「バレたの」
アスカはホットミルクを半分くらい飲んだところで、口を開いた。
意外なアスカの言葉にシンゴは一瞬面食らう。
シンゴが想像していなかった返答だった。
「それはターゲットにってこと?」
「そう。ターゲットにバレたけど、依頼してきたのはレナの幼馴染の男だと思ってるみたい。だから、依頼者が誰かはバレてないわ」
「だったら、どうにでもなるんじゃないの?」
「そうなんだけど……」
アスカはそこで言葉を区切り、考え込む。
シンゴには一体アスカがなぜそこまで悩んでいるのかがわからなかった。アスカが思うより、随分と事態は単純なように思えたからだ。
「あのね……。依頼者が嘘をついてるみたいで……」
「えっ? 浮気はしてるんでしょう?」
「ええ。でも、依頼者が思ってるより、浮気の実態はひどいものだったわ。依頼者が把握してるより、ターゲットの浮気相手は多いし……」
「……多いってどのくらい?」
「レナ以外に三人もいて、尚且つ、レナはその中でも一番じゃないわ」
アスカの言葉にシンゴは息をのんだ。
「いつから気が付いてたの?」
アスカはモヒートに口をつけてから訊いた。
「結構前からかな」
「結構前……?」
「レナの様子が変わったんだ。誰かの影響を受けていることはすぐにわかった。最初は男かと思ったよ」
「でも、違った」
「ああ。まさか、君が絡んでいるとは思わなかったけど」
アスカはヒサシの言葉には答えずに再びモヒートに口をつけた。
「ここで俺と接触したのも計算のうちだろう?」
「ええ。隠しても無駄だから言うけど、その通りよ」
「俺にバレるってことは、作戦は失敗だな」
「そうね。でも、きっと彼女はあなたと別れるわ」
「どうして?」
「だって、あなたには他にも女がたくさんいる。彼女はそれを知らないわ」
「知ったら、別れる……か。俺としては、彼女を取られるのは痛いんだけどな……」
勝手な言い分だな、とアスカは思っていた。ヒサシは何か考えているのか、黙ったまま、グラスを見つめている。カランと氷の溶ける音がした。
「……取引をしないか?」
「取引?」
アスカはヒサシの言葉に怪訝な顔をした。
アスカは嫌な予感がした。ヒサシはきっと自分がイエスと言わざるを得ない条件をつきつけてくるだろう。そうして、自分の都合の良いように、全てを回していくのだろう。
このままではまずい、とアスカは思った。けれど、思うだけで、解決策はすぐには浮かばない。
マキコからの依頼のこともある。どうしたものかと頭を悩ませた。
「依頼者の男に伝えてほしいんだ。彼女と俺は別れたって」
アスカは口の中で小さく「えっ……」と言ったが、ヒサシには辛うじて聞こえなかったようだ。
アスカはヒサシが勘違いしているのだということに、ワンテンポ遅れて気が付いた。
ヒサシはレナのことを好きな男が不倫をやめさせようとしていると思っているのだ。きっと、レナからさっき中華レストランで会った、レナとヒサシを別れさせようとしている幼馴染の話を聞いたことがあったのだろう。だから、依頼者のことを「男」と言ったと考えれば、辻褄が合う。
アスカはほっと胸を撫で下ろし、モヒートを一口飲んだ。
何も言わないアスカをヒサシは見ている。視線を感じながら、アスカはカウンターの向こう側にあるグラスの置かれた棚をじっと見つめていた。
「君の答えは?」
ヒサシは落ち着いた調子で言った。余裕があるのが見て取れる。
アスカはヒサシの方を向くと、にっこりと微笑んだ。
「わかったわ。その代わり、私が別れさせ屋として依頼されているということをあなたが気が付いたことは黙っててくれる……ということね?」
「そういうことだ。やっぱり、君は頭の回転が速いね」
「でも、上手くいくかしら?」
「何が不安?」
「あなたたちが別れたということを相手にどうやって信じさせればいいのかな、と思ったのよ」
「それは難しいね。そうだなぁ……」そう言って、ヒサシは考え込む素振りを見せて、続けた。「彼女にも別れたと言わせて、一ヶ月くらいは会わないようにするよ」
「破局を偽装するってことね」
「ああ」ヒサシは頷く。
「それはいいかもしれないわ」
アスカは言って、にっこりと微笑んで見せた。
