小説「サークル○サークル」01-31~01-40.「作戦」 まとめ読み

 アスカはそっと目を開け、天井を見つめる。今日も1日が始まった。隣に視線を移せば、すでにシンゴはいなかった。きっと朝食でも作っているのだろう。
 アスカはベッドから抜け出して着替えると、顔を洗って、リビングへと向かった。リビングに行くと、アスカが予想した通り、シンゴが朝食を作っていた。食卓テーブルの前に立つと、味噌汁と焼き魚の匂いがアスカの鼻先をつく。起きたばかりだというのに、彼女の食欲は刺激された。
「おはよう」
 シンゴはアスカの気配に気が付き、後ろを振り向いて言う。
「おはよう」
 アスカはぼーっとしたまま、食卓テーブルの前に立ち尽くす。昨日、置かれていたビーフシチューはすでに片付けられていた。
「もう出来るから、座って待ってて」
「……うん」
 アスカは椅子に座って、シンゴの後ろ姿を見つめる。いつから、この背中にときめかなくなってしまったのだろう。結婚する前はシンゴの後ろ姿にさえ、ときめきを覚えていた。すぐ近くにいることがとても嬉しかった。けれど、今はなんとも思わない。ただそこにシンゴがいる、という事実だけが存在し、それ以上何も思うことが出来なかった。

「お待たせ」
 シンゴは全ての料理をテーブルに並べると、アスカに笑顔を向けた。アスカの気持ちが遠く離れているのに、シンゴはそうではないようだった。
「いただきます」
 シンゴが席に着くのを待って、アスカは小さな声で言った。頭はまだ若干ぼーっとしていたが、味噌汁にそっと口をつける。温かな液体が身体の奥深くに沁み渡った。こういう時、日本人で良かった、とアスカは大袈裟に思う。
「昨日、随分、遅かったみたいだね」
 シンゴは遠慮がちに言った。
「今、仕事が忙しいの。潜入でバーで働くことにしたから」
「バーで!?」
「どうしたの? 何か問題でもある?」
「えっ、いや……。アスカがバーで働くなんて、予想外だったから……」
「そう? 結構、いい感じよ」
「そうなんだ……。別れさせ屋は大変だね……」
 シンゴはそれきり口をつぐんで、焼き魚に箸を伸ばした。シンゴにとって、バーで自分の妻が働くということは、出来れば避けたいことだと思っていた。何度かシンゴもバーに行ったことはあったが、見ず知らずの人とも気軽に話せるし、店員とも会話を楽しむことが出来る。それが魅力でもあり、シンゴ自身楽しくもあったが、自分の妻がそういった場所で働くというのは、また別の話だった。ささやかなヤキモチだ。
 シンゴは焼き魚を食べながら、アスカの顔をそっと盗み見た。近くにいるのに、少しだけアスカを遠くに感じていた。

 シンゴの気持ちなど気付くわけもなく、アスカは食事を終えると事務所に向かった。別れさせ屋の仕事は、バーでヒサシの監視をするだけではない。別の案件の進捗具合も把握し、仕事が順調に進んでいるかをチェックしなければならなかった。
 アルバイトの作った書類に目を通しながら、アスカはキッチンへと向かう。紅茶を淹れて、カップに口をつけながら、彼女は再び椅子の上に踏ん反り返った。
「あともう少しで、この案件は片付きそうね……」
 書類に目を通したことを知らせるサインを書くと、アスカは机の上に足を乗せた。お世辞にも行儀が良いとは言えなかったが、彼女が考えごとをする時はいつもこうだった。
机の上に無造作に置かれた煙草を手に取ると、灰皿の横に置かれたライターで煙草に火をつけた。いつからだろうか。煙草がないと生きてはいけないと感じたのは。昔は煙草なんて吸わなかった。健康のことを気遣っていたし、煙草を吸う他人に嫌悪感すら抱いていた。それなのに、今では1日に何本もの煙草を灰皿に押しつけている。
 些細なきっかけで、人の心は揺さぶられ、知らず知らずのうちに深みにハマっていく。アスカにとって、それが煙草だった。そして、それは恋愛も一緒なのだと、ふと彼女は思って苦笑した。

 時間が来ると、アスカはバーへと向かった。相変わらず、商店街は賑わっている。
 ある程度、状況証拠を掴み、ヒサシと個人的に接触出来るようになったら、次はヒサシの浮気相手に接触しなければならない。本来ならば、同時進行でやりたいところだったが、いかんせん、エミリーポエムには人がいない。アスカは出来る限り、自分で出来ることは自分でやらなければならなかった。今までそれでどうにかやってこられはしているが、時々アスカはどうしようもない疲労感に襲われる。そんな時、彼女は年齢を思い知らされた。仕事を分担したい、と心底思ったが、今更、弱音を吐くのはどうかしている、とも思う。自分がやらなければ、誰かがやってくれるものではないということを一番よくわかっているのはアスカ自身だったからだ。
 バーに行く道すがら、アスカは自分の格好に視線を落とした。別れさせ屋として、事務所にいる時は大して気になんてしなかったが、バーで働くとなると、別だ。多くの人に出会い、多くの人に見られる。それには、事務所にいる時とは違った緊張感があった。カウンターにいると、まるで値踏みをされているような気分になることさえある。そんな気持ちになるのは、自意識過剰だとわかっていたけれど、自分は女である、と自覚する瞬間でもあった。

 昨日と同様、アスカはバーの仕事をしながら、ヒサシをまだかまだかと待っていた。
 ヒサシがこのバーの常連だとすれば、昨日の接触で新しい店員が入ったという認識が生まれたはずだ。これを使う手はない。アスカは頭の中で自分を印象づける為に今日は時間を使う予定だった。
 しばらくして、バーのドアが開いた。ドアベルが鳴り、アスカはふいに顔を上げる。「いらっしゃいませ」と入って来た客に笑顔を向けた。アスカの笑顔の先にはヒサシが立っていた。
 ヒサシは笑顔を返すと、昨日と同じ席に腰を下ろす。今日は女を連れていない。待ち合わせでもしているのだろうか。
「いらっしゃいませ。おしぼりをどうぞ」
 アスカは昨日と全く同じセリフでヒサシを迎えた。
「ありがとう」
 昨日とは打って変わって、ヒサシはアスカにやわらかい口調で応えた。一体、どういう風の吹き回しだろう、とアスカは思ったが、笑顔を崩さずに「ご注文はお決まりですか?」とヒサシの顔を覗き込んだ。すると、ヒサシはメニューを見ずに「ジントニックを」とだけ言った。
 アスカはオーダーを通すと、ヒサシのところにお通しのスープを持っていこうと、ちらりとヒサシを盗み見た。ヒサシはアスカが振り向いたのとほぼ同時に腕時計に視線を落とし、一瞬眉間に皺を寄せる。そのしぐさから、アスカはヒサシが女と待ち合わせをしていることに気が付いた。

