、アスカは言った。正直、緊張の所為か味はよくわからなかった。けれど、シンゴの料理がまずかったことなど一度もないのだから、この西京焼きも美味しいに違いない、とアスカは思って口にした。
「良かった」
シンゴはほっとしたように言う。
「シンゴの作る料理でまずかったものは今まで何もないわ」
「僕の取柄は料理が上手いことくらいだからね」
「そんなことない。他の家事だって、完璧だわ。私がするより、よっぽど丁寧よ」
「それは君より時間があるからさ」
自嘲気味に言ったりしないところを見ると、シンゴは心の底からそう思っているようだった。
「違うわ。元々の性格よ。私は大雑把だけど、あなたは几帳面」
「結婚した頃、よく君はO型で、僕はA型だから仕方ないって話をしたね」
「そうね、若い頃はそんな話もよくしたわ」
「懐かしいな」
シンゴは目を細めた。きっと昔のことを思い出しているのだろう。アスカはそんな夫を見て、なんだか嬉しくなった。
「どうしたんだよ」
「えっ?」
「ニヤニヤしてるから」
「そんなことないわよ」
アスカは慌てて否定すると、西京焼きをもう一度口の中に放りこんだ。
「お風呂に入ってくる」
アスカは食事を終えると、そう言って立ち上がった。食器を持って、キッチンへ行こうとする彼女を「僕が片付けておくよ」とシンゴが制した。アスカは「ありがとう」と言って、風呂場へと消えていく。その後ろ姿が完全に見えなくなったところで、シンゴは大きく溜め息をついた。
アスカの様子がおかしいことは一目瞭然だった。シンゴにはだいたい想像がついていた。例のターゲットと何かあったのだ。アスカから他の男の匂いがしていなかったことや、ボディソープの香りがしていなかったことを考えると、男女の関係になった、ということは考えづらい。けれど、キスくらいならしていてもおかしくないだろう、とシンゴは踏んでいた。アスカが風呂からあがったタイミングで問いただすことも出来るが、それは得策でないということをシンゴはわかっている。アスカは頑なに否定するだけだ。シンゴはアスカに白を切りとおしてほしいわけではない。アスカの恋を阻止したいのだ。その為には作戦を練る必要がある。シンゴは覚悟を決めると、一つ大きく頷いた。

一体、どうやって、アスカの気持ちを取り戻そうか。シンゴはいつになく頭を使っていた。こんなに頭を使うのは、久々だと思った。それは普段小説を書くことにそこまで力を注いでいないということを意味していた。そんな自分の怠惰さに呆れながらも、シンゴは久々に懸命に思考を巡らせた。自分の妻を取られるわけにはいかない。
アスカは明らかにターゲットに恋焦がれている。では、どうすれば、その恋は終わるのだろうか。それは簡単なことだ。ターゲットが元の鞘に収まればいいのだ。ふらふらとしている男が自分の戻るべき場所に戻れば、アスカを振り向くことはない。自分を振り向かない男に大抵の女は愛想を尽かすはずだ。
実際、アスカは本当にターゲットを愛しているのだろうか。その点にも疑問が残る。普段は感じることの出来ないトキメキをターゲットがほんの少しアスカに与えただけなのではないだろうか。そう、錯覚だ。きっとアスカはほんの少しのトキメキを恋だと錯覚しているに違いない。
不倫をするような男だ。アスカにだって、言葉巧みに近寄って来たのだろう。アスカはああ見えて、意外に純粋で恋愛経験が少ない。シンゴもそんなに多い方ではなかったが、アスカより恋愛経験がある自信はあった。
ここはやっぱり――そこまで考えて、シンゴは一つ大きく頷いた。
彼にはこの勝負に勝つ為の作戦があった。

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小説「サークル○サークル」01-71~01-80「動揺」まとめ読み

「君は……」
黙々と食べているアスカにシンゴは思い詰めたような声で言った。アスカは咀嚼しながら、目だけで「何?」とシンゴに問いかける。シンゴは一瞬躊躇うようにアスカから視線をそらし、徐に口を開いた。
「君はその誘いを本当に断りたいと思った?」
「えっ?」
シンゴの言葉にアスカは思わず、手に取りかけたほうとうの入ったお椀をテーブルの上に置いた。
「何言ってるの? 当たり前じゃない」
「そうだよね……。ごめん」
シンゴはアスカを見ずに相槌を打つ。アスカは音のない溜め息をついて、ほうとうの入ったお椀に再度手を伸ばした。
アスカがほうとうをすする音だけが部屋に響く。シンゴは何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。自分の言葉が嫉妬から出たものだという自覚があったからだ。けれど、嫉妬だけでそのように思ったわけでは決してなかった。アスカの仕事のことを話す目は――ヒサシのことを話す目は明らかにいつものアスカとは違っていたのだ。口説かれた話をシンゴにするか、しないか迷ったその目は、いけないことをしている子どものようにキラキラとし、まるで恋をしているように、シンゴには映っていた。

アスカはシンゴの言葉に少し引っ掛かりを覚えながらも食事を完食し、席を立った。食器を片付けようとすると、シンゴが「いいから、お風呂に入ってきなよ」と言ったので、彼女はシンゴの言葉に甘えてそのまま風呂場へと直行する。
シンゴは食器を片付けながら、さっきのアスカの目を思い出していた。明らかにあの目は恋する女の目だ。いくら売れていなくても作家は作家だ。人間観察はどんな場所でもどんな時でも欠かさない。些細な人の表情を見逃したりするわけがなかった。それが自分の妻であれば尚更だ。
シンゴは食器を洗いながら、どうするべきか悩んでいた。「君は恋をしているね」と言えば、アスカのことだから、「そんなことないわ」と言うに決まっている。「恋をしているの?」と訊いても同じことだ。どうすればいいのか――それは、彼女が自覚するような出来事が起こる場面を押さえるしかない。即ち、浮気の現場を押さえるということだ。
僕は一体何を考えているのだろう、とそこまで考えてシンゴは思った。

シンゴとて、アスカに浮気をしてもらいたいわけなどではない。第一、アスカがヒサシのことを好きだったとしても、ヒサシにその気がないかもしれないではないか。アスカを誘ったのだって、ただ気の迷いや冗談かもしれない。けれど、それは自分がそう思いたいだけだと、シンゴにはわかっていた。そんな気休めはいらない。シンゴは必死で考えた。アスカが浮気に走らないように何をするべきか、それとも走らせて間違いに気付かせ、やめさせるべきか――。
そこまで考えて、ふと自分を振り返った。浮気は良くないことだけれど、浮気をするにはそれなりの理由があるはずだ。その理由は紛れもなく、自分にあるのではないか、とシンゴは思った。うだつのあがらない夫である、という自覚は存分にある。アスカに養い続けてもらっているという後ろめたさもある。けれど、アスカを愛しているという気持ちだけは本物だ。その思いをアスカはわかっているのだろうか。いや、わかっていてもそれはあまり関係ないのかもしれない。相手が自分を愛しているかどうかが問題なのではなく、自分が相手を愛しているかどうかが問題なのだ。もしアスカがシンゴを愛していなければ、「浮気をしない」理由などないに等しい。結婚しているという、ある種の契約だけで、人の心まで縛れないということをシンゴは痛いほど知っていた。

