小説「サークル○サークル」01-381~01-390「加速」まとめ読み

「どうして、浮気をするのかしら?」
アスカはなんの脈絡もなく言った。
「それはパートナーにない魅力が別の人にあるからじゃない?」
「でも、そんな人、たくさんいるでしょう?」
「僕が言ったことは大前提で、その上で性的な魅力があるからじゃないのかな」
「セックスしたいってこと?」
単刀直入なアスカの言葉にシンゴは思わず苦笑した。ぼかした言い方をしないところを見ると、アスカはすでに随分と酔っ払っているように見える。
「そうなるね。男女の関係になりたいと思う、という部分が浮気では占めるウエイトが大きいと思うよ」
「どうして、パートナーじゃダメなのかしら?」
「よく言うマンネリの場合もあるだろうし、そもそも、パートナーとのセックスに満足していない場合もあるだろうね」
「最初から相性が良くないってこと?」
「そう。どちらかが我慢している。様々な嗜好があるけれど、食べ物のようにその嗜好を簡単に伝えられるっていうわけでもないだろう? だから、どちらかに我慢が生じる」
「確かに……」
そう言って、アスカはシンゴの顔をじっと見た。

「何……?」
黙ったまま、自分をじっと見据えるアスカにシンゴは困ったように訊いた。
「そう言えば、シンゴの嗜好を知らないなぁ、と思って」
「あははは、今はいいよ。僕のことは」
シンゴは笑いながらも、話を元に戻そうとする。まだシンゴは酔っ払っていない。そんな時にセキララに話すなんて芸当は出来そうになかった。
「セックスだけが全てなのかしら?」
ワインを水のように飲みながら言うアスはの空になったグラスに、シンゴはワインを注いだ。
「セックスは全てではないと思うけれど、肝心なものではあるとは思うよ」
「……」
「どうかした?」
アスカが少しムッとしているような気がして、シンゴは彼女を恐る恐る見る。
「なんだか言葉を選んで喋っているような気がして」
「僕が?」
「そう。作家だからかなぁ……。なんだか、遠回しな言葉を言われている気がするのよ」
「そんなつもりはないんだけど……」
シンゴは苦笑しながら否定する。さすが、別れさせ屋だけあって、人をよく見てるなぁ、と思った。

「私は別にやんわり言ってほしいなんて思ってないの。むしろ、その逆よ。はっきりきっぱり言われた方が安心するの」
アスカは言いながら、グラスに口をつける。かなりのハイペースでアスカは飲んでいた。つまみなどほとんど口にしていない。
シンゴはカットチーズを口に運んだ。答えるのに詰まった時は食べるのに限る。もぐもぐと口を動かしている時は単なる時間稼ぎだ。シンゴは咀嚼しながら、自分の頭の中で話すことを組み立てる。
「わかった。じゃあ、はっきり言うよ。男女の関係において、セックスの重要性は半分から三分の二を占めるんじゃないかと思うよ。セックスのない関係で良いのであれば、友達でいいんだからね」
「男女間の友情は成立する、とした場合はでしょ?」
「アスカは成立しないと思ってる?」
「そうね。絶対ないとは言い切れないけど、ほとんどの場合が無理だと思うわ」
だとしたら、セックスのない関係は知り合い程度ってことなのかな、とシンゴは思ったけれど、敢えて口にはしなかった。今はそこを掘り下げるべき時じゃないな、と思ったからだ。

「セックスレスが原因で浮気を始めたのか、浮気をしていたからセックスレスになったのか、考えれば考えるほど、ドツボにハマるっていうかさ。私は別れさせ屋だし、別にそんなこと考える必要はないんだけど、時々思っちゃうんだよね。私のしてることって正しいのかなぁって。お金をもらって、成立している仕事だし、必要ともされているのはわかっているんだけど、どちらかに有益に働いているだけで、良いとか悪いとかって基準で考えるのだとするならば、もしかしたら、悪い方に加担してしまっている可能性もあるわけでしょう?」
「浮気をする原因を作ったのが依頼者だった場合ってこと?」
「そう。または自分も浮気をしている場合とかね」
「あまり考え過ぎない方がいいんじゃない? 必要とされている、仕事として成立している、それだけじゃ不満?」
「不満っていうか、なんだかもやもやしちゃって」
アスカはそう言って、残っていたワインを一気に飲み干した。アスカの白い首が上下するのを見ながら、シンゴは自分の仕事について考えていた。

作家は自分とは全く別の人物の人生を描く。それはどこかに自分と共通点を持った他の誰かだ。
シンゴが新しく書き上げた小説はアスカをモチーフに書いた。勿論、アスカのことが出てくるのだから、自分のアスカへの想いも十分に反映されている。そして、それがシンゴやアスカの知らない誰かに読まれるのだ。
シンゴは自分の経験を元に小説を書くことに抵抗がなかったわけではない。けれど、書かなければならない、という一種の使命感とも取れる感情に突き動かされて、一気に書き上げた。
自分の根底にある部分を露呈させなければ、小説を書けないことをシンゴは知っている。それが仕事だと思うからするのであって、仕事でなければ隠して生きていただろう。そういったことすらも、厭わないのが作家だ。
仕事と割り切ることが時に必要となる。それは仕事が好きだからかもしれないし、その仕事をこなさなければならないからかもしれない。または、それ以外の理由からかもしれない。いずれにしろ、アスカのように考え過ぎてしまうのは良いことだとは思えなかった。

「君の仕事はいい仕事だと思うよ」
シンゴは静かに言った。アスカは空になったワイングラスから、シンゴへと視線を移す。その表情は複雑さをたたえていた。
「いい仕事、か」
アスカはぽつりと言うと、立ち上がり、新しいワインを持ってくる。
「シンゴも飲むでしょう?」
「ああ。アスカが飲むのをやめるまで付き合うよ」
「ありがとう」
アスカは赤らんだ頬を緩ませた。
アスカは新しくワインを開けると、新しく出したグラスに注ぐ。今度はロゼだった。
「珍しいね。アスカがロゼを買うなんて」
「たまにはね」
「何かで気分転換をしたかったんだね」
「そうなのかなぁ」
本当は泣きたいのかもしれない、とシンゴは思ったが、それは言わなかった。泣かせてあげるのも優しさだけれど、泣きたいことに気付かない振りをするのも優しさだからだ。
「乾杯」
シンゴとアスカはどちらからともなく、グラスを合わせる。
「美味しい!」
アスカは嬉しそうに言う。
いつもこんなアスカを見ていたいとシンゴは思った。
アスカが悩んだり、悲しんだりしているのは、やはり見ていて辛い。
そう思った時に、シンゴはどれだけ自分がアスカのことを好きなのかを知った気がした。