「お通しでございます」
 アスカは昨日と同じようにスープをヒサシに出す際、しっかりとヒサシの目を見て微笑んだ。
「ありがとう」
 昨日は女がいた所為かはそっけなかったヒサシだったが、今日は何をするにもやけに愛想が良い。ヒサシの笑顔は女心の奥の方をくすぐる何かがあった。きっと普通の女なら、昨日と態度が違うことくらいあっという間に許せてしまうだろう。しかし、アスカはただ冷静に「嫌なヤツ」と思っただけだった。
「君、新しく入ったコだよね?」
 ヒサシの前を離れようとした瞬間、声をかけられた。アスカには願ってもみないチャンスだったが、多少面食らったのは言うまでもない。
「はい。昨日から……」
 遠慮がちに言うアスカにヒサシは笑顔を向けた。自分は警戒に値しない人間だと言いたげだ。
「よくここには来るんだ。よろしく」
「よろしくお願いします」
 アスカは頭を下げると、その場を後にした。客はヒサシだけではないのだ。ヒサシにばかり、かまけている場合ではない。ただ注意深く、ヒサシのことを遠くから観察した。ヒサシは何度も何度も時計を気にしている。待ち合わせの女がなかなか来ないのだろうか。

 マスターからヒサシが注文したドリンクを受け取ると、アスカはヒサシの元へと向かった。騒がしい店内の中で、ヒサシのいる空間だけ、やけに静かに感じた。この男の持つ不思議な雰囲気に、女はやられてしまうんだろうな、とアスカは思った。
「お待たせ致しました。ジントニックです」
 アスカは時計を気にしているヒサシに言った。ヒサシはアスカがカウンター越しとは言え、目の前に来ていたことに気が付いていなかったようだ。慌てて、顔を上げて、「ありがとう」と微笑んだ。
「あのさ」
 ヒサシはジントニックに一口、口をつけると、アスカの顔をじっと見た。店内が薄暗いからと言って、整った顔の男にじっと見つめられるのは、嫌だった。彼女は自分の造形が美しくないことを知っているからだ。思わず、目を反らしたい衝動に駆られながらもじっと耐えた。これは仕事なのだ。浮気調査の為にこのくらいのことが我慢出来なければ、別れさせ屋の所長なんて務まるわけがない。
「何でしょうか?」
 声をかけてきたきり、黙っているヒサシにアスカは言った。少しでも早く、この緊張する状況から脱したかった。

「少し、話し相手になってもらえないかな」
 ヒサシの突然の申し出にアスカは心底驚いた。仕事中でさっきから忙しく、カウンター内を行ったり来たりしているバーの店員相手に、こんなことをさらっと言ってのけるのだ。どんなシチュエーションでもきっと物怖じしないで、女に声をかけられるのだろう。
「すみません。マスターに聞いてきますね」
 アスカは新人らしく、そうヒサシに答えると、マスターに話し相手になっていても大丈夫かと訊いた。すると、意外にもマスターからはあっさりとOKがもらえて、彼女は拍子抜けしてしまった。
「お待たせしました。大丈夫です」
 アスカはヒサシの元に戻って来るなり言った。
「良かった」
「もしかして、お約束の方が来られないんですか?」
 アスカはさっきから時計を気にしていたヒサシに言った。
「鋭いね。その通りだよ」
「時計を気にされていたから……」
「格好悪いところを見られていたようだね」
「そんなことないですよ。待ち合わせの時間にやってこなければ、誰だって時間が気になるものです」
「フラれちゃったかな……」
 ヒサシはそう言って、酒を煽った。

「仕事が終わってなくて、まだ来られないだけかも」
 アスカの言葉にヒサシは苦笑した。
「だといいんだが……」
「やけにネガティブな答えばかりですね」
「男ってのは、いつも自信がないものさ。特に、気になる女性に対してはね」
「そうかしら? この間のあなたは、そんな風に見えなかったけど」
「よく見てるんだね。探偵みたいだ」
 ヒサシの言葉にアスカは一瞬ドキリとした。
「それは褒め言葉?」
 アスカは微笑みをたたえて、誤魔化す。ヒサシはアスカの動揺には気付いていなようだった。アスカはそっと胸を撫で下ろした。
「君は頭の良い女性だね」
 そう言って、ヒサシはグラスに残っていたジントニックを一気に喉に流し込む。
「そんなことはないですよ。至って、普通です」
「頭が良くない、と言わないところがまたいい。頭が良いと言われて、頭が良くないと答えるのは、嫌味にしか聞こえないからね」
「私は事実しか言わない主義なんです」
 アスカは意味ありげに微笑み、「何を飲まれますか?」とヒサシの空になったグラスに視線を向ける。
「同じものを」
 アスカはヒサシのオーダーをマスターに伝えに行き、しばらくして、ジントニックを持って、ヒサシのところに戻ってきた。

 いけすかないヤツだとばかり思っていた。けれど、悪いヤツ、というわけではないようだ――アスカは2度目の接触でヒサシに対してそう感じていた。
 頭の回転も良ければ、受け答えにも嫌味がない。外見はスマートで、声のトーンもちょうど良い。女が放っておかない理由も自分が接してみて、想像していた以上によくわかった。
「お待たせ致しました」
 アスカはジントニックをヒサシの前に置く。
「一つ気になることがあるんだけど、訊いてもいいかな?」
 ヒサシは遠慮がちに言った。今までの態度とは違って、アスカも一瞬驚いた。
「はい。どうぞ」
「嫌だったら答えなくていいんだけど――」ヒサシはテーブルに視線を落とし、しばし考えた後、「どうして、ここで働くことにしたの?」と言った。
「仕事を探していて……。たまたま、このバーに何度か来たことがあって、いいお店だなって思ってたんです」
「そうか……」
 ヒサシの問いにアスカは一瞬ドキリとした。自分の素性がバレているのかと思ったのだ。自分が別れさせ屋だとバレた時点で、この依頼は失敗ということになる。失敗したというだけならまだ良いが、別れさせ屋に依頼したことがバレて、依頼者とターゲットが離婚なんてことになったら大問題だ。それだけは何としてでも避けなければならない。
 アスカはヒサシの次の言葉を息を飲んで待っていた。