「それから、メールの連絡も絶った方がいいと思うけど、我慢出来る?」
「一ヶ月くらいならね。元々、メールはあんまり好きじゃないんだ」
「でも、マメそうよね」
「それは、女性の為さ」
この男は筋金入りの女たらしなのだとアスカは思った。相手の女を愛しているから、マメにメールをしたり、オシャレなバーに連れて行ったりするわけではないのだ。ヒサシがそれらをこともなげにこなすのは、自分が女を囲っておきたいからに他ならない。
「あなたの本音を聞いたら、がっかりする女性は多そうね」
「だろうね。でも、いつだって、本音と建前は用意されているものだろう?」
「そうかもしれないけど、恋愛してる時は相手の全てをそのまま信じたいものよ」
「へぇ、気味がそんなことを言うなんて意外だな。もっと現実主義かと思ってたよ」
「仕事とプライベートは別なの」
アスカの一言にヒサシは笑った。
「一体、何人の女の子と付き合ってるのよ」
アスカはずっと前から気になっていたことを訊いてみた。
「何人だと思う?」
「そうね……。五人くらいかしら?」
「惜しいな」
「もっといるの?」
「まさか。四人だよ。ご飯を食べるだけの関係なら、片手じゃ足りないけど」
「あの子も四人のうちの一人……か」
「ひどい男だと思った?」
ヒサシは悪戯っぽく微笑んで、アスカを見た。
「前から思ってるわ。あなたのことを探る為に、ここでアルバイトを始めてから、沢山の女の子と一緒にいるところを見てきたもの」
「妻だけじゃ足りないんだよ」
「足りない?」
「ああ、結婚は見合いで、家柄も悪くないし、性格も普通、外見は良かったし、結婚してもいいかな、と思ったんだ。ちょうど、少し前に五年付き合った彼女と別れたところでね。思考が鈍っていたんだと思う」
ヒサシはいつも以上に饒舌だった。きっと今まで誰にも言えなかった鬱憤が溜まっていたのだろう。
「結婚してみてわかったのは、料理も大して上手くないし、夜もいまいちつまらない。美人は三日で飽きるっていうけど、外見しか取り柄のない女ほどつまらないものはないよ」
ヒサシは一気にそこまで言うと、グラスを煽った。
「結婚を楽しいものだけだとでも思ったの?」
アスカはモヒートを飲みながら、ヒサシに視線を向ける。ヒサシはアスカの視線を受け止め、自嘲した。
「そんなこと思うわけないじゃないか。結婚が墓場だなんて、よく聞く話だろう?」
「じゃあ、どうして、そんな不平不満を?」
「結婚なんて、バカげた選択をしてしまった自分に対しての愚痴みたいなものだよ」
ヒサシは言いながら、溜め息をついた。
きっと少し前までのアスカなら、ヒサシと似たような溜め息をついていただろう。けれど、今のアスカがシンゴの存在を疎ましく思うことはなかった。それどころか、シンゴのことをそんな風に思ってしまっていたことに申し訳なさすら感じていた。
「結婚に対して、不平不満を言うのは、筋違いだってことくらいわかってるよ。全て、自分の選択の上に今の自分は成り立っているんだからね。だけど、愚痴を言わずにはいられない。まぁ……独身の君にはわからないだろうけど」
ヒサシは言いながら、左手の薬指に光る指輪に視線を落とした。
「あら、いつ私が独身だなんて言ったかしら?」
アスカの言葉にヒサシは大袈裟に驚いてみせる。
「冗談だろう?」
「冗談なんかじゃないわ。既婚者よ」
「まさかなぁ。俺の目も随分悪くなったらしい」
「どういう意味よ」
「俺が相手にするのは、独身の女だけって決めてるんだ。今まで、一度だって、既婚者の女を口説いたことなんてなかったんだよ」
「てことは、あのお誘いは本気だったってこと?」
「そうなるね」
ヒサシは悪びれることもなく、あっさりと認めた。
「でも、そんな仕事をしていて、既婚者とはね……。旦那は怒らない?」
「そんな小さな男と結婚なんてしないわよ」
アスカは特に考えることもなく、口をついて出た言葉に驚いていた。
そうだ、シンゴの大らかで、懐の深いところにアスカは惹かれたのだ。すっかり忘れてしまっていたことに思わず戸惑う
「それは良く出来た旦那だね」
「あなただったら、別れさせ屋なんて辞めさせる?」
「そうだなぁ……。辞めさせはしないだろうけど、快くは思わないだろうね」
