小説「サークル○サークル」01-21~01-30.「依頼」.まとめ読み
- 2012年01月02日
- 小説「サークル○サークル」, 「サークル○サークル」まとめ読み
- サークル○サークル
マスターから店内のどこに何が置いてあるかの説明を受け、アスカはメニュー表を渡された。「うちはお酒の種類が多いから、大変だと思うけど、少しずつ覚えていってくれればいいから」マスターはメニュー表を渡す時に、あたかも人の良さそうなことをにこやかに言った。けれど、アスカはこれが口先だけだということに気が付いていた。面接の時の対応からもわかるように、マスターは表面を繕うタイプだ。この手のタイプは、表向きは良いことをいうものの、内心は真逆のことを考えていることが多い。ずっとこの店に求人募集の紙が貼られていたことからもそれは明らかだった。きっとマスターのちょっとした意地の悪い言葉に辟易して、今までの店員も辞めていってしまったのだろう。
アスカは過去にカフェで働いていたことはあったが、同じ飲食業と言っても、バーで取り扱うドリンクの種類は、カフェに比べてかなり多い。ドリンクメニューを覚えることだけで、アスカは根を上げそうになっていた。
仕事とは言え、面倒な店に来てしまったな、とアスカはメニュー表とにらめっこしながら、内心溜め息をついた。
時間が深まるにつれて、客足が増え、店内も次第に騒がしくなっていた。
まだカイソウ ヒサシは来ないのね……。今日は空振りかしら、とアスカが溜め息をつきかけた頃、カイソウ ヒサシは、黒ストライプのスーツから伸びる細い足が印象的な若い女を連れて、店に入って来た。ヒサシは黒縁の眼鏡をかけ、スーツをぱりっと着こなし、どこからどう見ても出来る男然としている。これじゃあ、若い女の子がヒサシに靡いても仕方ないわね、とアスカは思いながら、ヒサシと若い女の前に水と温かいおしぼりを持って行った。
「いらっしゃいませ。おしぼりをどうぞ」
作り笑いを浮かべ、愛想良くアスカは振る舞う。ヒサシはちらりとアスカを見て、おしぼりを受け取ると、すぐさま、隣にいる若い女に視線を戻した。アスカはコースターを2人の前に置きながら、女の様子を窺う。茶色いセミロングの髪には優しくウェーブがかかっており、時折かき上げる髪から覗く耳には、上品なデザインのピアスがつけられている。外見を見る限り、マキコから聞いていたカフェの店員という雰囲気はなかった。
――まさか、別の女……?
アスカは眉間に皺を寄せ考え込む。すると、突然マスターに名前を呼ばれた。
アスカは返事をして、マスターの元へと行く。何か小言を言われるのかと、憂鬱な表情を浮かべそうになるのを隠し、アスカは顔を上げた。
「あそこに座った男性のことなんだけど」
マスターはそう前置きをして、小声でアスカに説明し始める。
「連れてくる女性はほぼ毎回違うから、男性と仲良くなって喋ることがあっても、相手の女性のことにだけは触れないようにね」
「はい……」
アスカにとって、ある程度予想のつく話だったが、それでもそれなりの衝撃はあった。マキコは気が付いていないだけで、ヒサシの浮気相手は相当数いるようだ。
「ごめん、戻っていいよ」
マスターはそう言うと、カクテルを作り始める。アスカは再びヒサシたちの前にオーダーを取るために向かった。
「ご注文はお決まりでしょうか」
アスカの言葉に2人は顔を上げる。女の大きな目とアスカは目が合った。潤んだ二重の目には長い睫が規則的に並び、ヒサシを見る目は熱っぽい。明らかに上司と部下という関係ではないであろうことは、容易に想像がついた。
「決まった?」
ヒサシは女に顔を近付けて問う。そこまで近付く必要性なんてないだろう、とアスカは思いつつ、オーダーを待った。
「私、これがいい」
女はメニューを指差した。アスカからは何の飲み物を指差したのかまでは確認することが出来なかった。