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小説「サークル○サークル」01-21~01-30.「依頼」.まとめ読み

 マスターから店内のどこに何が置いてあるかの説明を受け、アスカはメニュー表を渡された。「うちはお酒の種類が多いから、大変だと思うけど、少しずつ覚えていってくれればいいから」マスターはメニュー表を渡す時に、あたかも人の良さそうなことをにこやかに言った。けれど、アスカはこれが口先だけだということに気が付いていた。面接の時の対応からもわかるように、マスターは表面を繕うタイプだ。この手のタイプは、表向きは良いことをいうものの、内心は真逆のことを考えていることが多い。ずっとこの店に求人募集の紙が貼られていたことからもそれは明らかだった。きっとマスターのちょっとした意地の悪い言葉に辟易して、今までの店員も辞めていってしまったのだろう。
アスカは過去にカフェで働いていたことはあったが、同じ飲食業と言っても、バーで取り扱うドリンクの種類は、カフェに比べてかなり多い。ドリンクメニューを覚えることだけで、アスカは根を上げそうになっていた。
 仕事とは言え、面倒な店に来てしまったな、とアスカはメニュー表とにらめっこしながら、内心溜め息をついた。

 時間が深まるにつれて、客足が増え、店内も次第に騒がしくなっていた。
まだカイソウ ヒサシは来ないのね……。今日は空振りかしら、とアスカが溜め息をつきかけた頃、カイソウ ヒサシは、黒ストライプのスーツから伸びる細い足が印象的な若い女を連れて、店に入って来た。ヒサシは黒縁の眼鏡をかけ、スーツをぱりっと着こなし、どこからどう見ても出来る男然としている。これじゃあ、若い女の子がヒサシに靡いても仕方ないわね、とアスカは思いながら、ヒサシと若い女の前に水と温かいおしぼりを持って行った。
「いらっしゃいませ。おしぼりをどうぞ」
 作り笑いを浮かべ、愛想良くアスカは振る舞う。ヒサシはちらりとアスカを見て、おしぼりを受け取ると、すぐさま、隣にいる若い女に視線を戻した。アスカはコースターを2人の前に置きながら、女の様子を窺う。茶色いセミロングの髪には優しくウェーブがかかっており、時折かき上げる髪から覗く耳には、上品なデザインのピアスがつけられている。外見を見る限り、マキコから聞いていたカフェの店員という雰囲気はなかった。
――まさか、別の女……?
 アスカは眉間に皺を寄せ考え込む。すると、突然マスターに名前を呼ばれた。

 アスカは返事をして、マスターの元へと行く。何か小言を言われるのかと、憂鬱な表情を浮かべそうになるのを隠し、アスカは顔を上げた。
「あそこに座った男性のことなんだけど」
 マスターはそう前置きをして、小声でアスカに説明し始める。
「連れてくる女性はほぼ毎回違うから、男性と仲良くなって喋ることがあっても、相手の女性のことにだけは触れないようにね」
「はい……」
 アスカにとって、ある程度予想のつく話だったが、それでもそれなりの衝撃はあった。マキコは気が付いていないだけで、ヒサシの浮気相手は相当数いるようだ。
「ごめん、戻っていいよ」
 マスターはそう言うと、カクテルを作り始める。アスカは再びヒサシたちの前にオーダーを取るために向かった。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 アスカの言葉に2人は顔を上げる。女の大きな目とアスカは目が合った。潤んだ二重の目には長い睫が規則的に並び、ヒサシを見る目は熱っぽい。明らかに上司と部下という関係ではないであろうことは、容易に想像がついた。
「決まった?」
 ヒサシは女に顔を近付けて問う。そこまで近付く必要性なんてないだろう、とアスカは思いつつ、オーダーを待った。

「私、これがいい」
 女はメニューを指差した。アスカからは何の飲み物を指差したのかまでは確認することが出来なかった。
薄暗い店内でもキレイに手入れされた女のネイルは妙に目立っていた。営業職なのだろう。派手なデザインにはしていないものの、ネイルサロンに行っていることは明らかだった。こういった女としての気遣いは、マキコにあっただろうか。一見、些細なことに見えるけれど、そういった細やかな部分で男は相手に女を感じることをアスカは知っていた。思わず、彼女は自分のネイルに視線を落とす。辛うじて、甘皮の処理はしていたけれど、お世辞にもキレイな指先だとは言えなかった。飲食業に潜り込んでいるので、マニキュアは塗れないにしても、手入れのしようはいくらでもある。ふいに女としての自分の劣化具合を感じて、アスカは恥ずかしくなった。
「すみません」
 俯くアスカにヒサシは声をかける。
「はい。お決まりですか?」
 アスカはヒサシに笑顔を向ける。
「ジントニックとピーチフィズを」
「かしこまりました」
 アスカはヒサシに一礼すると、マスターにオーダーを伝えた。

 次々に入ってくる客に挨拶をしながらも、アスカの神経はヒサシたちに向けられ続けていた。薄暗い店内の中では、ついつい行動が大胆になりがちだ。ヒサシは何の躊躇いもなく、女の太腿と太腿の間に右手を滑り込ませた。女は少し困ったような顔をして、ヒサシを見ている。きっとその少し困った顔がヒサシにはたまらないのだろう。ヒサシの口角がほんの少し上がったことをアスカは見逃さなかった。
――バカな男……。
 アスカはヒサシの行動に半ば呆れながら、ドリンクが出来上がるのを待った。マスターに呼ばれ、オーダーのドリンクとお通しを受け取ると、アスカはヒサシたちの元へと向かう。
「お待たせ致しました。ジントニックとピーチフィズ、お通しのスープになります」
 アスカは笑顔を浮かべて、2人の前にオーダーの品とお通しを並べた。ヒサシはアスカのことなどお構いなしに、女の太腿に手を伸ばしたまま、何やら熱心に話している。女の方は少し冷静で、アスカの声に顔を上げ、軽く会釈した。若干、太腿に置かれたヒサシの手を迷惑そうに感じているようにも見える。
 不倫を始めてまだ日数が経ってないか、今日が不倫初日ってところかしら……。アスカは2人を観察しながら、そう結論付けた。