翌日、シンゴはひどい頭痛で目が覚めた。喉もひどく乾く。吐き気がしないだけマシだな、と思いながら、アスカを見ると、アスカはぐっすりと眠っていた。
シンゴはキッチンへミネラルウォーターを取りに行くと、ソファに腰を下ろして、ペットボトルに入ったミネラルウォーターに口をつけた。
冷たい水が身体の隅々にまで渡っていく。半分くらい飲み終えたところで、飲むのをやめると、大きな溜め息をついた。
頭痛薬を棚から取り出すと、残りの水を使って飲んだ。そして、再び、寝室に戻る。
アスカは小さい寝息を立てていた。
シンゴは音を立てないように布団に入ると、アスカに背を向ける。
男女の呼吸のリズムは違うから、一緒に寝るのは効率的ではないと何かの本で読んだことがあった。けれど、こうして、隣で眠ることがシンゴにとっては良いことのように思えた。
一人で眠るより、良質な睡眠は取れないかもしれない。それでも、どんなに微妙な関係性になっても、別れずに済む最善の方法に感じられたのだ。

寝ているアスカを放っておいて、シンゴはコンビニへと向かった。朝食に食べるパンを切らしていたことを思い出したのだ。
適当に服を選び、パジャマから着替えると、シンゴはそっと部屋を出た。
コンビニ行き、ベーコンマヨネーズパンとメロンパン、チョコクリームパンをレジに持っていくと、さっきまで店内にいなかったユウキが立っていた。
「いらっしゃいませ。こんな時間に珍しいですね」
「君こそ、こんな時間に珍しいね」
「早番のヤツが風邪引いちゃったらしくて、代わりに俺が」
「なるほどね」
「お会計は三六〇円です」
シンゴはポケットに入れておいた財布を取り出し、支払を済ませる。
「あれから、どうなの?」
シンゴは後ろに人が並んでいないことを確認してから、ユウキの目を見て言った。
「レナのことですか?」とユウキは言った後、シンゴが頷いたを確認して、「あのまま進展なしですよ」と苦笑した。
「そうか……。でも、きっといい方向に向かうと思うよ」
シンゴはそう言って、店を後にした。

家に帰って来ても、まだアスカは寝ていた。シンゴはいつものように朝食の準備を始める。
シンゴがお湯を沸かしていると、寝室のドアが開く音が聞こえてきた。
「おはよ……」
アスカはぼーっとしたまま、シンゴを見る。
「おはよう。二日酔いは大丈夫?」
「うん」
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「紅茶」
「顔洗っておいで」
シンゴはアスカにそう言うと、にっこりと微笑んだ。アスカはシンゴの微笑みに小さく頷くと、ぼーっとしたまま、洗面所へと消えていく。
しばらくすると、顔を洗って、さっきよりはすっきりとした表情を浮かべたアスカが戻ってきた。無言のまま、いつもの席に着くと、シンゴが紅茶を運んでくれるのをじっと待っている。
「お待たせ」
シンゴの言葉にアスカは「ありがとう」と答えると、シンゴが席に座るのを静かに待っていた。
シンゴはコーヒーを入れたカップを持って、席に着くと、目の前にある菓子パンを見て「どれがいい?」とアスカに訊いた。
「チョコクリームパン」
あれだけ飲んだのに、やっぱり、アスカはそれを選ぶのだな、とシンゴは内心感心していた。

「じゃあ、僕はメロンパンにしよう」
そう言って、シンゴはアスカにチョコクリームパンを手渡し、自分はメロンパンを手に取った。
「足りなかったら、これも食べていいからね」
シンゴは言って、ベーコンマヨネーズパンを指差した。
アスカは「うん」と答えて、シンゴを見る。二人は黙ったまま、パンの袋を開けると、かじりつき始めた。
時折、パンの袋のカシャカシャという音と咀嚼音がするだけだった。シンゴはぼーっとしながら、食事をするアスカをたまにちらりと見ていたけれど、話しかけはしなかった。
今のアスカに何かを言っても、明確な返答が得られそうになかったからだ。
二人はほぼ同時にパンを食べ終わる。
「もう少し食べる?」
シンゴの問いにアスカはしばらく考え込んだ。
「ヨーグルト食べようかな。シンゴもいる?」
アスカは立ち上がり、シンゴを見た。
「うん、じゃあ、僕も」
シンゴの返事にアスカは冷蔵庫までヨーグルトを取りに行く。アスカはヨーグルトの蓋を取ると、スプーンを添えてシンゴの前に置いた。

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小説「サークル○サークル」01-371~01-380「加速」まとめ読み

「彼女はあなたとの関係を絶とうとしているの。それは彼女からも話があったでしょう?」
「ああ、何度もあったよ」
「だったら、いい加減、応じたら?」
「……君も強情だね」
「それはあなたもよ」
ヒサシとアスカはしばし黙る。話し合いは平行線だ。
「ねぇ、こういうのはどうかしら?」
「なんだい?」
「あなたが沢山の女性と浮気をしている、ということをあなたの奥さんにはバラさない。その代わり、彼女を解放してあげてほしいの。彼女を解放してくれないなら、奥さんに全てをバラすわ」
「……脅しってわけか」
「別に脅してるわけじゃないわよ。取引をしているの」
アスカはにっこりと微笑んだ。けれど、目の奥は決して笑ってなどいない。いつになく、真剣だった。
「どうする? 前者を選んだ方があなたの為だとは思うけど」
「確かにそうだろうね。その方が賢い選択と言えそうだ」
「あら、話が早いじゃない」
アスカは満足そうに微笑んだ。その微笑みは勝利をどこか確信している。

「ただ……俺の妻は俺が浮気をしていることは知っているよ」
「どうして、そんなことがわかるの?」
「わかるさ。おまけに妻も浮気をしてる」
「ダブル不倫ってこと?」
「ああ。イマドキ、珍しいことじゃないけれどね」
ヒサシは涼しい顔をして言う。アスカは切り札を奪われた気がして、戸惑った。けれどそれを顔に出すことは出来ない。
「だから、あなたの浮気が奥さんにバレても問題ないと?」
「……そうとは言い切れないかな」
ヒサシは言葉を濁す。
「俺の浮気を知ってからの浮気だろうから、俺の方が分が悪くなる」
「離婚はしないの?」
「今のところ、するつもりはない」
アスカは思わず、溜め息をついた。
「呆れた?」
「もう随分前から呆れてるわ。結局ねあなたは自分の周りにたくさんの女を囲っておきたいのよね。言わば、ハーレム」
「それが出来るだけの稼ぎと外見を持っていれば、試したくなるのが男ってもんだと思うけど」
「そうだ。こういうのはどうだろう?」
ヒサシはアスカの瞳をしっかりと見据えて、口を開いた。