シンゴは自分の過去を思い返す。アスカとの結婚はシンゴにとって、二度目の結婚だった。一度目は担当編集者と結婚した。けれど、長くは続かなかった。仕事中だけでなく、プライベートな時間まで、仕事のことが過ぎるようになってしまい、シンゴは一緒にいることを窮屈に感じるようになってしまった。勿論、だからと言って、シンゴは浮気などしなかった。それは妻に対しての誠意などではなく、そういった環境になかったことと、浮気をするだけの度胸がなかったからだ。浮気をするには、それなりの覚悟がいる。バレた時にどうやって切り抜けるのか。バレれば罵られるかもしれないし、殴られるかもしれない。ただ愛想を尽かされるだけかもしれないし、泣かれるかもしれない。どんなことが待っているのかわからなかったけれど、修羅場を迎える可能性は高い。そうなった時、自分がどんな状況にも耐えうるだけの強いハートを持っているのか、と自問した際、シンゴの答えはノーだった。強いハートがないのであれば、浮気はしない方が良い、とシンゴは結論付けたのだ。

結婚が上手くいってなければ、浮気くらいしたくなる。意識しているのか、無意識なのか、その違いはあるにせよ、浮気をしたいと思うことに男女間の差異はほとんどないのだろう。新しい刺激が欲しい、パートナーより素敵な相手がいて心惹かれるなど、浮気なんて、恋に落ちるのと同じくらい単純で、星の数ほど理由があるに違いない。
けれど、結婚しているのに浮気に走る、となってくると、恋に落ちるのと話は別だ。理性はどこへ行ったのか、という問題がある。しかし、そもそも色恋に理性を求めること自体がナンセンスな気もしていた。そして、シンゴは考える。アスカの浮気を肯定したくはない。浮気をしそうな状況なら今すぐにでも止めたい。だけど、今ここでそんなことを口にしても、火に油を注ぐようなものかもしれないとも思っていた。反対されれば、余計に浮気をしたくなるかもしれない。アスカは本当に自分の気持ちに気が付いていないのに、気付くきっかけを自分が与えてしまうかもしれない。だったら――自分が変われば良いのだ、とシンゴは思った。もう一度、自分がアスカを振り向かせればいい。離れてしまった気持ちをまた自分に向ければいいんだと思った。シンゴにはそれが何よりも安全で手っ取り早いように思えた。幸いにも最近会話が成立するようになってきている。今日だって、あんなにたくさん話せたではないか。きっと険悪な一時期よりも今の方が状況は幾分もマシになっている。そう思っていた。

アスカはシャワーを浴びながら、仕事のことを考えていた。アスカが請け負っている仕事以外にも事務所としていくつか仕事をしている。アルバイトたちもよく働いてくれていて、特に心配するような状況でもなかった。一番の問題はアスカが抱えている案件だ。マキコからは連絡はまだない。たった二、三日では状況は変わらないだろう。気長に待つしかないけれど、やはりイライラや不安は次第に募っていく。そんな時、シンゴが温かい食事を作って待っていてくれるというのは、幾分心が和んだ。アスカの話を聞いてくれて、尚且つ的確なアドバイスもくれる。作家という仕事柄か、シンゴの発想はいつだってアスカとは違っていたし、良い刺激にもなった。けれど、シンゴにはどうしても男を感じなくなっている。極端な話をすれば、セックスをしたいと思わない、ということだ。シャワーを浴びながら、アスカは自分の身体に視線を落とす。いつから誰も自分の身体に触れなくなったのだろうか。お湯が滑り落ちていく肌は今もまだきちんと水を弾き、肌理の細やかさは健在だ。なんだかそんな自分の身体を見ていると、可哀想に思えてきた。きちんと女として機能するのに、使われていないということが情けなくもあり、勿体なく思えてしまう。そんなことを思ってしまう自分は贅沢なのだろうか。アスカはシャワーを止めて、溜め息をついた。

アスカは今日も事務所に寄った後、バーに来ていた。アルバイトは今も続けている。マキコに調査の停止を求められてからすでに二週間が過ぎていた。時間が過ぎるのはとてつもなく早い。その間、シンゴとは言葉を交わすことが増えたけれど、特に大きな変化はなかった。相変わらず、男として見ることが難しく、ただの同居人と化していた。もしかしたら、彼が仕事に意欲を見せ、彼の収入がアスカの収入を上回ったり、活き活きとした表情を見せるようになれば、少しはこの状況も改善されるのではないか、と思っていたけれど、シンゴにその様子は微塵も見えない。主婦業は完璧だったが、それだけだった。その点、今目の前にいるヒサシは魅力的だった。今日は珍しく一人で飲みに来ている。きっとここで待ち合わせをしているのだろう。少し遅れて、またいつものようにキレイな女の子が来るに違いない。そして、彼はその女の子とホテルへ消えていくのだ。
そんなことを思っている自分にアスカはうんざりした。最近の自分は色恋のことばかり考えている。仕事に精が入っていないようにさえ思えた。

ヒサシは珍しくバーボンを頼んだ。アスカはオーダーされたバーボンとミックスナッツを持って、ヒサシの元へと行く。ヒサシのところにオーダーの品を持って行くだけなのに、ドキドキする自分に内心苦笑した。これではまるで片思いをしている中学生のようではないか。
ヒサシの前に着くと、アスカはオーダーの品をテーブルの上に置いた。
「バーボンとミックスナッツでございます」
アスカの姿を見て、ヒサシは笑みを零した。瞬間、アスカは胸の奥がきゅんとしたことに驚いた。完全に自分がヒサシに気持ちを奪われていることに気が付いた瞬間だった。
「今日は一人なんだ」
訊いてもいないのにヒサシは言った。
「そうなんですね」
「今、珍しいと思ったでしょう?」
「はい」
アスカは素直に答えた。今更、ヒサシになんの遠慮がいると言うのだろう。嫌という程、ヒサシが違う女を連れて来ていたのを見ていたのだ。
「たまには一人で飲みたくなることもあるんですよ」
ヒサシは言って、苦笑する。伏し目がちの目に何だか哀愁まで感じてしまうから不思議だ。完全にヒサシに心を奪われているのだ、とアスカは思った。どこか冷静でいられるのは、彼女がヒサシとの接触は仕事の一環だという自覚をしているからに他ならない。けれど、いつか仕事だというこの自覚を飛び越えてしまいそうなことに、アスカは不安を感じていた。