不倫の初期は警戒を怠らない。けれど、不倫が日常化してくるに従って、その行動は次第に大胆になっていく。ヒサシは数えきれないくらいの不倫をしているだろうから、大胆な行動に出ても何もおかしくない。それに引き換え、女の方はそんなに数をこなしていないのだろう。どこか不安げな表情を浮かべ、時折、辺りを気にしていた。
「ねぇ、奥さんいるんでしょう?」
 アスカは甘ったるく話す女の声を聞き逃さなかった。仕事をしている振りをして、ヒサシたちの近くに留まった。真ん前に行かないのは、会話を中断されると困るからだ。聞こえそうで聞こえない距離、というのが、一番望ましい。
 ヒサシは寂しげな表情を浮かべ、女の瞳を見据える。店内の薄暗さと酒の勢いも手伝って、女は更に潤んだ瞳でヒサシを見上げた。
「あぁ。いるけど、上手くいってないんだ」
 不倫をする男の常套句だ。アスカは思わず吹き出しそうになるのをぐっと堪えた。
「ホントに?」
「あぁ、本当だよ。同じ家に住んでるってだけで、別に触れたいなんて思わない」
 嘘つけ、とアスカは思う。マキコのお腹には子どもがいる。触れたくもないのに、セックスをするなんておかしな話ではないか。ただ単にセックスをしたいだけでマキコを抱いたのだとしたら、救いようがない。残念ながら、どういうつもりだったのかを確認するには、本人に本心を訊く以外の方法がない。アスカは気を取り直して、2人の会話に耳をそばだてた。

「信じていいの?」
 女は大きな瞳を数回しばたたかせて、言った。
「あぁ。つまらない嘘なんてつかないよ」
 ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つ。マキコは浮気相手と別れさせたいと言っていたけれど、こんな男、捨ててしまった方が残りの人生正解なのではないか、とアスカは思う。
「今日は泊まっていくだろう?」
 ヒサシの言葉に女はグラスに視線を落とす。本心から迷っているのか、迷っている振りをしているのか、アスカには定かではないが、少なくとも断るという即決をしないのは確かなようだ。
「でも……」
 女は困ったようにグラスについた水滴をいくつも指ですくった。ヒサシはそんな女の太腿から手をどけることなく、耳元に唇を近付ける。
 それ以上先はホテルでやってよ、と思いながらも、アスカは観察を続けた。2人がどういう結論を出すのか、アスカには知る必要があったのだ。
「迷うことなんてないだろう?」
 ヒサシは女の耳元から唇と、身体を離して言った。しかし、依然として、ヒサシの右手は女の豊満な太腿に置かれたままだ。女はヒサシの顔を見上げる。
「ううん。服が困るわ。明日も仕事だもの。同じ服を着て出勤なんて、はたしないと思わない?」
「スーツだろう? わからないよ」
「男の人にはわからないかもしれないけど、女同士の目って、とても厳しいものなのよ」
 女はヒサシの瞳をしっかりと見据えて言った。

「だから、泊まれない?」
 ヒサシは眉間に軽く皺を寄せて訊いた。
「えぇ、残念だけど」
「そうか……」
 ヒサシはあからさまにがっかりしたような態度を取る。こうして、女の同情を引いているのかもしれない。けれど、女の意思は固いようだった。
「ごめんなさい」
 女はそう言って、千円札を1枚カウンターに置くと、店を後にした。
 ヒサシは出て行く女の後ろ姿をぼんやり眺め、彼女が去ってしまった今も何も言わずにグラスを傾けている。アスカは一部始終を見届けると、別の客のオーダーを取りに行った。

 バーの仕事が一段落して、アスカが岐路に着いたのは、夜中の2時を回った頃だった。シンゴがビーフシチューを作って待っていると言っていたことをアスカはふと思い出す。こんな時間にビーフシチューはさすがに胃に重たい。アスカは憂鬱な気分を抱えたまま、タクシーを拾うと乗り込んだ。
 アスカはタクシーに乗り込み、行き先を告げる。窓の外を見遣ると、ネオンがチカチカと安っぽい明るさを放つのが気になった。タクシーから見える窓の外の景色は、呼吸するスピードよりも早く変わっていく。まるで、人の気持ちのようだな、とアスカは思った。

 自分のシンゴに対する気持ちも、浮気をするヒサシの気持ちも、結局のところ、辿り着いた先が違うだけであって、結婚当初の温かで希望に満ちていた頃の気持ちと異なっているという意味では同じだ。もがき苦しんでいる重さが同じなのだとしたら、ヒサシも苦労しているな、とアスカは同情の気持ちさえ持ってしまう。別れさせ屋という仕事をしているから、浮気をされている人の味方だと思われることが多いけれど、実際、彼女は浮気をする人の気持ちにより近いところにいる。別れさせ屋は仕事であって、それ以上でもそれ以下でもない。アスカはそんな自分の立ち位置に時々苦笑してしまう。けれど、彼女のその冷淡とさえ思える割り切りこそが、この仕事に必要なことだった。いちいち、依頼者に同情していては、精神がもたない。

 アスカは家に着くと、静かに鍵を開け、中に入った。部屋の電気は全て消えている。真っ暗な中にも人の気配があった。アスカは人と暮らしているのだということをこういう瞬間に感じる。

リビングの電気を点けると、並べられた食事はすでに冷め切っていた。アスカはリビングに掛けられた時計を見上げる。時刻はすでに2時半を回っていた。明日の朝はゆっくり起きるにしても、やはり食事に手をつけるのは躊躇われた。胃に重たいからだけでなく、今食べてしまったら、きっと無駄な肉へと直結してしまう。最近たるんできた腹であったり、二の腕が気になるのだ。贅肉がつくのは一瞬だが、それを落とすには莫大な時間と努力が必要となる。シンゴには悪いけれど、食べるのをアスカは断念した。
「明日、謝ればいいよね……」
 ぽつりと呟いて、彼女はそのままバスルームへと直行する。熱い風呂に浸かり、疲れを癒したら、今日はそのまま何もせずに眠るつもりでいた。

 目覚まし時計は鳴らない。たっぷり眠りたい時、アスカは決して目覚まし時計を鳴らさないのだ。幸い、シンゴも自由業の為、目覚まし時計を必要としない。同じ寝室で眠っていて、相手の目覚まし時計の音に起こされずに眠れることが、アスカがシンゴと眠る上で唯一の利点と言っても過言ではなかった。正直なことを言ってしまえば、別の寝室で眠りたいというのが、彼女の本音だったが、それを実行に移すほど、彼女は不人情ではない。しかし、同じベッドで一緒に眠る意味をアスカは見出すことが出来なくなっていた。

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小説「サークル○サークル」01-11~01-20.「依頼」.まとめ読み

