小説「サークル○サークル」01-251~01-260「加速」まとめ読み
- 2013年05月28日
- 小説「サークル○サークル」, 「サークル○サークル」まとめ読み
- サークル○サークル
――“出会うのが遅かっただけ”
不倫を正当化するのによく使われるフレーズだ。
確かにそういうこともあるかもしれない。だとしても、やはり、きちんと離婚してから、向き合うべきだとシンゴは思う。そうでなければ、先に結婚した方がバカみたいではないか。
そして、奪われれば執着する。去られるよりもずっと。
シンゴはそこまで考えて、自分の考えを鼻で笑った。
自分がアスカに別れを切り出さないのは、アスカを愛しているからという理由が一番ではない。誰かに取られようとしているからだ、と気が付いたのだ。奪われそうになると惜しくなる。奪われるくらいなら、手放したくない。人間の人を愛するという思考はもしかしたらその程度なのかもしれない。
そんなことを考えながら、シンゴは尾行していた時に見たアスカとターゲットの姿を思い出していた。
あの二人は今、どんな関係でいるのだろう。
不倫をしているのだろうか。それとも、やはりアスカの仕事の邪魔になるから別れたのだろうか。それとも、何度か関係を重ねただけだろうか。
シンゴは色々な可能性を考えた後、考えるのをやめた。
溜め息をつき、気持ちをリセットすると、シンゴは再び文字を打ち始めた。
記憶は時に邪魔になる。忘れたいことですら、心の中のどこかに残っていて、ふいに過っては感情を逆撫でていく。
記憶は感情と直結しているのだということを意識するのはそういう時だ。
そして、それは小説を書いている時によく訪れる。
その度にシンゴは溜め息をついた。
イライラしたり、落ち込んだり、そういう自分に呆れてしまう。
記憶に対して一喜一憂するのはナンセンスだし、振り回される自分の弱さにもうんざりする。
シンゴはタイプする手を止めて、椅子にもたれた。椅子は軋み、少しだけ後ろにたわんだ。
少し離れたところから、パソコンの画面を見つめると、真っ白な画面に並んだ黒い文字が何かの模様に見えた。自分が書かなければ、画面は白いままだ。白い画面の上に自分が紡ぎ出す言葉が意味をなしていくのは、なんとも言えない喜びだった。
けれど、その喜びの為に自分は過去の出来事にもう一度傷ついたり、悩んだりしている。
その矛盾にシンゴは再び大きな溜め息をついた。
今日はあまり仕事が進まないらしい。
きっとアスカとターゲットのことが頭をもたげている所為だ。
シンゴはパソコンを閉めると、席を立った。
朝は規則正しくやってきて、シンゴの眠りを妨げた。窓の隙間から入ってくる朝陽にシンゴは目を細め、むくりと起き上がる。すでにアスカの姿はなかった。
リビングへ行くと、テーブルの上に朝食が用意されていた。こんなことは初めてで、シンゴは思わず二度見する。
キッチンパラソルの横にはメモが置いてあった。
“おはよう。仕事に行ってきます。朝ご飯作ったから食べてね。お味噌汁とご飯は自分で入れて下さい”
端正な字で書かれた文字をシンゴは二度読んだ。なんだか、メモに書かれていることが信じられなかったのだ。
そっとキッチンパラソルを開けると、そこには焼き鮭と小松菜のおひたしがあった。箸置きに置かれた箸の横には、味噌汁を入れる器と茶碗も伏せて置いてある。
シンゴはキッチンパラソルを元に戻すと、顔を洗いに洗面所へと向かった。
顔を冷たい水で洗い、鏡に映る自分を見て、溜め息をつく。冴えない顔だな、と思った。
そそくさと洗面所を後にすると、シンゴはキッチンパラソルの中から、味噌汁を入れる器と茶碗を取り出した。味噌汁の入った鍋を火にかけ、その間に茶碗にご飯をよそう。
味噌汁が温まったのを確認すると、シンゴは器に入れ、席へと着いた。
穏やかな朝だった。