「だから、今日は少し話し相手になってもらえませんか?」
相変わらず、紳士的な物言いにアスカはくらっとしてしまう。
「はい。幸い、今日はお客様もいつもより少ないですし」
アスカが笑顔で返すとヒサシも微笑み返した。こんなにも容易く微笑み返す男はなかなかいないが、それが女の心を簡単に掴んでしまえる理由なのかもしれない。アスカはヒサシが激昂したり、不機嫌になったりする情景を思い浮かべることが出来なかった。いつでも穏やかに物事を解決してしまえるような気がしていた。きっと女をイライラさせたりはしない。そんな風にさえ思えた。
女は余裕のある男に弱い。それをきっとヒサシの端々に出る態度で感じるのだ。そして、妻帯者でありながらも、他の女はヒサシの魅力に憑りつかれてしまう。もしかしたら、この余裕は妻帯者だからこそのものかもしれない。けれど、ヒサシの魅力に憑りつかれた女にはそんなことなど関係なくなってしまうのだろう。独身の男にはない魅力で女の心はいとも簡単に骨抜きにされてしまうのだ。

他愛ない会話が進んでいく。最近の天気予報が当たらないとか、日に日に寒さが増しているとか、見知らぬ誰かとでも交わせるような内容の話ばかりが続いていた。傍から見ていれば、和気藹々としているように見えるが、そんな状況にあってもアスカは物足りなさを感じてしまう。もっとヒサシのパーソナル部分が知りたい、もっと自分のことを知ってもらいたい、と彼女は思わずにいられなかった。けれど、そんなことは口が裂けても言えない。それは仕事としてヒサシに接触しているからなのか、それともただ単にヒサシに恋するあまり嫌われるのが怖くて言い出せないのか、アスカにもよくわかってはいなかったが、明らかにそういった感情は恋をしたから持つものだということを彼女は自覚していた。そんな自分に嫌気がさしたけれど、アスカはどうすることも出来ずにいた。
そんな時だった。ヒサシから意外な言葉が飛んできた。
「そう言えば、ご結婚されているんですか?」
「えっ……」
アスカは一瞬言葉に詰まる。
「どう見えますか?」
咄嗟の判断にしては上出来な返しだ。まさか、ヒサシからそんな質問をされるなど微塵も思っていなかったアスカは、ヒサシの次の言葉にどう答えるべきか頭を悩ませていた。

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小説「サークル○サークル」01-61~01-70「動揺」まとめ読み

「女の勘で浮気に気が付き、ケータイを見て確信に変わる。浮気発覚で一番よくあるパターンだってことは、アスカが一番よく知っているだろう?」
「そうだけど……」
 しかし、アスカはどこか腑に落ちなかった。マキコがそんなことをするような女に見えなかったからだ。今になって思うと、依頼された時にどうして浮気に気が付いたのか、ということを訊かなかったことを後悔していた。いつもなら、間違いなく訊いていたはずだ。けれど、あの時、なぜかそんなことを訊く気にはならなかった。それはマキコの持つ雰囲気やしぐさが理由だったのだろうが、後悔だけがアスカの気持ちに残る。
「そうやって、依頼者はターゲットの浮気を知り、浮気相手までをも知ってしまった。そして、君のところにやって来た。外で仕事をしていれば、気が紛れるかもしれないけれど、ずっと家にいる専業主婦にとっては、家庭が全てになってしまいがちだからね。自然と視野が狭くなってしまうこともあると思うよ。依頼者が多趣味で習い事をいっぱいしていたとかっていうんなら、また違ってくるとは思うけど」
 そこまで言って、シンゴは「まぁ、僕も常に家にいる身だからね、依頼者の気持ちがわからなくはないんだ」と付け加えた。
 
 「視野が狭くなる、自分の世界が家庭だけになる。これって、実はとても怖いことだと思わない? 世界は限りなく広いんだ。けれど、依頼者にとってはそうではなかった。狭い世界だから、なんにでもすぐ手が届く。手が届くなら、敢えて触れないという選択をしない限り、簡単に触れることが出来てしまう。本当は触れない方がいいものにも触れてしまうんだ。けれど、触れれば真実を知ることが出来る。もやもやするくらいなら、一層のこと、傷付いても真実を知りたいと思うのが多分人間ってものだと思う。間違いなく、僕だったら、触れてしまうだろうね」
 小説の文章のような言い回しに聞き入りながらも、最後の一文にアスカは度胆を抜かれた。そして、すぐに言葉が口をついて出た。
「私のケータイ見てるの?」
 驚いた様子で言うアスカに「まさか」と言って、シンゴは笑う。そして、「たとえ話だよ」と続けた。
「だから、たとえどんなタイプの女性だったとしても、ケータイを見るのは別に有り得ない話ではないと思うよ」
 シンゴの言葉を受けて、アスカは唸っている。しばらく唸っても答えは出そうにないと彼女は判断し、シンゴの目をしっかりと見据えると、再び口を開いた。
 
 「依頼者がケータイを見て、ターゲットの浮気と浮気相手もわかってたわけでしょう? なのに、どうして私のところに依頼に来たのかしら……?」
 アスカはシンゴから視線を外し、テーブルに並べられた食べかけの食事に視線を落とした。
「それは家庭に波風を立てずに別れさせてほしいからだろう? 依頼者がターゲットを問い詰めたりしたら、浮気をやめたとしてもわだかまりは残るからね。それに自分で問い詰めて、ターゲットが浮気相手を選ぶのが怖いからじゃないの?」
「それはそうかもしれないけど……。なんか腑に落ちないっていうか……」
 アスカは自分の仕事の甘さに憤りを感じつつ、言いようのない違和感を覚えていた。何かが引っかかる。けれど、何が引っかかっているのかアスカ自身にもよくわからなかった。その引っかかりの一つであろうことをアスカは躊躇いながらも口にした。
「あのね、依頼者は妊娠してるのよ。妊娠がわかったら、急に夫が優しくなるとかってよく聞く話じゃない? 妊娠してるなら、妊娠を伝えて、浮気をやめてもらうことって、有効な方法な気がするんだけど……」
「でも、浮気が一番多い時期っていうのは、奥さんの妊娠してる時だとも言うよね」
「確かに……」
 アスカは腕を組み再び唸り出した。パエリアもスープもすでに冷め切ってしまっていた。
 
  翌日の夜、アスカはバーにいた。マキコの依頼再開の申し出があった場合に対応出来るように、少なくともあと1ヶ月は働くつもりでいた。しかし、アスカがバーで働くのは決してそれだけが理由ではなかった。視線の先にはヒサシがいる。心のどこかでアスカはヒサシのことをもう少し知りたいという好奇心に駆られていた。
 今まで様々な仕事を請け負ってきたが、一度もターゲットに対して、こんな感情を持ったことはなかった。アスカはいつだって、正確に業務を遂行していたし、ターゲットに心を奪われるようなこともなかった。けれど、ヒサシに会った時、今まで感じたことのない感情が自分のお腹の底から沸々と湧き上がって来るのを感じていた。それはヒサシに会えば会うだけ大きくなっていく。アスカに旦那がおらず、ヒサシがターゲットでなければ、恋と呼ぶにふさわしい感情だったかもしれなかったが、そんな感情をアスカがターゲットであるヒサシに持つことなど許されるわけがなかった。ここでヒサシに恋をしてしまっては、アスカの仕事は台無しだ。アスカは自分の感情に気付かない振りをしながら、しかし目だけはしっかりとヒサシを追っていた。だが、その横には今日も可愛いという言葉がよく似合う女が座っていた。
 
