小説「サークル○サークル」01-303. 「加速」

「君がここに来たということは、何か俺に用があるんじゃないの?」
ヒサシは平然と言った。無駄な話はしたくないようだ。
「察しがいいわね」
「それなりにね」
「コートをそろそろ返してもらおうと思って」
ヒサシははっとする。
「私がお酒をこぼして、汚してしまったコートは、クリーニングして、もう渡してあるでしょう? だけど、あの時、私があなたの女性に貸したコートはまだ返してもらえていないの。別のコートはあるけど、あれお気に入りだったのよね」
「ああ、それはすまなかった。早急に返してもらうようにするよ」
「そうしてもらえると嬉しいわ」
「用件はそれだけ?」
「ええ。他に何かあるかしら?」
「やっと俺の誘いに乗ってくれる気になったのかと」
ヒサシの言葉をアスカは思わず鼻で笑う。
「そうね。少し前の私なら、あなたの誘いに乗ったかも」
「本当かなぁ。君は一度だって、俺の誘いには乗ってくれなかった」
「そうね。その必要がないと思ったからじゃないかしら」
アスカは残りのモスコミュールを一気に飲み干すと、席を立った。

小説「サークル○サークル」01-302. 「加速」

しばらくして、モスコミュールが運ばれてくると、アスカとヒサシは軽く乾杯をする。グラスとグラスがぶつかる小気味よい音は、店内の騒がしい音にかき消されてしまった。
「こんな偶然があるとはね。それとも、偶然を装った必然?」
アスカはさすがに鋭いな、と思った。ヒサシはアスカがやって来たことを偶然だなんて思ってはいない。わざわざ、自分に会いに来たと思っているのだ。
それはヒサシ自身の自信から来るものなのか、はたまた、アスカの正体を見破ってのことなのかはわからない。どちらにせよ、アスカは心して接しなければならないと思った。
「ご想像にお任せするわ」
アスカは一口モスコミュールを飲んで言った。
「今日は女の子と一緒じゃないの?」
「ああ、いつも一緒っていうわけじゃないよ」
「あら、てっきり、いつも一緒なのかと」
「一人で来ていたことがあるのも、知っているだろう?」
「それは約束をすっぽかされたからじゃなくて?」
「はは、手厳しいなぁ」
ヒサシは楽しそうに笑った。

小説「サークル○サークル」01-301. 「加速」

アスカはバーのドアを開ける。ドアベルが静かに鳴った。
バーに一歩足を踏み入れた瞬間、懐かしさが込み上げてくる。薄暗い店内の中、アスカはヒサシを探した。
入口付近から、店内を見回して、アスカはカウンターに見慣れた後ろ姿を見つけた。隣には誰もいない。幸い、ヒサシは一人のようだった。
アスカは高鳴る胸を抑えつつ、ヒールの音を小さく響かせながら、背後からヒサシへと近付く。気配を感じ取ったのか、ヒサシが振り向いた。
「……」
ヒサシは息を飲む。まさか、という顔をして、アスカを見上げた。
「お久しぶりです」
アスカは言った。戸惑いもあったけれど、微かに微笑んで見せる。
「ああ、これは驚いた」
口では「驚いた」と言いながらも、ヒサシは余裕の表情でアスカを見た。
「隣、いいかしら?」
アスカは少しドキドキしながら言う。
「勿論。どうぞ」
ヒサシはにこやかに席を勧めた。
アスカが席につくと、女の子がお通しを運んできた。アスカは受け取ると、モスコミュールを注文する。アスカが辞めた後、別のバイトの女の子が入ったらしい。
モスコミュールが運ばれてくるまで、アスカもヒサシも無言だった。

小説「サークル○サークル」01-300. 「加速」

思いは加速していく。嫌なほど、好きという感情が走って行く。けれど、加速したものはいずれ減速し、やがて止まるように出来ている。同じスピードが続くことは決してない。
アスカは加速していく気持ちに気付いた時、いつか止まってしまう時が来ることを恐れ、そして、安心してもいた。
自分にはシンゴがいる。いつまでも、別の誰かを思い、追いかけようとしていいわけなどなかったのだ。結婚は契約だ。けれど、一番簡単に破棄してしまえるものでもあった。否、簡単に破棄してしまう人は、結婚が一つの契約である、ということをそもそも認識出来ていないのだろう。認識出来ていたとしたら、浮気なんてするはずがないのだ。
アスカはレナと別れると、一路バーへと向かった。以前、バイトをしていたあのバーだ。ヒサシがいるのかどうかはわからない。賭けだった。けれど、行かずにはいられなかったのだ。
電車に乗り、歩きなれた道を歩く。夜の風が冷たかった。アスカはぼんやりと灯る街灯に照らされながら、道を急いだ。その後ろにシンゴの姿があることに、アスカは気が付かない。
それぞれの思いを交錯させながら、二人は夜の道を急いでいた。

小説「サークル○サークル」01-299. 「加速」

「シンゴさんは、奥さんのことを信用しているんですね」
「信用?」
予想外の言葉にシンゴは鸚鵡返しに問うた。
「だって、そうでしょう? 奥さんが必ずレナと不倫相手を別れさせるなんて……。奥さんを信用していなかったら。言えないことですよ」
「……」
「てっきり、シンゴさんは奥さんを信用していないんだと思ってました。不倫してるって、本当は思っていないんじゃないですか?」
「不倫してないって思ってたら、尾行なんてしないよ」
「不倫していないってことを確かめたいから、尾行しているように俺には見えます」
「……」
ユウキの言葉にシンゴは戸惑った。確かに何度も不倫をしていなければいいな、とは思った。けれど、状況を見れば、不倫をしていると思えることだらけだ。不倫をしていない、と思うのは、現実逃避以外の何ものでもないとシンゴは思う。
「不倫されていなければどれだけいいか……。でも、見ちゃったんだ。アスカが不倫相手とホテルに入って行くところ。今でも忘れられないよ。真っ白なコートの白色が鮮やかだった」
シンゴは嫌な記憶を振り払うようにかぶりを振った。


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