 最後まで書かずに何が面白くないんだか、アスカにはさっぱりわからなかった。作品が面白いかどうかは自分が判断することではなくて、編集や読者が判断することなんだから、さっさとプロットを書き上げればいいのに、とも思ったが、アスカはそれも口には出さなかった。言ったところで、何かが変わるわけではないのだ。
「でも、今度は大丈夫! きっと書けると思うよ」
「それは良かったわね」
 今の一言はさすがに嫌味ぽかったかな、と思ったが、シンゴはそんなことにすら気が付いていなかったようだった。「書けると思う」では困るのだ。生活のことを考えれば、「書かなければならない」ということをシンゴはわかっていない。アスカの収入があるから、どこかで安心感が芽生えてしまっているのだろう。アスカだって、何もシンゴに生活費の全てを期待しているわけではない。ただ料理は出来ない日が多くても洗濯や掃除などはアスカだってしているわけだから、せめて家賃の半分くらいは入れてほしいと思っていた。けれど、そんなことをシンゴに言って何になるというのだろう。危機感もなければ、大作が書ける気配もない夫を選んでしまったのは、自分自身なのだと、諦めることくらいしか、今の彼女には出来なかった。

 ぼーっとしているシンゴをちらりと横目で見遣り、アスカはそれ以上、もう何も言わなかった。シンゴと話すだけで、イライラが蓄積されていく。ストレスの元凶は仕事なんかではなく、夫のシンゴだと随分前から彼女は思っていた。
 勿論、彼女はシンゴを愛していたし、今でも愛していることには違いない。けれど、時々、なぜこんな男と結婚してしまったのだろうと、頭を抱えたくなることも多かった。若い頃はシンゴのことを「夢を持っていて、素敵な人」だと思っていた。しかし、時が経つにつれ、作家としていまいちパッとしないシンゴを見ていて、いつまでも現実を見ることが出来ないバカな大人だと思うようになっていった。その心の変化はうだつの上がらない夫を見ていれば、嫌でも起こってしまう。作家で食べていけないのなら、さっさと別の仕事を見つければいい、それが一家の大黒柱の役目だろう、と心の中では思っていたが、作家という仕事に執着しているシンゴに対し、そんなことを言っても無駄だということもすでに今までの経験から、アスカは理解していた。
 アスカはシンゴの用意した料理を残さず全て食べ終わると、「ごちそう様」とだけ言って、自室へと行ってしまった。シンゴはその背中を少し寂しそうに見据える。けれど、彼はアスカに声をかけなかった。否、かけることが出来なかったのだ。自分が彼女を怒らせていることに、少なからず、シンゴは自覚があったのだから。

 別れさせ屋は頭を使う仕事である。アスカはこの間、依頼のあった案件をどうやって解決に導くかということを、いつものように煙草をふかしながら考えていた。
「まずは身辺調査よね……」
 ぽつりとつぶやいて、彼女は眉間に皺を寄せた。ヒサシの行きつけのバー「crash」で接触を図るところまでは、決めていた。バーの下見はすでに済んでいたけれど、突然、毎日バーに通い詰めるのも怪しい。今回はアスカの事務所から近い場所での調査になるので、そのうちアスカの身元がバレてしまうだろう。
そうなってくると、問題はどのように接触するか、だった。隣に座って誘うには、アスカの顔の造りは残念だったし、色気で落とそうにも出るとこも出ていない貧相な身体では、セクシーさの欠片もない。そうなれば、そこにいてもおかしくない必然性が必要となる。
「面倒だけど、しょうがないか」
 アスカは煙草を灰皿に押しつけると、引き出しから履歴書を引っ張り出した。
彼女は適当な名前を記入し、学歴もそれっぽいものを書いた。年齢は少し若く記入する。ちょっとだけ見栄を張ってしまうのは、アラサー女の悲しい性だ。誰も咎めようがない。写真は以前の案件で履歴書を作成する必要があった時に撮ったものがあったので、それを丁寧に切り、貼りつけることにした。

「よし、これで完成っと」
 アスカは独り言を言いながら、履歴書を眺める。
「あとはこれをcrashに持っていけば、終わりね」
 彼女は下見に行った時に、crashで短期のアルバイトを募集していたのをしっかりと見ていたのだ。
「取り敢えず、洋服を着替えてこなきゃ」
 アスカは溜め息混じりにそう言うと、自転車で自分の家へと向かった。

「あれ? 早かったね」
 シンゴは洋服を着替えに戻ったアスカを見て、驚いたように言う。髪はボサボサで眠そうな目をしていた。きっと昼寝でもしていたに違いない。アスカはそんな夫の姿を見て、苛立ちを隠しきれなかった。内心舌打ちをし、彼女は夫の前を通り過ぎながら口を開いた。
「帰ってきたわけじゃないわ。着替えて、また出かけるの」
「そう。今日の夕飯は、ビーフシチューにするから、早く帰って来てね。アスカ、好きだろう?」
「今日は遅くなるかもしれないから、先に食べてて。私は帰ってきたら、温めて食べるから」
「そっか……」
 困ったような顔をして、シンゴは俯く。けれど、アスカはそんなシンゴの表情などまるで見ていなかった。彼女は仕事のことで頭がいっぱいで、それどころではなかったのだ。

 アスカはクローゼットの中から、背中の開いた少し露出度の高い白のニットを取り出す。彼女の唯一の魅力と言っても過言ではないのが、うなじの綺麗さだった。女として、誇れるものがこの部分だけしかないということに、若干うんざりしながらも、アスカはその武器を使うことにした。鏡の前で髪を簡単にアップにする。少し後れ毛が気になったが、きっちりしすぎない方が、かえって相手の油断を誘えていいことを彼女は知っていた。
ボトムにはスカートではなく、ラインストーンのついたジーパンをチョイスする。ミニスカートというコーディネートも一瞬頭を過ったけれど、それはやめた。あまり甘い感じのファッションにしてしまうと、男に媚びているような気がして、嫌だったのだ。男に媚びることは、彼女自身のポリシーに反する。
 アスカは手早く着替えると、ブランド品のトートバッグに普段使っているバッグの中身を丸ごと入れ替え、履歴書も一緒に入れた。
「じゃあ、行ってくるわ」
 アスカは脱いだ服を脱衣所に持っていく途中でシンゴに言う。
「うん。いってらっしゃい。帰り遅くなるなら、気を付けてね」
「私はいつでも気を付けてるわよ。それじゃあね」
 アスカはシンゴの方を振り向きもせずに、出て行った。そんなアスカの後ろ姿をシンゴはただぼんやりと眺めていた。玄関のドアは空しく閉まり、残響だけが彼の耳に残った。