  しばらくすると、ヒサシの隣に座っていた女が化粧室の場所をアスカに訊き、席を立った。
「今日はいつもと雰囲気が違いますね」
 ヒサシは女の姿が見えなくなると、アスカに笑顔を向ける。そういう抜かりのなさにアスカは苦笑しそうになった。そして、「あぁ」と言って、彼女は髪留めに手をやる。今日は髪をアップにしていた。
「……変ですか?」
 アスカは急に不安になって訊く。そんなアスカをヒサシは優しい眼差しで見据えた。
「いえ、とてもお似合ですよ。いつもより、色っぽく感じるけどね」
 ヒサシの言葉にアスカは自分の頬が高揚していくのを感じていた。
「それはありがとうございます」
 店内が薄暗くて良かったと思いながら、アスカは頭を下げた。これ以上、ヒサシの前にいることが恥ずかしくて、アスカがヒサシの前から立ち去ろうとしたその時だった。
「ねぇ、今日、この後、空いてる?」
「えっ……?」
 突然過ぎる言葉に思わず聞き返す。アスカはヒサシの目を見た。その目は真剣そのものだ。一瞬、胸が高鳴った。が、アスカはすぐに自分の立場を思い出す。冷静さを失っては、この仕事を遂行することなど到底出来はしない。アスカは過ぎった気持ちを悟られないようににっこりと微笑んだ。
 
 「お相手の方に申し訳ないです」
 遠慮がちに、だがしっかりとアスカは言った。
「君なら、きっとそう言うと思ったよ」
 ヒサシは余裕の笑みを浮かべながら、アスカを見遣る。
「仕方ないね、今夜は彼女の相手をすることにするよ」
 ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つと、アスカに微笑んだ。そこへタイミング良く、女が戻ってくる。アスカはお辞儀をすると、カウンターの奥へと向かった。
 アスカは濡れたグラスを手に取り、一つ一つ丁寧に拭いていく。グラスを持つ手に思わず力が入った。あのセリフはなんなんだ――アスカはヒサシの態度にイライラせずにはいられなかった。「仕方ないね、今夜は彼女の相手をするとこにするよ」とはあまりにも上から目線の発言ではないか。毎晩連れてきている女に自分は興味がないけれど、自分に好意を持ってくれるからここへ連れて来て、ベッドを共にするというのだろうか。ヒサシは自分がモテることを知っている男だと思う。けれど、あの発言はどうしたって、許しがたい。そして、アスカははっと我に返る。どうして、そこまで相手の女の立場で考えてしまっているのだろうか、と。
 それは紛れもなく、アスカの意思に反して、アスカが次第にその女の立場に近付いている証拠だった。
 
  ヒサシと女のことが気になったが、アスカはちらちらと少し離れた場所から見ることしか出来ずにいた。会話の内容を知りたい――いや、仕事の一環として聞かなければならない、と思うのだが、いかんせん、身体が思うように動かなかった。知りたいと思う反面、どこかで知ることを怖いと思っている自分がいるのだ。
 こんなことでどうするの、仕事なのに。そう思ってはみても言いようのない、釈然としない気持ちだけが頃の奥底に滞留するのを感じていた。
 そうこうしているうちに、ヒサシが片手を挙げた。アスカは一瞬ドキリとしたものの、平静を装い、ヒサシたちの前に行く。
「お待たせ致しました」
 アスカはいつもと同じセリフを口にする。
「チェックをお願いします」
 ヒサシは口元に薄っすら笑みを浮かべ言った。「かしこまりました」とアスカは伝票を取りに行く。
これからきっとヒサシと女はベッドをともにするのだろう。仕方のないことだけれど、なんだか遣る瀬ない気持ちになった。アスカは伝票とカルトンを持ち、再びヒサシたちの前へと行く。締めつけるような空しさだけが、アスカの心の中を支配していった。

「伝票でございます」
 アスカは伝票をヒサシに手渡す。ヒサシが受け取る瞬間、ちらりと隣の女を見遣った。栗色の巻き髪がいかにもといった今風の若い女だ。その女のネイルには、凝ったデザインのアートが施され、手にはしっかりとブランドもののバッグがあった。女はカウンターの上にある空になったグラスをぼんやりと眺め、財布を取り出す気配すらない。アスカにはそんな女の態度が理解出来なかったし、気に入らなくもあった。一瞬過ぎった「私の方がいい女なのに」という気持ちは単なる僻みでしかない。第一、成熟しかけている大人という意味では、アスカの方がいくらか年が上なのだから当たり前であったし、何よりこの女はアスカより幾分もキレイだった。アスカにはない美貌を持ち合わせているという点では、明らかに女の方が優れている。
 ヒサシは数枚の一万円札を伝票に挟むとアスカに渡した。アスカはそれを丁寧なしぐさで受け取ると、「かしこまりました」と言ってレジへと向かう。釣り金とレシートをカルトンの上に乗せ、ヒサシのところへ再度持って行った。
「お待たせ致しました。お返しでございます」
 アスカは小銭の乗ったカルトンをヒサシの前に置いた。「ありがとう」とヒサシは言い、振り向くことなく、店を後にした。
 ヒサシと女の後ろ姿を見送りながら、アスカはもやもやとした気持ちだけが心の中で渦巻くのを感じていた。
 
  アスカが深夜に家に着くと、シンゴは珍しく起きていた。
「おかえり」
 笑顔で出迎える夫にアスカは「ただいま」と応える。昨夜、会話があった所為か、以前ほどシンゴに対して、嫌な感情はなかった。アスカは脱いだコートをハンガーにかけると食卓に着き、シンゴはタイミング良く、温かい食事をアスカの前に並べた。
「夜も遅いから、あまり重くないものにしたよ」
 シンゴに言われて、アスカは目の前の食事に視線を落とした。はらこめしとほうとうが湯気を立てている。小鉢には小松菜が入っていた。
「健康的ね」
 アスカの言葉にシンゴは満足そうに頷いた。
「君のことだから、カロリーも気にするだろうと思って、和食にしたんだよ」
 シンゴの言葉にアスカは素直に「ありがとう」と言った。「いただきます」と言って、彼女は食事を始める。シンゴもそれに付き合う形で向かいの席に座った。
「夜遅くまで大変だね」
「えぇ、そうね。でも、大分慣れたわ」
「今日もターゲットは他の女を連れて来た?」
「えぇ。毎回、違う女なのには本当に呆れるわ。そう言えば……」
 アスカはほうとうを持ち上げて、手を止めた。
「そう言えば?」
 鸚鵡返しに問うシンゴにアスカは黙ったまま、視線を彷徨わせた。言うか言わないか、一瞬心に躊躇いが生じたのだ。しばらくして、アスカは口を開いた。
 
