アスカは悩んでいた。マキコから依頼の再開を告げられたのは嬉しかったし、安心もした。けれど、どこかもやもやとした感情がお腹の下の方で渦巻いているのを感じていた。なんとも言えない嫌な感じだ。
煙草に火をつけ、くゆらす。吐き出した煙はしばし空気に滞留して、ふわりと消えた。机の上に足を上げ、天井を見上げる。浮かぶのはヒサシの顔だ。思わず、目を伏せた。自分の感情が上手くコントロール出来ないことに苛立ちを感じながらも、アスカにはどうすることも出来なかった。
ヒサシを不倫相手と別れさせるのが、アスカの仕事だ。けれど、別れさせれば、ヒサシはマキコの元に戻るだろう。子どもがいるのなら、尚更だ。アスカのつけいる隙はない。だいたい、アスカだって結婚をしていて、シンゴがいる。それでも、ヒサシに心惹かれてしまう自分に溜め息をついた。
理屈では割り切れない。だから、人は恋をするのだ、と誰かが言っていたのを思い出していた。
翌日、シンゴは小説を書く為にパソコンを開いた。まだ何を書いていいのかもわからない。書きたいこともない。ただ何もしないわけにはいかなかった。書けないなりに努力は必要だとも思った。ふいにシンゴは外付けHDDの一つのフォルダに目を止めた。「新しいフォルダ」と書かれているそれに見覚えがなかった。ダブルクリックをし、中身を表示させると、一つのワードファイルが入っていた。不思議に思って開けてみると、たった一文だけ、こう書かれていた。
『僕の奥さんは別れさせ屋で働いている――』
アスカが今回の仕事を始めて、様子がおかしくなった当初に書こうとした小説だった。
ユウキに話した話はあながち嘘ではなく、自分が書こうとしていたのを忘れているだけだったのだ。シンゴはなんだか嬉しくなった。数週間前の自分に思わず「でかした!」と言いたくもなった。
深呼吸をして、気持ちを落ち着けると、シンゴはパソコンに向かって、続きを書き始めた。
やがて、アスカに知り合うけれど、その時はすでにシンゴはうだつのあがらない作家だった。それでも、彼女はシンゴを愛してくれたし、シンゴも彼女を愛していた。自分の仕事の状況を考えると不安しかなかったけれど、シンゴは意を決してプロポーズをし、めでたく彼はアスカと結婚出来ることとなった。しかし、不幸にもその数日後、持っていた数本の連載が改変期と共に全て消えてしまった。シンゴは仕事はなくなったものの、アスカと結婚していた為に生活が出来なくなるという非常事態を避けることが出来た。ただアスカにとっては災難だったとしか言いようがない。勿論、シンゴはそのことをとても申し訳なく思っていた。
けれど、不思議なものでそういった感覚と言うのは、日に日に麻痺してくる。その証拠にシンゴは小説を書かず、家事に勤しんでいた。家事のやりがいや楽しさに気付いたシンゴは、急激にのめり込んでいった。作家というよりは、主夫だ。シンゴの手の込んだ料理はその頃のなごりだった。
このままではいけない気持ちが全くなかったわけではない。いつだって、シンゴの心の片隅には危機感があった。だからこそ、彼は小説を書こうと何度も試みた。試みるだけで終わってしまったのは、彼にやる気がないのではなく、それが上手く実を結ばなかっただけだったのだ。
シンゴにとってはこれで肩の荷が下りて、清々しい生活が戻り、もっと小説に打ち込めると思っていた。けれど、実際は違った。全く書けなくなったのだ。こんなはずはない、そう思った。しかし、何度パソコンに向かっても、何も浮かばなかった。原因が良くわからなかったけれど、そう言った日々が長く続くにつれて、元妻の存在が自分にとってどれだけ大きな存在だったのかを知ることになった。勿論、元妻の代わりに新たな担当編集者が寄越されたが、元妻とは比べ物にならないくらいポンコツだった。元妻がいかに出来た担当編集者だったのかも同時に思い知り、どん底に落ちた気分を味わった。そこから、シンゴは小説を書けなくなった。小説が書けなくなったからと言って、仕事をしないわけにもいかない。生活をしていかなければならなかったから、コラムやエッセイなどの連載をいくつか掛け持ちし、生計を立てた。それだけではままならなかったが、幸いにもそれまでの著作の印税がシンゴの生活を助けてくれていた。テレビドラマとまではいかなかったが、運良く、ラジオドラマ化はされ、二次使用料も入ってきて生活に困ることはなかった。
シンゴが作家として機能しなくなった理由は二つある。一つ目は優秀な編集者を失ったこと、二つ目は離婚のショックが思いの外、大きかったことだ。このどちらもが彼が作家として生きていくことを難しくさせた。作家はそれ単体で生きているわけではない。勿論、作品を書いている時は一人での作業だが、作品をチェックし、より良いものへと昇華させるには担当編集者の力が必要だ。一概には言えないが、担当編集者によって、良くも悪くもなる部分がある。本来なら、依存関係にはないものの、シンゴは自分の妻であるという身近な存在だった為に、いつしか通常の作家と担当編集者というだけの関係を越えすぎてしまっていた。精神的にかなり寄りかかっていた彼は離婚するまでそのことの大きさに気が付いてはいなかった。けれど、元妻は一切そのことについて触れることはなかった。内心、重く感じていたのかもしれない。それでも、シンゴへの愛情が途切れることはなかったから、じっと耐えていてくれたのかもしれない。なのに、シンゴは元妻に離婚を切り出した。元妻は最初頑なに別れたくないと言い、考え直してほしいとも言った。しかし、嫌だと言われれば言われる程、シンゴは別れたくなっていった。そうして、元妻の意見が聞きいれられることはなかった。