ヒサシの言葉には一理あるな、とアスカは思った。本人が不幸せを感じる時は、“不倫を知ってしまった時”だ。知らなければ確かになかったことと同じだろう。けれど、アスカはこうも考える。パートナーに裏切られた時点で目に見えない不幸は始まっているのだ。目に見えない不幸は、生活の端々に顔を覗かせ、やがて余計なひずみを生む。そのひずみに気が付かない程、人間はバカじゃない。
「現段階では誰も不幸せになってないと私は思いますけど、いかがですか?」
ヒサシは静かにユウキに言った。
「……間違えてますよ、あなた」
「何をですか?」
ユウキの言葉にヒサシは眉間に皺を寄せる。何をふざけたことを言い出そうとしているのだ、と言いたげだった。
「誰も不幸せになっていないって、本気で思っているんですか?」
ユウキはヒサシを睨みつけるように見た。
アスカはユウキが何を言い出そうとしているのかわからず、ヒヤヒヤしていたが、彼の次の言葉を黙って待っていた。
アスカはそんなユウキの態度に不安を募らせる。
相手はヒサシだ。感情の起伏を見せるのは、最低限にしていた方がいい。
ヒサシは感情的になるユウキを見ながら、淡々と続けた。
「夫婦関係が冷めきっていて、離婚をしたいと思っているけれど、離婚を出来ずにいるのなら、相手が不倫をしてくれることは幸せなことだと思いますよ。夫婦間に特に大きな問題もないのにただ冷めきっているだけでは、相手に離婚を拒否されれば、離婚すること自体が難しいでしょう。世間体もありますしね。裁判になったとしても、離婚出来る確率はとても低い。でも、相手が不倫してさえくれれば、あっさりと離婚出来る上に慰謝料までもらえるんですから」
「でも、大抵の場合、不幸せでしょう?」
「大抵の場合は、というより、バレた場合は、では?」
ヒサシの言葉にユウキはぐうの音も出ないようだった。
「バレなければなかったことと同じ、という言葉はあなたも聞いたことがあるでしょう。不倫されている立場で不倫を不幸せだと感じるのは、不倫されているという事実を知ってしまった、その時だけだと私は思います」
ヒサシの言葉には妙な説得力があった。
「個人差ですか?」
ユウキはヒサシの言っている言葉の意味が理解出来ないと言いたげに同じ言葉を口にする。
「そうです。不倫は時に幸せでもあり、不幸せでもあるのではないか、と私は思っています。たとえば、不倫をしている当事者同士でも幸せだと感じている人もいれば、不幸せだと感じている人もいるでしょう。好きな人と一緒にいられて幸せだ、と思っている人もいれば、どうしてこんな関係を持ってしまったのだろう、と不幸せに思っている人もいるかもしれません」
ユウキはただひたすらヒサシの言葉を黙って聞いている。アスカは気を紛らわせるようにカップに口をつけた。レナもそれに合わせたようにカップを手にした。
「パートナーに不倫をされている当事者――今回だと私の妻の立場です。その人にとっても、幸せな場合と不幸せな場合があると思います」
「不倫をされているのだとしたら、不幸せしかないのでは?」
ユウキは納得がいかない、と言いそうにヒサシを見た。
こんな当たり前の夫婦の朝をシンゴは幸せだと感じていた。
少し前まではこんな光景は想像すら出来なかった。
ターゲットはレナと別れることを渋っているようだけれど、しっかり別れてもらわなければいけない、と思う。そうでなければ、今の幸せは消えてしまうからだ。
男として自信があればいいけれど、シンゴには男としての自信は皆無と言ってもいい。それくらい、男としての自分に自信がなかった。
ヨーグルトを食べながら、シンゴはふと手を止めた。
「仕事、上手くいきそう?」
「上手くいかせるわ。シンゴにも考えてもらったもの」
「うん、頑張って」
「ありがとう。レナの幼馴染にも協力してもらえることになったし、あとはターゲットの出方を見るだけ」
「そうだね。健闘を祈るよ」
シンゴの言葉にアスカは力強く頷いた。
アスカは食事の後、身支度を整えると、事務所へと向かった。
シンゴはアスカを見送って、大きな溜め息をつく。
男として自信があれば、きっとこんなもやもやした気持ちを抱かずに済むのだろう。
シンゴはもう一度溜め息をつくと、書斎へと入っていった。
シンゴが書斎に行き、メールを確認すると、担当編集者である元妻からメールが来ていた。
開封すると、“確認しました。大筋はいいと思います。詳細については、ゲラをお送りするのでご確認下さい”と書かれてあった。
大筋に問題がないということは、内容に関して大きな修正がないということだ。シンゴはほっと胸を撫で下ろす。
自分の書く作品にはいつだって、不安はつきものだ。
自分が面白いと思ったって、それを最初に読む編集者が面白いと感じるかどうかはわからない。ましてや、今回はプロットの提出もなかったのだから、尚更不安だった。
シンゴはメールの返信を終えると、伸びをした。椅子が軋む。
これで当分はゲラチェックに時間をかけることになるだろう。