アスカの焼いてくれた鮭は美味しかったし、小松菜のおひたしもほっとする味だった。
こうして、自分の幸せが少しずつ形成されていくに従って、シンゴはこの幸せがいかに不安定なものなのかを考えた。
アスカとターゲットが続いていれば、この幸せはいずれあっという間に姿を消してしまうだろう。
こんなにも落ち着かない気持ちでいるのは、精神衛生上良くないな、と味噌汁を啜りながらシンゴは思う。
だったら、一層のこと、アスカのケータイを見てしまおうか、とも考える。そうすれば、白か黒かはっきりして、このもやのかかったような生活とはさよなら出来る。
白であれば平穏に、しかし、黒であれば、地獄が待っているような気さえした。
シンゴは思い悩む。ふとシュレディンガーの猫の話を思い出した。
箱の中に猫が入っている。開ける前は猫が生きているのか死んでいるのか、確率は50/50(フィフティー・フィフティー)だ。けれど、箱を開けてしまえば、0か100しかない。
今の状況はそれに似ているとシンゴは思った。
アスカのケータイを見て、ターゲットとのやりとりがあれば浮気は継続されていることになる。けれど、ターゲットとのやりとりがなければ恐らく浮気は終わりを告げているだろう。
そこまで考えて、シンゴは「いや、待てよ」と思った。
アスカは仕事柄、用心深いに違いない。きっと、彼女はメールのやりとりをしていたとしても、その履歴が残らないように削除するはずだ。そして、削除したことを悟られないようメール数に違和感がないように細工をするに違いない。
シンゴはかぶりを振った。
そんなことを考えていても、何もいいことなどないのだ。
けれど、考えずにはいられない。
アスカとターゲットとの関係を知りたくて仕方がなかった。
それは嫉妬から来るものなのか、それとも、自分の平穏な生活や幸せを脅かされることに対する不安から来るものなのか、シンゴにはよくわからなかった。
しばらく考えた後、やっぱり……、とシンゴは思う。
このもやもやを解消する為にはアスカと向き合う必要があるのだ。
アスカの帰りはいつも通り早かった。最近は夕飯の時間には帰ってくる。食材を買ってきて、すぐに夕飯の支度をするアスカは甲斐甲斐しい妻の姿に見えた。
しかし、シンゴは手放しで喜べない。そこには裏があるような気がしてならなかったからだ。
疑惑はやがて確執へと変わってしまう。
シンゴはその前に何か手を打たなければと思った。
アスカが浮気をしていたという事実は許せない。けれど、一度きりの過ちならば――、何度か繰り返されていたのだとしても、今はもう終わっているのだとしたら、シンゴは許せるかもしれない、とも思う。
結局のところ、自分のところに戻って来るなら、それでいい、ということなのかもしれない。
真相はまだわからない。けれど、そろそろ、真相を明らかにするべき時期に来ているのでは、と思っていた。
自分の中で渦巻く感情を持て余しながら、シンゴはキッチンで忙しなく料理に勤しむアスカの姿を見つめていた。
この姿に嘘がなければいいな、と思いながら――。
アスカはキッチンで料理をしながら、束の間の休息を楽しんでいた。
仕事から解き放たれる家で過ごす時間は、今のアスカにとって唯一ほっと出来る時間だった。
今日の夕飯は肉じゃがだ。
野菜を切って、煮込み始めると肉じゃがの匂いが鼻先をかすめた。
キッチンからリビングのソファを見ると、シンゴがくつろいでいる。
何か思い詰めた顔をしているけれど、きっと小説のことを考えているのだろう、とアスカは敢えて声をかけなかった。
シンゴは優しい。
夕飯を作ると言ったアスカに僕がやるよ、と言ってくれた。
確かに一時期、ヒサシに心を奪われていたけれど、今はヒサシと関係を持たなくて良かったと思っている。ヒサシと関係を持ってしまっていたら、シンゴに申し訳ない気持ちが勝ってしまって、きっと今一緒にいることは出来なかっただろう。
