アスカは頭をフル回転させて、次の言葉を探していた。
「でも、常にどちらか都合の良い方で考える、というのは、あまりにも虫が良すぎない?」
「そうだね。そう言われても仕方ない」
「女はたった一人、と言われるのにとても弱いわ。だから、つい都合の良い女に成り下がってしまうの。あなたはたくさんの女性を都合よく使っているだけじゃない?」
「手厳しいなぁ」
アスカの鋭い言葉にもヒサシは余裕の表情を浮かべ、笑っている。
この男のすごいところは、どんな言葉をアスカが口にしても、動じないところだ。
「でも、都合の良い女が嫌なら、やめればいいだろう?」
ヒサシはさも当然と言ったように言った。
「それは男性本位の考え方だわ。やめられないように言葉巧みにあなたが囲っているのでしょう?」
ヒサシは黙ってグラスを傾ける。アスカになんて返すべきか思案しているのだろう。アスカは次に切り出す言葉を考えていた。
今、この時間がアスカは今回の案件で一番頭の使う時間のような気がしていた。
「取り敢えず、乾杯」
ヒサシがグラスを持つと、アスカもグラスを持った。
どこか腑に落ちない表情のまま、アスカはヒサシとグラスを交わす。
シャンディーガフがアスカの喉を勢いよく流れていった。
「レナをいっぱいいる中の一人として見るのか、レナをたった一人しかいない人として見るのかで、大きく変わるだろう?」
「それはそうだけど……。どんなものでも、そういった見方をすることは出来るわ」
「その通り。だから、俺はたった一人しかいない人として、レナを見ることも出来るし、いっぱいいる中での一人という見方も出来る。本命ではないと考える時はいっぱいいる中の一人だし、手放したくないと考える時は、たった一人しかいない人になる」
「なるほどね……」
アスカはシンゴから言われていた相槌を打つ。さも理解、納得しているような「なるほど」という言葉を使いながら、次の切り替えしを考える、という方法だった。反射的に答えるよりは、慎重に答えた方がいいとも、あの紙には書かれてあった。
「隣いいかしら?」
アスカの声にヒサシははっとして、声の聞こえた方を見た。
「君か」
「お久しぶりね」
「ああ、そうだね」
アスカはオーダーを聞きに来た店員にシャンディーガフを頼む。すると、すぐにお通しのスープとおしぼりが運ばれて来た。
「君がここに来たということは、何か用があるってことだろう?」
「その通りよ」
「レナのことを諦める気になってくれた?」
「まさか。私は別れさせ屋よ。一度請けた依頼は必ず完遂するわ」
「それじゃあ、俺の立場としては困ることだらけだ」
「どうして? 他にも女の子はいっぱいいるんでしょう?」
「いっぱいいることと、レナを手放すことは意味が違う」
「どう違うのかしら?」
「角度かな」
「角度?」
眉間に皺を寄せ、ヒサシを見るアスカにヒサシは微笑んだ。
「そう。物の見方の角度」
アスカはヒサシは何を言っているのだろう、と思った。アスカがそんなことを思っている間に、アスカの前にシャンディーガフが運ばれて来た。
「はい、これ」
シンゴはアスカに数枚の紙を手渡した。
「何……?」
アスカは何を手渡されたのかわからず、怪訝な顔をする。しかし、手に取った紙に視線を落とし、「これって……」と驚きの表情へと変わった。
「ターゲットとの会話でアスカが有利に話を展開出来るようなシュミレーションをしてみたんだ」
「すごい……。昨日の夜、これを?」
「まぁね」
アスカは一通り、目を通すと、シンゴの瞳をしっかりと見据える。
「シンゴ、本当にありがとう」
アスカは心底嬉しそうに言った。彼女の瞳にはシンゴへの尊敬と感謝がたたえられているようだった。
「じゃあ、早速、今日の夜、バーに行ってみるわ」
アスカはそう言うと、にっこりと微笑む。
その微笑みにシンゴは若干の不安を感じずにはいられなかった。