 シンゴは時折考える。どうして、こんな風になってしまったのか、と。けれど、答えは一向に出る気配がなかった。誰が悪いわけでも、何が悪いわけでもない、と彼は思いたい。しかし、自分に非があることは明らかだった。薄々感じてはいるのだ。自分の不甲斐なさに、アスカが次第にイライラを募らせているということも、それを解消する為には自分が作家として、しっかりやっていかなければいけないということも。でも、シンゴにはどうしたらいいのかがわからなかった。自分の中に書きたいものはぼんやりとある。しかし、それを形にするにはまだ早い。この気持ちは作家にしかわからないし、第三者にいくら説明したからと言って、理解してもらえるものでもなかった。シンゴはそれをわかっているだけに、アスカに表面的なことしか伝えられず、結果として、軽い言葉の羅列になってしまうのだ。
――もう少し、時間をかければ……。
 シンゴはそう思いながら、アスカを見送った後、机に向かった。パソコンの画面は明るく、開かれたワードには未だ一行しか書かれていない。『僕の奥さんは別れさせ屋で働いている。』彼は自分の実体験を元に小説を書こうとしていた。

 駅に向かう道すがら、アスカはぼんやりとシンゴのことを考える。シンゴのことは愛している、と確かに思う。けれど、顔を見たり、話したりするだけでうんざりしてしまう自分がいるのもまた事実だった。確実に自分たちの愛情は行き違い始めている。どうにかしたい。以前のように、シンゴをもっと大切に思いたい。そう思ってはみるものの、彼女は何度愛そうと思っても、感情の波に抗えずにいた。シンゴと別れて、別の男とやり直す、ということも考えてはみたけれど、いかんせん、この仕事で出会いなどあるはずもない。今更1人になることは気がひけた。今ここで別れてしまっては、今まで支えた分を損してしまう、という思いが彼女にないことがせめてもの救いだろう。
 アスカは改札を抜け、電車に乗り込むとドアの前に立ち、溜め息をついた。電車が動きだし、景色が少しずつ変わっていく。景色が変わっていくのに、気持ちは同じ場所に停留し続けている。そのもどかしさが今のアスカには耐え難かった。

 アスカの腕時計は午後5時半を指していた。腕時計から顔を上げると、黙々と目的地まで歩いて行く。風は家を出た時よりも冷たくなっていた。
駅から続く商店街で擦れ違うのは、スーパーの袋を下げた主婦や学校帰りの中高生ばかりだ。アスカも見方によってはスーパーに向かう主婦に見えただろうが、背中の開いたニットが少し場違いな印象を与えていた。
駅から徒歩8分のところに「crash」はあった。パッと見、ラブホテルかと見間違いそうになる外観にアスカは思わず吹き出しそうになる。何度見ても見慣れない外観は、白と黒のコントラストが明らかに商店街の中で浮いていた。
 ドアをゆっくりと開けると、カランカランとドアベルが控えめに鳴る。アスカはゆったりとした足取りで店内に足を踏み入れた。薄暗い店内には静かなBGMがかかっており、客は時間が時間だけに、誰1人としていない。
「いらっしゃい」
 そう言って、出迎えてくれたのは、「crash」のマスターだった。年の頃なら、40代後半といったところで、昔はそれなりに遊んでいたんだろうと思わせる雰囲気を漂わせている。アスカは調査の為に数回通っていたので、マスターの顔はよく覚えていた。けれど、マスターが自分を覚えているかどうか、アスカにはわからなかった。顔を覚えてもらっていなければ、事前に連絡も入れず、履歴書を持って来たのは、印象が悪いだけだろう。しかし、電話で約束を取り付けなければ、取り敢えず面接だけはしてもらえる可能性がある。アスカにとって、突然履歴書を持って来たのは、一種の賭けだった。

「あの……」
 席にもつかず、カウンターの前で佇んでいるアスカにマスターは怪訝な顔をする。
「何か……?」
「求人の貼り紙を見て、面接を受けさせていただきたくて、来たんですけど……」
 そう言って、アスカはおずおずとトートバッグの中から、履歴書を取り出した。
「あぁ、フロアレディ募集の貼り紙のことですね……」
 マスターは表情を一変させる。眉間に寄せられた皺は消え、その代わり、目元に笑い皺が見えた。作り笑いなのはすぐにわかったが、それでも多少は歓迎されていることに、アスカはほっと胸を撫で下ろす。
「幸い、店内に客もいないし、そちらのソファ席へどうぞ」
 マスターは笑顔を絶やさぬそのままでカウンターから出て来ると、アスカをソファ席へと案内した。
「失礼します」
 向かいの席にマスターが腰をかけたのを見計らって、アスカは遠慮がちにソファに腰をかける。
「えーっと……ハタノ モモエさん……。年齢は27歳……。ほぅ、前職は書店員ですか」
「はい。本が好きなので……」
 アスカは本当のことを言う。子どもの時から本が好きだった。出来ることなら、作家になりたいと思っていた時期もある。大きな嘘を並べ、小さな嘘は極力つかない、ということをアスカはモットーにしていた。そうすれば、意外にも大きな嘘はバレずに済むのだ。

「でも、どうして、またうちの店に? 全く違う職種でしょう?」
 マスターは履歴書から顔を上げて、アスカに問う。アスカはマスターの視線を受けて、にっこりと微笑んだ。
「実は数回ここに飲み来たことがあるんですけど、その時、とてもこのお店を気に入って……。こういうお店で働きたいなって思ったんです」
 アスカは普段とは違いおしとやかに振る舞った。今のアスカからは、机の上に足を上げて、煙草をふかしている姿など到底想像することなど出来ない。
「あぁ……。思い出しました。よくカウンターの左端で飲んでいた……」
「覚えててくれてたんですか?」
 アスカは大袈裟に喜んで見せる。マスターは鼻の下を少しだけ伸ばした。
「こういう仕事をしていると、ある程度は人の顔を覚えてるものですよ」
 マスターは誇らしげに言う。アスカは内心「私のことすぐにわかんなかったくせに、嘘つけ」と思ったが、微笑みを崩さないようにマスターを見つめていた。
 アスカの造形は美しくない。けれど、どうすれば、愛想良く、愛嬌のあるように見えるか、ということは熟知していた。勿論、自分がそういったしぐさをしたところで、大した威力がないこともわかっている。けれど、しないよりはした方がマシだということも彼女は知っていた。
「いつから入れるの?」
 マスターは履歴書に視線を落としたまま言った。アスカは待ってましたとばかりに口元を上げる。
「今日から入れます」
 こうして、アスカは今日の夜から、crashのフロアレディとして働くことになった。

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小説「サークル○サークル」01-1~01-10.「依頼」.まとめ読み