 「口説かれたの」
「えっ!?」
 アスカの言葉にシンゴは目を丸くした。
「口説かれたって、君が?」
「私以外の誰の話をするのよ」
「そりゃそうだけど……。そうか、君が口説かれたのか……」
「何? 私が口説かれることがそんなに不思議?」
 少しむっとした様子で言うアスカに、慌ててシンゴはかぶりを振った。
「そんなこと言っていないじゃないか。いや、まさか、君にまで接触を図ろうとするなんて、大した度胸だな、と思って」
「それどういう意味?」
「あっ、えっと、君が思っているような意味じゃなくて、別れさせ屋である君を口説くなんて、度胸があるって意味」
 言い繕うのに必死なシンゴは額に汗を滲ませている。「まぁ、いいわ」と言って、アスカはほうとうを啜った。
「それで、君はどうしたの?」
「断ったわよ」
「なんて?」
「お相手の方に申し訳ないですって」
「へぇ……」
「何よ、誘いに乗った方が良かったわけ?」
 アスカは言って、シンゴを睨みつける。シンゴは大袈裟に首を左右に振って見せた。
「そんなこと思うわけないじゃないか。ちゃんと断ってくれて、安心したよ」
「でしょうね」
 アスカはつっけんどんに言い放つと、今度ははらこめしに手を伸ばした。

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小説「サークル○サークル」01-51~01-60「動揺」 まとめ読み

 アスカが風呂からあがってくると、すでに夕飯の準備は万全だった。テーブルには所狭しと料理が並べられ、冷えたグラスも用意されている。
「今日は飲むでしょ?」
 シンゴはテーブルの真ん中にパエリアを置きながら、アスカをちらりと見て言った。
「そうね……。たまには」
 アスカは答えると、濡れた髪を拭きながら、席へと着く。そのまま、プラスチック製のヘアアクセサリーで髪をアップにすると、バスタオルを隣の椅子にかけた。アスカの前でシンゴは忙しなく、キッチンとテーブルを行ったり来たりしている。
「今日はパエリアに初挑戦したんだよ」
 シンゴは缶ビールを2本持ってくると、嬉しそうにパエリアを指差した。
「おいしそうね」
「うん! 自信作だよ」
 シンゴが缶ビールのプルトップを引き上げると、小気味良い音を立てて、缶ビールが開いた。アスカの持つ冷えたグラスにシンゴは要領良くビールを注ぐ。シンゴはアスカのグラスに注ぎ終わると、自分のグラスを反対側の手に持ち、ビールを注いだ。昔なら、アスカはシンゴの分を注いでくれた。けれど、今はそれすらもしてくれない。愛情が冷めきっている証拠だとシンゴは悲しくなった。けれど、ここで不満そうな顔をすれば、それだけでケンカの原因になることもわかっている。擦れ違いが重なり、関係が冷え始めた夫婦は常に一触即発の危険に晒されている。シンゴは楽しい夕飯の時間を死守する為に、平常心と作り笑顔に努めた。

「乾杯!」
 シンゴが言うと、アスカは静かにシンゴのグラスに自分のグラスを当てた。グラスのぶつかり合う高い音が静かなリビングに反響する。
「ねぇ、最近、仕事はどう? 順調に進んでる?」
 ビールをおいしそうに飲んだ後、シンゴはアスカに訊いた。アスカはビールを飲むのを止めて、首を傾げた。
「まあまあね」
「今、どんな仕事してるの?」
「女性からの依頼で、旦那と不倫相手を別れさせるっていう内容の仕事。いつもと変わらないよ。ただ……」
「ただ……?」
 鸚鵡返しに問うシンゴにアスカは口籠る。何か言いづらいことがあるのかとシンゴは急に不安になった。基本的に守秘義務厳守の別れさせ屋という仕事柄、アスカは仕事内容を他言することはない。けれど、シンゴにだけは別だった。彼は誰かに知った情報を漏らすわけでもなかったし、時折、アスカが思いもつかなかった方法を提案してくることもある。そういったメリットがあったので、アスカはシンゴと付き合うようになってから、シンゴにだけ話すのが習慣になっていた。最近はめっきり2人の会話も減ってしまい、仕事の話をすることもなかったけれど、アルコールが入ってる所為か、はたまた習慣のなせるわざか、アスカは今までと同じようにシンゴに今回の依頼内容について説明を始めた。

 今日のアスカはいつもより、やけに饒舌だった。
 アスカは依頼のあった日から今日の出来事まで、丁寧にシンゴに説明する。そうして、ふとこうしてシンゴと随分長い間、会話をしていなかったことに気が付いた。
 仕事が忙しいから、というのはもっともな理由だろう。けれど、昔の自分ならどんなに忙しくても、シンゴと話す時間を作っていたはずだ。シンゴとすれ違っていくのは、自分の怠惰さにも原因があるような気がした。しかし、それでもやはり、シンゴのうだつのあがらなさが何よりの原因だと次の瞬間には思い直していた。
「それじゃあ、調査は完全に打ち切ってしまうの?」
 マキコが依頼を断りに来たところまで話し終わると、シンゴが複雑な表情を浮かべて問うた。
「いいえ。依頼者の一時的な気の迷いである可能性も大いにありうるわ。また、調査を再開してほしいと言われた時に、あのバーを辞めていると、何かと不便だもの。取り敢えず、まだバーは辞めないし、ターゲットとの接触もやめないわ」
「それも大変だね……」
「確かに調査の再依頼がなければ困りものだけど、再依頼さえくれば、継続していた費用は請求するし、問題ないもの。まぁ、賭けではあるけどね」
 アスカは言いながら、パエリアに入っていたエビにかぶりついた。味がしっかりとついていて、おいしいと思ったが、眉間に皺を寄せて考え込んでいるシンゴを見て、感想を言うのをやめた。

「ねぇ、どうして、依頼者が依頼を断って来たかわかってる?」
 シンゴは眉間に皺を寄せたそのままで言った。シンゴの言葉にアスカは「わからないけど」とあっさりと答えたが、はっとして続けた。「もしかして、あなた、わかっているの?」その言葉を待ってましたとばかりに、シンゴは不敵な笑みを浮かべた。アスカは一瞬背筋がぞっとする。二の腕をこすりながら、アスカはシンゴのその不敵な笑みから目を離せずにいた。
「依頼者が依頼を断ってきた理由を本人は色々と繕うだろうけど、本当の理由はたった一つだけだと思うよ」
 そこでシンゴは言葉を区切る。
「もったいぶらずに教えてよ」
 仕方ないな、と言いたげにシンゴは口を開いた。
「君とターゲットが恋に落ちたらどうしよう、という不安からだよ」
「まさか」
 アスカはシンゴの言葉を鼻で笑った。
「君は何もわかってない」
 シンゴは鼻で笑ったアスカの目を見つめて言う。その目は真剣そのものだ。
「どういう意味よ」
「そのままの意味さ。女は全て浮気相手になりうる、というのが彼女の本心だと思うよ」
 シンゴは事もなげに言った。