ターゲットとアスカとの間に何かが起こるとは思っていない。けれど、可能性はいつだって、ゼロではないのだ。
シンゴはもやもやとした気持ちを抱えたまま、微笑むアスカに微笑み返した。
「どういうこと?」
アスカは写真をまじまじと見る。
その写真は別の案件で対象者を写したものだった。
ターゲットである男性の少し後ろにマキコが写っている。
「マキコは別の案件で不倫相手だったってこと……?」
混乱する頭の中をアスカは整理しようとする。
「この写真の書類は……」
アスカは写真の案件の書類を探そうと、山積みになっている書類に手を伸ばした。
その瞬間、ばさばさと書類の山が崩れ、紙が散乱する。
「最低……」
アスカはしゃがみこみ、書類を拾い始める。
時間が気になって、時計に目を遣れば、マキコが来る五分前だった。
取り敢えず、散らかった書類を拾い集め、何事もなかったように再び机の上に書類を置いた。
それと同時に来客を知らせるインターホンが鳴った。
「どうぞ」
ドアを開けて、アスカはマキコを出迎える。
そのお腹は以前会った時よりも、幾分か大きくなっているように見えた。これでもまだヒサシが気が付いてないのだとしたら、きちんと妻のことを見ていないのか、よっぽどアホだ、とアスカは思った。
「ご無沙汰しています」
マキコは丁寧に巻かれた巻き髪を揺らしながら、お辞儀をした。
「どうぞ、こちらへ」
アスカに促されるまま、マキコはソファに腰をかける。
アスカはお湯を沸かし、ノンカフェインの紅茶を淹れた。
「いつもすみません」
マキコは恐縮しながら、アスカから出された紅茶に口をつける。
「わざわざ、ご足労いただいてありがとうございます。今回のご依頼の進捗のご報告なんですが……」
「どんな感じでしょう? 相手の女性とは別れてくれそうでしょうか?」
「今、女性の方と接触しているところです。あと少しで別れさせることが出来ると思います」
「そうですか。じゃあ、最初の依頼通りの日程で別れさせていただけるんですね」
「そうなりますね」
マキコはそっと胸を撫で下ろす。
他にも女がいることはわかっていたが、まだここで言うわけにはいかなかった。ヒサシとの交渉が終わっていないからだ。
「お身体の方はいかがですか?」
アスカは差し支えない程度にマキコに尋ねる。
「お陰様で、順調ですよ」
「それは良かったです。それから……」
アスカは一通り、今後必要となる手続きについての説明を始めた。
けれど、アスカの気持ちはここにはなかった。あの写真のことがずっと脳裏を過っていたのだ。
一体、どういうことなのだろう……?
疑問だけがくるくると頭の中を回り続けていた。
マキコを送りだし、アスカはどかっと椅子に腰をかけた。
煙草の箱を振り、煙草を取り出す。最後の一本だったので、マキコはくしゃりと箱を潰した。
手近にあったライターで煙草に火をつけると、煙をくゆらす。
嫌なことがあった時、疲れた時は、煙草が最高に美味しい。今日はそのどちらもだったから、二倍美味しく感じるような気がしていた。
アスカは進捗状況を報告しながら、くまなく、マキコを観察していた。
けれど、結局、マキコに不審な点はなかった。
お腹が大きくなっているのかどうかは、ワンピース姿のマキコからはわからなかったけれど、ヒールは履いていなかった。
マキコの雰囲気からすると、妊娠する前まではきっとヒールを履いていただろう、というのは安易に想像が出来た。あれは、妊娠の為に大事を取っているのだろう。
様々な状況を見ても、やはり妊娠しているのではないか、とアスカは思った。でも、妊娠している振りを徹底的にしているのかもしれない、とも思った。
一体、どちらが真実なのだろう? とアスカは短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、溜め息をついた。
アスカが帰宅すると、夕飯のいい匂いが漂っていた。
