「だから、今日は少し話し相手になってもらえませんか?」
相変わらず、紳士的な物言いにアスカはくらっとしてしまう。
「はい。幸い、今日はお客様もいつもより少ないですし」
アスカが笑顔で返すとヒサシも微笑み返した。こんなにも容易く微笑み返す男はなかなかいないが、それが女の心を簡単に掴んでしまえる理由なのかもしれない。アスカはヒサシが激昂したり、不機嫌になったりする情景を思い浮かべることが出来なかった。いつでも穏やかに物事を解決してしまえるような気がしていた。きっと女をイライラさせたりはしない。そんな風にさえ思えた。
女は余裕のある男に弱い。それをきっとヒサシの端々に出る態度で感じるのだ。そして、妻帯者でありながらも、他の女はヒサシの魅力に憑りつかれてしまう。もしかしたら、この余裕は妻帯者だからこそのものかもしれない。けれど、ヒサシの魅力に憑りつかれた女にはそんなことなど関係なくなってしまうのだろう。独身の男にはない魅力で女の心はいとも簡単に骨抜きにされてしまうのだ。
ヒサシは珍しくバーボンを頼んだ。アスカはオーダーされたバーボンとミックスナッツを持って、ヒサシの元へと行く。ヒサシのところにオーダーの品を持って行くだけなのに、ドキドキする自分に内心苦笑した。これではまるで片思いをしている中学生のようではないか。
ヒサシの前に着くと、アスカはオーダーの品をテーブルの上に置いた。
「バーボンとミックスナッツでございます」
アスカの姿を見て、ヒサシは笑みを零した。瞬間、アスカは胸の奥がきゅんとしたことに驚いた。完全に自分がヒサシに気持ちを奪われていることに気が付いた瞬間だった。
「今日は一人なんだ」
訊いてもいないのにヒサシは言った。
「そうなんですね」
「今、珍しいと思ったでしょう?」
「はい」
アスカは素直に答えた。今更、ヒサシになんの遠慮がいると言うのだろう。嫌という程、ヒサシが違う女を連れて来ていたのを見ていたのだ。
「たまには一人で飲みたくなることもあるんですよ」
ヒサシは言って、苦笑する。伏し目がちの目に何だか哀愁まで感じてしまうから不思議だ。完全にヒサシに心を奪われているのだ、とアスカは思った。どこか冷静でいられるのは、彼女がヒサシとの接触は仕事の一環だという自覚をしているからに他ならない。けれど、いつか仕事だというこの自覚を飛び越えてしまいそうなことに、アスカは不安を感じていた。
アスカは今日も事務所に寄った後、バーに来ていた。アルバイトは今も続けている。マキコに調査の停止を求められてからすでに二週間が過ぎていた。時間が過ぎるのはとてつもなく早い。その間、シンゴとは言葉を交わすことが増えたけれど、特に大きな変化はなかった。相変わらず、男として見ることが難しく、ただの同居人と化していた。もしかしたら、彼が仕事に意欲を見せ、彼の収入がアスカの収入を上回ったり、活き活きとした表情を見せるようになれば、少しはこの状況も改善されるのではないか、と思っていたけれど、シンゴにその様子は微塵も見えない。主婦業は完璧だったが、それだけだった。その点、今目の前にいるヒサシは魅力的だった。今日は珍しく一人で飲みに来ている。きっとここで待ち合わせをしているのだろう。少し遅れて、またいつものようにキレイな女の子が来るに違いない。そして、彼はその女の子とホテルへ消えていくのだ。
そんなことを思っている自分にアスカはうんざりした。最近の自分は色恋のことばかり考えている。仕事に精が入っていないようにさえ思えた。
アスカはシャワーを浴びながら、仕事のことを考えていた。アスカが請け負っている仕事以外にも事務所としていくつか仕事をしている。アルバイトたちもよく働いてくれていて、特に心配するような状況でもなかった。一番の問題はアスカが抱えている案件だ。マキコからは連絡はまだない。たった二、三日では状況は変わらないだろう。気長に待つしかないけれど、やはりイライラや不安は次第に募っていく。そんな時、シンゴが温かい食事を作って待っていてくれるというのは、幾分心が和んだ。アスカの話を聞いてくれて、尚且つ的確なアドバイスもくれる。作家という仕事柄か、シンゴの発想はいつだってアスカとは違っていたし、良い刺激にもなった。けれど、シンゴにはどうしても男を感じなくなっている。極端な話をすれば、セックスをしたいと思わない、ということだ。シャワーを浴びながら、アスカは自分の身体に視線を落とす。いつから誰も自分の身体に触れなくなったのだろうか。お湯が滑り落ちていく肌は今もまだきちんと水を弾き、肌理の細やかさは健在だ。なんだかそんな自分の身体を見ていると、可哀想に思えてきた。きちんと女として機能するのに、使われていないということが情けなくもあり、勿体なく思えてしまう。そんなことを思ってしまう自分は贅沢なのだろうか。アスカはシャワーを止めて、溜め息をついた。
結婚が上手くいってなければ、浮気くらいしたくなる。意識しているのか、無意識なのか、その違いはあるにせよ、浮気をしたいと思うことに男女間の差異はほとんどないのだろう。新しい刺激が欲しい、パートナーより素敵な相手がいて心惹かれるなど、浮気なんて、恋に落ちるのと同じくらい単純で、星の数ほど理由があるに違いない。
けれど、結婚しているのに浮気に走る、となってくると、恋に落ちるのと話は別だ。理性はどこへ行ったのか、という問題がある。しかし、そもそも色恋に理性を求めること自体がナンセンスな気もしていた。そして、シンゴは考える。アスカの浮気を肯定したくはない。浮気をしそうな状況なら今すぐにでも止めたい。だけど、今ここでそんなことを口にしても、火に油を注ぐようなものかもしれないとも思っていた。反対されれば、余計に浮気をしたくなるかもしれない。アスカは本当に自分の気持ちに気が付いていないのに、気付くきっかけを自分が与えてしまうかもしれない。だったら――自分が変われば良いのだ、とシンゴは思った。もう一度、自分がアスカを振り向かせればいい。離れてしまった気持ちをまた自分に向ければいいんだと思った。シンゴにはそれが何よりも安全で手っ取り早いように思えた。幸いにも最近会話が成立するようになってきている。今日だって、あんなにたくさん話せたではないか。きっと険悪な一時期よりも今の方が状況は幾分もマシになっている。そう思っていた。