「そんな中学生みたいな発想するかしら?」
「女の半数以上は、そうだと言っても過言ではないと思うけど」
「でも、私はそうじゃないわ」
「アスカはね。君は少し変わってるから」
 シンゴはさらりと言ってのける。内心腹も立ったが、アスカは言い返さなかった。心当たりがありすぎたのだ。自分は人とはどこか違う。それは指摘されなくとも、自分で気が付いていることだった。でなければ、大学卒業と同時に別れさせ屋など開業したりしない。
「男ってのは、浮気する生き物だって言うだろう?」
「そうね。でも、ここに例外がいるわ」
「あぁ、僕はしないね」
 アスカは浮気なんてする度胸がない、という皮肉を込めて言ったつもりだったが、シンゴには伝わっていないようだった。むしろ、良い意味で受け取っている様子さえ窺える。
「なんにでも例外っていうのはあるものさ」
 シンゴは涼しい顔をして、ビールを飲み干した。
「だいたい、男女の友情ってものが成り立つと思うかい?」
 シンゴの話は尚も続く。いつもなら、この辺でもういいと思うところだったが、今日のアスカは違った。アルコールも手伝って、いささか良い気分なのも確かだが、何よりシンゴの話は興味深かった。久しぶりにシンゴが作家である、ということを彼女に思い出させていた。

「成り立つんじゃない?」
 アスカはムール貝を口に運びながら言った。いつも思うことだが、やはりこの味を好きになれない。それでも、なぜか毎回チャレンジしてしまう自分に半ば呆れていた。
「じゃあ、君は友情関係の成立した男友達を持っているんだね?」
 言われて、アスカはしばし考え込む。何人か男友達の顔が浮かんだが、果たして、本当にそこには友情しかなく、恋愛感情は皆無だと言い切れるのだろうか。強く迫られたら、恋に落ちてしまいそうな友達が二人いることに気が付いた。けれど、それ以外は全員恋愛対象外だ。しかし、相手の男友達に自分に対する恋愛感情が皆無だと言い切れるだろうか。心の中のことは、本人にしかわからない。
「そうね。だいたいは、成り立つんじゃないかしら」
「ということは、成り立たない関係性でありながら、友達関係を続けている、ということだね」
「そういうことになるわね。そういうシンゴはどうなのよ」
「僕? 僕は成り立たないと思っているよ。だから、女性と二人きりで食事を行くなんて、浅はかな真似はしない。編集担当者は別だけどね」
 シンゴの言葉にアスカは黙るしかなかった。

「ターゲットはきっと君の話を家に帰ってから、依頼者にしてると思うよ」
「えっ」
「だって、それが自然だと思わない? ターゲットは毎晩飲んで帰ってくるわけだろう? そうなれば、どこで誰と飲んでいたの、という話になる。そうした時、バーなら一人で飲んでいたって、おかしくなんてないし、いちいち会社の同僚や上司と飲んでいた、なんて嘘はつかなくていいからね。その証拠にバーで話した君の話をする。そして、依頼者は別れさせ屋である君と話しているんだということに気が付く。だけど、別れさせ屋だと言っても、相手は女性だ。そこに嫉妬心が芽生えないと言い切れる?」
「それは……」
「ターゲットは頭の良い人だと思うよ。浮気現場にバーを選ぶなんて。一緒に連れてきた女性の話は依頼者にはせずに、バーで話した君の話だけをする。この時点でターゲットは何一つ嘘をついていないんだからね」
 シンゴはスープを口に運んだ。少し生ぬるくなっていたが、かぼちゃの味が口の中いっぱいに広がることに幸せを感じた。もう一口飲もうとして、アスカを見る。アスカは難しい顔をして、パエリアを見つめていた。

「食事が冷めちゃうよ」
「そうね……」
 アスカはどこか上の空で返事をする。彼女はありったけの想像力と論理力で思考を巡らせたが、シンゴのスピードには敵わなかった。こういう時、悔しいけれど、本当にシンゴのことをすごいと思う。この人の妻で良かったと思う唯一の瞬間だと言っても、過言ではなかった。
「一人で毎晩飲みに行くのって、おかしいと思われないかしら?」
「それが習慣だと言えばいい。それにそう言われたって、一人で行っていた、と言えば、それまでだよ。人は嘘をつく時、全てを嘘で固めるとついついボロが出てしまう。だけど、ピンポイントで嘘をつけば、その嘘はバレにくくなる。だから、一人で行っていた、という嘘をつくくらいなんてことないと僕は思うけど」
「なるほどね……」
 アスカは頷いたものの、はっとした。だとしたら、どうして、マキコはヒサシの浮気に気が付いたというのだろう。
「でも、そんなに周到に嘘がつける賢さがあるのに、どうして、依頼者に浮気がバレたのかしら?」
「そういうタイプはホテルの領収書を持って帰るなんてヘマはしないだろうし、バレるとすればその周到さえ故だろうね」
 シンゴは微笑む。その微笑みにアスカは一瞬ぞくりとした。

「周到さ故ってどういうことよ?」
 アスカはいつもと違って、若干だが輝いて見える夫に向かって言った。
「浮気がバレないように完璧に振る舞うだろう? けれど、その完璧さはある種の不自然な空気を生んでしまう。そして、その空気を女性は見事に見破るんだ」
「よく言う女の勘ってやつ?」
「そうだよ。嘘には必ずどこかに綻びがある。その綻びはとても小さくて、普通じゃ気付けない。特にこれが男女逆転の場合は尚更。男性にはちょっとした空気の違いを見破るような鋭さは備わっていないからね。けれど、女性にはその鋭さが生まれつき備わっている。だから、女性は男性の浮気にすぐ気が付けるんじゃないかな」
 今までの明確な推理とは打って変わって、憶測の域を出ないシンゴの発言に、アスカはいささか訝しげな表情を浮かべたが、敢えて口にはしなかった。シンゴの言わんとしていることは、女のアスカにはいくつも心当たりがあったからだ。その代わり、別の疑問を口にする。
「でも、どうして、浮気相手まで誰なのかがわかるのよ」
「それは簡単さ」
 シンゴは得意げな顔をする。アスカは一瞬イラっとしたが、表に出さずにシンゴの話の続きを待った。