「レナの代わりに、君が俺の愛人になるのはどう?」
アスカにはヒサシが口にする言葉が読めていた。
シンゴがきっとターゲットがアスカに行ってくるであろう言葉をいくつかあげていたのだが、その中の一つがそれだったからだ。
「そんな条件、飲めるわけないでしょう?」
「既婚者だから?」
「既婚者だからとか、独身だからとか、そんなこと関係ないわ」
「だったら、どうして?」
「その他大勢になるのがイヤだからよ」
「へぇ……意外な答えだな」
「その他大勢でも満足するような女に見えた?」
「そういうことを気にしないような女に見えていたよ」
「それは褒められているのかしら」
「俺としては、褒めているけどね」
ヒサシはグラスの残りの酒を一気飲み干した。
アスカもシャンディーガフを一気に飲み干した。二人は同時に立ちあがる。
「レナは諦めてもらうから」
「力ずくで持っていくつもり?」
「力ずくとはいかないまでも、あなたと接触はさせないつもり」
「依頼者にこのことがバレていると言っていもいいと?」
「ええ。好きにすればいいわ。それよりも、私にとっては、レナからあなたから離れることの方が今は大切なのよ」
そう言い残し、アスカはヒサシの元を去った。

「ユウキとですか?」
翌日、アスカは早速レナに会っていた。ヒサシに先手を打たれる前に動いたのだ。ヒサシは今頃会社だ。アスカはバイト終わりのレナを待って、近くのカフェにやって来ていた。
広々とした店内にはゆったりとした高級そうなソファが並べられ、来ている客もスーツをパリっと着こなした紳士的な人が多かった。
そんな中で、アスカとレナは幾分か浮いている。
「ええ、彼に会わせて欲しいの」
「……」
レナはアスカの思った通り、良い顔はしなかった。
レナの不倫をやめさせようと、ユウキが何度もレナに接触しているのだからそれは仕方がない。しかし、今回の作戦にはユウキの協力は必要不可欠だった。
「彼と別れたいんでしょう?」
「それはそうなんですけど」
「ユウキ君とあれからちゃんと話してないのね」
「……」
図星だったようで、レナは何も言わなかった。
レナが話し出すのを待ちながら、アスカはアールグレイに角砂糖を入れた。スプーンでかき混ぜると、バラバラと角砂糖が溶けていった。

アスカはアールグレイに口をつける。
レナは「わかりました」とつぶやくように答えた。
「今、彼を呼べる?」
「はい」
レナはそう言うと、メールを打ち始めた。
やはり、電話はしづらいのだろう。
すぐに返信が来たようで、レナの携帯電話が振動する。
「今から来るそうです」
レナは携帯電話の画面に視線を落としたまま言った。
「ありがとう」
アスカはレナに向かって微笑んだ。しかし、レナの表情は強張っている。
「どうして、そんなにユウキ君に会うのを嫌がるの?」
「ずっと不倫を反対されてましたし……」
「でも、その不倫をやめる為の協力をお願いするのよ。彼は喜ぶんじゃない?」
「喜ぶと思います。でも、私は彼に対して、いい感情はあまり抱けないというか……」
「そういうことね……」
なるほど、と思いながら、アスカは再びアールグレイに口をつける。
自分のことを思って不倫をやめるように言ってくれていたという良心はわかってはいても、不倫を続けていた時に煩わしいと思ってしまった気持ちが彼女の中にまだ残っているのだろう。
よくあることだわ、とアスカは思いながら、カップをソーサーの上に置いた。

しばらくすると、ウェイトレスに案内されて、ユウキがやって来た。
「お待たせしました」
「突然、お呼び立てしてごめんなさい」
アスカは立ち上がり、頭を下げる。
「別れさせ屋エミリーポエムの所長をしています」
「アスカさん、ですよね」
「はい。あなたはユウキ君ね」
「そうです」
「レナさんから聞いてるわ」
「俺も聞いてます。俺が呼ばれたってことは、レナの不倫のことについてですよね」
「ええ、その通りよ。どうぞ、お座りになって」
アスカとユウキのやりとりを見ながら、レナは居心地の悪そうな表情を浮かべていた。
ユウキの頼んだブレンドが運ばれてくると、アスカは本題を切り出した。
「実はあなたにお願いしたいことがあって、ここに来てもらったの」
「レナが不倫をやめてくれるなら、どんなことでもします」
「そう言ってもらえて、心強いわ」
「それで俺は何をすればいいんですか?」
ユウキは真剣な眼差しをレナに向けた。
「私にレナさんと不倫相手を別れさせたいと依頼した人の振りをしてもらいたいの」
アスカもユウキの目をしっかりと見据えて言った。

「勿論です。でも、どうして、そんな振りを?」
「守秘義務の問題があるから、詳細は言えないんだけど、不倫相手の方は別れさせ屋である私に依頼があった、ということをすでに知っています。けれど、依頼主を間違えているの」
「その間違えている依頼主が俺ってわけですね?」
「ええ。今、現在、別れさせ屋として、依頼主に不倫相手に依頼がバレているとなれば、私への報酬は基本的にありません。報酬をゼロにしない為に取引をしよう、と持ちかけられているんです。けれど、本当の依頼主は別にいます。だから、仮にあなたにバラされたところで私は特に困ることはありません」
「そこで俺に依頼主の振りをして、レナと別れさせよう、ということですね?」
「その通りです。レナさんと別れてもらう代わりに、私は依頼主にバラされることも厭わない、そういう交渉をしてきました」
「わかりました。やりましょう」
ユウキはアスカの説明を聞いて快諾した。
その間も、レナは終始つまらなさそな表情を浮かべ、テーブルの上に乗っているティーポットを見据えていた。

「それから、協力していただいくにあたり、勿論、こちらから報酬はお支払します」
アスカは仕事の時、特有の淡々とした口調で説明をした。
「いえ。それはいりません。俺もレナの不倫をやめさせたかったんです。俺じゃ出来なかったことをアスカさんがしてくれてるんです。それだけで十分ですよ」
「でも……」
「こちらこそ、お礼を言いたいくらいです」
「わかりました。お手間をおかけしてしまい、申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
アスカは頭を下げた。そんなアスカの姿を見て、レナはどうしてここまでして、自分とヒサシを別れさせようとするのだろう、と不思議に思った。アスカのその対応は、明らかに仕事の域を超えているように感じられたのだ。
三人はその後、大して話すこともなく、アスカが支払をして、喫茶店を後にした。
アスカはレナとユウキと別れると、事務所へと向かう。
あの後、二人は何を話すのだろう、と思ったけれど、それ以上は考えずに駅へと向かった。

アスカは事務所に着くなり、煙草に火をつけた。肺いっぱいに煙を吸い込み、吐き出す。溜め息が零れた。
多分、アスカがしなければならないことは、ほとんど全て終わっただろう。あとはマキコにヒサシに依頼がバレたことを悟られなければ問題はないはずだ。
アスカは書類に目を通す。
マキコに依頼されてから、数ヶ月が経ち、どうにか業務は完遂出来そうだった。
アスカは自分の仕事のことを考える。
レナとヒサシが別れて、それで全てが解決されるわけではない。
ヒサシにはまだ不倫相手が数人いるし、マキコのお腹の中の子どもがヒサシの子ではなく、不倫相手の子どもだとしたら、これから離婚が待っているだろう。そして、話し合いが行われ、マキコとヒサシは別々の人生を歩き始めるのだろう。
アスカが請け負うのは、ヒサシとレナを別れさせるところまでだ。
けれど、その先にも彼女たちには様々なことが待ち受けている。
それを思うと、自分のしている仕事は刹那的なのではないか、と思ってしまう。勿論、この仕事の重要性を十分理解しているものの、どこか空しくなってしまう時があるのもまた事実だった。