浮気なんて一時期の気の迷いだ、ということをアスカは痛感していた。
アスカは肉じゃがと味噌汁が出来上がり、シンゴの名前を呼ぶ。
はっとして笑顔で食卓テーブルにやってくるシンゴを見て、アスカは幸せを感じていた。
シンゴが食卓に来て、アスカは微笑んだ。
「お待たせ」
「いい匂いがしてたから、お腹空いちゃったよ」
シンゴも心とは裏腹に微笑んだ。
アスカには訊きたいことが山ほどあった。けれど、今、それを口に出すことは出来ない。
シンゴは「おいしいね」と言って、肉じゃがを口に運ぶ。
アスカは何も気が付いていない。それがシンゴにとっては遣る瀬無かった。
「仕事はどうなの? 順調?」
前にも訊いたな、と思いながら、シンゴは口にする。
「順調よ。相変わらず。毎朝、カフェに通ってる。あともう一度くらい食事に行けば、もっと彼女とターゲットに近づけるんじゃないかなぁ」
アスカはそう言うと、味噌汁に手を伸ばした。
「じゃあ、そろそろ、今回の案件は片付きそう」
「そうね。時間的な制約もあるし、そろそろ終わらせないとまずいわね」
「早く今回の仕事が終わるといいね」
「頑張るわ」
アスカの微笑みを見て、シンゴはそれ以上何も言わなかった。
アスカに色々訊くのはこの案件が終わってからでいい、とシンゴは思っていた。それまでに自分がやらなければならないことはたった一つだけだった。
「いらっしゃいませー」
自動ドアをくぐると、気持ちの良い挨拶が聞こえてきた。レジにふと目を遣れば、そこにはユウキがいる。シンゴは適当に菓子パンと紙パックのコーヒーを手に取ると、レジに向かった。
「いらっしゃいませ。ストローはおつけになりますよね」
「ああ」
ユウキに言われて、シンゴは頷いた。
「最近、シンゴさん来てくれないから心配してたんです」
「心配?」
「だって、ほら、奥さんのこととかで何かあったのかなって」
「ああ……そのことなんだけど……」
「はい……?」
「今日、何時に終わる?」
「あと10分ほどで」
「じゃあ、いつもの公園で待ってる」
「わかりました」
ユウキはレジの後ろに別の客が並んだのを確認すると、手際良く、会計をした。
シンゴは商品とおつりを受け取ると、ユウキといつも会っている公園へと向かう。
のんびりと歩きながら、穏やかな景色に視線を漂わせた。
自分以外の人はいつだって、幸せそうに見えることにシンゴはもやもやした気持ちを抱えていた。
勿論、シンゴだって、傍から見れば幸せそうに見えていることに変わりはない。
仕事があり、住むところがあり、結婚もして奥さんとは大きなケンカもない。
けれど、それは表面上のことであって、シンゴの内面は不幸せだという気持ちでいっぱいなのだ。人の心の奥底まではわからないな、と自分のことと照らし合わせながら、シンゴは思う。
結婚して奥さんはいる。けれど、その奥さんが浮気しているかもしれない。それは決して幸せとは言い難い。
シンゴはいつものベンチに腰を下ろすと、芝生に視線を向けた。今日は芝生には誰もいない。
犬も飼い主も、無邪気に遊ぶ子どもの姿もそこにはなかった。
ただただ目の前に広がる芝生を見つめながら、シンゴはユウキが来るのを待った。
ケータイをパンツのポケットから取り出し、時間を確認する。
身支度をして、公園まで来るとなると、あと十五分くらいはかかりそうだな、と思いながら、シンゴはケータイをポケットにしまった。
袋の中には紙パックのコーヒーと菓子パンがある。
お腹は空いていたけれど、ユウキが来るまで待っていようと思った。きっとユウキが逆の立場なら、そうしてくれるだろう、と思ったからだ。それに一緒に食べる方が一人で食べるよりはいくらか美味しく感じられるだろうとも思った。
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