小説「サークル○サークル」01-211~01-220「加速」まとめ読み

アスカが帰って来たのは、昼過ぎだった。
「ごめん、事務所で寝ちゃってて」
アスカは帰って来るなり言った。確かに洋服もそのままだし、入浴した形跡もない。特に他の男の香りがするということもなかった。
そこまで考えて、シンゴは自分の考えていることに苦笑しそうになる。そんなに気になるなら、本人に聞いてしまった方が早い。なのに、訊くことすら出来ないのだ。どれだけ、自分が臆病なのかを目の当たりにしている気がした。
「お風呂入る?」
「うん、入りたい」
「じゃあ、今沸かしてくるよ」
「ありがとう。シンゴはいつも優しいよね」
アスカは嬉しそうに言う。その言葉に他意はない。けれど、アスカの今の言葉にシンゴはささやかな引っ掛かりを覚えた。
“いつも”とは一体誰と比較しているのだろう。“いつも”は優しくない誰かと比べられているのだろうか、とシンゴは良くない方向へと考える。そんな考えを払拭するように、かぶりを振ると、シンゴはバスルームへと向かった。

アスカが風呂に入り、シンゴはソファに座って、コーヒーを飲んでいた。
平静を保たなければ、と思えば思うほど、アスカの目を見られなくなっていく。そんな自分にシンゴは呆れかえっていた。自分はもう少ししっかりしていて、頼れる男だと思っていたのだ。
些細なことで動揺して、普通にしていられないなんて、中学生みたいだな、とシンゴは自嘲する。
コーヒーを飲み干すと、シンゴはマグカップをシンクへと持って行った。そのまま、マグカップを洗い、水切りかごに置くと、冷蔵庫を開けた。
朝帰りした妻に食事を作る為だった。浮気をされているとわかっていても、アスカに優しく接してしまう自分は本当にバカだと思う。浮気をされてよくわかったことだけれど、どうしようもないくらいアスカのことが好きなのだ。だから、仕方がないな、とも思った。
冷蔵庫から卵と生クリームを取り出すと、シンゴは手際良く、ボウルに卵を割り入れ、生クリームと岩塩を入れて、かき混ぜ始める。アスカの好きなスクランブルエッグを作ろうとしていた。

アスカがシャワーから出て来るのを見計らって、シンゴはマフィンをトースターに入れる。アスカのことなら、どんなことでもよくわかっていた。シャワーを浴びる時間もシャワーから出て来て、スキンケアをする時間がとれくらいかかるかも全部。そんな自分を差し置いて、他の男がアスカを自分のものにしているなんて、許せなかった。
アスカへの愛情は、誰にも負けるはずがないと思っていた。そんな風に思う反面、そんなことを思っている自分を冷めた目で見てもいた。どんなにアスカのことをわかっていたとしても、アスカが自分に興味を持ってくれなければ、なんの意味もない。シンゴは恋愛は一方通行では成り立たないのだ、ということを痛いほど、今回のことで思い知っていた。
恋人同士であれば、きっとすでに別れていただろう。アスカだって、シンゴといるより、浮気相手の男と一緒にいる方がいいに違いない。けれど、結婚しているから、簡単に別れることも出来ず、仕方なく一緒にいるのだろう、とシンゴは思っていた。

マフィンが焼き上がり、そろそろ、スクランブルエッグに取りかかろうとしたところで、アスカがキッチンにやって来た。スキンケアまで終えているようで、肌はつやつやしている。ただ髪はまだ濡れていた。
「何、作ってるの?」
アスカは髪を拭きながら、シンゴに問う。
「アスカの朝食だよ。マフィンとスクランブルエッグでも、と思って」
「ありがとう。シンゴも疲れてるのに、ごめんね」
アスカはそう言って、シンゴ笑顔を向ける。シンゴがアスカの気遣いに驚くのをよそに、アスカはそのままソファに座って、髪を念入りに拭き始めた。
シンゴはアスカのやましい気持ちを少しでも緩和する為にきっと優しいのだ。そう思ってはみるものの、アスカに優しくされると、つい嬉しくなってしまうのも事実だった。
アスカの一挙手一投足に一喜一憂してしまう自分をまるで中学生みたいだな、とシンゴは内心自嘲する。
シンゴは気を取り直して、油をひいたフライパンに溶いた卵を勢いよく流し込んだ。