「男と女ってわからないわよね」
アスカはワイングラスを片手にぼやいた。
「思考回路が全く違うんだから、当たり前じゃない?」
シンゴは料理を運びながら言う。
「当たり前ねぇ」
アスカはシンゴの言葉に頷きながら、グラスに入っていたワインを一気に飲み干した。
シンゴは全ての料理を運び終えると、自分も席に着く。
「乾杯」
シンゴのグラスにアスカはグラスをあてた。
シンゴは一口ワインを飲むと、チーズを口にする。
今日のアスカはいつもと違うな、とシンゴは思っていた。
不思議なもので、毎日一緒にいると些細な変化にも気が付く。
きっと仕事のことでまた悩んでいるのだろう。
シンゴが聞き出すことも出来はしたが、アスカが自分で何か言い出すまで待とうと思っていた。
なんでも聞けばいいと言うものでもない。
「ワインまだあるよね?」
「ああ、あと三本は」
「良かった」
ほとんど空になっているワインボトルを持ち上げながら、アスカは嬉しそうに微笑んだ。
そんなアスカを見ながら、シンゴは今日はとことんアスカに付き合おうと思っていた。

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小説「サークル○サークル」01-361~01-370「加速」まとめ読み

「でも、私が探偵に監視されていて、私が彼女とターゲットを別れさせたってわかったとしても、普通、私に依頼しないんじゃない?」
「普通はね」
「依頼者が普通じゃないってこと?」
「君に依頼している時点で普通ではないと思うよ。彼女が君に依頼した考えられる理由は二つ。一つ目は君の別れさせ屋の能力を認めていて、この人なら確実に別れさせてくれるだろう、と思ったから。二つ目は、君に復讐したいから」
「復讐!?」
シンゴの言葉にアスカは驚きのあまり大きな声を出す。思わず、アスカは自分の口を竜手で塞いだ。
「復讐ってどういうことよ」
「そのままの意味さ」
「でも、私に依頼している時点でなんの復讐にもなってないんじゃ……」
「そうかな? 君がこの依頼を失敗したら、報酬はどうなる?」
「もらえないわよ。こっちに過失がある場合は前払い金も返金することになってる」
「それって経営に響くと思わない?」
「そりゃ、響くけど……」
シンゴの言葉にアスカは口をへの字に曲げた。

「でも、それだけ? たったそれだけの為に私に依頼するかしら?」
「すると思うよ。お金もかけずに、旦那の浮気の決定的な証拠を集められるし、一石二鳥だと思わない?」
「旦那の不貞行為が原因で離婚。そして、不倫相手と再婚して、子どもを産む……」
「そういうこと。依頼者は慰謝料もらい、新しい幸せも手に入れることが出来る」
「怖い女……」
「でも、今、君が相対しているのは、そういう人なんだよ」
「手強そうね……」
「そうだね。とても不利な状況に置かれていると思うよ」
アスカはシンゴの言葉に何も言わずに立ち上がると、キッチンへと向かう。シンゴはそんなアスカの姿を何も言わずにじっと見ていた。
アスカは食器棚から二つワイングラスを取り出すと、冷蔵庫で冷やしていた赤ワインを注いだ。
無言のまま、アスカは赤ワインの注がれたワイングラスを持って、シンゴのところへ戻ってきた。
「はい、シンゴも飲むでしょ」
「ああ、ありがとう」
シンゴは笑いながら、アスカからワイングラスを受け取った。

「飲まなきゃやってられないわ」
アスカはそう言うと、まるで水でも飲むかのように勢いよく、赤ワインを喉に流し込む。
「そんな飲み方したら、すぐ酔っちゃうよ」
「いいのよ、酔いたい気分なんだもの」
「これから、どうするの?」
シンゴはほんの少し、グラスに口をつけて言った。視線の先にはふくれっ面のアスカがいた。
「どうするも何も……。ターゲットとレナは別れさせるわよ」
「それが君の仕事だもんね。でも、ターゲットにはバレているんだろう?」
「そう。そうなのよ。でも、話し合えばどうにかなるかな……」
「ホントに?」
「ホント。他にも浮気相手がいるっていうことは、依頼者に言わないからっていう交換条件で別れてもらうつもり」
「それをターゲットが飲むと思う?」
「飲ませるのよ。私がちゃーんと報酬をもらえるようにする為にはそれしかないもの。それに第一、別の浮気相手がいることを依頼者に告げなきゃいけいない義務はないわ」
「なるほどね」
シンゴが二口目を飲むころには、アスカのグラスは空になっていた。

シンゴはべろべろに酔ったアスカを寝室に運ぶと、ソファに腰をかけ、テレビを観ていた。夜中のハイテンションなバラエティ番組はシンゴの重たい気持ちをほんの少し軽くしてくれる。
けれど、シンゴはテレビを観ながらも、アスカのことを考えていた。
漸く、ターゲットからアスカが離れたと思っていたのに、また接触をするという。ターゲットはアスカの提示する条件を飲むだろうか。アスカ自体を求めてきたりはしないだろうか。考えれば考えるほど、嫌な考えが脳裏を過っては消えていった。
そう言えば……とシンゴはユウキのことを思い出す。ユウキはどうしているのだろう。アスカがこんなに苦戦をしていられているということは、ユウキはレナとターゲットを別れさせることに成功していないということだ。
シンゴは自分がどう立ち回るべきか、アスカになんとアドバイスするべきかを悩んでいた。
ターゲットは強敵だ。いろんな女を相手にしてきて、女には慣れているし、自分がどうすれば、良いかを考えられるだけの頭の良さも持ち合わせているのは明らかだった。

でも、僕は作家だし、想像力に関しては、ターゲットよりも優れているはずだ、とシンゴは思う。どんな手段でターゲットが切り返して来ようとも、太刀打ち出来るだけのアイデアを出せるはずだとも思っていた。
問題はアスカがどういう選択をするか、だ。
シンゴは不安だった。
アスカはターゲットに心を奪われかけていた時期がある。もし、もう一度、ターゲットがアスカに好意を寄せたとしたら、アスカはターゲットの方に転がってしまうかもしれない。
だったら……とシンゴは思う。だったら、シンゴがアスカのブレーンになればいいのだ。
相手は男だ。女のアスカより同じ男の自分の方が戦うには適している、とシンゴは思った。
シンゴはテレビを消すと、書斎へと向かう。
眠たさを感じながらも、シンゴはシミュレーションを繰り返し、まとまったアイデアは忘れないようにデータとして残していく。
シンゴは自分がアスカのことでこんなにも真剣になるとは思ってもみなかった。

