小説「サークル○サークル」01-271~01-280「加速」まとめ読み

アスカは食器を洗いながら、テレビを観ているシンゴをキッチンからちらりと見る。
シンゴは難しい顔をして、テレビの画面を凝視していた。
そんなに嫌なニュースでも流れているんだろうか、と思ったが、ふとアスカはシンゴが仕事で悩んでいるのかもしれない、と思った。
シンゴは今までろくに小説を書いていなかった。アスカの前では?にも出さないが、ブランクがある分、本当は書くのが辛いのかもしれない。
アスカは放っておくのがいいのか、それとも、そのことについて声をかけた方がいいのかを悩む。
どうしよう……と思っていた矢先、手から皿が滑り落ちた。
アスカが「あ、」と思った時には甲高い音がして、皿が割れた。
慌てて水を止めて、皿の破片を拾い集めようとする。
「大丈夫?」
声がして振り向くと、アスカの背後にはいつの間にかシンゴがやって来ていた。
「大丈夫。ちょっと手が滑って、お皿が割れちゃっただけだから」
アスカはそう言って、破片に手を伸ばした。
「っ……」
急いでいた所為で、アスカは指を切る。あっという間に赤い血が滴った。

「全然大丈夫じゃないじゃないか」
「ごめん……」
「救急箱持ってくるから、止血して、そこ座ってて」
シンゴはダイニングテーブルの椅子を指差すと、寝室へと消えた。
アスカは溜め息をついて、血の流れる人差し指を抑えて、椅子に座った。シンゴが寝室に行く寸前、椅子を引いてくれていたおかげで、簡単に椅子に座ることが出来た。
近くにあったティッシュで指を覆い、シンゴが戻ってくるのを待つ。
随分とケガなんてしていなかったし、消毒液があったかな、とアスカは思いながら、ぼんやりとテレビの方を見た。
テレビ画面の映像はアスカの位置から見えなかったけれど、画面から放たれる光がちらちらとローテーブルに反射しているのが見えた。
しばらくすると、シンゴが救急箱を持って、戻って来た。
「ごめん」
アスカは救急箱をダイニングテーブルに置くシンゴに申し訳なさそうに言う。
「気にしなくていいよ。それより、まだ血、止まりそうにないね」
「結構、深いのかな……」
「いや、指はよく血が出るから。取り敢えず、消毒しよう」
そう言って、シンゴは救急箱から消毒液を取り出した。

手当を終えると、アスカはぼんやりとシンゴのことを目で追っていた。
「どうしたの?」
シンゴは救急箱を片付けて戻って来るなり問う。
「シンゴ、ごめん」
アスカの顔が苦痛に歪む。
シンゴはとうとう来たか、と思った。きっとアスカは浮気を告白し、別れを告げて来るに違いない。一瞬のうちにシンゴは覚悟する。黙ったまま、アスカ次の言葉を待った。
「シンゴ、私……」
アスカは涙目でシンゴを見上げる。シンゴは座るタイミングを失い、立ったまま、アスカを見下ろした。
「……」
本当は「言わなくていい」とアスカに言いたいと思ったが、ここでそんなことを言ってしまったら、アスカが別れを告げるタイミングを先延ばしにするだけだ。シンゴは開きそうになった口をつぐんだ。
「……なに?」
シンゴは代わりに優しく訊いた。
「……私、奥さんとして失格だよね」
「……」
アスカの言葉にシンゴは何も言えなかった。ここで肯定することも否定することも早すぎると感じたのだ。

アスカは黙ったままのシンゴから視線を外し、視線を床に落とした。
「料理もシンゴの方が上手だし、家事を張りきったら、ケガするし……」
「……気にすることないよ」
辛うじて、シンゴは返事をする。きっとアスカは軽い前置きをしているのだろう。シンゴはそう思いながら、アスカの次の言葉を待った。
「私、奥さんとして失格だよね」
「……」
それは浮気のことを指しているのだろうか? だとしたら、間違いなく、イエスだとシンゴは思った。けれど、シンゴは何も言わない。浮気の話を自分から切り出すまで、シンゴは核心に触れるつもりはなかった。
「私ね、仕事を一生懸命して、家事もそつなくこなしてくれるシンゴを見ていて思ったの。私って仕事を言い訳にしてるだけなんだなって。これからはもっともっと頑張るから。だから……」
「……」
「嫌いにならないでね」
「……?」
シンゴはアスカの言葉に違和感を覚える。シンゴが予想していたのは、こんな言葉ではなかった。

シンゴはアスカの口から「嫌いにならないで」なんて言葉が出てくるなんて思ってもみなかった。
これは不倫相手と別れたことを意味しているのだろうか? それとも、継続している上での謝罪なのだろうか?
シンゴは考えてたみたものの、いまいちわからなかった。
「呆れちゃうよね、ホントにごめんね……」
アスカは申し訳なさそうに繰り返した。思わず、シンゴは口を開く。
「それは今までの家事に対するごめんなさい?」
「そうよ。小説を書くようになったシンゴはいつも疲れてるのに、文句も言わず、家事をしてくれるでしょう? しかも、完璧に。なのに、私は家事が下手過ぎて、いつも悪いなって思ってて……」
どうやら、アスカが謝っているのは、浮気のことではないらしい。シンゴは腑に落ちなかったが、作り笑顔を浮かべてアスカを見た。
「気にすることないよ。家事は得意な方がやればいいし、実際、アスカは一生懸命してくれているだろう? 僕はその気持ちだけで十分だよ」
「シンゴ……」
アスカは感動したようにシンゴを見た。
シンゴはアスカの隣に座ると、近くでアスカの目を見つめた。