玄関の廊下からリビングに続くドアを開けると、肉を焼いているシンゴの姿があった。
「おかえり。そろそろ、帰ってくる頃だと思ったんだ」
シンゴは真剣な顔で肉をトングで引っ繰り返しながら言った。
「ただいま。はい、頼まれてたアイスクリーム」
「ありがとう。今日、コンビニに行ったら、売ってなくってさ」
「もう在庫限りだったみたい」
「期間限定商品だからね」
「あるだけ買って来たから」
「あ、すごい量。ありがとう」
シンゴはちらっと視線を肉から食卓テーブルに置かれたアイスの入った袋にやると、嬉しそうに口の端をほころばせた。
アスカは手洗いとうがいの為に洗面所へ行くと、丁寧に手洗いとうがいをした。そして、鏡の前で軽く髪を整えた。
少し疲れた自分の顔に溜め息がこぼれそうになったけれど、敢えてアスカは鏡に向かって微笑んでみる。
ほんの少しだけ、元気になれたような気がした。アスカはシンゴの待つリビングへと向かった。
食卓のテーブルに着くと、焼きたての肉のいい香りが鼻先をかすめた。
「いただきます!」と二人は声を合わせて言うと、肉にナイフを入れる。
「今日ははちみつでマリネにしてみたんだよ」
「へぇ……楽しみ!」
アスカは嬉しそうに笑うと、肉を口に運んだ。
肉汁が溢れ、少し遅れて甘めのソースの味が口の中に広がっていく。
「美味しい!」
「ホント!? 良かったぁ。初めてチャレンジするから、少し心配だったんだ」
「大丈夫よ。シンゴはほとんど料理失敗しないじゃない」
「そうだけど、やっぱり、新しい料理にチャレンジする時はそれなりに不安はあるよ」
「意外だなぁ」
アスカは一緒に用意されているパンプキンスープに手を伸ばす。
「あ! これ、冷静スープなんだね」
「うん、昨日のパンプキンのクリームソースパスタのソースが余ってたからね。そこに豆乳を足して、作ったんだ」
「ホント、シンゴって料理上手よねぇ」
アスカは感心したように言う。
「そう言ってもらえて、何よりだよ」
シンゴは笑顔で言いながらも、アスカの様子がいつもと違うことに気が付いていた。
食事を終え、シンゴは後片付けをしながら、ソファに座ってテレビを観ているアスカに視線を向ける。
一見、テレビを観ているようには見えるけれど、ただテレビの画面を眺めているだけなのだということにシンゴは気が付き、やっぱり、様子がおかしいな……とシンゴは思う。
洗い終わった食器の泡を水で流しながら、シンゴはアスカのゲンキがない理由の仮定を始める。仕事が上手くいっていない、ターゲットと何かあった……。でも、シンゴの前でもあからさまに落ち込んでいるところを見ると、仕事で何かしらのアクシデントがあったのだろう、という結論に達した。
全ての食器を洗い終えると、シンゴはホットミルクを持って、アスカの隣に腰をかけた。
「はい、どうぞ」
アスカの前にコースターを敷き、シンゴはホットミルクを置く。
「ありがとう……」
少し驚いたようにアスカはシンゴを見た。
シンゴは隣でホットミルクを飲みながら、アスカと一緒にテレビの画面に目を向ける。
CMに入るとほぼ同時にシンゴは口を開いた。
「何かあった?」
シンゴの言葉にアスカはドキリとして、シンゴを見た。
「どうして……?」
「見てればわかるよ。夫婦なんだから」
そう言って、微笑むシンゴにアスカはぽつりぽつりと話し始めた。
「依頼者が妊娠しているっていう嘘をついてるって話は前にしたでしょう?」
「ああ」
「それでね、やっぱり、依頼者は妊娠してない、とは言っては来なくて」
「そりゃあ、妊娠してないのをしてるって言ってて、やっぱり、嘘でした、とは言いづらいよね」
「うん……そうだとは思うの。だけど、今日、もう一つ、不自然っていうかなんていうか……奇妙なことがあったのよ」
「奇妙?」
シンゴは鸚鵡返しに問う。
「そう。奇妙、が一番しっくり来る気がする」