サークル〇サークル画像
「お願いがあるんです」
 女は事務所に入ってくるなり、そう言った。ここは別れさせ屋「エミリーポエム」ちんけなこの名前を考えたのは他でもないここの所長であるアスカだ。
 アスカは女に視線をやり、銜えていたタバコを口から放すと、煙を吐き出した。
「あなたは?」
「先日、お電話させいただいたカイソウ マキコと申します」
 女の名前を聞いて、アスカは目だけ天井に泳がせる。彼女が何かを思い出そうとする時の癖だった。
「あぁ、ご主人の不倫をやめさせたい、って言ってた?」
「そうです。主人とその不倫相手を別れさせたいんです!」
 マキコはぎゅっと手を握りしめ、吐き捨てるように言った。
「今、お茶を淹れますから、どうぞそちらにかけて下さい」
 アスカは至って事務的にマキコに言うと、短くなった煙草を灰皿に押しつけ、キッチンへと消えた。エミリーポエムは古びたビルの2階に位置する。キッチンも旧型で使い勝手は悪かったが、お湯が沸かせればいいと思っているアスカにとっては、別段問題はなかった。

 アスカはやかんに水を入れると、強火にかける。今時、ポットを使わないなんて珍しい、と思いながら、マキコはソファに腰を下ろした。
 お湯を沸かしている間、アスカはティーポットにティーリーフを入れる。何事にも大した興味を示さないアスカだったが、紅茶にだけはこだわりがあった。キッチンの引き出しには、珍しい紅茶がいくつもストックされ、気分や来客者によって、味を変える。客であろうと、敬語をほとんど使わない無神経なところはあったが、相手によって紅茶の味を変えるなどという細やかな気遣いをする一面も彼女は持ち合わせていた。
やかんのけたたましい笛の音が事務所に鳴り響く。やかんはせわしなく、お湯か沸いたことを知らせ続けた。アスカは慌てるそぶりもなく、のんびりとした動作で火を止めると、ティーポットにお湯を注ぐ。かぐわしい紅茶の匂いが事務所に広がった。アスカはしっかり3分待って、ティーカップに紅茶を淹れた。
 トレイには、ソーサの上に乗った紅茶の入ったティーカップと角砂糖、それから皿の上にはアスカが昨日買っておいたスコーンが乗せられていた。
「お待たせしました」
 アスカは言うと、マキコの前に紅茶を置く。全てを置き終わると、彼女はマキコの向かいのソファに腰を下ろした。

「どうぞ、召し上がって下さい」
 アスカは紅茶に手をつけようとしないマキコに言った。彼女はそんなアスカを遠慮がちに見る。
「あの……ミルクってありますか?」
「ごめんなさい。ミルクは用意してないの。この紅茶はストレートで飲んだ方がおいしいから、大丈夫よ」
「……」
 マキコにとっては、そういう問題ではない。マキコは口をつぐみ、砂糖を大量に入れると、紅茶に口をつけた。
「あの……それで、依頼は受けていただけるのでしょうか?」
「えぇ。受けること自体に問題ないわ。ただ金額の折り合いがつけば、といったところかしら」
「お金ならあります! パートで貯めたお金がありますから」
 真剣な目をして言うマキコに「失礼」と言って、アスカは煙草に火をつけた。
 たかがパートでいくらのお金があるって言うんだか……。
 アスカは内心そう思ったものの、口には出さず、煙草の煙を吐き出した。
「結構、かかるわよ?」
「それは承知の上です! 300万、用意しました」
「300万!?」
 パートで貯めたと言われ、アスカは50万、多くて100万程度だろうと思っていたので、心底驚いた。
「だから、お願いします! どうか、主人とあの女を別れさせて下さい!」
「……わかったわ。この依頼、正式に引き受けさせてもらうわね」
 アスカは300万という大金に思わず顔がにやけそうになるのを必死で堪えながら、神妙な面持ちで言った。

「ご主人の写真はある?」
 アスカの問いにマキコはバッグから1枚の写真を取り出した。
 いいバッグ持ってるわねぇ、とマキコのバッグを見ながら、アスカは思う。もしかしたら、マキコはパートで稼いだと言っているが、親が金持ちなのかもしれない。だったら、300万も貯金出来るのも納得出来る。
 アスカは写真を受け取ると、視線を写真へと落とす。
写真の中のマキコの夫は、眼鏡がよく似合うキレイな顔立ちの男だった。インテリな雰囲気を漂わせているが、全く嫌味な感じがしない。それだけではなく、この手の男にありがちないけ好かない感じや胡散臭さが微塵も感じられなかった
 なんだ、浮気野郎にしてはイイ男じゃない……とアスカは思ったが、それを表情に出さないように努めた。ここで顔に出してしまうと、信用問題に関わることを彼女は知っている。
「で、このご主人が浮気をしている、と」
「はい。そうなんです!」
 まぁ、これだけイイ男なら、黙ってても女が寄って来るわよね、と言いそうになったが、アスカはそんなことを思っているなんて、おくびにも出さずに話を続けた。
「別れさせてほしいってことは、もう浮気相手もご存じ?」
「はい……」
「その方はご主人とは、どういうご関係かしら?」
 アスカは写真に視線を落としたそのままで、マキコに問うた。

「主人の勤めている会社のビルに入っているセルフサービスのカフェの店員のようなんです……」
 マキコは伏目がちに言った。
「へぇ……」
 浮気の種類としては、特に珍しいパターンではなかった。男は身近な女に手をつけることが多い。社内で不倫をしている人間が多いことからもそれは明白だ。
 アスカは煙草の煙を吐き出すと、まじまじと写真を見た。この手のモテる男というのは、女好きが多く、落とすのは大概簡単だ。けれど、自分がモテることを自覚している分、何人も女を囲おうとするタイプが多い。たちが悪いかもな、とアスカは写真を見ながら眉間に皺を寄せた。
「期限の希望はおありかしら?」
「別れさせてくれるなら、特には……。ただ早ければ早いほど、嬉しいです。出来れば、この子が生まれてくるまでには……」
 そう言って、マキコは自分の腹をさすった。アスカはマキコの腹を見据える。
 やることはしっかりやってたってわけね……とアスカは内心ごちる。
「今、何ヶ月目?」
「3ヶ月です」
「そう……。半年以内……出来れば、3ヶ月以内には決着をつけたいところね」
「お願いします!」
 マキコは深々と頭を下げた。必死に頭を下げるマキコを見て、アスカは顔を上げるように言うと、金額の説明を始めた。

