小説「サークル○サークル」01-261. 「加速」

シンゴは今日ユウキに話すべき内容を頭の中で組み立てる。そして、話していいものなのか、誘っていいものなのか、自問する。答えはすでに決まっていた。だから、シンゴはユウキを公園に誘ったのだ。けれど、その答えに自信が持てずにいた。
そんな時間を過ごしている間に、シンゴの見つめる地面に影が落ちた。ふと顔を上げると、そこにはユウキが立っていた。
「すみません。お待たせしました」
ユウキは少し息を切らしながら、シンゴを見た。
「いや、僕こそ、突然誘ってごめん」
シンゴの言葉を聞き終えると、ユウキは隣に腰を下ろした。
「もしかして、昼ご飯、食べるの待っててくれたんですか?」
「ああ、一緒に食べようと思って」
「ありがとうございます!」
ユウキはシンゴに笑顔を向けた。
シンゴはその笑顔を見て、ユウキを待っていて良かったな、と思う。
二人はほぼ同時にコンビニの袋の中からガサガサと、シンゴは菓子パンを、ユウキはおにぎりを取り出した。

小説「サークル○サークル」01-260. 「加速」

勿論、シンゴだって、傍から見れば幸せそうに見えていることに変わりはない。
仕事があり、住むところがあり、結婚もして奥さんとは大きなケンカもない。
けれど、それは表面上のことであって、シンゴの内面は不幸せだという気持ちでいっぱいなのだ。人の心の奥底まではわからないな、と自分のことと照らし合わせながら、シンゴは思う。
結婚して奥さんはいる。けれど、その奥さんが浮気しているかもしれない。それは決して幸せとは言い難い。
シンゴはいつものベンチに腰を下ろすと、芝生に視線を向けた。今日は芝生には誰もいない。
犬も飼い主も、無邪気に遊ぶ子どもの姿もそこにはなかった。
ただただ目の前に広がる芝生を見つめながら、シンゴはユウキが来るのを待った。
ケータイをパンツのポケットから取り出し、時間を確認する。
身支度をして、公園まで来るとなると、あと十五分くらいはかかりそうだな、と思いながら、シンゴはケータイをポケットにしまった。
袋の中には紙パックのコーヒーと菓子パンがある。
お腹は空いていたけれど、ユウキが来るまで待っていようと思った。きっとユウキが逆の立場なら、そうしてくれるだろう、と思ったからだ。それに一緒に食べる方が一人で食べるよりはいくらか美味しく感じられるだろうとも思った。

小説「サークル○サークル」01-241~01-250「加速」まとめ読み

「彼のその一言があったから、私は笑顔でいられるし、毎日を楽しく過ごせるんだと思います」
レナの「毎日を楽しく過ごせる」という言葉にアスカはさすがに口を開いた。
「でも、あなたが楽しく過ごせる裏には、悲しんで悩んでいる人がいるかもしれないのよ。あなたとの浮気が奥さんにバレているとしたら、その奥さんは……」
「わかってます」
「……」
アスカが皆まで言い終えるより早く、レナはぴしゃりと言った。驚いてアスカは口を噤む。ピッツァが窯から取り出される音がふいに聞こえた。周りのどこか楽しげな雰囲気に気が付いて、自分たちがしている話の深刻さがなんだか現実のことではないような気がしてしまう。
「わかってるんです。奥さんにバレているとしたら、これほど、奥さんにとって辛いことはないだろうってことは」
レナは俯いたまま言う。
レナはレナで不安を抱え、悩んでいるのだ。アスカは感情のままに言ってしまったことを悔やむ。レナの気持ちを刺激しすぎてしまうのは、得策ではない。いかに自分が味方であるかを認識させなければならないのだ。レナを追及し、謝罪させる為にアスカは話しているのではない。レナをヒサシから引き離す為にアスカは話しているのだ。