アスカはそう言って、ソファに座り直した。
「前に担当した案件で使った写真に依頼者が写っていたの」
「前の案件では、彼女がターゲットだったってこと?」
「そう……。随分、昔の案件で、まだシンゴにも出会う前だったと思う。本当に偶然だったのよ。写真が床に落ちて……それで見つけたの」
シンゴはアスカの話を真剣な眼差しで聞いている。
些細なことかもしれなかったが、アスカはシンゴのそんな態度が嬉しかった。
「髪型も違ったし、雰囲気も違って、昔は愛人っぽいっていうのかな……。今の妻ですっていう風格とは全然違ってて。あの頃とは、結婚して苗字が変わってるから、ピンと来なかったのよ」
「なるほどね……。でも、過去に何があったって、おかしくはないんじゃない?」
シンゴは自分の少し後ろめたい過去を思いながら言う。
「そうなんだけど……。今回の妊娠の嘘とあの写真と……。なんか腑に落ちないっていうか……」
「不倫をする女だから、信用ならない、と思ったとか?」
「それもあると思う。ただ見た目は妊婦っぽいっていうか……。あのタイプなら、ヒールは欠かさないはずなのに、ヒールじゃなくてフラットシューズを履いてたし……」
「芸が細かいな」
「うん、まさしく、そんな感じの印象を受けたわ」
「依頼者とターゲットは現在、男女の関係にはないんだったよね」
「うん。そうなのよ。だから、妊娠するなんて有り得ないわ」
「だとしたら、考えられるのは……」
そう言って、シンゴは思考を巡らせた。
「昔の案件の不倫がまだ続いていて、依頼者のお腹の子の父親はその時の不倫相手――」
「まさか」
アスカは驚いて、目を見開き、シンゴを見る。
「でも、ターゲットの子どもじゃないなら、その可能性は十分に考えられるだろう? ましてや、昔、不倫をしてたんだ。不倫はいけないことっていう概念はそもそも持ってないだろう」
「確かに……。でも、それって、前の案件は失敗してたってことよね」
「いや、そうとも限らないと思うよ。偶然、街で再会して、やけぼっくいに火が付いたのかもしれない」
「どっちみち、厄介ね」
「ああ、厄介なことに変わりはないね」
「でも、私のところにターゲットの不倫をやめさせるように、依頼して来たのはどうしてかしら?」
「簡単なことだよ。慰謝料を取る為さ」
「だったら、別れさせ屋じゃなくて、探偵に依頼すれば……」
「別れさせ屋に依頼するほど、愛してたのにやむを得ずっていう演出をしたかったか、または……」
シンゴはしばらく考えた後、「君に依頼したかったのかもしれないね」と言った。
「どういうこと?」
「別れさせ屋っていうのは、その方法にもよるけれど、探偵とは違って、ターゲットに顔がバレることもあるだろう?」
「確かに……。でも、あの時はターゲットは男で、相手の女――今回の依頼者だけど、彼女には今回みたいに接触はしていないわ」
「君は接触していない、と思っているかもしれない。でも、本当は間接的に接触していたとしたら?」
「そんなこと……」
「ないとは言い切れないだろう? いつどこで監視されているかなんてわからないじゃないか」
「それって、私が探偵に監視されてたって言いたいの?」
「その通り」
シンゴは涼しい顔をして言う。そんなシンゴをアスカはつまらなさそうに見た。
まさか、私が監視されていたなんて――。
アスカはそう思いながらも可能性としては、ゼロではないな、と思っていた。
随分、昔のことになるから、アスカの記憶も曖昧だ。自分の仕事の詰めが甘かったとは思わない。けれど、探偵だって、プロだ。こちらが気付くようなヘマはしないだろう。
そこまで考えて、アスカは溜め息をついた。
どんなに過去の仕事の失敗を悔やんでも、今の自分になんのプラスももたらさない。
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