「僕は仕事に一生懸命なアスカが好きだし、カッコイイと思ってる。だから、今のままでいいよ。勿論、家事を頑張ってくれるのも嬉しいけど、無理をしてまでやってほしいとは思わない」
シンゴはアスカを傷つけないように言葉を選びながら話した。そんなシンゴの言葉を聞いたアスカは、どことなく嬉しそうだった。しかし、目は未だに潤んでいる。
その反面、シンゴは自分の口から出た言葉に驚いていた。さらりと「アスカが好き」と口をついて出たのだ。その事実に戸惑いを隠せない。
シンゴは浮気をしているアスカのことをただ憎いと思っているのではないか、と思っていた。けれど、違ったのだ。
好きだから、ただ浮気をやめてほしい。その思いだけでシンゴはアスカの尾行をし、気持ちを抑えつける為に小説を書いているのだ。アスカに直接自分の思っていることをぶつけてしまえば、アスカとの関係がぎくしゃくし、終わりを迎えてしまう。そのことをシンゴはまだ受け入れたくなかったのだ。
そうした自分の本心に気が付いた時、人は面食らい、呆然とするのだということをシンゴは身をもって知った。

「ごめんね。こんな話して」
アスカは少し困ったような顔をして言った。きっと作り笑いをしているつもりなのだろう。そんな不器用さにシンゴは、ふと本当はこんなに不器用なアスカに浮気なんて器用なことが出来るのだろうか、と不思議に思う。
けれど、すぐにシンゴの頭には別の考えが過ぎる。彼女は別れさせ屋なのだ。男女関係のことに関しては、器用不器用は別なのだろう。シンゴは自分をそう納得させた――はずなのに、どこか腑に落ちない。シンゴは一体、なんの為に尾行をするのだろう……と一瞬考え込みそうになったけれど、シンゴはそれ以上深く考えなかった。考えたって、自分1人の考えだけでは、堂々巡りになってしまうからだ。
「気にすることはないよ。少し疲れてるんじゃない?」
「……確かに、今回の案件も山場だし、プレッシャーもすごく感じてて、最近、夜中でも何度も目を覚ましちゃうのよね」
アスカは視線を床に落とし、少し困ったように笑って言った。

「原因はきっとそれだよ。睡眠不足で疲れが抜けきらないんじゃないかな。今回の案件が終わったら、そうだな……。温泉でも行こうか」
勇気を振り絞って、シンゴは言った。
「……そうね」
少し間があって、アスカは答える。アスカの表情は曇っていて、全く嬉しそうではない。その顔を見て、シンゴは「ああ、そうだよな」と思った。好きでもない旦那に温泉旅行を持ちかけられたら、鬱陶しいとは思っても嬉しいとは思えないだろう。
シンゴは言わなければ良かった、と思った。けれど、もう後の祭りだ。
「指はもう大丈夫?」
シンゴは怒りと悲しさで気が狂いそうだったけれど、平静を装ってアスカに訊いた。
「うん、平気」
「じゃあ、僕は仕事に戻るね。後片付けはそのままにしていていいよ。あとで僕がやっておくから」
「……うん……」
アスカは元気のない様子で頷いた。
シンゴはアスカの方を見ることもなく、立ち上がる。彼女のことを直視出来る程、シンゴは強くなかった。

シンゴは書斎に戻り、大きな溜め息をついた。
椅子に腰をかけ、パソコンを起動させる。
起動音が鳴り、画面が表示されると、パスワードを入力し、いつものようにワードを立ち上げた。
並んでいる文字を見ながら、シンゴは文字を打とうとして、手を止めた。アスカのことが脳裏を過ったからだ。
あの時、あのタイミングで書斎に戻るというのは、不自然だったかもしれないと思ったからだ。せめて、キッチンを片付けてから、書斎に戻れば良かったと思う。
けれど、温泉旅行をあんなに嫌そうな顔をされて、平気でいられるわけがない。
シンゴはこんなにもアスカのことが好きなのだ。好きなのに、その相手には別に好きな人がいる。
恋人同士だとしたら、まだ諦めもつくけれど、結婚しているということが、想いの複雑さをより深いものにしていた。
シンゴはもやもやした気持ちを振り払うかのように、パソコンに向かった。
白い画面が文字で埋まっていく。その光景を不思議だと思いながら、シンゴはひたすら文字を打ち続けた。

余計なことを考えたくなかったからだろうか。気が付けば、シンゴは数十枚の原稿を書き上げていた。
コーヒーでも飲もうと書斎を出ると、すでにアスカの姿はなかった。シンゴは溜め息をつく。それは安堵からくるものなのか、落胆からくるものなのか、よくわからなかった。
シンゴはキッチンに向かう途中、ふいにダイニングテーブルの上に置いてある紙が目に入った。なんとはなしにそれを手に取る。それはアスカからの置手紙だった。
そこには整った字で“仕事に行ってきます。今日は夜、事務所に寄って帰宅しないかもしれないので、心配しないで下さい”と書かれてあった。
事務所に寄る? とシンゴは眉間に皺を寄せた。ターゲットとの密会の間違いではないだろうか。そんなことを考えて、シンゴはふっと自嘲した。
電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。湯を沸かし始める音が聞こえた。
ソファに座り、テレビを点けると、見慣れたワイドショーが芸能人のゴシップを伝えているところだった。

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