小説「サークル○サークル」01-151~01-160「加速」まとめ読み

 アスカの別れさせ屋としての勘が外れていて、ただ単にアスカの嫉妬心を煽るだけの為にヒサシがあの女をつれて来たのかもしれない、とほんの一瞬アスカは思った。思ったというより、そう思うことによって、自分が傷付かないようにしているのだ。あんな若い女の子に自分が勝てるとは到底思えなかったからだ。
 コースターに視線を落とし、しばし見つめる。かけてしまおうか、と思ったものの、何も出来ずにアスカはコースターをゴミ箱に捨てた。
 けれど、ヒサシの番号はしっかりと目に焼きついていた。いつだって、コールをすれば、ヒサシが出る。ヒサシが出れば、わざわざこの店でなくとも、ヒサシと繋がることが出来るのだ。
 そこまで考えて、アスカはかぶりを振った。自分の浅はかな考えに思わず苦笑する。あくまで自分がしているのは仕事であって、恋愛ではない。何度同じ問答を繰り返したら、心が揺れずに済むのだろう、とアスカはふと思う。そして、アスカは知っていた。会わなければ次第に恋心は薄れていく。だったら、接触さえしなければいいのだ。
 アスカは深呼吸をすると、マスターの元へと向かった。
 
 シンゴはさえない顔をして、公園のベンチに座っていた。冴えない男の前には鳩すら寄ってこない。遠くで群れをなす鳩に視線を投げかけ、シンゴは溜め息をついた。
 あぁ、また幸せが逃げた、と思うけれど、溜め息を止めることは出来なかった。
 仕事は順調だ。小説をこんなにすらすら書ける日が来るなんて、夢にも思いはしなかった。まだなんだか夢の中にいるような気さえしていた。
 シンゴにとって、仕事が軌道に乗り始めるということは。自分にとってもアスカにとっても良いことだというのはよくわかっている。アスカの嬉しそうな顔を見ていると本当に良かった、とも思う。
 けれど、シンゴはそういった類の喜びに浸れず、ただただ溜め息をつき続けていた。
 アスカの浮気のことが気になって仕方がないのだ。一時期は仕事さえ手につかなくなりかけた。しかし、仕事には締切もあるし、何よりアスカの浮気のことばかり考えていたら、気が狂いそうになってしまう。
 嫌な考えを払拭しようと、シンゴは仕事に打ち込むようになっていった。
 
「ねぇ、今、いい?」
 アスカがシンゴの仕事場である書斎にやって来るのは珍しかった。シンゴは面食らいつつも、「ああ、いいよ」と彼女を迎え入れる。
「今までしてたバーでの仕事辞めたから」
「えっ……」
 想像もしていなかったアスカの言葉に、シンゴはそれ以上の言葉が出てこなかった。
「もうバーでやらなきゃいけないことは終わったの。依頼主から別れさせてほしいって頼まれてた浮気相手もだいたいの検討がついたし、潮時かなって」
「ああ、そうなんだ」
 潮時という言葉に引っかかったが、シンゴは顔には出さなかった。
「だから、これから、夕飯は私が作るわね」
「えっ、でも……」
「シンゴも仕事忙しいでしょ。他の家事は任せっぱなしだし、夕飯の用意くらい私にやらせて」
「ありがとう」
「じゃあ、お仕事頑張ってね」
 そう言って、アスカは出て行ってしまった。一人残されたシンゴは椅子の背もたれに大きく寄りかかった。シンゴの口から溜め息が零れたのは、それから数秒後のことだった。
 
 シンゴはアスカの言葉を一人反芻する。どうしても、「潮時かなって」という一言が引っかかって仕方なかった。決して、良い意味ではないようにシンゴには思えた。
 彼は椅子の背もたれに寄りかかったまま、パソコンの画面を遠くから見据える。次に入力される文字を待ちながら、点滅するラインをじっと見つめた。
 アスカの今までの仕事振りを見ていると、アスカがバーを辞めた理由が、バーでの情報収集が終了したからというのは嘘ではないだろう。けれど、あれだけ、ターゲットに入れあげているアスカが何事もなく、バーを辞めるだろうか。シンゴが引っかかっているのはその点だった。
 きっとターゲットと何かしらの接点をバー以外で持てたから、バーを辞めたに違いない。シンゴはそう踏んでいた。
 やはり、浮気を継続して、自分とは別れるつもりなのだろうか。そう考えるだけで、シンゴは遣る瀬無い気持ちでいっぱいになる。そんなことは今すぐ思い止まってほしい。けれど、そんなことを言える立場ではないことはシンゴ自身が一番よくわかっていた。
 
 きちんと作家として、仕事をし、収入を得た上で考え直してほしいと言わなければ、なんの説得力もないだろう。だが、今ここで思い止まらせなければ、アスカはどんどんどつぼにハマっていくかもしれない。
 それにアスカが異様に優しいことも不安材料の一つだった。アスカが自分から夕飯を作ると言い出したのだ。一緒に暮らしてきて今まで一度だったそんなことはなかった。勿論、シンゴが作家としての仕事をしていなかったから、というのは大いに理由としてはあるだろう。しかし、たかが少し仕事を始めたくらいで、手のひらを返したように態度が変わるものだろうか。
 アスカが急に優しくなったのは、きっとやましいことがあるからだ。シンゴはそう思った。思ったけれど、まさかそんなことを口にするわけにもいかない。
 アスカが夕飯を作ってくれることは、アスカの浮気さえ疑っていなければ、嬉しいことなのだ。
 一体、どうすればいいんだ……。
 シンゴは何度も同じ言葉を心の中で繰り返した。繰り返しても繰り返しても一向に答えは見当たらない。現実は小説よりもよっぽど残酷だ、と感じるのはこんな時だった。
 