薄暗い店内でもキレイに手入れされた女のネイルは妙に目立っていた。営業職なのだろう。派手なデザインにはしていないものの、ネイルサロンに行っていることは明らかだった。こういった女としての気遣いは、マキコにあっただろうか。一見、些細なことに見えるけれど、そういった細やかな部分で男は相手に女を感じることをアスカは知っていた。思わず、彼女は自分のネイルに視線を落とす。辛うじて、甘皮の処理はしていたけれど、お世辞にもキレイな指先だとは言えなかった。飲食業に潜り込んでいるので、マニキュアは塗れないにしても、手入れのしようはいくらでもある。ふいに女としての自分の劣化具合を感じて、アスカは恥ずかしくなった。
「すみません」
俯くアスカにヒサシは声をかける。
「はい。お決まりですか?」
アスカはヒサシに笑顔を向ける。
「ジントニックとピーチフィズを」
「かしこまりました」
アスカはヒサシに一礼すると、マスターにオーダーを伝えた。
次々に入ってくる客に挨拶をしながらも、アスカの神経はヒサシたちに向けられ続けていた。薄暗い店内の中では、ついつい行動が大胆になりがちだ。ヒサシは何の躊躇いもなく、女の太腿と太腿の間に右手を滑り込ませた。女は少し困ったような顔をして、ヒサシを見ている。きっとその少し困った顔がヒサシにはたまらないのだろう。ヒサシの口角がほんの少し上がったことをアスカは見逃さなかった。
――バカな男……。
アスカはヒサシの行動に半ば呆れながら、ドリンクが出来上がるのを待った。マスターに呼ばれ、オーダーのドリンクとお通しを受け取ると、アスカはヒサシたちの元へと向かう。
「お待たせ致しました。ジントニックとピーチフィズ、お通しのスープになります」
アスカは笑顔を浮かべて、2人の前にオーダーの品とお通しを並べた。ヒサシはアスカのことなどお構いなしに、女の太腿に手を伸ばしたまま、何やら熱心に話している。女の方は少し冷静で、アスカの声に顔を上げ、軽く会釈した。若干、太腿に置かれたヒサシの手を迷惑そうに感じているようにも見える。
不倫を始めてまだ日数が経ってないか、今日が不倫初日ってところかしら……。アスカは2人を観察しながら、そう結論付けた。
不倫の初期は警戒を怠らない。けれど、不倫が日常化してくるに従って、その行動は次第に大胆になっていく。ヒサシは数えきれないくらいの不倫をしているだろうから、大胆な行動に出ても何もおかしくない。それに引き換え、女の方はそんなに数をこなしていないのだろう。どこか不安げな表情を浮かべ、時折、辺りを気にしていた。
「ねぇ、奥さんいるんでしょう?」
アスカは甘ったるく話す女の声を聞き逃さなかった。仕事をしている振りをして、ヒサシたちの近くに留まった。真ん前に行かないのは、会話を中断されると困るからだ。聞こえそうで聞こえない距離、というのが、一番望ましい。
ヒサシは寂しげな表情を浮かべ、女の瞳を見据える。店内の薄暗さと酒の勢いも手伝って、女は更に潤んだ瞳でヒサシを見上げた。
「あぁ。いるけど、上手くいってないんだ」
不倫をする男の常套句だ。アスカは思わず吹き出しそうになるのをぐっと堪えた。
「ホントに?」
「あぁ、本当だよ。同じ家に住んでるってだけで、別に触れたいなんて思わない」
嘘つけ、とアスカは思う。マキコのお腹には子どもがいる。触れたくもないのに、セックスをするなんておかしな話ではないか。ただ単にセックスをしたいだけでマキコを抱いたのだとしたら、救いようがない。残念ながら、どういうつもりだったのかを確認するには、本人に本心を訊く以外の方法がない。アスカは気を取り直して、2人の会話に耳をそばだてた。
「信じていいの?」
女は大きな瞳を数回しばたたかせて、言った。
「あぁ。つまらない嘘なんてつかないよ」
ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つ。マキコは浮気相手と別れさせたいと言っていたけれど、こんな男、捨ててしまった方が残りの人生正解なのではないか、とアスカは思う。
「今日は泊まっていくだろう?」
ヒサシの言葉に女はグラスに視線を落とす。本心から迷っているのか、迷っている振りをしているのか、アスカには定かではないが、少なくとも断るという即決をしないのは確かなようだ。
「でも……」
女は困ったようにグラスについた水滴をいくつも指ですくった。ヒサシはそんな女の太腿から手をどけることなく、耳元に唇を近付ける。
