小説「サークル○サークル」01-152. 「加速」

 シンゴはさえない顔をして、公園のベンチに座っていた。冴えない男の前には鳩すら寄ってこない。遠くで群れをなす鳩に視線を投げかけ、シンゴは溜め息をついた。
 あぁ、また幸せが逃げた、と思うけれど、溜め息を止めることは出来なかった。
 仕事は順調だ。小説をこんなにすらすら書ける日が来るなんて、夢にも思いはしなかった。まだなんだか夢の中にいるような気さえしていた。
 シンゴにとって、仕事が軌道に乗り始めるということは。自分にとってもアスカにとっても良いことだというのはよくわかっている。アスカの嬉しそうな顔を見ていると本当に良かった、とも思う。
 けれど、シンゴはそういった類の喜びに浸れず、ただただ溜め息をつき続けていた。
 アスカの浮気のことが気になって仕方がないのだ。一時期は仕事さえ手につかなくなりかけた。しかし、仕事には締切もあるし、何よりアスカの浮気のことばかり考えていたら、気が狂いそうになってしまう。
 嫌な考えを払拭しようと、シンゴは仕事に打ち込むようになっていった。

小説「サークル○サークル」01-151. 「加速」

 アスカの別れさせ屋としての勘が外れていて、ただ単にアスカの嫉妬心を煽るだけの為にヒサシがあの女をつれて来たのかもしれない、とほんの一瞬アスカは思った。思ったというより、そう思うことによって、自分が傷付かないようにしているのだ。あんな若い女の子に自分が勝てるとは到底思えなかったからだ。
 コースターに視線を落とし、しばし見つめる。かけてしまおうか、と思ったものの、何も出来ずにアスカはコースターをゴミ箱に捨てた。
 けれど、ヒサシの番号はしっかりと目に焼きついていた。いつだって、コールをすれば、ヒサシが出る。ヒサシが出れば、わざわざこの店でなくとも、ヒサシと繋がることが出来るのだ。
 そこまで考えて、アスカはかぶりを振った。自分の浅はかな考えに思わず苦笑する。あくまで自分がしているのは仕事であって、恋愛ではない。何度同じ問答を繰り返したら、心が揺れずに済むのだろう、とアスカはふと思う。そして、アスカは知っていた。会わなければ次第に恋心は薄れていく。だったら、接触さえしなければいいのだ。
 アスカは深呼吸をすると、マスターの元へと向かった。

小説「サークル○サークル」01-150. 「加速」

 アスカは自分の心が乱れてしまわないように、仕事に集中する。しかし、やはり、ヒサシと女のやりとりが気になった。それは、仕事ではなく、明らかにアスカの私情から来るものだった。
 アスカがちらちらと気にしているのがわかったのだろう。ヒサシがアスカの方に何の前触れもなく、視線を向けた。互いの視線がぶつかり、アスカは気まずさのあまり目を伏せた。これではまるでヒサシに気があります、と言っているようなものだとアスカは罰が悪くなる。
 やがて、ヒサシは女を連れて、店を出て行った。アスカはほっと胸を撫で下ろす。あのまま、二人を視界の端に捉え続けることはアスカには耐え難かったのだ。
 アスカはテーブルを片付けようとして、あることに気が付いた。徐にヒサシの前にあったコースターに手を伸ばす。
 きっと女がお手洗いに立った時に書いたのだろう。コースターには電話番号とヒサシの名前が書いてあった。電話をしてくれ、というメッセージであることは一目瞭然だった。

小説「サークル○サークル」01-149. 「加速」

 ヒサシが女を連れてくることはいつものことなのに、今日は心がざわざわした。あれが依頼主であるマキコが言っていた女に十中八九間違いないと思った。けれど、事実かどうかはわからない。
 どうにかして、女の情報を聞き出さなければ、とアスカは思った。顔を覚えることはアスカにとって、簡単だった。名前さえわかれば、どうにでもなる。その後は素性を押さえて、接触するだけだ。どこかで偶然を装い出会い、浮気相手の女とも親しくなれれば、より一層、別れさせやすくなる。一番いいのは、女に別の男を差し向けることだったが、他の所員は別件で手一杯だった。
 ここは自分がやるしかないか、とアスカが納得した時、タイミング良く、マスターが出来上がったドリンクをアスカに手渡した。
「お待たせ致しました」
 いつものようにアスカは笑顔を向ける。
「ありがとうございます」
 媚びるわけでもなく、自然に女はアスカからドリンクを受け取った。
 今までヒサシが連れて来たどの女よりも愛想がいいな、とアスカは思った。お高く留まっているわけでも、自分の美しさに胡坐をかいているわけでもない。そういう素直さにヒサシが惹かれたことは一目瞭然だった。

小説「サークル○サークル」01-148. 「加速」

 心のどこかで、シンゴがどうにかしてくれることを待っているのだ。そのくせ、シンゴがどうにかしてくれることなど、ありはしないと言うこともアスカはよくわかっている。
 どうして、結婚してしまったのだろう。
 行きつく結論はいつもそこになる。
 でも、仕方がない。選んでしまったのは自分なのだ。今更、後悔したって遅い。責任は他の誰でもない、自分にある。
 ヒサシを待つこの時間にいつもアスカは自分の恋の相手を間違えたような気分になった。
 ふと顔を上げると、ドアが開き、入って来たのはヒサシだった。
 思わず、アスカの顔がほころぶ。けれど、続いて入って来た女を見て、アスカの笑みは消えた。
 茶色のボブヘアの良く似合う可愛い女だった。年の頃は二十代前半といったところだ。アスカとは数歳しか離れていないというのに、その若さは目を細めたくなるほど、眩しかった。
「いらっしゃいませ」
 いつものようにアスカは声をかける。ヒサシは躊躇うことなく、カウンターのいつもの席に座った。続いて、女も腰を下ろす。
「バーボンと、君は?」
「ジントニックで」
 アスカの顔を見ることなく、メニューに視線を落としたまま、女は言った。
 ヒサシの顔を盗み見る。その顔はいつものヒサシのそれとは違った。
 あの女がヒサシの本命――愛人だ。
 別れさせ屋の勘がアスカにそう言っていた。


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