「出来たよ」
シンゴはスクランブルエッグと、バターを乗せたマフィンを食卓テーブルに運びながら、アスカに言う。アスカは髪を拭く手を止めて、シンゴの方を見て、さっきと同じ笑顔で「ありがとう」と言った。
アスカは洗面所に行き、髪を一つにまとめて、ヘアクリップでアップにした姿で食卓テーブルに戻ってくる。
「美味しそう! いただきます」
アスカは嬉しそうに言った。
「どうぞ」
シンゴは向かいに座り、淡々と言う。ここで笑顔になれれば良かったものの、いろんなことを考え過ぎて、作り笑いすら上手く出来なかった。アスカに不審に思われなければいいな、と祈るような気持ちでコーヒーに手を伸ばす。
シンゴは平静を装うようにコーヒーに口をつけた。苦味と酸味が口の中に一気に広がり、その両方が口の中から消え始めた瞬間、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「やっぱり、シンゴの作るスクランブルエッグは最高ね」
アスカは満足そうに微笑むと、シンゴを見つめた。

「そんなに大したものじゃないよ」
普段なら、照れ笑うかもしれなかったが、感情の起伏も特になく、シンゴは答える。
「最近、仕事はどう?」
シンゴはドキドキしながら訊いた。どんな言葉がアスカの口から聞こえて来ても、平静を装わなければ、と思いながら、アスカの言葉を待つ。
「順調よ。取り敢えず、浮気相手のコには顔を覚えてもらったから、常連になる作戦は成功ってところね。あとは上手く接触していくだけよ」
シンゴはほっと胸を撫で下ろす。自分が想像していた最悪の返答ではなかったからだ。けれど、気になっていることを訊かずにはいられなかった。
「ターゲットとはどう?」
シンゴの言葉にアスカは食事の手を止めた。
「どう……って言われても、バーで仕事をしてた時以降、会ってないのよね……」
「ホントに?」
シンゴは思わず、ほんの少しの間も置かず、問うていた。
「ホントよ。接触する理由がないもの。ターゲットがどうかしたの?」
「えっ……いや、特に何もないんだけど……。ちょっと気になって」
「変な人ね」
アスカは笑うと、再びスクランブルエッグを食べ始めた。
自分の思い過ごしなのだろうか?
シンゴはそう思ったけれど、事実は何もわからない。アスカにしかわからないのだ。

アスカはシンゴの異変に気が付いていた。
シンゴは単純な男だ。どんなこともすぐに態度に出る。そして、アスカはそれをいつも見ない振りをしてきた。今回、シンゴが何について、引っ掛かりを覚えているのかはわからなかったが、もしかしたら、自分とターゲットとの仲を疑っているのではないか、と考えていた。
確かに一時期、ヒサシに心を奪われていたのは事実だ。勿論、今だって、会ってしまえば、その気持ちは加速する一方だろう。だからこそ、アスカはなるべく接触しないようにしているのだ。
シンゴとの結婚生活を台無しにはしたくないと思っていた。
それは自分の気持ちと逆行する行為のような気もしたが、それが結婚している、ということだと彼女は考えていた。
「僕がやるよ」
食べ終えた食器を片付けようとアスカにシンゴが言った。
「ううん、このくらい自分でするわ。シンゴは仕事頑張って」
アスカは笑顔で言うけれど、シンゴは「ありがとう」と俯き加減に答えた。

翌日、アスカはいつも通り、レナのいるカフェにやって来ていた。
「おはようございます。いつもので宜しいですか?」
レナはアスカを見つけるなり言った。
「えぇ、お願い」
アスカはにこりと微笑んで言う。
今日のアスカは1枚のチラシを持っていた。
「あ、それ、観て来たんですか?」
アスカの持っている映画のチラシを見て、レナは言った。
「いいえ。これから観ようかと思って」
アスカの言葉にレナも「私も観たいなーって思ってるんです」と笑顔で言う。
アスカは内心ガッツポーズする。この言葉の為にわざわざレナに見えるようにチラシを持っていたのだ。
「ペアの鑑賞券を持っているんだけど、良かったら、一緒に観に行かない? あなたが良ければだけど」
アスカの言葉にレナは目を丸くした。
「いいんですか?」
「えぇ、一人で観に行くのは勿体無いでしょう。折角のペア鑑賞券なのに」
アスカの言葉にレナは声を潜めた。
「お店にナイショでお願い出来ますか? お客さんと出掛けるのは怒られると思うんで」
「えぇ、勿論」
アスカはにっこりと微笑むと、「いつが都合いいかしら?」と小声で訊いた。