アスカにも良い報告が出来ることにも、シンゴはほっとしていた。
さて、とシンゴは思う。
新作のプロットを書く為にシンゴは再びパソコンに向かった。
今度はどんな話にしようか、と思いを巡らせる。
純愛ものでもいいし、ミステリーでもいい。今なら、どんな話でも書ける気がした。
アスカは事務所に着くと、いつものようにお湯を沸かし始める。煙草に火を点け、脚を組むと机に置かれている書類に目を通し始めた。
他の所員が関わっていた案件が無事終了したということは、電話で連絡を受けて知っていた。その詳細がこの書類には書かれてある。
あとは私の案件が終われば、清々しく年が越せそうね……とアスカは思う。
もう一息で、アスカの関わっている案件は完遂される。けれど、そのあと少しが上手くいくのかどうかがずっとアスカの心の中で引っかかっていた。
やかんがお湯が沸いたことを甲高い音を鳴らして知らせる。アスカは煙草を灰皿に置くと、立ちあがった。
いつものようにやかんから、ポットにお湯を入れる。茶葉が踊るように渦を巻いた。
ぼんやりとポットをを見つめていると、お湯が少しずつ紅茶の色に染まっていく。
アスカはそのまま三分間じっと見つめ続けていた。
その間に彼女が考えていたことは、レナのことでもヒサシのことでも、マキコのことでもなかった。
自分の夫であるシンゴのことだった。
この案件が終わったら、シンゴと旅行でもしようかな、とアスカは思っていた。
正直、今回の案件で心も身体も疲れ切ってしまっていたし、少し休みが欲しかった。今までのアスカだったら、1人で旅行したいと思っていただろう。けれど、今のアスカはシンゴと一緒に旅行したいと思っていた。
ここまで自分の心境に変化が起きたことにアスカはもう驚いてはいなかった。
今回の案件を通じて、アスカはシンゴの大切さに気が付いたのだ。
シンゴがいてくれたことで、アスカは今回の案件を乗り切れそうだと思っていたし、ヒサシとの関係を思いとどまれたのも、シンゴの存在があったからだ。
自分の狡猾さや不安定さを目の当たりにして、アスカは自分の夫がシンゴでなければ、誤った選択をしていたのではないか、と思う。
きっかけはシンゴが何かをしてくれたことではない。シンゴがその場にいつもと変わらずいてくれたことだった。
アスカはシンゴの確かな存在感にいつしか安心感を得ていたのだ。
アスカが事務作業を始めて数時間後、アスカの携帯電話が突然鳴った。
ディスプレイに表示されたのはレナの名前だった。
「はい」
「アスカさん、ですか?」
控えめなレナの声が聞こえる。その声はどこか不安そうだった。
「どうしたの?」
「今、彼と一緒にいるんですけど……」
アスカの心臓が一つ高鳴った。
予想外の電話だった。けれど、いつか来るだろう、と思っていた電話でもあった。
時計に目を遣ると、まだ夕方だ。ヒサシは仕事中ではないのだろうか、と思ったけれど、アスカは「何かあったの?」とだけ言った。
「今から、アスカさんに来てもらうことは出来ませんか?」
レナの声はどこか困惑しているように聞こえる。
「わかったわ。今、どこ?」
アスカは詳細を聞き出すことなく、承諾すると、レナが指定してきた場所へ行くことにした。レナが指定してき場所は事務所から数駅離れたカフェだった。
アスカはレナからの電話を切ると、紅茶のカップもそのままでコートを着ると、急いで事務所を後にした。
電車に揺られること約十分。アスカはレナたちの待つカフェのある最寄り駅に着いた。
改札を抜け、改札前にある地図で方向を確認すると、歩き出す。
駅から更に十分近く歩くと、ガラスの扉が印象的なオシャレなカフェがあった。
店名を確認して、ドアを開ける。中は思ったより、広かった。
店員に待ち合わせだということを伝えると、アスカは店内を見回した。入り口付近の他の席と隔離された個室にレナとヒサシがいた。
「お待たせしました」
アスカはそう言うと、二人を交互に見た。
ヒサシは「どうぞ」とアスカに席に座るよう促す。
レナは困り顔でアスカを見ていたが、アスカは表情を変えることなく、バッグを置き、コートを脱ぐと椅子に座った。
おしぼりとお冷を持って来た店員にアールグレイティーを頼むと、座り直して、レナを見た。
「アスカさん、お忙しいところすみません。急にお呼び立てしてしまって……」
「気にしないで。大丈夫よ」
仕事だから――と言いそうになったのをアスカはぐっと飲み込んだ。アスカにとって、これは仕事だけれど、レナにとっては、自分のことに親身になってくれる相手なのだ。それをわかっているアスカは、レナをがっかりさせないように言葉を飲み込み、その代わりに微笑んだ。
「それより、お仕事はいいんですか?」
アスカはヒサシを見て言った。
「俺の心配? 随分と優しいんですね」
ヒサシはアスカをからかうように言う。一瞬、むっとしたがアスカは表情には出さないように努めた。
「仕事は午後休をもらってるんで大丈夫ですよ」
「わざわざ、そこまでして時間を作られるなんて、よっぽど重要なお話なのかしら?」