翌朝、アスカが起きてくると、すでにシンゴが朝食を作っているところだった。
「おはよう」
「あ、おはよう。ゆっくり眠れた?」
「うん……少し、頭がガンガンするけど……」
「そう思って、今日は和食にしたよ」
シンゴに言われて、アスカがテーブルに視線を向けると、そこには焼き魚やのりなどが並べられていた。
「今、お味噌汁とごはん入れるから、座ってて」
「うん……」
アスカはぼーっとしながら、焼き魚を見つめていた。昨日のことが上手く思い出せない。
「はい、お待たせ」
アスカがぼーとしてる間にも、シンゴはテキパキと動き、ごはんと味噌汁をよそって、席についた。
「いただきます」と二人は声に出し、同時に味噌汁に手を伸ばした。
アスカはまだ頭がぼーっとしているようで、何もしゃべらない。シンゴもアスカのことを思って、敢えて何も話さなかった。
無言のまま、食事が終わり、アスカが後片付けをしている間にシンゴは書斎へ戻った。
書斎から出てきたシンゴの手には数枚の紙があった。

「はい、これ」
シンゴはアスカに数枚の紙を手渡した。
「何……?」
アスカは何を手渡されたのかわからず、怪訝な顔をする。しかし、手に取った紙に視線を落とし、「これって……」と驚きの表情へと変わった。
「ターゲットとの会話でアスカが有利に話を展開出来るようなシュミレーションをしてみたんだ」
「すごい……。昨日の夜、これを?」
「まぁね」
アスカは一通り、目を通すと、シンゴの瞳をしっかりと見据える。
「シンゴ、本当にありがとう」
アスカは心底嬉しそうに言った。彼女の瞳にはシンゴへの尊敬と感謝がたたえられているようだった。
「じゃあ、早速、今日の夜、バーに行ってみるわ」
アスカはそう言うと、にっこりと微笑む。
その微笑みにシンゴは若干の不安を感じずにはいられなかった。
ターゲットとアスカとの間に何かが起こるとは思っていない。けれど、可能性はいつだって、ゼロではないのだ。
シンゴはもやもやとした気持ちを抱えたまま、微笑むアスカに微笑み返した。

「隣いいかしら?」
アスカの声にヒサシははっとして、声の聞こえた方を見た。
「君か」
「お久しぶりね」
「ああ、そうだね」
アスカはオーダーを聞きに来た店員にシャンディーガフを頼む。すると、すぐにお通しのスープとおしぼりが運ばれて来た。
「君がここに来たということは、何か用があるってことだろう?」
「その通りよ」
「レナのことを諦める気になってくれた?」
「まさか。私は別れさせ屋よ。一度請けた依頼は必ず完遂するわ」
「それじゃあ、俺の立場としては困ることだらけだ」
「どうして? 他にも女の子はいっぱいいるんでしょう?」
「いっぱいいることと、レナを手放すことは意味が違う」
「どう違うのかしら?」
「角度かな」
「角度?」
眉間に皺を寄せ、ヒサシを見るアスカにヒサシは微笑んだ。
「そう。物の見方の角度」
アスカはヒサシは何を言っているのだろう、と思った。アスカがそんなことを思っている間に、アスカの前にシャンディーガフが運ばれて来た。

「取り敢えず、乾杯」
ヒサシがグラスを持つと、アスカもグラスを持った。
どこか腑に落ちない表情のまま、アスカはヒサシとグラスを交わす。
シャンディーガフがアスカの喉を勢いよく流れていった。
「レナをいっぱいいる中の一人として見るのか、レナをたった一人しかいない人として見るのかで、大きく変わるだろう?」
「それはそうだけど……。どんなものでも、そういった見方をすることは出来るわ」
「その通り。だから、俺はたった一人しかいない人として、レナを見ることも出来るし、いっぱいいる中での一人という見方も出来る。本命ではないと考える時はいっぱいいる中の一人だし、手放したくないと考える時は、たった一人しかいない人になる」
「なるほどね……」
アスカはシンゴから言われていた相槌を打つ。さも理解、納得しているような「なるほど」という言葉を使いながら、次の切り替えしを考える、という方法だった。反射的に答えるよりは、慎重に答えた方がいいとも、あの紙には書かれてあった。

アスカは頭をフル回転させて、次の言葉を探していた。
「でも、常にどちらか都合の良い方で考える、というのは、あまりにも虫が良すぎない?」
「そうだね。そう言われても仕方ない」
「女はたった一人、と言われるのにとても弱いわ。だから、つい都合の良い女に成り下がってしまうの。あなたはたくさんの女性を都合よく使っているだけじゃない?」
「手厳しいなぁ」
アスカの鋭い言葉にもヒサシは余裕の表情を浮かべ、笑っている。
この男のすごいところは、どんな言葉をアスカが口にしても、動じないところだ。
「でも、都合の良い女が嫌なら、やめればいいだろう?」
ヒサシはさも当然と言ったように言った。
「それは男性本位の考え方だわ。やめられないように言葉巧みにあなたが囲っているのでしょう?」
ヒサシは黙ってグラスを傾ける。アスカになんて返すべきか思案しているのだろう。アスカは次に切り出す言葉を考えていた。
今、この時間がアスカは今回の案件で一番頭の使う時間のような気がしていた。

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小説「サークル○サークル」01-351~01-360「加速」まとめ読み

「どういうこと?」
アスカは写真をまじまじと見る。
その写真は別の案件で対象者を写したものだった。
ターゲットである男性の少し後ろにマキコが写っている。
「マキコは別の案件で不倫相手だったってこと……?」
混乱する頭の中をアスカは整理しようとする。
「この写真の書類は……」
アスカは写真の案件の書類を探そうと、山積みになっている書類に手を伸ばした。
その瞬間、ばさばさと書類の山が崩れ、紙が散乱する。
「最低……」
アスカはしゃがみこみ、書類を拾い始める。
時間が気になって、時計に目を遣れば、マキコが来る五分前だった。
取り敢えず、散らかった書類を拾い集め、何事もなかったように再び机の上に書類を置いた。
それと同時に来客を知らせるインターホンが鳴った。
「どうぞ」
ドアを開けて、アスカはマキコを出迎える。
そのお腹は以前会った時よりも、幾分か大きくなっているように見えた。これでもまだヒサシが気が付いてないのだとしたら、きちんと妻のことを見ていないのか、よっぽどアホだ、とアスカは思った。

「ご無沙汰しています」
マキコは丁寧に巻かれた巻き髪を揺らしながら、お辞儀をした。
「どうぞ、こちらへ」
アスカに促されるまま、マキコはソファに腰をかける。
アスカはお湯を沸かし、ノンカフェインの紅茶を淹れた。
「いつもすみません」
マキコは恐縮しながら、アスカから出された紅茶に口をつける。
「わざわざ、ご足労いただいてありがとうございます。今回のご依頼の進捗のご報告なんですが……」
「どんな感じでしょう? 相手の女性とは別れてくれそうでしょうか?」
「今、女性の方と接触しているところです。あと少しで別れさせることが出来ると思います」
「そうですか。じゃあ、最初の依頼通りの日程で別れさせていただけるんですね」
「そうなりますね」
マキコはそっと胸を撫で下ろす。
他にも女がいることはわかっていたが、まだここで言うわけにはいかなかった。ヒサシとの交渉が終わっていないからだ。
「お身体の方はいかがですか?」
アスカは差し支えない程度にマキコに尋ねる。
「お陰様で、順調ですよ」
「それは良かったです。それから……」
アスカは一通り、今後必要となる手続きについての説明を始めた。
けれど、アスカの気持ちはここにはなかった。あの写真のことがずっと脳裏を過っていたのだ。
一体、どういうことなのだろう……?
疑問だけがくるくると頭の中を回り続けていた。