「今日、15時までなんですけど、それ以降なら大丈夫です」
「じゃあ、16時に近くの映画館の前で待ち合わせなんてどう?」
「それでお願いします」
「これ、私の名刺。何か困ったことがあれば、ここに連絡して」
アスカは名刺を差し出した。そこには“エミリーポエム”所長と書かれてあった。
レナは一体なんのお店だろう? と思ったけれど、特に口には出さなかった。
それよりも、気になっていた映画をタダで観られることにテンションが上がっていたのだ。しかも、もっと話してみたいな、と思っていたアスカに誘われたというのも理由として大きい。
カフェには色々な客が来る。横柄な態度を取ったり、感じの悪い客を見るとイヤだな、と思うこともあるけれど、大抵の客は客としてしか見ないから、特に何とも思わない。けれど、極たまに、気になる客というのがいる。その人の持つ雰囲気だったり、しぐさだったりに心惹かれるのだ。別に恋とか言うわけではなく、人として気になる。それがレナにとって、アスカだった。

アスカはカフェから事務所に戻ると、書類に目を通し始める。机の上に乱雑に置かれた書類を一枚ずつ確認し、必要なものはファイリング、すでにいらなくなった書類はシュレッダーにかけていく。
すると、ひらりと一枚の写真が落ちた。
「……」
写真を拾い上げ、アスカは無言のまま、厳しい眼差しで写真を見た。
その写真にはヒサシが写っていた。眼鏡の奥の瞳には、男としての色気がありありと見え、その唇には甘い言葉を期待してしまいたくなる何かがあった。
アスカはヒサシの写真を裏返すと、そのまま、机の上に置いた。
ヒサシとは随分会っていなかった。ヒサシのことが頭を過ぎっては、会いたいと思ってしまう自分がいる。けれど、それは許されないことだということも、アスカは知っていた。
アスカは別れさせ屋だ。この仕事を始めた時、仕事とプライベートは一緒にしないと決めた。
なのに、今回の依頼では、公私混同もいいところだ。アスカはヒサシの魅力にとらわれ、我を忘れそうになっていたのだ。
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小説「サークル○サークル」01-201~01-210「加速」まとめ読み

公園にはまばらに人がいる。昼時とあってか、ベンチに座って昼食をとる人の姿も見られた。シンゴは寒さをしのぐ為、ホットカフェオレの蓋を開けた。瞬間、コーヒーのかぐわしい香りが鼻先をつく。
口に運ぶとふんわりと珈琲の味が口の中に広がり、遅れて甘いミルクが口の中を支配した。
シンゴはユウキに尾行の話をするつもりだった。決行は何もなければ明日する。来られるのであれば来ればいいし、来られないなら、縁がなかったと思って、諦めてもらうつもりだった。
シンゴがカフェオレを飲み終えた頃、ユウキが走りながらやって来た。
「すみません! 遅くなりました」
ユウキは息を切らしながら、シンゴの元へとやって来る。ユウキの吐く息は白く、一瞬にして、ユウキの顔の周りを真っ白にした。
「そんなに焦らなくて良かったのに」
「でも、お待たせしていたんで……。あ、あと、これ、どうぞ」
そう言って、ユウキが差し出したのは、シンゴが買ったホットカフェオレだった。
「え……」
「もう飲み終わってるかな、と思って、買って来たんです」
ユウキはそう言って、無邪気な顔で笑った。

ユウキが差し出したホットカフェオレを受け取ると、シンゴは「ありがとう」と微笑んだ。ユウキのちょっとした気遣いが最近荒んでいたシンゴの心に優しく沁みる。
ユウキは何も言わず、シンゴの隣に腰を下ろした。シンゴはふとユウキとこんな風に話すのは何回目だろう、と思った。そして、その疑問が特に意味をなさないことに気が付いて、考えるのをやめた。
シンゴはさっき買った菓子パンをレジ袋から取り出すと、パッケージを開ける。
「オレも食べようっと」
ユウキはレジ袋の中から、おにぎりを取り出した。
「今日は廃棄の時間じゃなかったんで、一番安いシーチキンマヨネーズにしちゃいました」
ユウキはそう言ってはにかむ。シンゴはユウキの無邪気さが羨ましかった。自分にはそんな無邪気さは存在しない。若かった頃を思い返してみても、そんな無邪気さは皆無だった。こういう屈託のない笑顔を向けられるタイプは人に愛される。それがどれだけ財産であるか、きっとユウキは気が付いていないのだろうな、とシンゴは思った。