冷静になろう、とアスカは深呼吸をした。それをレナは溜め息だと感じたのか、アスカの顔を見る為に顔を上げた。
「あなたも悩んでいるのね」
レナの視線に気が付いて、アスカは取り繕うように言った。
「はい……」
再び、レナは俯く。
ここから、自分が味方である、ということを上手くレナに認識させていかなければならない。アスカは気持ちを落ち着ける為に水を飲んだ。
「あなたはどうしたいの?」
「えっ……。どうしたい……ですか?」
「そう。これから、彼とどうなりたいと思ってる?」
困ったように視線を泳がせるレナにアスカは質問を重ねた。
レナはしばらく考えた後、ぽつりとつぶやくように「一緒にいたいです」と言った。
それがレナの本心なのだろう。体面を気にしているとしたら、「一緒にいたいけど、別れないといけない」となるはずだ。
「本当に彼のことが好きなのね」
「はい……。どうしようもないくらい」
素直にこんなことが言えるというのは、若い証拠だな、とアスカは思う。レナは自分より少し年下なだけだったが、二十代前半と二十代後半では明らかにモノの捉え方が違う。そして、考え方や発言だけでなく、身の振りも随分と変わったな、とアスカは思った。

私も年を取ったなぁ、とレナと話しながら、アスカはしみじみ思う。
「アスカさんは不倫していた彼と別れる時、辛かったですか?」
「辛かったわよ。だけど、どこかで安心もしたわ。もう周りの視線を気にしなくていいんだって。あなたにもない? 友達にも家族にも言えなくて、奥さんに見つからないようにこそこそ会う……なんて言うのかな。肩身の狭さっていうか」
「わかります……。いつもデートをする時は、この付近じゃ会えなくて。少し遠いバーに行ったり、メジャーなレジャースポットは避けたり。私は良くっても、彼が彼の奥さんとか奥さんの友達に会うかもしれないってことをとても気にしていて……」
「だったら、デートなんてしなきゃいいのにって思わなかった?」
「思いました。もっと堂々としていてよって」
レナは少し唇を尖らせ、拗ねたように言う。アスカはそんなレナを見ながら、バケットに手を伸ばした。オイルソースを絡め、口に放り込む。レナもイライラを紛らわせるように同じようにバケットを口に運んだ。

「不倫って難しいのよね。お互いが結婚していたら、納得もいくかもしれないけど、片方が独身だと独身の方はいつだって待たされているような気になる。だけど、その不満を口にすれば、この関係が終わってしまうかもしれない……。そう思うと、何も言えなくなってしまうのよね」
「そうなんです。だから、私……。彼に不満を言ったことは一度もありません」
「それが賢い立ち回り方だと思うわ。彼を失いたくないのならね」
「でも……どこかでわかってるんです」
「えっ……?」
レナの言葉にアスカはわざと聞き返す。レナが続ける次の言葉をアスカはわかっていた。
「いつかは彼と別れなきゃいけいなってこと」
アスカはレナのその言葉を聞いて、にっこり微笑んだ。
「わかってるんじゃない」
「わかってます。でも……今はまだ別れたくない」
「思う存分、納得の行くまで付き合うといいわ。彼から別れを告げられるのがいいか、自分から別れを告げるのがいいかにも寄るけれど」
アスカはそう言って、優しい眼差しをレナに向けた。

アスカは帰宅すると、ソファにどかっと腰を下ろした。
レナとの食事はひどく疲れた。神経を使い過ぎたのかもしれない。
風呂から上がったばかりのシンゴは、ソファに座るアスカを見て驚いた。
「今日は遅くなるんじゃなかったの?」
「十分遅いわよ」
アスカは壁に掛かった時計を見て言う。確かに時計は二十三時を指していた。
「ああ、バーで働いてた時のことかあるから、この時間でも早く感じるんだね」
シンゴは一人頷く。
「確かにまだ日付越えてないものね」
アスカはソファのへりに突っ伏した。
「どうしたの? やけにお疲れじゃない。何か飲む?」
キッチンからミネラルウォーターを取り出しながら、シンゴは言った。
「私にもお水頂戴」
「うん」
シンゴはミネラルウォーターを二本手に持ち、ソファに座った。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
アスカはシンゴからミネラルウォーターを受け取ると、キャップを開けた。
「仕事、大変だったの?」
「えぇ、不倫相手と食事に行って来たの」