「依頼者がターゲットのケータイを見たか、ターゲットの仕事先を覗きに行ったかのどちらかだろうね」
「そんな、まさか」
 アスカはマキコとの会話を思い出す。依頼された時にそんな話は聞かなかったし、何よりマキコが夫のケータイを見るような浅はかな女には見えなかった。けれど、もし夫に浮気の疑いがあったとしたら、どんな利口な女でもケータイを盗み見るようなまねをするのだろうか。
「嫉妬に狂えば、まさか、と思うようなことを人間は簡単にしてしまうと思うけど」
「嫉妬に狂うなんてこと、あるかしら?」
「その人、仕事は?」
「パートをしてるって言ってたわ。パートで依頼料を貯めたみたい」
「パートをした理由が依頼料の為だったとして、それまでは専業主婦だったとしたら?」
「何が言いたいのよ」
 アスカはシンゴの言っている意味がわからず、もどかしさからついむっとして強い口調になる。
「専業主婦だとしたら、家事をして、ターゲットの帰りを待つ毎日の繰り返しだろう? だけど、ターゲットは浮気をして、帰りが遅い。そうなれば、寂しさは募るばかりだと思わないかい?」
「そりゃあ、そうかもしれないけど……」
 アスカは思考を巡らせたが、シンゴの言葉に反論する良い理由を見つけることが出来なかった。

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小説「サークル○サークル」01-41~01-46.「作戦」 01-47~01-50.「動揺」まとめ読み

「あなたみたいな人がここで働いているのが不思議でね」
「どうしてです?」
 アスカはそっと胸を撫で下ろしながら訊いた。
「頭の回転もいいし、受け答えもいい。ここで働くには実に惜しい」
「……そんなこと」
 アスカの返事に彼女が気分を害したのだと思ったのか、ヒサシは「失礼」と言って、苦笑した。
「決して、接客業を軽んじているわけではないですよ。ただ接客業というよりは、営業向きだって思ったんだ」
「そんなこと考えてもみなかったわ」
「自分の適性を正確に把握している人間は少ないからね」
「転職する際の参考にさせていただきます」
 アスカはヒサシに笑顔で言った。ヒサシが何か言いかけた時、別の客に呼ばれてアスカはヒサシに背を向けた。
ヒサシは口を噤み、視線をアスカからそらした。じっと彼女を見ていることがなんだか急に気恥ずかしくなったのだ。自分でもどうしてそんな風に感じたのかわからず、ヒサシは眉間に皺を寄せた。
アスカはヒサシの方に向き直ると、「それでは、失礼します」と言って、別の客の元へ行ってしまった。

 ヒサシはジントニックの入ったグラスに口をつけて、彼女の後ろ姿を目で追った。
 然して、美人というわけではないが、気になる女だな、とふと思って、ヒサシはまた苦笑した。最近の自分の行動に少し笑ってしまったのだ。軽率な行動、などと言ったら、声をかけている女に失礼だと思う反面、その言葉が一番しっくりくるような気がしていた。女なら誰でもいいのか、と時々自問してしまうくらい、最近のヒサシは手当たり次第、いいなと思った女に声をかけていた。勿論、仕事に支障が出ないような女にしか声はかけない。会社に押しかけてきたり、浮気をネタにゆすってきたりする女は避けたかった。自分に本気になる女は、妻と愛人の2人もいれば十分だと考えていた。本気――そこまで考えて、ヒサシは深く溜め息をついた。2人を同時に愛することは出来ても、2人の本気を同時に受け止めることに、最近いささか疲れ気味であることは違いなかった。そんな疲れから手当たり次第に声をかけているのかもしれない、と思ったところで、ヒサシは考えるのをやめた。いくら考えたって、今の彼には答えなどわからなかったからだ。
 ヒサシは徐に携帯電話をポケットから取り出した。着信もなければ、メールの受信もない。溜め息をついて、再びポケットに携帯電話をしまった。
 その後、彼がいくら待っても、待ち人は来なかった。

 アスカはベッドの上で大きく伸びをすると、隣でまだ寝ているシンゴに目をやった。静かに寝息を立て、丸まるように眠っている自分の夫を見て、溜め息をつく。
 昔はこんな姿を見るだけで、嬉しくなったものだ。隣に自分の愛する人が寝ている、という事実だけでどうしてあんなにも嬉しかったのか、今の自分には到底理解することなど出来ない。あの頃の気持ちと今の気持ちの落差にアスカはもう一度溜め息をついた。
 彼女はベッドから出て、ひんやりとしたフローリングに足をつけた時、ふと昨日のヒサシのことを思い出した。選ばれた言葉、眼鏡のブリッジを押し上げるキレイな指、スマートな振る舞い、どれをとっても、胸をときめかせるには十分だった。今、自分の隣で寝息を立てている男とは雲泥の差だ。
 アスカはまた出そうになった溜め息を奥歯で噛み殺した。

 今日はバーでの仕事は休みだったので、アスカは事務所の椅子に座り、いつものように机の上に足を乗っけながら、書類に目を通していた。左手には書類、右手には煙草を持ち、白い煙を事務所に充満させている。
「別件は上手くいってるみたいねー……」
 煙草を灰皿に置き、紅茶の入ったカップに持ち替えると、アスカは紅茶を一口すすった。書類を机に置こうとした時、突然事務所のドアがノックされた。

 アスカは慌てて、机から足を下ろす。あともう少しで灰皿を蹴飛ばすところだったが、掠る程度で済んだのを見て、安堵の溜め息をついた。そして、自分の溜め息の多さに1人苦笑する。
「どうぞ」
 アスカはドアに向かって言った。ドアは遠慮がちに開くと、ひんやりとした風を一緒に運んできた。ドアの向こう側にいる人物に目を凝らす。そこには髪を丁寧に巻き、お腹が隠れるようなふんわりとしたワンピースを着たカイソウ マキコが立っていた。
「お久しぶりです。どうしました? 取り敢えず、こちらにどうぞ」
 突然のマキコの訪問にアスカは驚きつつも、平然とマキコを中に招き入れた。
「すみません……。突然、押しかけてしまって……」
 マキコは申し訳なさそうに言った。彼女がどうしてここに来たのかの検討はつく。きっとヒサシと不倫相手の現状を聞きに来たのだろう。アスカは「大丈夫ですよ」と営業スマイルを向けた。
「今、お茶を淹れますから、かけてお待ち下さい」
 アスカは言いながら、キッチンへと消える。
「いえ、お構いなく」
 マキコは一応遠慮したが、それが建前であることをアスカも知っている。アスカはポットを用意すると、マキコの身体を気遣って、ノンカフェインの紅茶を選んだ。

 しばらくすると、アスカはクッキーと一緒に紅茶をマキコの前へと置いた。
「今日はどのようなご用件でしょうか」
 予想はついていたが、アスカは取り敢えず訊いた。
「主人のことなんですが……」
 マキコは口を開き、申し訳なさそうに言った。
「もう別れさせなくても結構です」
 きっぱりと言い放ったマキコの言葉にアスカは自分の耳を疑った。
「今、なんて……?」
 我ながらマヌケな返答だと思ったが、それ以外に適当な言葉も思いつかなかった。
「ですから、主人と不倫相手を別れさせなくて、結構だと言ったんです」
 マキコは表情一つ変えることなく、もう一度はっきりと言った。
「どうしてですか? こちらの対応に何か不満でも?」
「そういうわけではありません……。ただ別れさせたところで、主人が私のところに戻ってくるとは、とても思えなくて」
 マキコは俯いて、紅茶を見つめると、そっと手を伸ばして、カップに口をつけた。
 沈黙が落ちる。
 アスカはマキコの言葉の真意を探るのに精一杯だった。