アスカは慎重に言葉を選びながら言った。
「そうですね……。そうなるかもしれません」
ヒサシが視線を動かしたことによって、アスカは自分の注文したアールグレイティーが来たのだということに気が付いた。
ポットからアールグレイティーを一杯注いで、店員は立ち去った。
アスカはアールグレイティーには手を伸ばさず、ヒサシに再び視線を戻す。
「私をここに呼ばれたということは、何か結論が出たのかしら?」
「そういうことになりますね」
「では、どういった結論になったのか教えていただけますか?」
アスカは平静を装っていたものの、内心ドキドキしっぱなしだった。
「レナとは別れます」
突然、ヒサシが言った。あまりに突然すぎて、アスカは面食らう。
もう少し、前置きがあるものだとばかり思っていた。
「それは良かったです」
“本当に?”という言葉が口をついて出そうだったけれど、発言を覆されたくなかったアスカは直前で肯定の言葉を選んで口にした。
「但し、一つだけ条件があります」
「なんでしょう?」
一体、どんな無理難題を吹っかけられるのだろう、とアスカは覚悟を決めた。
「彼をここに呼んで話をさせて下さい」
「彼とは?」
「依頼者の彼ですよ」
「わかりました」
アスカがあっさり了承したことに、ヒサシは眉を顰めた。
「あなたの仕事の報酬は減るんじゃないんですか? それでも彼をここに呼ぶと?」
「ええ。あなたがレナと別れてくれるなら、仕方がいなわ」
「俺には理解出来ない。どうして、そこまでして、レナの為に一生懸命になれるんですか?」
「これも縁だからかしら」
アスカはそう言って、余裕の笑顔を浮かべて見せた。
アスカがユウキに携帯電話で連絡をすると、ユウキは「すぐに行きます」と答えた。レナが不倫をやめるのだ。彼にとっては、どんなことよりも優先順位が高いだろう。
アスカはユウキが来ることを二人に伝えると、沈黙が落ちた。
別段、この三人が揃ったところで話すこともなかったし、話題があったとしても、会話が弾むことはないだろう。
アスカはただただ時間が過ぎるのを待っていた。ちらりとレナを見ると、緊張の面持ちで目の前のコーヒーカップに視線を落としている。
ヒサシはつまらなさそうに携帯電話をいじっていた。
たった数十分が何時間にも感じられる、というのは、こういうことを言うのだな、とアスカは思いながら、忙しなく働いているウェイトレスを見ていた。
ユウキが来て、当たり障りのない会話をして、そして、この案件は終わる。そうすれば、この案件が始まってから、ずっとアスカの中にあったモヤモヤは消えるのだ。
その所為なのか、アスカはユウキがやって来るのが不安でもあり、楽しみでもあった。
何度目かのドアベルの音に視線を向けると、入口にユウキが立っていた。その肩は小さく上下している。急いでここまで来たことが容易に想像出来た。
ユウキはアスカとレナを見つけると、軽く会釈をして、アスカたちの座る席へとやって来た。
「お待たせしました」
若干、息を切らしながら、ユウキは言った。
「こちらにどうぞ」
アスカはそう言って、自分の隣を指す。ユウキは「ありがとうございます」と言って着席した。
ユウキが入って来たことに気が付いたウェイトレスはおしぼりとお冷を持って来る。ユウキがコーヒー注文すると、ウェイトレスは深々とお辞儀をして立ち去った。
「急にお呼び立てしてしまってごめんなさい」
「いえ、大丈夫です」
アスカの言葉にユウキはしっかりと答えた。その様子から、妙な緊張などはしていないことがわかる。ユウキは覚悟を決めてここに来ているのだろう。
しばらくすると、ウェイトレスがユウキの注文したコーヒーを持って来た。
ウェイトレスが立ち去ったのを見計らって、アスカは口を開いた。
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自分が何かをするのなら、緊張を通り越し、腹をくくることが出来る。けれど、誰かの緊張を伴うシーンを見るのは、なかなか安心することが出来ないものだ。
アスカはそんな緊張に気付かれないようにじっとヒサシのことを見た。ユウキを見ているより、ヒサシを見ている方がいくらか心が落ち着いた。それはきっとヒサシの佇まいが落ち着いているからだろう。
「不倫は幸せになれないからです」
ユウキははっきりとした口調で言った。あまりにもはっきりと言ったので、アスカは思わずユウキを見てしまった。
ユウキの言葉にヒサシは黙っている。表情一つ変わってもいない。
ユウキはきっとそんなヒサシを見て、不安を覚えていることだろう。
アスカは黙ったまま、次の展開を待った。
ほんの少しの沈黙の後、ヒサシはテーブルに視線を落とした。
「不倫は幸せになれない、か」
ヒサシはそれだけぽつりとつぶやくと、コーヒーに口をつける。
「不倫が幸せか不幸せかは、個人差があるとは思いませんか」
ヒサシの言葉にユウキが動揺するのがアスカには手に取るようにわかった。