「どうして?」
アスカは間髪入れずに問う。
「他の男とこうやって、接触するような仕事に奥さんに就いてほしいと思う男なんていないよ。ただ……辞めさせたりしたら、自分の器の小ささを露呈してしまうから、辞めさせたりしないんだよ。男なんて、ほとんど虚栄心で出来てる」
「その意見を否定はしないけど……。あなたの理屈から言ったら、私の夫は我慢してることになるわね」
「でも、全ての男がそういう考え方なわけじゃない。心の広い男だっているさ」
「そうね……」と言って、アスカはシンゴの本心はどうなのだろうと思った。今まで一度だって、きちんと自分の仕事について、シンゴに意見を求めたことはない。それだけ、シンゴの気持ちを考えてこなかったということのような気がした。
「そう言えば、お子さんはいないの?」
アスカはヒサシの妻であるマキコが妊娠中であることを知っていたものの、そ知らぬ顔で訊く。
「いないよ。ここ、一年くらい関係も持ってないから、出来ることもない」
ヒサシの言葉にアスカは自分の耳を疑った。
――子どもが出来ることもない……?
アスカは心の中がざわつくのを感じていた。
一体、マキコはなんでそんな嘘をついたんだろう……。
アスカはつい考え込みそうになるけれど、目の前にヒサシがいるので、心に留めるだけにした。
「お子さんがいれば、また少しは環境が変わってたんじゃないかしら?」
「そうだと信じたいね。でも、子どもがいなくて、少しほっとしているんだ」
「どうして?」
「だって、子どもがいたら、離婚を躊躇うだろう? 周りにも離婚を考えている奴らは何人もいるけど、結局、子どものことがネックになって出来ないでいるんだ。子どもは可愛いとか、養育費を払うのが難しいとかね」
「そもそも、離婚しないような相手を選べば良かったんじゃないの?」
アスカは仕事を忘れて、思ったことを口にする。言ってから、しまった、と思った。
「あははは。君の言う通りだよ。相手を選んだのは自分だからね。全ての責任は俺にある。でも、人間は間違うものだろう? 俺はうっかり間違えてしまったんだよ」
ヒサシは自嘲するように言った。
「本当に選ぶべきはレナさんだったと?」
「いや、違う」
「最低」
「最低なことは、俺をずっと見てた君なら、とっくに気が付いていると思ってたけど」
「そうね。気が付いてたわ。でも、言わずにはいられない程、最低だと思ったのよ」
「そう思われても仕方ないだろうね。さっきも言っただろう? 付き合っているのは四人いるって」
「ええ」
「君がコートを汚してしまったあの女性がしいて言えば、本命ってところかな」
「彼女は自分以外に三人いることは知っているの?」
「知るわけないだろう? 知ってたら、付き合うわけがない。男は浮気する生き物だからなんてカッコつけて、浮気は平気なんて言う女は沢山いるが、心の底から許している女なんていやしないんだよ」
「そして、不倫をしている女は自分が一番愛されている、と思い込む」
「その通り。奥さんよりも愛されている、と勘違いしている。でも、まぁ、俺の場合は、少なくとも妻よりは愛してるけどね」
ヒサシの言っていることは、きっと多くの男の本音なのだろう。けれど、本音だからと言って、正しいと認めることは出来ない。ただこんなにストレートに言われてしまっては、否定のしようがなかった。
彼は嘘をついているわけではないのだ。事実を述べているだけなのだ。
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アスカはホットミルクにはちみつを入れると、スプーンで何度かくるくるとかき混ぜた。使い終わったスプーンをシンクに置くと、シンゴの座っているソファへ溜め息をつきながら腰を下ろした。
「随分、疲れてるみたいだね」
シンゴはアスカの顔をちらりと見て言う。
二人の目の前にあるテレビは電源が切られており、真っ暗な画面が二人の姿をぼんやりと写していた。
アスカはそんな二人のぼんやりとした姿を見ながら、「うん」とだけ答える。喉の奥に言葉が引っかかって出てこない気がした。
「仕事、上手くいかなかったの?」
「……」
なんだか自分のことを見通されている気がして、アスカは黙ったまま、カップに口をつけた。