2人はしばし無言のまま、昼ご飯にありついていた。シンゴは菓子パンを半分たいらげたところで、ふと視線をユウキに向けた。ユウキは2個目のシーチキンマヨネーズのおにぎりのパッケージを外しているところだった。
「何か僕に用だったの?」
シンゴは待っててくれ、と言われたことを思い出し、訊いた。
「実は……彼女のことで進展があったていうか……」
「進展?」
「はい。彼女、妊娠してるみたいなんです」
「えっ? 妊娠? やけに話が飛ぶね」
「えっと……この間、たまたま、彼女が産婦人科から出て来るのを見たんです」
「なるほど……」
シンゴは菓子パンを見つめ、唸る。ユウキを励ましたい気持ちはあったが、産婦人科から出てきた以上、そういうことなのだろう、と思った。
こういう時、気の利いた言葉を言える人間とは程遠いんだな、とシンゴは自分自身の気の利かなさ具合にほとほと呆れていた。
「きっと、このまま、彼女は泥沼離婚裁判とかになって、大変な目に遭っちゃうんですよね……」
ユウキの言葉以上に声が悲しさを帯びていた。

シンゴは菓子パンを食べていた手を止めて、ユウキを見た。
「まだそうなると決まったわけじゃない」
「えっ?」
「不倫相手の男が彼女を取るとは限らないだろう」
「そんな……! じゃあ、彼女は子どもを堕ろすってことですか!?」
血相を変えて言うユウキにシンゴは一瞬ひるむ。しかし、平静を装って、ユウキの目をじっと見た。
「よくあることだよ。不倫の大半は男の火遊びだ。男が本気になるのは珍しいと思うよ」
「……」
「君は彼女がその男と結婚してもいいの? 彼女のこと、好きなんでしょう?」
「そうなんですけど……」
ユウキの返事はいまいち歯切れが悪い。シンゴは不思議に思って、首を傾げた。
「子どもを堕ろすことは褒められたことではないと思うけど、彼女が不倫をやめる、いいきっかけになると思うよ」
「……ですよね……」
シンゴの言葉にユウキは思い詰めた表情で相槌を打つ。
ユウキは思い詰めた表情のまま、地面を見つめていた。話し出す様子もなければ、おにぎりを食べ始める気配もない。シンゴは仕方なく、菓子パンにかぶりついた。

シンゴが菓子パンを食べ終わる頃、ユウキは漸く視線を上げた。
「どうしたらいいか、わからないんです」
ユウキはシンゴを見て言った。シンゴはほんの少し残った菓子パンからユウキへと視線を向ける。
「優しく見守る……じゃダメなの?」
「本当なら、きっとそれが一番いいんだと思います。だけど、彼女が捨てられるのだけは嫌なんです。子どもが出来て、都合が悪くなったから、さようなら、なんてあまりにも勝手すぎます。きちんと男には責任を持ってもらいたいんです」
「なるほどね……」
ユウキの言っていることはもっともなことだったが、シンゴは今まで聞いたり見たりしてきた事実から、それは難しいだろうな、と思っていた。
さすがにシンゴ自身は不倫をしたことはなかったが、この年になれば、不倫をしている友達や知り合いは男女問わず、結構な数がいる。上手くやっているのは一握りで、その大半は泥沼だ。シンゴが知っている限り、妊娠問題に発展するのも決して珍しいケースではなかった。

