小説「サークル○サークル」01-241. 「加速」

「彼のその一言があったから、私は笑顔でいられるし、毎日を楽しく過ごせるんだと思います」
レナの「毎日を楽しく過ごせる」という言葉にアスカはさすがに口を開いた。
「でも、あなたが楽しく過ごせる裏には、悲しんで悩んでいる人がいるかもしれないのよ。あなたとの浮気が奥さんにバレているとしたら、その奥さんは……」
「わかってます」
「……」
アスカが皆まで言い終えるより早く、レナはぴしゃりと言った。驚いてアスカは口を噤む。ピッツァが窯から取り出される音がふいに聞こえた。周りのどこか楽しげな雰囲気に気が付いて、自分たちがしている話の深刻さがなんだか現実のことではないような気がしてしまう。
「わかってるんです。奥さんにバレているとしたら、これほど、奥さんにとって辛いことはないだろうってことは」
レナは俯いたまま言う。
レナはレナで不安を抱え、悩んでいるのだ。アスカは感情のままに言ってしまったことを悔やむ。レナの気持ちを刺激しすぎてしまうのは、得策ではない。いかに自分が味方であるかを認識させなければならないのだ。レナを追及し、謝罪させる為にアスカは話しているのではない。レナをヒサシから引き離す為にアスカは話しているのだ。

小説「サークル○サークル」01-240. 「加速」

けれど、レナはどうしてそこまでヒサシを必要としているのだろうか。アスカは可能性を模索する。
そこで彼女が思いついたのは、金銭的な援助だった。けれど、金銭的な援助であれば、レナの容姿をもってすれば、ヒサシに固執することもないだろう、という気もする。
アスカは質問を重ねた。
「その気持ち、わかるわ……。でも、どうして、彼がいないと生きていけないと思うの?」
「それは……」
レナは言いづらそうに視線を泳がせる。訊かれたくないことだったのだろう。アスカは質問するのが早かったかもしれない、と思ったものの、口に出してしまった言葉を取り消すことは出来ない。レナが答えてくれるのを黙って待つしかなかった。
「私にもよくわからないんですけど、きっと……私に優しくしてくれるのは彼だけで、私を必要としてくれるのも彼だけだったからだと思います」
「必要とされる?」
「ええ、彼は私がいないと生きていけないと言ってくれたんです」
アスカは思わず頭を抱えたくなった。その衝動を我慢して、優しい眼差しを崩さないようにレナを見た。

小説「サークル○サークル」01-239. 「加速」

「奥さんがいる人を勝手に好きになって、付き合って、それが良くないことだってわかってて……。それで辛いなんて、自分勝手ですよね……」
「そんなことないわ」
アスカはレナがそこまで考えていることに驚きながら、レナを肯定する言葉を口にした。レナに自分がレナの味方である、と思わせることがアスカにとっては大切だった。そうでなければ、心を開いて、全てを話してもらえない。全て話してもらった上で、いかにレナを不倫から脱却させるかがアスカの腕の見せ所なのだ。
「自分勝手ですよ……。奥さんに申し訳なくて……」
「ねぇ、そこまで思うのに、どうして、不倫を続けるの?」
レナが本心からその言葉を口にしているのか、それとも、イイコを演じる為に口にしているのかを見極める為に、アスカは意地悪だな、と思いながらも問う。
「私にとって、彼は大切な人で……。彼がいなかったら、私は生きていけないから……」
レナは一言一言噛み締めるように言う。レナにとって、ヒサシが必要な人であるということは、事実のようだった。

小説「サークル○サークル」01-238. 「加速」

「実は私……」
レナはもう一度同じ台詞を口にした。アスカはそんなレナを黙ったまま、見据えている。
レナの唇がわずかに震えている。口に出すのも憚られるのだろう。それは彼女が不倫を心の底から肯定していないことを伺わせていた。
「私、不倫しているんです」
レナは俯いたまま、言った。その表情は苦悶に満ちている。アスカはそんなレナを優しい眼差しで見つめた。
「そうなの……。もう長いの?」
アスカの言葉にレナは小さく頷いた。
「2年になります」
もう少し短いと思っていたアスカは面食らったが、レナには動揺を悟られないように僅かな微笑みを浮かべたまま、再び質問を口にした。
「彼はどんな人?」
「優しくて、大人で、紳士的で、頭の良い人です」
「そう……素敵な人なのね」
「はい……。私にはなくてはならない人です」
「でも、彼は結婚している……」
「……」
「……ごめんなさい。そんなことわかってるわよね。だから、辛いんだものね」
アスカはレナの味方であるような口振りで話を進めていった。

小説「サークル○サークル」01-237. 「加速」

「どうしたの? 大丈夫?」
 アスカは少し驚いたようにレナを心配する。これも計算のうちだった。
「大丈夫です……。すみません」
 レナはバッグからハンカチを取り出し、溢れそうな涙を拭った。
 アスカはそんなレナを見ながら、人のモノを取ろうとしている女が、この程度のことで泣くなよ、と内心思ったが、おくびにも出さずにレナを心配する振りをした。
「実は私……」
 レナはそこまで言って、口を閉ざす。ヒサシとの不倫を言い出すべきか、どうか迷っているようだった。
 アスカはじっと待つ。ここで話を促すのも不自然だったし、アスカの想定している方向とは別の方向に話が展開しても困る。ここは黙って、レナが自発的に話すのを待つのが得策だった。
 一体、何分過ぎただろう。
 レナは思い詰めた表情で俯き、口をへの字に結んでいる。
 沈黙のあまりの長さに煙草を吸いたくなったが、アスカはぐっと堪えた。
 今が勝負どころだ。アスカは煙草の誘惑に抗いながら、黙りこくっているレナをただじっと見据えていた。


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