はちみつ入りのホットミルクの甘い味が口の中に広がってはゆっくりと消えていく。アスカは何も言わずにもう一口、ホットミルクを飲んだ。
無言の時間が続いていた。
シンゴもアスカが何も言わないことが答えだと思い、それ以上は何も言わなかった。
黙って隣にいるだけ良い時があるということをシンゴは知っていた。
乾杯した後、冷たいグラスになみなみ注がれたビールを二人は一気に喉に流し込む。外の寒さを思うと、飲みたいなんて思わなかったのに、店内の暖かさに触れるとこんなにも美味しいものか、と思い、二口三口と続いた。
「今日は何を話したくて、電話をくれたの?」
アスカはビールを半分くらい飲み干すと訊いた。
「実は彼とこの間、話をしたんです」
「へぇ……。彼はなんて?」
「取り合ってくれませんでした」
「えっ……」
「君が突然そんなことを言い出すなんて、おかしい。誰かに何か言われたの? って言われて……」
さすがヒサシだ。レナの行動理由のほとんどはお見通しなのだろう。
「それであなたはなんて答えたの?」
「……何も言えませんでした。否定も肯定も出来なかったんです」
だから、ヒサシはきっと確信したのだろう。レナの後ろに誰かがいる、と。そして、それがアスカであるということにも気が付いた。アスカの名刺を何かのタイミングで見て、彼の中での点が全て線で繋がったに違いない。
「でも、あなたは別れたいのよね?」
アスカは棒棒鶏を皿に取りながら言う。
「はい。別れるつもりではいます。でも、彼が取り合ってくれないと、どうすることも出来なくて……」
「そうよね……」
アスカは次の作戦を考えていた。ここでレナに音信不通にさせてしまうのも一つの手ではあるけれど、ヒサシはそんことを許さないだろう。きっと何かしらのアクションを起こしてくるはずだ。そうなれば、アスカの対応は後手に回ってしまう。勝負に勝とうとするのならば、先手を打たなければならない。
今、ここで結論を急ぐのは得策じゃないわね……。
アスカはこの後に控えているヒサシとの待ち合わせを考えて、敢えて、レナにアドバイスするのをやめることにした。
「少し時間をおいた方がいいのかもしれないわね」
「えっ……」
「だって、彼だって、きっと戸惑っているはずよ。いくら不倫とは言え、好きな人から別れを告げられたら、どうしていいかわからなくなると思うの」
アスカはもっともらしく言った。内心では、そんなことを思っていないのに、だ。
「彼に限って、そんなことってあるんでしょうか……」
レナはやけに冷静だった。不倫をやめると決めてから、いろんなことが客観的に見られるようになってきたのだろう。きっとヒサシの良いところも悪いところも的確に判断出来るようになっているに違いない。
「どんな人だって、大切な人を失くす喪失感は経験したくないものよ」
「……」
アスカの言葉にレナは黙った。アスカの言っていることが一理あると思ったのか、自分の考えがまとまらないのかはわからない。ただ少なくとも、アスカの発言でレナがアスカを怪しむということはなさそうだった。勿論、レナがヒサシに会えば、今後の展開は変わってくる可能性がある。ヒサシからレナに自分の存在をバラされる可能性はあるのだ。
どうすれば……。
そこまで考えて、シンゴの顔が浮かんだ。シンゴを頼れば、何か良いアイデアをもらえるかもしれない。けれど、今のシンゴを頼るのは何だか申し訳ないような気がしていた。
シンゴだって、仕事で忙しい。そんな時に、毎回、自分の仕事の相談をされたら、きっとうんざりしてしまうだろう。
ここは自分で切り抜けるしかない、とアスカは思った。
「もう少し、様子を見て、彼に別れ話をしてみます。彼にも考える時間は必要ですよね」
レナはアスカの目をしっかりと見て言った。ここ数日でレナは見る見る逞しくなっている。別れを決めた女は強いということをアスカもわかっているつもりでいたけれど、なんだか嬉しくなった。