それ以上先はホテルでやってよ、と思いながらも、アスカは観察を続けた。2人がどういう結論を出すのか、アスカには知る必要があったのだ。
「迷うことなんてないだろう?」
ヒサシは女の耳元から唇と、身体を離して言った。しかし、依然として、ヒサシの右手は女の豊満な太腿に置かれたままだ。女はヒサシの顔を見上げる。
「ううん。服が困るわ。明日も仕事だもの。同じ服を着て出勤なんて、はたしないと思わない?」
「スーツだろう? わからないよ」
「男の人にはわからないかもしれないけど、女同士の目って、とても厳しいものなのよ」
女はヒサシの瞳をしっかりと見据えて言った。
「だから、泊まれない?」
ヒサシは眉間に軽く皺を寄せて訊いた。
「えぇ、残念だけど」
「そうか……」
ヒサシはあからさまにがっかりしたような態度を取る。こうして、女の同情を引いているのかもしれない。けれど、女の意思は固いようだった。
「ごめんなさい」
女はそう言って、千円札を1枚カウンターに置くと、店を後にした。
ヒサシは出て行く女の後ろ姿をぼんやり眺め、彼女が去ってしまった今も何も言わずにグラスを傾けている。アスカは一部始終を見届けると、別の客のオーダーを取りに行った。
バーの仕事が一段落して、アスカが岐路に着いたのは、夜中の2時を回った頃だった。シンゴがビーフシチューを作って待っていると言っていたことをアスカはふと思い出す。こんな時間にビーフシチューはさすがに胃に重たい。アスカは憂鬱な気分を抱えたまま、タクシーを拾うと乗り込んだ。
アスカはタクシーに乗り込み、行き先を告げる。窓の外を見遣ると、ネオンがチカチカと安っぽい明るさを放つのが気になった。タクシーから見える窓の外の景色は、呼吸するスピードよりも早く変わっていく。まるで、人の気持ちのようだな、とアスカは思った。
自分のシンゴに対する気持ちも、浮気をするヒサシの気持ちも、結局のところ、辿り着いた先が違うだけであって、結婚当初の温かで希望に満ちていた頃の気持ちと異なっているという意味では同じだ。もがき苦しんでいる重さが同じなのだとしたら、ヒサシも苦労しているな、とアスカは同情の気持ちさえ持ってしまう。別れさせ屋という仕事をしているから、浮気をされている人の味方だと思われることが多いけれど、実際、彼女は浮気をする人の気持ちにより近いところにいる。別れさせ屋は仕事であって、それ以上でもそれ以下でもない。アスカはそんな自分の立ち位置に時々苦笑してしまう。けれど、彼女のその冷淡とさえ思える割り切りこそが、この仕事に必要なことだった。いちいち、依頼者に同情していては、精神がもたない。
アスカは家に着くと、静かに鍵を開け、中に入った。部屋の電気は全て消えている。真っ暗な中にも人の気配があった。アスカは人と暮らしているのだということをこういう瞬間に感じる。
リビングの電気を点けると、並べられた食事はすでに冷め切っていた。アスカはリビングに掛けられた時計を見上げる。時刻はすでに2時半を回っていた。明日の朝はゆっくり起きるにしても、やはり食事に手をつけるのは躊躇われた。胃に重たいからだけでなく、今食べてしまったら、きっと無駄な肉へと直結してしまう。最近たるんできた腹であったり、二の腕が気になるのだ。贅肉がつくのは一瞬だが、それを落とすには莫大な時間と努力が必要となる。シンゴには悪いけれど、食べるのをアスカは断念した。
「明日、謝ればいいよね……」
ぽつりと呟いて、彼女はそのままバスルームへと直行する。熱い風呂に浸かり、疲れを癒したら、今日はそのまま何もせずに眠るつもりでいた。
目覚まし時計は鳴らない。たっぷり眠りたい時、アスカは決して目覚まし時計を鳴らさないのだ。幸い、シンゴも自由業の為、目覚まし時計を必要としない。同じ寝室で眠っていて、相手の目覚まし時計の音に起こされずに眠れることが、アスカがシンゴと眠る上で唯一の利点と言っても過言ではなかった。正直なことを言ってしまえば、別の寝室で眠りたいというのが、彼女の本音だったが、それを実行に移すほど、彼女は不人情ではない。しかし、同じベッドで一緒に眠る意味をアスカは見出すことが出来なくなっていた。
コメントを残す