 アスカはマキコを送り出すと、仕事の段取りを決める作業に入った。今回のターゲットは依頼主の夫である「カイソウ ヒサシ」だ。彼は大手企業の会社員で年齢は31歳。アスカより2歳年上だ。マキコの話によると、よく行くバーがあるという。そのバーは「エミリーポエム」から3駅離れたところにある「crash」というバーらしい。アスカはそのバーでヒサシに接触するつもりでいた。
現在、「エミリーポエム」には数名のアルバイトのスタッフがいたが、別の案件で出払っていて、実質今動けるのはアスカしかいない。幸い、今回のターゲットとは年齢も近く、接近するのにはさほど困らない。ただもう少し美人でスタイルが良ければ、余計な不安など持たなくていいのにな、とアスカは思う。
「さーて、どうしたもんかなぁ……」
 椅子に踏ん反りがえって座り、足を机の上に置く。お世辞にも行儀の良い格好とは言えなかったが、1人でいるからこそ、出来る格好でもあった。
「落とすのは簡単……だけど、別れさせるのが難しいタイプなのよね……」
 1人でぶつぶつと言いながら、アスカは自分の考えを整理していく。こうやって、自分の中にある考えに筋道を立てていくのが彼女の習慣だった。口に出すことで自然と矛盾が解決される、というのが彼女の持論なのである。

「……」
 ぴたりと彼女の独り言が止まる。それと同時に机から足を下ろすと、机の上にある煙草に手をやった。それはアスカの考えが行き詰まったことを意味していた。最後の1本を取り出すと、火をつける。アスカは思い切り肺に煙を吸い込むと、目を閉じた。
「やり方は1つじゃない……。だけど、どうすればいい?」
 誰もいない事務所で誰かに問いかけるようにアスカは言う。無論、それは自分に対する問いかけにしか過ぎない。
 あっという間に煙草は短くなり、アスカは仕方なく、灰皿に煙草を押しつけた。細く揺れる煙にアスカは溜め息をつく。煙草がなくなったのが、仕事終了の合図だった。彼女は帰り支度を済ませると、戸締りと火の元を確認し、電気を消して、事務所を後にした。彼女の自宅は事務所から自転車で10分程度のところにあるので、通勤は決まって自転車だった。雨の日も彼女は河童を着て、自転車で通勤する。健康の為、という建前はあったが、本当の理由は年齢を重ねるごとに少しずつ出っ張って来た下腹を引っ込める為だった。中年太りをするにはまだ早い、と思っていたが、20代も後半に差し掛かると、身体は正直なもので、10代とは違った動きをし始める。それから逃れるように、アスカは自転車通勤で気を紛らわせていた。しかし、残念ながら、彼女は効果をさほど感じられてはいなかった。

アスカは事務所の階段横に停めてある自転車にまたがると、颯爽と走り出す。夕陽に染まっている商店街に目を細め、右へ左へとハンドルを切る。しばらくすると、どこにでもあるような茶色い外壁のマンションが目の前に現れた。彼女は駐輪場に自転車を置くと、エレベーターに乗り込み、3のボタンを押す。1年前に新築で購入したこのマンションも、今では当時の輝かしさはなかった。アスカは購入する時に3階にこだわった。それは何か事故が起きて飛び降りなければならないことがあっても、3階ならば飛び降りても死なないだろう、と思ったからだ。実際、1年経ってもそんなハプニングに見舞われることはなかったし、きっと今後もそんなハプニングに見舞われることはないだろう。時折、突拍子もないことを考えるのが彼女の長所でもあり、短所でもある。
 3階でエレベーターが止まると、アスカはキーを解除し、玄関のドアを開けた。
「ただいまー」
 アスカは靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、リビングへと向かった。
「おかえり。今日は早かったね」
 アスカを出迎えたのは、夫のシンゴだった。ぼーっとした雰囲気のいまいち冴えない男である。

「煙草が切れちゃったから仕事を切り上げたの……って、いけない。煙草買うの忘れちゃったわ」
「煙草なら、買っておいたよ。そろそろ、切れる頃だろうと思ってね」
「あら、気が利くじゃない」
「君と一体何年付き合ってると思うんだよ」
「10年くらいかしら?」
「そうだね。結婚する前から数えるとそのくらいだろうね」
 アスカは荷物をソファの横に置くと、手洗いとうがいをする為に洗面所へと向かう。その間にシンゴはキッチンで料理を温め直していた。
 食卓テーブルに着くと、アスカの前には次々とアツアツの料理が並べられた。
「おいしそう!」
「僕が作ったんだから、おいしいに決まってるよ」
 シンゴは得意げに言った。こんなことで胸を張っている場合ではないということに、彼は気が付いていない。彼の本職は作家である。その仕事が上手くいかないから、普段はほとんど主夫業に専念しているのだが、そのことに対して危機感がこれっぽっちも感じられなかった。それがアスカの悩みのタネでもある。
「いただきます」と言って、アスカは料理に箸をつけた。チーズグラタンと様々な野菜の入ったサラダに、パンプキンスープ、フランスパンはご丁寧にガーリックトーストにされていた。
 無言で次々と口に運んでいくアスカを嬉しそうに見ながら、シンゴは向かいの席に腰をかけた。

アスカはシンゴの気配に気が付いて、顔をあげる。
「そう言えば、調子はどう?」
 アスカは食事をしていた手を止めて、シンゴに問うた。
「まぁまぁってところかな。アイデアは浮かぶんだけど……。結末が思いつけなくて」
 苦笑するシンゴを見て、へらへらして言うことじゃないだろう、とアスカは思ったが、口には出さなかった。そんなことを言ったところで、この男の性格が改善されるわけではないことを、彼女はよく知っていた。
「結末が思いつかないんじゃあ、どうしようもないわね」
「そうなんだよ。結末が決まってないと、プロットは出せないからね。プロットがなければ、小説を書きだすことは出来ないし……」
 小説の骨組みとなるプロットは、物語の始まりから終わりまでを端的に書いたものだ。これがなければ大抵の場合、編集者に小説の執筆に入らせてもらえないことが多い。結末が浮かばないシンゴにはこの最初の段階であるプロットすら書けないということだ。それは仕事が全然進んでいないことを意味する。アスカは溜め息をぐっと飲み込み、続けた。
「結末は浮かびそうなの?」
「あとちょっとってところかな」
「それ、1か月前も言ってなかった?」
「あぁ、あの時の小説は結局ボツにしたよ。あれは今思うと全く面白くなかったからね」
シンゴは悪びれる風もなく、いけしゃあしゃあと言い放った。

続き>>1-11~01-20.「依頼」.まとめ読み


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