マキコを送りだし、アスカはどかっと椅子に腰をかけた。
煙草の箱を振り、煙草を取り出す。最後の一本だったので、マキコはくしゃりと箱を潰した。
手近にあったライターで煙草に火をつけると、煙をくゆらす。
嫌なことがあった時、疲れた時は、煙草が最高に美味しい。今日はそのどちらもだったから、二倍美味しく感じるような気がしていた。
アスカは進捗状況を報告しながら、くまなく、マキコを観察していた。
けれど、結局、マキコに不審な点はなかった。
お腹が大きくなっているのかどうかは、ワンピース姿のマキコからはわからなかったけれど、ヒールは履いていなかった。
マキコの雰囲気からすると、妊娠する前まではきっとヒールを履いていただろう、というのは安易に想像が出来た。あれは、妊娠の為に大事を取っているのだろう。
様々な状況を見ても、やはり妊娠しているのではないか、とアスカは思った。でも、妊娠している振りを徹底的にしているのかもしれない、とも思った。
一体、どちらが真実なのだろう? とアスカは短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、溜め息をついた。

アスカが帰宅すると、夕飯のいい匂いが漂っていた。
玄関の廊下からリビングに続くドアを開けると、肉を焼いているシンゴの姿があった。
「おかえり。そろそろ、帰ってくる頃だと思ったんだ」
シンゴは真剣な顔で肉をトングで引っ繰り返しながら言った。
「ただいま。はい、頼まれてたアイスクリーム」
「ありがとう。今日、コンビニに行ったら、売ってなくってさ」
「もう在庫限りだったみたい」
「期間限定商品だからね」
「あるだけ買って来たから」
「あ、すごい量。ありがとう」
シンゴはちらっと視線を肉から食卓テーブルに置かれたアイスの入った袋にやると、嬉しそうに口の端をほころばせた。
アスカは手洗いとうがいの為に洗面所へ行くと、丁寧に手洗いとうがいをした。そして、鏡の前で軽く髪を整えた。
少し疲れた自分の顔に溜め息がこぼれそうになったけれど、敢えてアスカは鏡に向かって微笑んでみる。
ほんの少しだけ、元気になれたような気がした。アスカはシンゴの待つリビングへと向かった。

食卓のテーブルに着くと、焼きたての肉のいい香りが鼻先をかすめた。
「いただきます!」と二人は声を合わせて言うと、肉にナイフを入れる。
「今日ははちみつでマリネにしてみたんだよ」
「へぇ……楽しみ!」
アスカは嬉しそうに笑うと、肉を口に運んだ。
肉汁が溢れ、少し遅れて甘めのソースの味が口の中に広がっていく。
「美味しい!」
「ホント!? 良かったぁ。初めてチャレンジするから、少し心配だったんだ」
「大丈夫よ。シンゴはほとんど料理失敗しないじゃない」
「そうだけど、やっぱり、新しい料理にチャレンジする時はそれなりに不安はあるよ」
「意外だなぁ」
アスカは一緒に用意されているパンプキンスープに手を伸ばす。
「あ! これ、冷静スープなんだね」
「うん、昨日のパンプキンのクリームソースパスタのソースが余ってたからね。そこに豆乳を足して、作ったんだ」
「ホント、シンゴって料理上手よねぇ」
アスカは感心したように言う。
「そう言ってもらえて、何よりだよ」
シンゴは笑顔で言いながらも、アスカの様子がいつもと違うことに気が付いていた。

食事を終え、シンゴは後片付けをしながら、ソファに座ってテレビを観ているアスカに視線を向ける。
一見、テレビを観ているようには見えるけれど、ただテレビの画面を眺めているだけなのだということにシンゴは気が付き、やっぱり、様子がおかしいな……とシンゴは思う。
洗い終わった食器の泡を水で流しながら、シンゴはアスカのゲンキがない理由の仮定を始める。仕事が上手くいっていない、ターゲットと何かあった……。でも、シンゴの前でもあからさまに落ち込んでいるところを見ると、仕事で何かしらのアクシデントがあったのだろう、という結論に達した。
全ての食器を洗い終えると、シンゴはホットミルクを持って、アスカの隣に腰をかけた。
「はい、どうぞ」
アスカの前にコースターを敷き、シンゴはホットミルクを置く。
「ありがとう……」
少し驚いたようにアスカはシンゴを見た。
シンゴは隣でホットミルクを飲みながら、アスカと一緒にテレビの画面に目を向ける。
CMに入るとほぼ同時にシンゴは口を開いた。
「何かあった?」
シンゴの言葉にアスカはドキリとして、シンゴを見た。
「どうして……?」
「見てればわかるよ。夫婦なんだから」
そう言って、微笑むシンゴにアスカはぽつりぽつりと話し始めた。
「依頼者が妊娠しているっていう嘘をついてるって話は前にしたでしょう?」
「ああ」
「それでね、やっぱり、依頼者は妊娠してない、とは言っては来なくて」
「そりゃあ、妊娠してないのをしてるって言ってて、やっぱり、嘘でした、とは言いづらいよね」
「うん……そうだとは思うの。だけど、今日、もう一つ、不自然っていうかなんていうか……奇妙なことがあったのよ」
「奇妙?」
シンゴは鸚鵡返しに問う。
「そう。奇妙、が一番しっくり来る気がする」
アスカはそう言って、ソファに座り直した。
「前に担当した案件で使った写真に依頼者が写っていたの」
「前の案件では、彼女がターゲットだったってこと?」
「そう……。随分、昔の案件で、まだシンゴにも出会う前だったと思う。本当に偶然だったのよ。写真が床に落ちて……それで見つけたの」
シンゴはアスカの話を真剣な眼差しで聞いている。
些細なことかもしれなかったが、アスカはシンゴのそんな態度が嬉しかった。

「髪型も違ったし、雰囲気も違って、昔は愛人っぽいっていうのかな……。今の妻ですっていう風格とは全然違ってて。あの頃とは、結婚して苗字が変わってるから、ピンと来なかったのよ」
「なるほどね……。でも、過去に何があったって、おかしくはないんじゃない?」
シンゴは自分の少し後ろめたい過去を思いながら言う。
「そうなんだけど……。今回の妊娠の嘘とあの写真と……。なんか腑に落ちないっていうか……」
「不倫をする女だから、信用ならない、と思ったとか?」
「それもあると思う。ただ見た目は妊婦っぽいっていうか……。あのタイプなら、ヒールは欠かさないはずなのに、ヒールじゃなくてフラットシューズを履いてたし……」
「芸が細かいな」
「うん、まさしく、そんな感じの印象を受けたわ」
「依頼者とターゲットは現在、男女の関係にはないんだったよね」
「うん。そうなのよ。だから、妊娠するなんて有り得ないわ」
「だとしたら、考えられるのは……」
そう言って、シンゴは思考を巡らせた。

