「尾行はもうしないんですか?」
「いや、それを今、悩んでいるところなんだ」
シンゴは神妙な面持ちで言った。ユウキは思わず息を飲む。
「悩んでると言うと……?」
「尾行して知りたい真実がある。けれど、尾行がバレた時のリスクはかなりのものでね。どちらを優先するべきか、迷いどころなんだ」
シンゴの言葉にユウキは深々と頷いた。
「シンゴさんもとても悩まれているんですね」
「僕も……ってことは、君も何か悩み事でも?」
シンゴは少し驚く。シンゴの疑問にユウキは俯き、黙った。ユウキの意外な反応にシンゴは思わず口を噤む。シンゴはユウキが話し出すのを静かに待っていた。
しばらくして、ユウキは意を決したように、シンゴの目を見つめた。
「実は……好きな女の子がいるんです」
「……」
正直、シンゴは「そんなことか」と内心思った。しかし、ユウキの次の言葉を聞いて、その思いは一瞬にして覆った。
「その女の子、不倫してるんです」
シンゴは俄然、ユウキの話に興味が沸いた。
翌日、シンゴはアスカの後をつけるかどうか悩んでいた。どうにも良心が邪魔しているようだった。
公園のベンチで寒い外気に当たりながら、シンゴは遠くを見つめた。芝生の上を飼い主と犬が楽しそうに駆け回っている。のんきでいいな、と思った。
「またこんなところで考えごとですか?」
頭上から声がして、シンゴは顔を上げる。そこに立っていたのは、ユウキだった。
「ああ、君か」
シンゴは然して驚く風でもなく、淡々と言う。
「その様子だと、奥さんの浮気、解決していないみたいですね」
「意外に痛いところをついてくるね」
シンゴは苦笑する。
「シンゴさんが悩んでることは、それくらいしか知らないですから……」
「ご察知の通り、相変わらず、なんの進展もないんだ」
「あれから、尾行は続けてるんですか?」
「いや、してない」
シンゴの言葉にユウキはほっとした表情を見せた。
「最近、シンゴさんコンビニにも来なくなっちゃったし、オレが尾行に連れてってくれなんて言ったから、怒ってるのかと思ってたんです」
「そういうわけじゃないよ」
シンゴはユウキに微笑んで見せた。
食卓にカルボナーラとサラダが並び、アスカとシンゴは他愛ない会話を楽しみながら食事を進める。けれど、アスカは自分の気持ちのもやもやの所為で、どこか上の空だった。
「レナとの接触は上手くいきそう?」
「……それなりにね」
「どのくらいの期間で、この仕事は終わりそうなの?」
「さぁ……。レナがターゲットと別れてくれたからかな」
アスカの返事は歯切れが悪い。シンゴはそんなアスカの些細な変化に気が付いていた。しかし、シンゴは敢えて何も言わなかった。シンゴの勘は働いていた。きっとターゲットのことが絡んでいるに違いない。シンゴはそう踏んでいた。そうなれば、シンゴのやることはただ一つだ。再び尾行をして、アスカの状況を確認するほかない。自分のしようとしていることは、何度考えてもダメな男のやることに思えてならなかった。それでも、シンゴは真実を知りたかった。それは夫としてというよりも、もしかしたら、作家としてなのかもしれなかった。
「夕飯出来たよ」
シンゴの声がキッチンの方から聞こえる。自分がどれだけクローゼットの前でぼーっとしていたかを思い知らされた。アスカは自分が思っている以上に、ヒサシのことを気にしている。ターゲットだということを頭では理解していたが、心の方が言うことを聞かないらしかった。
アスカは溜め息をつくと、リビングへと向かった。
リビングに行くと、ガーリックのいい匂いが漂ってくる。
「今日の夕飯は?」
アスカは席に着きながら言う。
「今日はカルボナーラだよ。アスカ好きだろ?」
シンゴは卵を黄身だけにする作業をしながら言う。
「うん、ありがとう」
アスカは答えながら、カルボナーラが好きだったのは、数年前だったんだけどな……と心の中で思う。好きは好きだが、ここ最近のアスカはカルボナーラを食べなくなった。年と共に、胸やけを起こすことがちらほらあったからだ。しかし、シンゴはその事実を知らない。シンゴとの距離は一時より明らかに縮んではいるが、それでもまだとても近いところにいるわけではないのだとアスカは痛感していた。
アスカはバーの仕事を辞めてから、ヒサシには会っていない。ヒサシと会っていたのは、接触が目的であり、その接触は仕事だった。その為、アスカは積極的に動くことが必要だったし、動くことが出来た。自分の恋心だけで接触を試みようとしていたのであれば、結婚していることがちらつき、きっとアスカは躊躇したに違いない。
アスカにとって、ヒサシはターゲットであると同時に、気になる存在だ。けれど、それを表に出すことも出来なければ、ヒサシに打ち明けることも出来ない。
ヒサシに誘われた時、もしヒサシの誘いに乗っていたら……そう思うことも正直あった。考えること自体がナンセンスだということはわかっているけれど、それでも考えてしまう。それくらい、アスカの心は未だヒサシに傾いていた。
勿論、アスカは冷静さを忘れてはいない。だからこそ、シンゴとの関係を修復しようともしているし、ヒサシと唯一接触できるバーも必要がなくなれば、すぐさま辞めた。そうした判断をした自分を見て、アスカは仕事とプライベートの線引きが自分には出来るということに安心していた。仕事とプライベートの境目が曖昧になった時、そのどちらも上手くいかないのだということをアスカは経験から知っていたからだった。