「少し、話し相手になってもらえないかな」
ヒサシの突然の申し出にアスカは心底驚いた。仕事中でさっきから忙しく、カウンター内を行ったり来たりしているバーの店員相手に、こんなことをさらっと言ってのけるのだ。どんなシチュエーションでもきっと物怖じしないで、女に声をかけられるのだろう。
「すみません。マスターに聞いてきますね」
アスカは新人らしく、そうヒサシに答えると、マスターに話し相手になっていても大丈夫かと訊いた。すると、意外にもマスターからはあっさりとOKがもらえて、彼女は拍子抜けしてしまった。
「お待たせしました。大丈夫です」
アスカはヒサシの元に戻って来るなり言った。
「良かった」
「もしかして、お約束の方が来られないんですか?」
アスカはさっきから時計を気にしていたヒサシに言った。
「鋭いね。その通りだよ」
「時計を気にされていたから……」
「格好悪いところを見られていたようだね」
「そんなことないですよ。待ち合わせの時間にやってこなければ、誰だって時間が気になるものです」
「フラれちゃったかな……」
ヒサシはそう言って、酒を煽った。
マスターからヒサシが注文したドリンクを受け取ると、アスカはヒサシの元へと向かった。騒がしい店内の中で、ヒサシのいる空間だけ、やけに静かに感じた。この男の持つ不思議な雰囲気に、女はやられてしまうんだろうな、とアスカは思った。
「お待たせ致しました。ジントニックです」
アスカは時計を気にしているヒサシに言った。ヒサシはアスカがカウンター越しとは言え、目の前に来ていたことに気が付いていなかったようだ。慌てて、顔を上げて、「ありがとう」と微笑んだ。
「あのさ」
ヒサシはジントニックに一口、口をつけると、アスカの顔をじっと見た。店内が薄暗いからと言って、整った顔の男にじっと見つめられるのは、嫌だった。彼女は自分の造形が美しくないことを知っているからだ。思わず、目を反らしたい衝動に駆られながらもじっと耐えた。これは仕事なのだ。浮気調査の為にこのくらいのことが我慢出来なければ、別れさせ屋の所長なんて務まるわけがない。
「何でしょうか?」
声をかけてきたきり、黙っているヒサシにアスカは言った。少しでも早く、この緊張する状況から脱したかった。
「お通しでございます」
アスカは昨日と同じようにスープをヒサシに出す際、しっかりとヒサシの目を見て微笑んだ。
「ありがとう」
昨日は女がいた所為かはそっけなかったヒサシだったが、今日は何をするにもやけに愛想が良い。ヒサシの笑顔は女心の奥の方をくすぐる何かがあった。きっと普通の女なら、昨日と態度が違うことくらいあっという間に許せてしまうだろう。しかし、アスカはただ冷静に「嫌なヤツ」と思っただけだった。
「君、新しく入ったコだよね?」
ヒサシの前を離れようとした瞬間、声をかけられた。アスカには願ってもみないチャンスだったが、多少面食らったのは言うまでもない。
「はい。昨日から……」
遠慮がちに言うアスカにヒサシは笑顔を向けた。自分は警戒に値しない人間だと言いたげだ。
「よくここには来るんだ。よろしく」
「よろしくお願いします」
アスカは頭を下げると、その場を後にした。客はヒサシだけではないのだ。ヒサシにばかり、かまけている場合ではない。ただ注意深く、ヒサシのことを遠くから観察した。ヒサシは何度も何度も時計を気にしている。待ち合わせの女がなかなか来ないのだろうか。
昨日と同様、アスカはバーの仕事をしながら、ヒサシをまだかまだかと待っていた。
ヒサシがこのバーの常連だとすれば、昨日の接触で新しい店員が入ったという認識が生まれたはずだ。これを使う手はない。アスカは頭の中で自分を印象づける為に今日は時間を使う予定だった。
しばらくして、バーのドアが開いた。ドアベルが鳴り、アスカはふいに顔を上げる。「いらっしゃいませ」と入って来た客に笑顔を向けた。アスカの笑顔の先にはヒサシが立っていた。
ヒサシは笑顔を返すと、昨日と同じ席に腰を下ろす。今日は女を連れていない。待ち合わせでもしているのだろうか。
「いらっしゃいませ。おしぼりをどうぞ」
アスカは昨日と全く同じセリフでヒサシを迎えた。
「ありがとう」
昨日とは打って変わって、ヒサシはアスカにやわらかい口調で応えた。一体、どういう風の吹き回しだろう、とアスカは思ったが、笑顔を崩さずに「ご注文はお決まりですか?」とヒサシの顔を覗き込んだ。すると、ヒサシはメニューを見ずに「ジントニックを」とだけ言った。
アスカはオーダーを通すと、ヒサシのところにお通しのスープを持っていこうと、ちらりとヒサシを盗み見た。ヒサシはアスカが振り向いたのとほぼ同時に腕時計に視線を落とし、一瞬眉間に皺を寄せる。そのしぐさから、アスカはヒサシが女と待ち合わせをしていることに気が付いた。
時間が来ると、アスカはバーへと向かった。相変わらず、商店街は賑わっている。
ある程度、状況証拠を掴み、ヒサシと個人的に接触出来るようになったら、次はヒサシの浮気相手に接触しなければならない。本来ならば、同時進行でやりたいところだったが、いかんせん、エミリーポエムには人がいない。アスカは出来る限り、自分で出来ることは自分でやらなければならなかった。今までそれでどうにかやってこられはしているが、時々アスカはどうしようもない疲労感に襲われる。そんな時、彼女は年齢を思い知らされた。仕事を分担したい、と心底思ったが、今更、弱音を吐くのはどうかしている、とも思う。自分がやらなければ、誰かがやってくれるものではないということを一番よくわかっているのはアスカ自身だったからだ。
バーに行く道すがら、アスカは自分の格好に視線を落とした。別れさせ屋として、事務所にいる時は大して気になんてしなかったが、バーで働くとなると、別だ。多くの人に出会い、多くの人に見られる。それには、事務所にいる時とは違った緊張感があった。カウンターにいると、まるで値踏みをされているような気分になることさえある。そんな気持ちになるのは、自意識過剰だとわかっていたけれど、自分は女である、と自覚する瞬間でもあった。