「昔の案件の不倫がまだ続いていて、依頼者のお腹の子の父親はその時の不倫相手――」
「まさか」
アスカは驚いて、目を見開き、シンゴを見る。
「でも、ターゲットの子どもじゃないなら、その可能性は十分に考えられるだろう? ましてや、昔、不倫をしてたんだ。不倫はいけないことっていう概念はそもそも持ってないだろう」
「確かに……。でも、それって、前の案件は失敗してたってことよね」
「いや、そうとも限らないと思うよ。偶然、街で再会して、やけぼっくいに火が付いたのかもしれない」
「どっちみち、厄介ね」
「ああ、厄介なことに変わりはないね」
「でも、私のところにターゲットの不倫をやめさせるように、依頼して来たのはどうしてかしら?」
「簡単なことだよ。慰謝料を取る為さ」
「だったら、別れさせ屋じゃなくて、探偵に依頼すれば……」
「別れさせ屋に依頼するほど、愛してたのにやむを得ずっていう演出をしたかったか、または……」
シンゴはしばらく考えた後、「君に依頼したかったのかもしれないね」と言った。

「どういうこと?」
「別れさせ屋っていうのは、その方法にもよるけれど、探偵とは違って、ターゲットに顔がバレることもあるだろう?」
「確かに……。でも、あの時はターゲットは男で、相手の女――今回の依頼者だけど、彼女には今回みたいに接触はしていないわ」
「君は接触していない、と思っているかもしれない。でも、本当は間接的に接触していたとしたら?」
「そんなこと……」
「ないとは言い切れないだろう? いつどこで監視されているかなんてわからないじゃないか」
「それって、私が探偵に監視されてたって言いたいの?」
「その通り」
シンゴは涼しい顔をして言う。そんなシンゴをアスカはつまらなさそうに見た。
まさか、私が監視されていたなんて――。
アスカはそう思いながらも可能性としては、ゼロではないな、と思っていた。
随分、昔のことになるから、アスカの記憶も曖昧だ。自分の仕事の詰めが甘かったとは思わない。けれど、探偵だって、プロだ。こちらが気付くようなヘマはしないだろう。
そこまで考えて、アスカは溜め息をついた。
どんなに過去の仕事の失敗を悔やんでも、今の自分になんのプラスももたらさない。

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小説「サークル○サークル」01-341~01-350「加速」まとめ読み

「じゃあ、レナさんがあなたの元から去るのは別に問題ないんじゃない?」
「それとこれとは話が別だ」
一体、どう別なんだろう、とアスカは思ったが、何も言わず、ヒサシの話の続きを聞くことにした。
「レナは若くて可愛い。そばに置いておきたいと思うのは自然な気持ちだと思う。彼女が俺よりも好きな人が出来たとか、俺にほとほと愛想が尽きたというのなら、引き留めはしないけど、別れさせ屋の君にそそのかされて、別れたいというのは、“はい、そうですか”とは言えないね」
「そそのかすだなんて、人聞きの悪い。私の仕事よ」
「失礼。でも、俺の気持ちはそういうことさ。彼女が自分で考え、決めたことならいつだって歓迎するよ」
「あのくらいの年頃は、周りに流されやすいのよ。でも、彼女の今回の判断は懸命だと思うわ」
「それは君からしたら、だろ?」
「ええ、女の私からしたらね」
「性別で来たか」
ヒサシは溜め息をつき、酒を煽ると、マスターにもう一杯同じものを注文した。注文したドリンクが運ばれてくるのを見計らって、アスカが口を開いた。

「そりゃそうでしょう。あなたが男は浮気をするものだというんだったら、浮気相手にされている女ほど、惨めなものはないわ。不倫だとしても、本命であるなら、また話は違うけれど、今回なんて、浮気相手の中でも一番じゃないなんて。あなたと付き合ってる時間は彼女にとって、無駄だと思うけど」
「人生に無駄なことなんてないと思うけどなぁ」
「それは一般論よ。女の二十代は人生の中で一番尊いのよ。そんなこともわからずに、あんな若い子と付き合ってるわけ?」
「若いいい時間を費やしたんだから、責任取れってヤツ?」
「そうよ。責任取れないなら、手を出すなってこと」
「どうして、そんなにもレナと別れさせたい? 仕事だからか?」
「仕事だからっていうのも、勿論あるわ。でも、あの子がいい子だからよ」
「レナが?」
「そう。あなたの奥さんに対してもちゃんと罪悪感を持って、あなたと付き合ってたわ。いずれ、別れなきゃいけないと思ってるとも。いい機会だと思わない? 後腐れなく別れられるわよ。女から言い出す別れなんだから」
「……考えておくよ」
ヒサシの返事を聞いて、アスカは残っていたモヒートを一気に流し込んで、コースターの上にとんっとグラスを置いた。

「それじゃあ、私はこれで」
そう言って、アスカは財布から千円を抜くと、テーブルの上に置く。
「もう一杯付き合ってはくれないんだね」
「付き合う理由はないわ。それから……」
「何?」
「依頼者があなたの女だと、考えたことはなくって?」
アスカの去り際の一言に、ヒサシの表情が一瞬だけ曇った。
アスカはヒサシに背を向けると、バーを後にした。
背後に懐かしいドアベルと、それに少し遅れてドアが閉まるがちゃりという音が聞こえると、アスカは溜め息をついた。
バーの前で立ち止まり、足元を見つめる。すぐにこの場を立ち去りたいはずなのに、しばらくは動けそうもなかった。
覚悟はしていた。
覚悟はしていたはずなのに、自分の置かれている状況を目の当たりにして、アスカは戸惑っていた。
ここからどうやって、持ち直せば良いのかがわからないのだ。
何より、ヒサシのあの言葉がアスカの中で引っかかっていた。
“いないよ。ここ、一年くらい関係も持ってないから、出来ることもない”――と。

夜遅く、アスカは家に帰って来た。終電はすでに終わっていたので、タクシーで最寄駅まで帰ってくると、そこからのんびりと家まで歩いた。タクシーで家まで帰る気にはなれなかった。
夜道は暗いし、風は冷たい。それでも、歩くのを選んだのにはわけがあった。
アスカ自身、まだ頭の中が整理しきれず、一人でゆっくり考えたかったのだ。
依頼者のマキコが自分に妊娠していると嘘をついていたこと、ヒサシにとって、レナは一番愛している女ではないこと。
マキコにしても、ヒサシにしても、アスカにとっては、どっちもどっちに見えて仕方なかった。
そもそも、結婚なんしてしなければ良かったような二人なのだ。そんな二人が結婚してしまったから、別れさせ屋に依頼をしなければならなくなってしまったのだと思う。
不倫をしている女性を擁護するつもりはなかったけれど、アスカにはレナが不憫に思えてならなかった。
ヒサシと接すれば接する程、大人の男性のずるさが見える。レナの純粋さにヒサシが漬け込んでいるように、アスカには見えていた。