「君はどうするつもり?」
シンゴの言葉にユウキは押し黙る。シンゴはユウキが口を開くのをじっと待っていた。
いくら時間が経っただろうか。漸く、ユウキが口を開いた頃、シンゴの持つホットカフェオレはすでに空になっていた。
「どうしたらいいのかわかりません。だけど、彼女を守りたいって思うんです」
「じゃあ、君はどうしたら守ることになると思うの?」
「それは……」
ユウキは一瞬シンゴを見て、再び黙った。シンゴはそんなユウキから視線をそらすと、目の前の芝生を見た。今日も犬が飼い主と戯れている。シンゴは幸せそうでいいな、と思った。そんなことを思う自分は幸せだと思っていないのだと、シンゴはこの時気が付いた。やはり、アスカの浮気が思いの外、効いているようだ。
「彼女をあの男から離して、オレが彼女を経済的にも物理的にも精神的にも守ります!」
あらゆるものから守ると言いたいのだろう。シンゴはそんなユウキの言葉に、まだまだ若いな、と思った。

「遠くから見守る、というのも、一つの守り方だよ」
シンゴは戯れる犬を見ながら言った。シンゴの言葉にユウキははっと息をのむ。そんなことをユウキは考えもしていなかった。
「それじゃあ、オレはただ黙って、何もせずに彼女を見ていればいいんでしょうか?」
「いいか悪いかは君が考えることだよ。僕は方法を提示したまでだ」
シンゴは淡々と言う。シンゴの言葉にユウキは思考を巡らせた。
「見守るなんて出来ません。そんなもどかしいこと……」
「それは君の感情で動いているだけだろう? 彼女にとっては、それが最高の守られ方かもしれない」
「どうして、シンゴさんはそんなことばかり言うんですか!?」
ユウキは今までとは打って変わって、食って掛かる。
「別にそういうわけじゃない。君は多角的にものを見ずに感情で動いているだろう? こういう問題は多角的に見る必要がある。冷静に判断しなければ、自分も相手も傷付くんだよ」
「……」
シンゴは半分自分に言い聞かせていた。だけど、思う。冷静に判断した後、アスカの尾行に踏み切った。そして、事実を掴んだんだ、と――。

「でも、シンゴさんだって……」
「ああ、相手の気持ちは考慮していない。けれど、相手の気持ちを考慮していないのは、お互い様だよ。浮気をしたのは、妻の方だからね」
「……」
「彼女にとって、君は幼馴染である、ということを忘れちゃダメだ」
「はい……」
ユウキは力なく答えた。
「そうそう、尾行は数日のうちに実行することになると思う」
「えっ……?」
「来たいんだろう? 尾行」
「はい!」
シンゴは自分でもどうして彼女を見守れ、と言った後で尾行に誘っているのかがわからなかった。彼女を見守るならば、尾行の方法なんて教えなくていいはずだ。シンゴは自分の行動の矛盾に内心呆れた。
「妻が夜出掛けたら、尾行する。その時は連絡するよ」
「それじゃあ、これ……」
ユウキは1枚の紙切れをシンゴに渡した。シンゴが開くと、そこにはユウキのものであると思われるメールアドレスと電話番号が書いてあった。
「ここに連絡して下さい。飛んでいきます!」
ユウキは満面の笑みでシンゴに言った。

「それじゃあ、また」
シンゴはそう言うと、立ち上がった。随分と長い時間、公園にいたのだと腰の痛みでわかる。シンゴはそれなりに若かったが仕事柄、腰痛持ちだった。長時間座ると、それに比例して背中になんとも言えない痛みが走った。

その日の夜、アスカは帰ってこなかった。無断外泊というやつだ。
今までもこういうことがなかったわけじゃない。彼女はよく事務所でうたた寝をして、そのまま、夜を明かしてしまうことがあった。けれど、それも今となっては、本当だったのか嘘だったのかは疑わしい。今回の浮気が初めての浮気とは限らないのだ。
シンゴは落ち着きなく、部屋を行ったり来たりしている。こんなことをするのは、漫画の世界だけだと思っていたが、そうでもないらしい。人間はそわそわするとじっとしていられない生き物のようだ。
シンゴは大きな溜め息をつくと、仕事用の椅子にどかっと腰を下ろす。画面は文字の入力を待っているかのように点滅していた。

