アスカは事務所に着くなり、煙草に火をつけた。肺いっぱいに煙を吸い込み、吐き出す。溜め息が零れた。
多分、アスカがしなければならないことは、ほとんど全て終わっただろう。あとはマキコにヒサシに依頼がバレたことを悟られなければ問題はないはずだ。
アスカは書類に目を通す。
マキコに依頼されてから、数ヶ月が経ち、どうにか業務は完遂出来そうだった。
アスカは自分の仕事のことを考える。
レナとヒサシが別れて、それで全てが解決されるわけではない。
ヒサシにはまだ不倫相手が数人いるし、マキコのお腹の中の子どもがヒサシの子ではなく、不倫相手の子どもだとしたら、これから離婚が待っているだろう。そして、話し合いが行われ、マキコとヒサシは別々の人生を歩き始めるのだろう。
アスカが請け負うのは、ヒサシとレナを別れさせるところまでだ。
けれど、その先にも彼女たちには様々なことが待ち受けている。
それを思うと、自分のしている仕事は刹那的なのではないか、と思ってしまう。勿論、この仕事の重要性を十分理解しているものの、どこか空しくなってしまう時があるのもまた事実だった。
「それから、協力していただいくにあたり、勿論、こちらから報酬はお支払します」
アスカは仕事の時、特有の淡々とした口調で説明をした。
「いえ。それはいりません。俺もレナの不倫をやめさせたかったんです。俺じゃ出来なかったことをアスカさんがしてくれてるんです。それだけで十分ですよ」
「でも……」
「こちらこそ、お礼を言いたいくらいです」
「わかりました。お手間をおかけしてしまい、申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
アスカは頭を下げた。そんなアスカの姿を見て、レナはどうしてここまでして、自分とヒサシを別れさせようとするのだろう、と不思議に思った。アスカのその対応は、明らかに仕事の域を超えているように感じられたのだ。
三人はその後、大して話すこともなく、アスカが支払をして、喫茶店を後にした。
アスカはレナとユウキと別れると、事務所へと向かう。
あの後、二人は何を話すのだろう、と思ったけれど、それ以上は考えずに駅へと向かった。
「勿論です。でも、どうして、そんな振りを?」
「守秘義務の問題があるから、詳細は言えないんだけど、不倫相手の方は別れさせ屋である私に依頼があった、ということをすでに知っています。けれど、依頼主を間違えているの」
「その間違えている依頼主が俺ってわけですね?」
「ええ。今、現在、別れさせ屋として、依頼主に不倫相手に依頼がバレているとなれば、私への報酬は基本的にありません。報酬をゼロにしない為に取引をしよう、と持ちかけられているんです。けれど、本当の依頼主は別にいます。だから、仮にあなたにバラされたところで私は特に困ることはありません」
「そこで俺に依頼主の振りをして、レナと別れさせよう、ということですね?」
「その通りです。レナさんと別れてもらう代わりに、私は依頼主にバラされることも厭わない、そういう交渉をしてきました」
「わかりました。やりましょう」
ユウキはアスカの説明を聞いて快諾した。
その間も、レナは終始つまらなさそな表情を浮かべ、テーブルの上に乗っているティーポットを見据えていた。
しばらくすると、ウェイトレスに案内されて、ユウキがやって来た。
「お待たせしました」
「突然、お呼び立てしてごめんなさい」
アスカは立ち上がり、頭を下げる。
「別れさせ屋エミリーポエムの所長をしています」
「アスカさん、ですよね」
「はい。あなたはユウキ君ね」
「そうです」
「レナさんから聞いてるわ」
「俺も聞いてます。俺が呼ばれたってことは、レナの不倫のことについてですよね」
「ええ、その通りよ。どうぞ、お座りになって」
アスカとユウキのやりとりを見ながら、レナは居心地の悪そうな表情を浮かべていた。
ユウキの頼んだブレンドが運ばれてくると、アスカは本題を切り出した。
「実はあなたにお願いしたいことがあって、ここに来てもらったの」
「レナが不倫をやめてくれるなら、どんなことでもします」
「そう言ってもらえて、心強いわ」
「それで俺は何をすればいいんですか?」
ユウキは真剣な眼差しをレナに向けた。
「私にレナさんと不倫相手を別れさせたいと依頼した人の振りをしてもらいたいの」
アスカもユウキの目をしっかりと見据えて言った。
アスカはアールグレイに口をつける。
レナは「わかりました」とつぶやくように答えた。
「今、彼を呼べる?」
「はい」
レナはそう言うと、メールを打ち始めた。
やはり、電話はしづらいのだろう。
すぐに返信が来たようで、レナの携帯電話が振動する。
「今から来るそうです」
レナは携帯電話の画面に視線を落としたまま言った。
「ありがとう」
アスカはレナに向かって微笑んだ。しかし、レナの表情は強張っている。
「どうして、そんなにユウキ君に会うのを嫌がるの?」
「ずっと不倫を反対されてましたし……」
「でも、その不倫をやめる為の協力をお願いするのよ。彼は喜ぶんじゃない?」
「喜ぶと思います。でも、私は彼に対して、いい感情はあまり抱けないというか……」
「そういうことね……」
なるほど、と思いながら、アスカは再びアールグレイに口をつける。
自分のことを思って不倫をやめるように言ってくれていたという良心はわかってはいても、不倫を続けていた時に煩わしいと思ってしまった気持ちが彼女の中にまだ残っているのだろう。
よくあることだわ、とアスカは思いながら、カップをソーサーの上に置いた。