 翌日、アスカは事務所でいつものように煙草をふかしながら、机の上に足を上げ、書類と睨めっこをしていた。
「さーて、どうするかな……」
 書類に目を通したのは一体何度目だろう、と思いながら、アスカはまた最初から書類に目を通し始めた。
 アスカの持っている書類はマキコが言っていたヒサシの浮気相手の個人情報だった。
 アスカの勘は見事に的中していたのだと、写真を見てアスカが安堵の溜め息をついたのは、今日の朝だった。
 どうしても別の案件の確認で手が離せなかったアスカは、所員に浮気相手の勤めているカフェのスタッフを調査するように指示を出していた。そして、アスカの睨んだ通り、そのカフェのスタッフの中に、見事ヒサシが連れて来ていたあの女がいたのだ。
「こういうのがタイプだったとはねぇ……」
 煙草をふかしながら、アスカは一人ごちる。
 女の名前はレナと言い、現役大学生だった。最近、二十歳になったばかりなのか、と誕生日を見て、アスカは驚く。年齢の割に落ち着いているな、と思った。
 
 アスカは目の前の書類に何度も目を通す。次に自分がしなければならないことは、ただ一つ。レナとの接触だ。接触して、ヒサシとの不倫をやめさせる方向へともっていかなければならない。ヒサシの行動パターンや性格はある程度把握している。その情報を元にレナにどのようなアプローチをかけるかを随時判断するのだ。ここが一番の山場だと言える。
 レナが不倫をしていることをどう思っているのかによっても、別れさせる方法は異なってくる。大概の場合、浮気相手は不倫を悪いことだとあまり思っていないことが多い。不倫をしている女の多くは、奥さんと彼氏が別れることを願っているのだ。奪えるものならすぐにでも奪いたい、そうと思っているのが大半だ。
 けれど、時に罪悪感に苛まれながら、不倫をしている女もいる。ごく少数と言っていいが、そういった女の場合、前者よりもいくらか簡単に別れさせることが出来る。
「どうするかなぁ……」
 アスカは煙草の吸殻を灰皿に押しつけて、溜め息をつく。彼女はしばらく思案した後、紅茶を淹れる為に席を立った。
 
 キッチンで紅茶を淹れると、はちみつをたっぷりと入れる。身体が甘い物を欲しているんだな、と思い、いかに疲れが溜まっているかを痛感した。きっと慣れない料理なんかしているからだ。けれど、シンゴが仕事を頑張ってる今、家事をしないわけにはいかない。シンゴのやる気をそぐようなことだけはしたくなかった。
 紅茶を飲みながら、これからの仕事の進め方を考える。まずはレナとどうやって接触するかだ。一番楽なのは、カフェにアルバイトとして入り、バイト仲間になってしまう方法だ。しかし、すでにバーで対面を果たしている以上、その方法は取れない。
 他の方法は残り二つ。一つはカフェの常連となること。もう一つは別の場所でレナと接触することだ。
 アスカはどちらの方法を取るか悩んだ。
 レナの働いているカフェはオフィスビルの一階に入っている。そのカフェを利用する常連になるには、そのオフィスビルで働いていなければ怪しいし、バーで働いていた人間がそんな場所に突如現れればおかしいと思われるかもしれない。
 
 レナとは一度しか会っていないから、レナがアスカの顔を覚えていない可能性もゼロではなかった。けれど、物事を自分の都合の良いように考えるのは一番危険だ。
 カフェ以外の場所でレナと接触する方がいくらか自然だし、偶然の再会をきっかけに話が盛り上がり、仲良くなりやすいとも思った。
 けれど、今からレナとの接触場所を探すのは、時間がかかりすぎる。アスカは考えた結果、カフェで常連となることを決めた。行くとすれば、朝の時間帯にテイクアウトせず、カフェで飲む必要がある。テイクアウトの多い時間帯にそうすることで、印象に残るはずだ。
 これから、毎朝、カフェに通う為に早起きをしなければならないのかと思うと、憂鬱だったが、仕事の為だ。仕方がない。
 それにアスカにはとっておきの方法があった。この方法なら、きっと上手くいく、そうアスカは確信していた。
まずは家に帰って、シンゴに相談しよう。こういう時、作家の夫は誰より頼りになる。
 アスカは書類のコピーを一部取ると、灰皿と紅茶の後片付けをてきぱきと済ませて、事務所を後にした。
 
 その日の晩、アスカは腕によりをかけて夕飯を作った。満足そうに微笑む彼女の前には、食事を口にするシンゴの姿がある。
「うん、おいしいよ」
「良かった」
 シンゴの言葉にアスカは更に笑顔の皺を深くした。
「仕事は順調?」
「ああ、ちゃんと書けてる。アスカの方はどう?」
 シンゴの言葉に待ってましたとばかりに、アスカは書類を差し出した。
「これは?」
「この間から関わってる案件の不倫相手の書類」
 シンゴはアスカから書類を受け取ると、まじまじと眺めた。そこにはヒサシの不倫相手であるレナのプロフィールが事細かに書かれていた。
「この人がどうかしたの?」
「この女の子と接触しようと思ってる」
「へぇ……。今回は女の子の方に接触して、別れを促すの?」
「ええ。ターゲットの方は手ごわそうだから。でも、この女の子に接触するのもちょっと難しくて」
「どうして? カフェで働いてるなら、ここの店員になれば簡単じゃない?」
「それがそうもいかないのよ」
 シンゴはアスカの言葉に怪訝な顔をした。
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