その後、アスカもレナも美味しい食事に舌鼓を打ち、他愛ない会話を楽しんだ。アスカは次が控えているので、飲み過ぎないように注意しながら、飲み進めていく。数時間が経った頃、アスカとレナは店を出ることにした。レナがトイレで席を立った時にアスカは会計を済ませておいた。それにしても、レナがなかなか帰ってこない。不安に思って、アスカは席を立ち、辺りを見回した。すると、幼馴染だと言っていた男に腕を掴まれ、何やら口論になっているようだった。
アスカはレナの元に駆け寄ろうかと考えたが、しばらく様子を見ることにした。
揉めている理由がわからなかったし、もし何かまずい状況になったら、店員がどうにかしてくれるだろう、と思ったからだった。
アスカはテーブルでレナが戻ってくるのを待ちながら、ケータイのメールボックスを見た。そこには珍しくシンゴからのメールがあった。
“明日打ち合わせで帰りが遅くなるのを伝え忘れたのでメールしました”と簡素な文面が表示されて、アスカはなんだかほっとした。
自分の仕事や置かれている状況は、明らかに今殺伐としているように思える。そんな時、夫の何気ない日常メールに、自分の居場所を見たような気がしたのだ。
アスカは“わかりました。お仕事頑張ってね”と返すと、ケータイをテーブルの上に置く。きっとシンゴから返信はないだろう。必要なこと以外、彼はメールをしないことをアスカは知っている。けれど、こんな時はくだらない内容でもいいから、シンゴからのメールが欲しかった。今、アスカは今回の依頼が成功するか、失敗するかの瀬戸際に立たされているのだ。誰かに弱音を吐いていいわけでもなかったし、吐けるような状況でもなかった。ただ気を紛らわす為だけのシンゴからのメールが欲しかった。
五分経っても、十分経っても、レナは席に戻ってこない。アスカは次第に心配になってきた。もう一度、席を立ち、レナがいた場所へと視線を向けた。すると、幼馴染の男がレナと真剣な顔をして話しているのが見えた。レナの表情はアスカの位置からは見えない。
アスカは痺れを切らして、レナとその幼馴染の男のところへと行った。
「どうかしたの?」
アスカはレナの背後から声かける。
「アスカさん……」
レナは振り返ると、困り顔でアスカを見た。
「彼女と今一緒に食事をしているんだけれど、何かご用かしら」
アスカは落ち着いた口調で言う。幼馴染の男は罰が悪そうに俯いた。
「もういい? 私、あなたと話すことは何もないの」
レナはそう言うと、男の前から立ち去ろうとする。けれど、男はそれを許さなかった。男はレナの腕を離さなかったのだ。そして、そのまま立ち上がる。
「行かせない」
「離してよ! 私はアスカさんと食事してるだけなの。だいたい、ユウキには私が誰と付き合おうと関係ないでしょ!?」
レナの言葉にユウキはレナの腕を掴む力を緩めた。その隙にレナはユウキの手をふりほどき、アスカに駆け寄る。
「アスカさん、行きましょう!」
レナの強い口調に圧倒されながら、アスカはレナとともに元いた席に戻った。
アスカとレナは中華レストランを出ると、しばらく無言で歩いた。
レナはきっとあの状況を説明する言葉を探しているのだろう。
アスカはそれをわかっていたので、何も言わなかった。レナが話したいタイミングで話し出せばいいと思っていたのだ。
駅まであと数メートルというところまで来て、レナが口を開いた。
「すみません……。みっともないところを見せてしまって……」
「別にいいのよ。みっともないなんて思ってないわ」
アスカの言葉に安心したのか、レナはぽつりぽつりと話し始める。
「彼は――ユウキは私の幼馴染なんです。ユウキは私が不倫していることを知ってて、ずっとやめるように言ってきてて……」
「そうだったんだ」
「はい……。何度放っておいてと言っても、顔を合わせる度に別れろって言われて、その度にケンカして……。さっきもお手洗いから帰ってくる時にまたその話をされて、口論になって……」
「そうだったの……。きっとレナちゃんのことが心配なのね」
「違います! ただのお節介なんです。ユウキは昔からああだから……」
窘めるように言うアスカにレナはむきになって答えた。
「あなたは気が付いてないのね」
「えっ……」
アスカの言葉にレナは一瞬眉間に皺を寄せた。
「彼はあなたのことが好きなのよ。だから、あなたに不倫をやめてもらいたい。ただそれだけだと思うわ」
「そんなことないですよ!」