 アスカが黙っていると、マキコは静かに言った。
「勿論、今までかかった費用は全てお支払させていただきます」
 当たり前だ、と頭の中では思ったが、アスカはそれ以上に妙な引っ掛かりを覚えていた。パートをして貯めたお金を全額はたいてでも、旦那と不倫相手を別れさせようとしていたマキコが、突然自分の元に旦那が戻ってこない気がする、というぼんやりとした理由だけで依頼を断ってくるなんて到底思えなかった。理由があるとすれば、もっと別の理由だ。アスカは思考を巡らすが、一向にその理由を思いつけないまま、時間だけが過ぎて行った。
「ご主人が不倫をやめたら、あなたのところに戻ってくる、と思えない事情でも?」
 アスカは仕方なく、疑問をそのまま口にした。マキコは眉間に皺を寄せたが、小さな声で「いいえ」と答え、その後に「女の勘、みたいなものです」と付け加えた。
 アスカは腑に落ちなかったが、依頼主からそう言われれば、無理に引き留めるわけにもいかない。かかった金額を算出して、また連絡すると伝え、今日のところは帰ってもらうことにした。
「お邪魔しました」
 マキコは深々と頭を下げると、エミリーポエムを後にした。階段を降りる度、くるくると巻かれたマキコの髪が揺れるのを見ながら、アスカは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 マキコが来てから、1週間が経った。けれど、アスカは今日もバーにいる。店内の薄暗さも静かに流れるBGMも何もかもがいつもと同じだった。アスカはオーダーされたドリンクやフードを運びながら、空いた時間でグラスを拭く。オーダーが落ち着いたおかげで、漸く3つ目のグラスに手を伸ばすことが出来た。
 マキコに調査をやめていいと言われてから、アスカはバーでの仕事をどうするか悩んだ。しかし、働き始めて数日で唐突に辞められるわけなどなかったし、何より調査の停止がマキコの一時の気の迷いの可能性であることも否めなかった。そうなると、しばらくの間はバーで働かざるを得ない、というのが彼女の出した結論だった。
 相変わらず、ヒサシは毎回違う女を連れてバーにやって来た。今日、連れてきた女は黒髪のストレートヘアが印象的なエキゾチック美人だった。毎日毎日違う女を連れてくる、そんな光景を見ていたアスカは大学の食堂の日替わりメニューをなんとなく思い出していた。それくらい、見事な日替わり振りだったのだ。
 勿論、代金を支払うのはヒサシだ。決して、毎日の出費として、財布に優しい金額ではなかったが、当の本人は涼しい顔をして支払いを済ませて帰っていく。一体、どれだけ稼いでいるんだろう、とアスカはそんなヒサシを見送りながら少し羨ましくなった。

 ヒサシの振る舞いは女から見れば魅力的だ。女が男に欲する色気も十分とは言えなかったが、若い女を虜にするのに必要な分は持っている。だからと言って、不倫というリスクを犯してまで付き合いたいと思えるほど、イイ男かと訊かれれば、アスカはノーだという気もしていた。不倫はリスクが高すぎる。不倫していたことが相手の奥さんにバレれば、慰謝料だって請求されるのだ。そんなスリリングな恋愛を好んでしたいとは、いくら旦那に不満のあるアスカでもやはり思えなかった。
 けれど、ヒサシと付き合っている不倫相手たちにはそんなことは関係ないのだろう。それくらい、ヒサシに入れあげているのだとしたら、一体何が理由なのか。アスカは首を捻った。そして、一つの結論に辿り着く。そうか、テクニシャンなのか、と。そこまで考えてアスカは一人苦笑する。自分がそんな下世話なことを考えてしまったことに、急に気恥ずかしさと居た堪れなさを感じたのだ。いくら自分が最近ご無沙汰だからと言って、そんなことを想像してしまうなんて、とも思った。でも……とアスカは思う。そう考えるのが、一番しっくり来るのも事実だった。

 ただバーに飲みに来て終わり、なんて子供じみた関係のはずがない。むしろ、ヒサシは大人の関係を望んでいるに違いない。第一、マキコは今妊娠中なのだ。妊娠中にセックスが出来ないわけではなかったが、ある程度落ち着いてからしかすることは出来ないし、身体のことを考えたら、マキコは嫌がるかもしれない。そう考えると、辻褄が合うような気がしていた。
ヒサシがいつも連れてくる女が違うのは、違う女で楽しんでいるのか、それともアスカの想像したこととは真逆のこと――つまり、テクニック不足で同じ女を二度抱けないか、のどちらかだろう。
 そこまで考えて、アスカはふとマキコの依頼内容を思い出した。「主人とその不倫相手を別れさせたいんです!」とマキコは言っていた。不倫相手、と断定するからには、一度だけの関係ではないということだろう。そうなると、その女だけはヒサシにハマったということになる。よっぽどの場合を除いて、何人もの女に愛想を尽かされるような男に女がハマる確率は低い。そうなると、テクニック不足ではない、ということになり、やはり最初にアスカが立てた仮説が有力だということになる。ただその場合、どうして1人を除いて、一度きりなのか、ということが腑に落ちない。
 アスカはグラスを拭きながら、止まることのない思考を巡らせ続けていた。

 翌日、アスカは久々に早い時間に帰宅していた。バーのバイトは休みだった。アスカのいつもより早い帰宅にシンゴは驚きながらも嬉しそうに彼女を出迎えた。
「お疲れ様。もうお風呂沸いてるよ」
 笑顔で言うシンゴに対し、アスカはそっけなく「お風呂入って来る」と言って、脱いだコートをシンゴに預けると、バスルームへと向かった。シンゴはアスカのコートを受け取ると、彼女の遠くなる後ろ姿を黙って見送る。バスルームのドアの奥へとアスカの姿が消えた瞬間、シンゴの口からは溜め息が漏れた。
 擦れ違いが重さを増していくことにシンゴはなす術もなく、立ち尽くす。ふいに過去の記憶が頭を過った。お世辞にも楽しい記憶とは言い難い。出来れば、今思い出すのは避けたい記憶だ。
 シンゴはアスカと結婚する前、結婚していたことがあった。勿論、アスカと出会った頃は独身だったし、倫理に反するような付き合いはしていない。そもそも、不倫なんて度胸のいることをシンゴが出来るわけなどなかった。シンゴはまた自分が離婚へと向かっているような気がして、仕方がない。前の離婚の時もこんな感じの前兆があったな、とどこか他人事のように思い出していた。

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