小説「サークル○サークル」01-53. 「動揺」

 今日のアスカはいつもより、やけに饒舌だった。
 アスカは依頼のあった日から今日の出来事まで、丁寧にシンゴに説明する。そうして、ふとこうしてシンゴと随分長い間、会話をしていなかったことに気が付いた。
 仕事が忙しいから、というのはもっともな理由だろう。けれど、昔の自分ならどんなに忙しくても、シンゴと話す時間を作っていたはずだ。シンゴとすれ違っていくのは、自分の怠惰さにも原因があるような気がした。しかし、それでもやはり、シンゴのうだつのあがらなさが何よりの原因だと次の瞬間には思い直していた。
「それじゃあ、調査は完全に打ち切ってしまうの?」
 マキコが依頼を断りに来たところまで話し終わると、シンゴが複雑な表情を浮かべて問うた。
「いいえ。依頼者の一時的な気の迷いである可能性も大いにありうるわ。また、調査を再開してほしいと言われた時に、あのバーを辞めていると、何かと不便だもの。取り敢えず、まだバーは辞めないし、ターゲットとの接触もやめないわ」
「それも大変だね……」
「確かに調査の再依頼がなければ困りものだけど、再依頼さえくれば、継続していた費用は請求するし、問題ないもの。まぁ、賭けではあるけどね」
 アスカは言いながら、パエリアに入っていたエビにかぶりついた。味がしっかりとついていて、おいしいと思ったが、眉間に皺を寄せて考え込んでいるシンゴを見て、感想を言うのをやめた。

小説「サークル○サークル」01-52. 「動揺」

「乾杯!」
 シンゴが言うと、アスカは静かにシンゴのグラスに自分のグラスを当てた。グラスのぶつかり合う高い音が静かなリビングに反響する。
「ねぇ、最近、仕事はどう? 順調に進んでる?」
 ビールをおいしそうに飲んだ後、シンゴはアスカに訊いた。アスカはビールを飲むのを止めて、首を傾げた。
「まあまあね」
「今、どんな仕事してるの?」
「女性からの依頼で、旦那と不倫相手を別れさせるっていう内容の仕事。いつもと変わらないよ。ただ……」
「ただ……?」
 鸚鵡返しに問うシンゴにアスカは口籠る。何か言いづらいことがあるのかとシンゴは急に不安になった。基本的に守秘義務厳守の別れさせ屋という仕事柄、アスカは仕事内容を他言することはない。けれど、シンゴにだけは別だった。彼は誰かに知った情報を漏らすわけでもなかったし、時折、アスカが思いもつかなかった方法を提案してくることもある。そういったメリットがあったので、アスカはシンゴと付き合うようになってから、シンゴにだけ話すのが習慣になっていた。最近はめっきり2人の会話も減ってしまい、仕事の話をすることもなかったけれど、アルコールが入ってる所為か、はたまた習慣のなせるわざか、アスカは今までと同じようにシンゴに今回の依頼内容について説明を始めた。

小説「サークル○サークル」01-51. 「動揺」

 アスカが風呂からあがってくると、すでに夕飯の準備は万全だった。テーブルには所狭しと料理が並べられ、冷えたグラスも用意されている。
「今日は飲むでしょ?」
 シンゴはテーブルの真ん中にパエリアを置きながら、アスカをちらりと見て言った。
「そうね……。たまには」
 アスカは答えると、濡れた髪を拭きながら、席へと着く。そのまま、プラスチック製のヘアアクセサリーで髪をアップにすると、バスタオルを隣の椅子にかけた。アスカの前でシンゴは忙しなく、キッチンとテーブルを行ったり来たりしている。
「今日はパエリアに初挑戦したんだよ」
 シンゴは缶ビールを2本持ってくると、嬉しそうにパエリアを指差した。
「おいしそうね」
「うん! 自信作だよ」
 シンゴが缶ビールのプルトップを引き上げると、小気味良い音を立てて、缶ビールが開いた。アスカの持つ冷えたグラスにシンゴは要領良くビールを注ぐ。シンゴはアスカのグラスに注ぎ終わると、自分のグラスを反対側の手に持ち、ビールを注いだ。昔なら、アスカはシンゴの分を注いでくれた。けれど、今はそれすらもしてくれない。愛情が冷めきっている証拠だとシンゴは悲しくなった。けれど、ここで不満そうな顔をすれば、それだけでケンカの原因になることもわかっている。擦れ違いが重なり、関係が冷え始めた夫婦は常に一触即発の危険に晒されている。シンゴは楽しい夕飯の時間を死守する為に、平常心と作り笑顔に努めた。

小説「サークル○サークル」01-50. 「動揺」

 翌日、アスカは久々に早い時間に帰宅していた。バーのバイトは休みだった。アスカのいつもより早い帰宅にシンゴは驚きながらも嬉しそうに彼女を出迎えた。
「お疲れ様。もうお風呂沸いてるよ」
 笑顔で言うシンゴに対し、アスカはそっけなく「お風呂入って来る」と言って、脱いだコートをシンゴに預けると、バスルームへと向かった。シンゴはアスカのコートを受け取ると、彼女の遠くなる後ろ姿を黙って見送る。バスルームのドアの奥へとアスカの姿が消えた瞬間、シンゴの口からは溜め息が漏れた。
 擦れ違いが重さを増していくことにシンゴはなす術もなく、立ち尽くす。ふいに過去の記憶が頭を過った。お世辞にも楽しい記憶とは言い難い。出来れば、今思い出すのは避けたい記憶だ。
 シンゴはアスカと結婚する前、結婚していたことがあった。勿論、アスカと出会った頃は独身だったし、倫理に反するような付き合いはしていない。そもそも、不倫なんて度胸のいることをシンゴが出来るわけなどなかった。シンゴはまた自分が離婚へと向かっているような気がして、仕方がない。前の離婚の時もこんな感じの前兆があったな、とどこか他人事のように思い出していた。

小説「サークル○サークル」 01-49. 「動揺」

 ただバーに飲みに来て終わり、なんて子供じみた関係のはずがない。むしろ、ヒサシは大人の関係を望んでいるに違いない。第一、マキコは今妊娠中なのだ。妊娠中にセックスが出来ないわけではなかったが、ある程度落ち着いてからしかすることは出来ないし、身体のことを考えたら、マキコは嫌がるかもしれない。そう考えると、辻褄が合うような気がしていた。
ヒサシがいつも連れてくる女が違うのは、違う女で楽しんでいるのか、それともアスカの想像したこととは真逆のこと――つまり、テクニック不足で同じ女を二度抱けないか、のどちらかだろう。
 そこまで考えて、アスカはふとマキコの依頼内容を思い出した。「主人とその不倫相手を別れさせたいんです!」とマキコは言っていた。不倫相手、と断定するからには、一度だけの関係ではないということだろう。そうなると、その女だけはヒサシにハマったということになる。よっぽどの場合を除いて、何人もの女に愛想を尽かされるような男に女がハマる確率は低い。そうなると、テクニック不足ではない、ということになり、やはり最初にアスカが立てた仮説が有力だということになる。ただその場合、どうして1人を除いて、一度きりなのか、ということが腑に落ちない。
 アスカはグラスを拭きながら、止まることのない思考を巡らせ続けていた。


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