シンゴはタイピングをしようとして、手を止めた。とてもじゃないが、書く気分になれなかったのだ。アスカが帰ってくるまでに、気持ちを落ち着けようと、シンゴはコーヒーを淹れに席を立つ。こんな時、煙草が吸えたら、どんなにいいだろう、と思った。
そして、アスカが煙草をふかしている姿を思い浮かべた。彼女は煙草がよく似合う。シンゴはアスカが煙草を吸っている姿が好きだった。自分にはない格好良さというものをアスカは持っている。それを見ているのが好きだった。だけど、その姿は今、遠くに行こうとしている。なのに、自分は尾行以外、何もしようとはしていない。そう思うと、自分が一体アスカとの関係をどうしたいのかがよくわからなくなってくる。
傷つくのが嫌だというなら、見なかった振りをしていればいい。けれど、それさえも出来ずに尾行なんてマネをしているのだ。そのくせ、あと一歩のところで踏み込めない自分がいる。そんな自分をシンゴは持て余していた。

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小説「サークル○サークル」01-259. 「加速」

「いらっしゃいませー」
自動ドアをくぐると、気持ちの良い挨拶が聞こえてきた。レジにふと目を遣れば、そこにはユウキがいる。シンゴは適当に菓子パンと紙パックのコーヒーを手に取ると、レジに向かった。
「いらっしゃいませ。ストローはおつけになりますよね」
「ああ」
ユウキに言われて、シンゴは頷いた。
「最近、シンゴさん来てくれないから心配してたんです」
「心配?」
「だって、ほら、奥さんのこととかで何かあったのかなって」
「ああ……そのことなんだけど……」
「はい……?」
「今日、何時に終わる?」
「あと10分ほどで」
「じゃあ、いつもの公園で待ってる」
「わかりました」
ユウキはレジの後ろに別の客が並んだのを確認すると、手際良く、会計をした。
シンゴは商品とおつりを受け取ると、ユウキといつも会っている公園へと向かう。
のんびりと歩きながら、穏やかな景色に視線を漂わせた。
自分以外の人はいつだって、幸せそうに見えることにシンゴはもやもやした気持ちを抱えていた。

小説「サークル○サークル」01-258. 「加速」

シンゴが食卓に来て、アスカは微笑んだ。
「お待たせ」
「いい匂いがしてたから、お腹空いちゃったよ」
シンゴも心とは裏腹に微笑んだ。
アスカには訊きたいことが山ほどあった。けれど、今、それを口に出すことは出来ない。
シンゴは「おいしいね」と言って、肉じゃがを口に運ぶ。
アスカは何も気が付いていない。それがシンゴにとっては遣る瀬無かった。
「仕事はどうなの? 順調?」
前にも訊いたな、と思いながら、シンゴは口にする。
「順調よ。相変わらず。毎朝、カフェに通ってる。あともう一度くらい食事に行けば、もっと彼女とターゲットに近づけるんじゃないかなぁ」
アスカはそう言うと、味噌汁に手を伸ばした。
「じゃあ、そろそろ、今回の案件は片付きそう」
「そうね。時間的な制約もあるし、そろそろ終わらせないとまずいわね」
「早く今回の仕事が終わるといいね」
「頑張るわ」
アスカの微笑みを見て、シンゴはそれ以上何も言わなかった。
アスカに色々訊くのはこの案件が終わってからでいい、とシンゴは思っていた。それまでに自分がやらなければならないことはたった一つだけだった。

小説「サークル○サークル」01-257. 「加速」

アスカはキッチンで料理をしながら、束の間の休息を楽しんでいた。
仕事から解き放たれる家で過ごす時間は、今のアスカにとって唯一ほっと出来る時間だった。
今日の夕飯は肉じゃがだ。
野菜を切って、煮込み始めると肉じゃがの匂いが鼻先をかすめた。
キッチンからリビングのソファを見ると、シンゴがくつろいでいる。
何か思い詰めた顔をしているけれど、きっと小説のことを考えているのだろう、とアスカは敢えて声をかけなかった。
シンゴは優しい。
夕飯を作ると言ったアスカに僕がやるよ、と言ってくれた。
確かに一時期、ヒサシに心を奪われていたけれど、今はヒサシと関係を持たなくて良かったと思っている。ヒサシと関係を持ってしまっていたら、シンゴに申し訳ない気持ちが勝ってしまって、きっと今一緒にいることは出来なかっただろう。
浮気なんて一時期の気の迷いだ、ということをアスカは痛感していた。
アスカは肉じゃがと味噌汁が出来上がり、シンゴの名前を呼ぶ。
はっとして笑顔で食卓テーブルにやってくるシンゴを見て、アスカは幸せを感じていた。


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