レナはアスカの言葉を即座に否定した。
「どうして、そんなことが言い切れるの?」
「だって、私とユウキは幼馴染で……」
「それはあなたの主観でしょう? 彼は幼馴染であり、好きな人として、あなたを見てるんじゃない?」
「……」
心当たりがあるのか、レナは黙った。黙って、そのまま、ふと足を止めた。
「どうして、アスカさんはいろんなことを上手に考えられるんですか……?」
“上手に考えられる”という言い方にアスカは違和感を覚えたけれど、レナの言いたいことはなんとなくわかった。
今、彼女の頭の中は混乱しているのだ。
必死で整理しようとしているのに、上手くいかない。そんな彼女の心情が表されている言葉のような気がしていた。
「いろんな経験の上に思考は成り立つから、かな」
アスカは言いながら、回りくどい言い方をしてしまったな、と思っていた。けれど、レナはアスカの言葉に深く頷いている。
「私はまだ経験が足りないのかな……」
「そうね。今回のことも良い経験になったんじゃない?」
「はい……。でも、彼に納得してもらわないと別れられないから……」
「時間はかかるかもしれないけど、きっと大丈夫よ。それより、さっきの幼馴染の彼には別れること言ったの?」
「いえ……。関係ないことですから」
レナはアスカにきっぱりと言い放った。なんだか幼馴染の青年が可哀想になる。
「そろそろ、行きましょうか」
アスカは立ち上がる前にバッグに手を伸ばした。
「あの支払は……」
「もう済ませてあるわ」
アスカはそう言って、レナに微笑んだ。
アスカはレナと別れると急いで、ヒサシの待つバーへと向かった。
見慣れたバーのドアも今となっては懐かしい。
アスカはドアの前で大きく深呼吸をすると、ドアノブに手を伸ばした。
ドアを引き開けると、カランカランとドアベルが鳴った。
アスカは一歩店内に足を踏み入れる。
店内は相変わらず薄暗く、微かにBGMがかかっていた。アスカはカウンター席に視線を走らせる。
ドアベルの音に反応してか、振り向いた男が一人――ヒサシだった。
アスカは何も言わず、空いているヒサシの右隣に座った。
マスターが一瞬驚いたような顔をしたけれど、マスターのいる位置とは席が離れていたので、特に言葉を交わすこともなかった。
新しく入ったであろうアルバイトの女の子がアスカの前におしぼりを持ってくる。注文を聞かれたので、アスカは「モヒートを」と答えた。
しばらくすると、お通しのワカメスープが運ばれてくる。それから、モヒートが間を開けずに運ばれて来た。
「来ないかと思ったよ」
ヒサシはアスカの方を見ずに言った。
「先約があったのよ」
「レナと会ってた、とか」
「もう全部わかっているみたいね」
「まぁ、夜は長い。取り敢えず、乾杯」
そう言って、ヒサシはアスカの持つモヒートのグラスに自分のグラスを軽くあてた。
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アスカは家に着くと、静かにドアを開けた。
シンゴは寝ているのか、起きて仕事をしているのかわからなかったけれど、邪魔をしたくなかったのだ。
アスカは玄関からリビングへ続くドアを開け、ソファに荷物を置くと、洗面所へと向かう。手洗いとうがいをして、洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、溜め息をついた。
疲れ切った顔が鏡越しに自分を見つめている。
アスカはリビングに戻ると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。マグカップに注ぎ、電子レンジに入れると、加熱のボタンを押す。
橙色の明かりが灯り、加熱が始まったのをじっと見つめていた。
「帰ってたんだね。おかえり」
はっとして顔を上げると、視線の先には少し眠たそうなシンゴがいた。
「ただいま」
「今、帰って来たの?」
「ええ、そうよ」
「お疲れ様」
シンゴは微笑むと、ソファに腰を下ろした。
「シンゴも何か飲む?」
「僕はいいや。さっき、コーヒーを飲んだばかりなんだ」
シンゴの顔を見て、ほっとする自分にアスカはほんの少し笑みがこぼれた。