アスカは家に着くと、静かにドアを開けた。
シンゴは寝ているのか、起きて仕事をしているのかわからなかったけれど、邪魔をしたくなかったのだ。
アスカは玄関からリビングへ続くドアを開け、ソファに荷物を置くと、洗面所へと向かう。手洗いとうがいをして、洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、溜め息をついた。
疲れ切った顔が鏡越しに自分を見つめている。
アスカはリビングに戻ると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。マグカップに注ぎ、電子レンジに入れると、加熱のボタンを押す。
橙色の明かりが灯り、加熱が始まったのをじっと見つめていた。
「帰ってたんだね。おかえり」
はっとして顔を上げると、視線の先には少し眠たそうなシンゴがいた。
「ただいま」
「今、帰って来たの?」
「ええ、そうよ」
「お疲れ様」
シンゴは微笑むと、ソファに腰を下ろした。
「シンゴも何か飲む?」
「僕はいいや。さっき、コーヒーを飲んだばかりなんだ」
シンゴの顔を見て、ほっとする自分にアスカはほんの少し笑みがこぼれた。

アスカはホットミルクにはちみつを入れると、スプーンで何度かくるくるとかき混ぜた。使い終わったスプーンをシンクに置くと、シンゴの座っているソファへ溜め息をつきながら腰を下ろした。
「随分、疲れてるみたいだね」
シンゴはアスカの顔をちらりと見て言う。
二人の目の前にあるテレビは電源が切られており、真っ暗な画面が二人の姿をぼんやりと写していた。
アスカはそんな二人のぼんやりとした姿を見ながら、「うん」とだけ答える。喉の奥に言葉が引っかかって出てこない気がした。
「仕事、上手くいかなかったの?」
「……」
なんだか自分のことを見通されている気がして、アスカは黙ったまま、カップに口をつけた。
はちみつ入りのホットミルクの甘い味が口の中に広がってはゆっくりと消えていく。アスカは何も言わずにもう一口、ホットミルクを飲んだ。
無言の時間が続いていた。
シンゴもアスカが何も言わないことが答えだと思い、それ以上は何も言わなかった。
黙って隣にいるだけ良い時があるということをシンゴは知っていた。

「バレたの」
アスカはホットミルクを半分くらい飲んだところで、口を開いた。
意外なアスカの言葉にシンゴは一瞬面食らう。
シンゴが想像していなかった返答だった。
「それはターゲットにってこと?」
「そう。ターゲットにバレたけど、依頼してきたのはレナの幼馴染の男だと思ってるみたい。だから、依頼者が誰かはバレてないわ」
「だったら、どうにでもなるんじゃないの?」
「そうなんだけど……」
アスカはそこで言葉を区切り、考え込む。
シンゴには一体アスカがなぜそこまで悩んでいるのかがわからなかった。アスカが思うより、随分と事態は単純なように思えたからだ。
「あのね……。依頼者が嘘をついてるみたいで……」
「えっ? 浮気はしてるんでしょう?」
「ええ。でも、依頼者が思ってるより、浮気の実態はひどいものだったわ。依頼者が把握してるより、ターゲットの浮気相手は多いし……」
「……多いってどのくらい?」
「レナ以外に三人もいて、尚且つ、レナはその中でも一番じゃないわ」
アスカの言葉にシンゴは息をのんだ。

「……それはひどい」
「でしょう? 私も正直、驚いたわ」
「でも、依頼者も嘘をついてるんだろう?」
「そうなのよ。依頼者は妊娠してるって私に言ってたの。でも、ターゲットの話によると、関係はないから、子どもが出来るはずはない、って」
アスカは自分の口から発せられる言葉を一つ一つ確認するように、ゆっくりと喋った。
「妊娠してないのに、妊娠してるって言ってた……?」
「ね、理解しがたいでしょう?」
「何か理由がない限り、そんな嘘を第三者の君につく必要はないよね」
「そうなの。ターゲットにじゃなく、私になぜそんなことを言ったのか……。子どもが産まれる前に浮気をやめさせたいって言ってはいたけど……」
「てことは、早く別れさせてもらう為に、君に嘘を?」
「……そういうことだと思うんだけど、なんだか腑に落ちなくて……」
「僕も話を聞いていて、納得は出来ないな……。でも、一体、なんの為に……?」
「全く見当がつかないわ。一度、依頼者には色々と報告もしなきゃいけないし、会わなきゃいけないんだけど、なんて切り出そうかと思って……」
アスカは困惑した表情のまま、ぬるくなったホットミルクを喉に流し込んだ。

シンゴはもう寝るというアスカと別れると、書斎に戻った。
原稿は書き終わっている。読み終わった後、清々しい気持ちになれるようにハッピーエンドにした。あとは推敲を終えれば、原稿を送れる。
シンゴは文字の並んだ画面を見ながら、首を傾げた。
小説はフィクションだ。けれど、現実の方が随分と衝撃的なことが多い。
今回だってそうだ。小説のモチーフはアスカのことだけれど、結末は至って明快だ。しかし、アスカの前に立ちふさがった事実は複雑だった。
それにしても……とシンゴは思う。
どうして、依頼者はアスカにあんな嘘をついたのだろうか?
シンゴにはどうしてもその理由が思いつかなかった。
早く解決してほしい、というのは、依頼者の心情としては理解出来る。けれど、それだけの理由にしては、いささか弱い気がするのだ。
もしかして……とシンゴは思う。
でも、そんなことはあるわけない、とも同時に思った。
シンゴは文字の並んだ画面を見つめたまま、一つの可能性について、思考を巡らせ始めていた。

翌日、アスカはマキコに電話をした。依頼の進捗を報告したい、と言ったら、マキコは来ると言った。
アスカは電話を切ってからずっとマキコを待っている。
マキコが来ることが気になって、他の仕事が全く手に付かない。
煙草の吸殻だけが、灰皿に溜まっていった。
アスカは時間の無駄遣いだと思い、立ち上がると掃除を始めた。
普段、アルバイトたちが掃除をしているとは言え、アスカの机は手つかずだ。書類が山のように積まれ、今にも雪崩を起こしてしまいそうだった。
書類を一枚一枚確認しながら、シュレッダーにかけるものと、ファイリングするものへと分けていく。
どうして、こんな風になるまで放っておいたのだろうと、自分の怠惰さに溜め息をつきながら、アスカは書類を次々仕分けていった。
その時だった。
はらはらと一枚の写真が床に舞い落ちる。
アスカは写真を拾い上げると、確認する為に写真を見据えた。
「え? これって……」
アスカの持っている写真には、なぜか依頼者のマキコが写っていた。

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