小説「サークル○サークル」01-316. 「加速」

「ごめん。もう行くね」
 アスカはケータイのディスプレイに視線を落とすと、そう言って、急いで出て行ってしまった。
 一体、アスカの行きたい場所とはどこなんだろう? とシンゴは思いながら、ゆっくりと閉まっていく玄関のドアを見つめていた。

 アスカは電話にかかってきた声を聞いて、驚いた。
「誰だかわかる?」
 その声にアスカは聞き覚えがあった。
――ヒサシだ。
 アスカはそう思うと、息が止まりそうだった。
「どうして、この番号を?」
 アスカは声をひそめて話した。マンションの廊下は意外に声が響くからだ。
「名刺」声は淡々と言った。
「名刺……?」
 鸚鵡返しに問うて、それがどういう意味なのかに気が付いた。
 レナだ。レナの持っているアスカの名刺をヒサシは見たのだ。
 しかし、それが事実だったとしても、アスカはヒサシが名刺を見た理由を敢えて自分では口にしなかった。場合によっては、カマカケの可能性もあるからだ。
「わからない? いや、君のことだ。ホントのことがわかっていて、黙っているね」
 ヒサシは自分より上手かもしれない、とアスカは思った。
「なんのことだか、さっぱり」
「白を切るつもりなのか……。まぁ、いい。取り敢えず、いつものバーで待ってる」
 そう言って、電話は切れた。

小説「サークル○サークル」01-315. 「加速」

「着替えて、どこに行くの? もしかして、男のところとか?」
 シンゴは少しおどけて言う。真剣な顔をして言って、重い男だと思われたくなかったのだ。
「バカね。どこの男のとこに行くのよ。レナと食事することになったのよ」
「それで、そんなおめかし?」
「そういうこと」
「さっきの格好でもいいと思うけど……」
 そう言うシンゴにアスカはあからさまな溜め息をついた。
「わかってないわね」
「えっ……?」
「男と会う時より、女同士で会う時の方か格好に構わなきゃいけないのよ」
「どうして?」
「どうして……って訊かれると困るけど、そういうものなのよ」
 シンゴにはアスカの言っている意味が理解出来なかったが、取り敢えず、それ以上は何も言わなかった。別の質問をしたところで、自分に理解出来るとは思えなかったからだ。
「シンゴは仕事?」
「ああ、さっきまで書いてた。玄関で物音がしたから気になって、書斎から出て来たんだ」
「そうだったんだ。時間になったら、適当に出掛けるから、私のことは気にしないで大丈夫よ」
「ああ、うん」
「あ、そうだ」
「……何?」
「仕事が落ち着いたら、行きたいところがあるんだけど」
 アスカの言葉にシンゴは驚いて見る。
「どこに?」
 シンゴの問いに答えようとアスカが口を開こうとしたその時、アスカのケータイが鳴った。

小説「サークル○サークル」01-314. 「加速」

「ご、ごめん……!」
 久々に見る妻の下着姿にシンゴはあたふたとし、寝室のドアをパタリと閉めた。
 不意のことだったとは言え、こんなにもドキドキしてしまっている自分にシンゴは驚いていた。
 そう言えば、いつからか、アスカとは男女の関係にすらならなくなった。いわゆるセックスレスというヤツだ。いつからだろう、と考えて、シンゴは結婚して、自分が小説を書かなくなった頃からだと気が付いた。
 ああ、なんだ。全ての原因は自分にあるのではないか、とシンゴは溜め息をついた。

 アスカはワンピースに着替えると、寝室から出て来て、リビングへとやって来た。
「さっきはごめん。まさか、着替えてるとは思わなくて」
「いいわよ。減るもんじゃないし」
 だったら、あんなに怖い顔して怒ることないじゃないか、と喉元まで出てきたのを慌てて飲み込んだ。そんなことを言ったって、さっきの怒りをぶり返すだけだということは、長い付き合いでわかっている。こういう時は何も言わないに越したことはない。

小説「サークル○サークル」01-313. 「加速」

 がちゃりと玄関で音がした気がして、シンゴは書斎から出た。玄関を見ると、明かりが点いていた。アスカが帰って来るにはまだ早い。シンゴは不審に思いながら、恐る恐る玄関の方へと歩いて行った。玄関とリビングを繋ぐドアに手をかけようとした瞬間、ドアが押し開けられた。
「っ……」
 シンゴは息を飲み、ドアの向こうの相手を見た。
「びっくりしたぁ……」
 アスカはシンゴの予想外の出現に目を丸くする。
「なんだ、アスカか……」
「なんだとは何よ」
「いや、泥棒かと思って……」
「泥棒は電気点けたりしないわよ」
「それもそうだね……」
 アスカは胸を撫で下ろしているシンゴをよそに、リビングを通り抜け、寝室へと向かった。しばらく呆然としていたシンゴだが、不思議に思い、アスカの後を追った。
「どうしたの? 何かあった?」
 ノックもなしに寝室に入るなり、シンゴはアスカの後ろ姿に向かって言う。
「ちょっと、入って来ないでよ」
 アスカは振り向きざまにシンゴを睨んだ。アスカはトップスを脱ぎ、下着姿でワンピースに袖を通そうとしていた。

小説「サークル○サークル」01-312. 「加速」

 アスカが煙草に手を伸ばそうとした時、アスカのケータイが鳴った。見慣れない番号に一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに通話ボタンを押す。
「はい」
――あの……アスカさんのケータイでしょうか?
「そうですが」
 聞き覚えのある声がケータイから聞こえてきた。レナだ、とアスカはすぐに気が付いた。
――あの、レナです。名刺を見て、電話しました。今日の夜、お時間いただけませんか?
 今までメールでのやりとりを主にしていたこともあり、アスカはレナの番号を登録していなかったのだ。
「ええ、いいわよ」
――良かった……。
「場所と時間はどこにする?」
――アスカさんのご都合のいいところでお願いします。
「そうね……。それじゃあ……」
 そう言って、アスカはレナのアルバイト先の最寄駅を指定した。
――わかりました。よろしくお願いします。
「それじゃあ、またあとで」
――失礼します。
 そう言って、レナは電話を切った。
 待ち合わせまで、あと二時間。アスカは煙草をふかしながら、自分の格好を見た。事務所で仕事をするには十分だ。けれど、レナと食事に行くには少しダサい。しばし悩んだ後、アスカは一度、着替える為に自宅に戻ることにした。


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