一体、マキコはなんでそんな嘘をついたんだろう……。
アスカはつい考え込みそうになるけれど、目の前にヒサシがいるので、心に留めるだけにした。
「お子さんがいれば、また少しは環境が変わってたんじゃないかしら?」
「そうだと信じたいね。でも、子どもがいなくて、少しほっとしているんだ」
「どうして?」
「だって、子どもがいたら、離婚を躊躇うだろう? 周りにも離婚を考えている奴らは何人もいるけど、結局、子どものことがネックになって出来ないでいるんだ。子どもは可愛いとか、養育費を払うのが難しいとかね」
「そもそも、離婚しないような相手を選べば良かったんじゃないの?」
アスカは仕事を忘れて、思ったことを口にする。言ってから、しまった、と思った。
「あははは。君の言う通りだよ。相手を選んだのは自分だからね。全ての責任は俺にある。でも、人間は間違うものだろう? 俺はうっかり間違えてしまったんだよ」
ヒサシは自嘲するように言った。
「どうして?」
アスカは間髪入れずに問う。
「他の男とこうやって、接触するような仕事に奥さんに就いてほしいと思う男なんていないよ。ただ……辞めさせたりしたら、自分の器の小ささを露呈してしまうから、辞めさせたりしないんだよ。男なんて、ほとんど虚栄心で出来てる」
「その意見を否定はしないけど……。あなたの理屈から言ったら、私の夫は我慢してることになるわね」
「でも、全ての男がそういう考え方なわけじゃない。心の広い男だっているさ」
「そうね……」と言って、アスカはシンゴの本心はどうなのだろうと思った。今まで一度だって、きちんと自分の仕事について、シンゴに意見を求めたことはない。それだけ、シンゴの気持ちを考えてこなかったということのような気がした。
「そう言えば、お子さんはいないの?」
アスカはヒサシの妻であるマキコが妊娠中であることを知っていたものの、そ知らぬ顔で訊く。
「いないよ。ここ、一年くらい関係も持ってないから、出来ることもない」
ヒサシの言葉にアスカは自分の耳を疑った。
――子どもが出来ることもない……?
アスカは心の中がざわつくのを感じていた。
「あら、いつ私が独身だなんて言ったかしら?」
アスカの言葉にヒサシは大袈裟に驚いてみせる。
「冗談だろう?」
「冗談なんかじゃないわ。既婚者よ」
「まさかなぁ。俺の目も随分悪くなったらしい」
「どういう意味よ」
「俺が相手にするのは、独身の女だけって決めてるんだ。今まで、一度だって、既婚者の女を口説いたことなんてなかったんだよ」
「てことは、あのお誘いは本気だったってこと?」
「そうなるね」
ヒサシは悪びれることもなく、あっさりと認めた。
「でも、そんな仕事をしていて、既婚者とはね……。旦那は怒らない?」
「そんな小さな男と結婚なんてしないわよ」
アスカは特に考えることもなく、口をついて出た言葉に驚いていた。
そうだ、シンゴの大らかで、懐の深いところにアスカは惹かれたのだ。すっかり忘れてしまっていたことに思わず戸惑う
「それは良く出来た旦那だね」
「あなただったら、別れさせ屋なんて辞めさせる?」
「そうだなぁ……。辞めさせはしないだろうけど、快くは思わないだろうね」
「結婚を楽しいものだけだとでも思ったの?」
アスカはモヒートを飲みながら、ヒサシに視線を向ける。ヒサシはアスカの視線を受け止め、自嘲した。
「そんなこと思うわけないじゃないか。結婚が墓場だなんて、よく聞く話だろう?」
「じゃあ、どうして、そんな不平不満を?」
「結婚なんて、バカげた選択をしてしまった自分に対しての愚痴みたいなものだよ」
ヒサシは言いながら、溜め息をついた。
きっと少し前までのアスカなら、ヒサシと似たような溜め息をついていただろう。けれど、今のアスカがシンゴの存在を疎ましく思うことはなかった。それどころか、シンゴのことをそんな風に思ってしまっていたことに申し訳なさすら感じていた。
「結婚に対して、不平不満を言うのは、筋違いだってことくらいわかってるよ。全て、自分の選択の上に今の自分は成り立っているんだからね。だけど、愚痴を言わずにはいられない。まぁ……独身の君にはわからないだろうけど」
ヒサシは言いながら、左手の薬指に光る指輪に視線を落とした。
「何人だと思う?」
「そうね……。五人くらいかしら?」
「惜しいな」
「もっといるの?」
「まさか。四人だよ。ご飯を食べるだけの関係なら、片手じゃ足りないけど」
「あの子も四人のうちの一人……か」
「ひどい男だと思った?」
ヒサシは悪戯っぽく微笑んで、アスカを見た。
「前から思ってるわ。あなたのことを探る為に、ここでアルバイトを始めてから、沢山の女の子と一緒にいるところを見てきたもの」
「妻だけじゃ足りないんだよ」
「足りない?」
「ああ、結婚は見合いで、家柄も悪くないし、性格も普通、外見は良かったし、結婚してもいいかな、と思ったんだ。ちょうど、少し前に五年付き合った彼女と別れたところでね。思考が鈍っていたんだと思う」
ヒサシはいつも以上に饒舌だった。きっと今まで誰にも言えなかった鬱憤が溜まっていたのだろう。
「結婚してみてわかったのは、料理も大して上手くないし、夜もいまいちつまらない。美人は三日で飽きるっていうけど、外見しか取り柄のない女ほどつまらないものはないよ」
ヒサシは一気にそこまで言うと、グラスを煽った。