小説「サークル○サークル」01-211. 「加速」

アスカが帰って来たのは、昼過ぎだった。
「ごめん、事務所で寝ちゃってて」
アスカは帰って来るなり言った。確かに洋服もそのままだし、入浴した形跡もない。特に他の男の香りがするということもなかった。
そこまで考えて、シンゴは自分の考えていることに苦笑しそうになる。そんなに気になるなら、本人に聞いてしまった方が早い。なのに、訊くことすら出来ないのだ。どれだけ、自分が臆病なのかを目の当たりにしている気がした。
「お風呂入る?」
「うん、入りたい」
「じゃあ、今沸かしてくるよ」
「ありがとう。シンゴはいつも優しいよね」
アスカは嬉しそうに言う。その言葉に他意はない。けれど、アスカの今の言葉にシンゴはささやかな引っ掛かりを覚えた。
“いつも”とは一体誰と比較しているのだろう。“いつも”は優しくない誰かと比べられているのだろうか、とシンゴは良くない方向へと考える。そんな考えを払拭するように、かぶりを振ると、シンゴはバスルームへと向かった。

小説「サークル○サークル」01-210. 「加速」

シンゴはタイピングをしようとして、手を止めた。とてもじゃないが、書く気分になれなかったのだ。アスカが帰ってくるまでに、気持ちを落ち着けようと、シンゴはコーヒーを淹れに席を立つ。こんな時、煙草が吸えたら、どんなにいいだろう、と思った。
そして、アスカが煙草をふかしている姿を思い浮かべた。彼女は煙草がよく似合う。シンゴはアスカが煙草を吸っている姿が好きだった。自分にはない格好良さというものをアスカは持っている。それを見ているのが好きだった。だけど、その姿は今、遠くに行こうとしている。なのに、自分は尾行以外、何もしようとはしていない。そう思うと、自分が一体アスカとの関係をどうしたいのかがよくわからなくなってくる。
傷つくのが嫌だというなら、見なかった振りをしていればいい。けれど、それさえも出来ずに尾行なんてマネをしているのだ。そのくせ、あと一歩のところで踏み込めない自分がいる。そんな自分をシンゴは持て余していた。

小説「サークル○サークル」01-209. 「加速」

「それじゃあ、また」
シンゴはそう言うと、立ち上がった。随分と長い時間、公園にいたのだと腰の痛みでわかる。シンゴはそれなりに若かったが仕事柄、腰痛持ちだった。長時間座ると、それに比例して背中になんとも言えない痛みが走った。

その日の夜、アスカは帰ってこなかった。無断外泊というやつだ。
今までもこういうことがなかったわけじゃない。彼女はよく事務所でうたた寝をして、そのまま、夜を明かしてしまうことがあった。けれど、それも今となっては、本当だったのか嘘だったのかは疑わしい。今回の浮気が初めての浮気とは限らないのだ。
シンゴは落ち着きなく、部屋を行ったり来たりしている。こんなことをするのは、漫画の世界だけだと思っていたが、そうでもないらしい。人間はそわそわするとじっとしていられない生き物のようだ。
シンゴは大きな溜め息をつくと、仕事用の椅子にどかっと腰を下ろす。画面は文字の入力を待っているかのように点滅していた。

小説「サークル○サークル」01-208. 「加速」

「でも、シンゴさんだって……」
「ああ、相手の気持ちは考慮していない。けれど、相手の気持ちを考慮していないのは、お互い様だよ。浮気をしたのは、妻の方だからね」
「……」
「彼女にとって、君は幼馴染である、ということを忘れちゃダメだ」
「はい……」
ユウキは力なく答えた。
「そうそう、尾行は数日のうちに実行することになると思う」
「えっ……?」
「来たいんだろう? 尾行」
「はい!」
シンゴは自分でもどうして彼女を見守れ、と言った後で尾行に誘っているのかがわからなかった。彼女を見守るならば、尾行の方法なんて教えなくていいはずだ。シンゴは自分の行動の矛盾に内心呆れた。
「妻が夜出掛けたら、尾行する。その時は連絡するよ」
「それじゃあ、これ……」
ユウキは1枚の紙切れをシンゴに渡した。シンゴが開くと、そこにはユウキのものであると思われるメールアドレスと電話番号が書いてあった。
「ここに連絡して下さい。飛んでいきます!」
ユウキは満面の笑みでシンゴに言った。

小説「サークル○サークル」01-207. 「加速」

「遠くから見守る、というのも、一つの守り方だよ」
シンゴは戯れる犬を見ながら言った。シンゴの言葉にユウキははっと息をのむ。そんなことをユウキは考えもしていなかった。
「それじゃあ、オレはただ黙って、何もせずに彼女を見ていればいいんでしょうか?」
「いいか悪いかは君が考えることだよ。僕は方法を提示したまでだ」
シンゴは淡々と言う。シンゴの言葉にユウキは思考を巡らせた。
「見守るなんて出来ません。そんなもどかしいこと……」
「それは君の感情で動いているだけだろう? 彼女にとっては、それが最高の守られ方かもしれない」
「どうして、シンゴさんはそんなことばかり言うんですか!?」
ユウキは今までとは打って変わって、食って掛かる。
「別にそういうわけじゃない。君は多角的にものを見ずに感情で動いているだろう? こういう問題は多角的に見る必要がある。冷静に判断しなければ、自分も相手も傷付くんだよ」
「……」
シンゴは半分自分に言い聞かせていた。だけど、思う。冷静に判断した後、アスカの尾行に踏み切った。そして、事実を掴んだんだ、と――。


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