「その食事、上手くいったの?」
シンゴもミネラルウォーターを飲みながら、アスカに問う。
「多分、上手くいってると思う。彼女、自分から不倫のことを話してたし、これからどうしたいかとか何に悩んでるかも聞いたし……」
「順調そうだね。このまま、不倫相手がターゲットと別れるように仕向けられたら、この仕事も無事終わりだね」
「そうなんだけど、そう簡単にいくかなぁ」
アスカは天井を見上げた。天井の一点をぐっと睨みつけたまま、眉間に皺を寄せている。
「どうして? そこまで上手くいっているなら、問題ないんじゃないの?」
「そうなんだけど、ちょっと不安に思ってることがあってねぇ」
アスカはそこまで言うと、シンゴを見た。
「不安なことって?」
シンゴは不思議そうに問う。
「若さゆえの暴走っていのうかなぁ。若いからこそ、出来ることってあるじゃない? そういうのがありそうで不安なのよ」
「たとえば?」
「突然、奥さんのところに行って、全部ぶちまけちゃったりとか、子ども作るようにしむけて作っちゃったりとか」
「そんなことするかなぁ」
「する女なんて腐るほどいるわよ。その男が欲しいって思ったら、手段なんて選ばないってパターン、今までいくつも見てきたもの」
「それは怖いね」
「でしょ。それやられちゃうと、私たちですら、手が付けられないことがあるのよ」
「どうして?」
シンゴはミネラルウォーターを飲む手を止めて訊いた。

「男の方が情にほだされちゃって、奥さん捨てて、子どもの出来た不倫相手と結婚しちゃうのよ」
アスカは溜め息混じりに答える。
「まぁ、わからなくもないかなぁ……」
シンゴの言葉にアスカはシンゴを睨みつけた。
「ほら、やっぱり」
「何怒ってるんだよ」
「男ってそういう生き物なのよね。弱く見える方に流されて行く」
「えっ?」
「そういう女は弱く見えるだけで、計算高くて強い女なのよ。浮気されていることがわかっても、直接旦那に言えない方がよっぽど弱い女よ。その区別もつかないんだから、ホント男ってバカ」
「……何か嫌な思い出でもあるの?」
「別にそういうわけじゃないけど」
アスカは否定したけれど、シンゴは怪しいと思った。けれど、今、これ以上訊けば、火に油を注ぐことになりかねない。シンゴはそれきり黙って、アスカが喋り出すのを待っていた。
「でも、あの子なら、そういうことはしないかなぁ……」
アスカはぽつりと呟いた。
「どうして、そう思うの?」
「いいコなのよね。基本的に。本来なら、不倫なんてしなさそうなタイプなのよ。人のモノを奪おうってタイプのコじゃないの」
「でも、不倫してるんだろう?」
「そうなのよ。だから、何か理由があるんじゃないかなぁって」
アスカは今日のレナとの会話を思い出していた。
何かが引っかかる。けれど、何が引っかかっているのか、アスカにはまだわからなかった。
「それじゃあ、随分と佳境に入って来たってことだね」
「そうなるわね」
「それで疲れてるんだ」
「そうなの」
アスカはそこまで言うと、ミネラルウォーターを一気に飲み干した。あっという間に、半分が減っていた。

「でも、理由って?」
「それがわからないから悩んでる」
「そこまでは聞き出せなかったの?」
「ええ。さすがに一度に全部情報を引き出すのは無理だし、危険だわ。段階を一つずつ踏まないとね」
アスカは溜め息混じりに答える。
「アスカのことは疑ってないの? 自分とターゲットを別れさせに来たんじゃないかって」
「多分、それはないと思う。そう思ってたら、自分のことペラペラ喋らないでしょ。不倫してるって自分から告白するメリットがないもの。あの子はきっと誰かに自分の苦しみをわかってもらいたかったんじゃないかなぁ」
「不倫をしてるのに、苦しみをわかってもらいたいなんて、随分勝手じゃない?」
シンゴはアスカとターゲットとの関係を思い出し、思わず感情的になる。
「そうねぇ。でも、人間なんてそんなものでしょ」
アスカはさらっと言ってのけた。
その一言にシンゴは押し黙る。
確かに勝手なのが人間だ。だけど、不倫をしているアスカにその言葉を言われるのは腹立たしかった。

シンゴは口を閉ざし、アスカから視線をそらす。イライラを落ち着かせようと、小さく深呼吸もした。そんなシンゴに気付かず、アスカは続ける。
「何にせよ、今回はここまででね。彼女とターゲットを別れさせるにはもう少し時間が必要だわ」
「でも、期限を考えたら、そんな悠長なことも言っていられないんじゃないの?」
「そうなのよね……。だけど……」
そう言って、アスカは黙り、何か考えているようだった。
「そう言えばさ」
シンゴは言うか言うまいか悩んだ挙句、口を開いた。
「ターゲットとはその後どうなの?」
シンゴは口にしてからしまった、と思った。
これじゃあ、まるで、アスカとターゲットの関係を知っているみたいではないか。シンゴはアスカが自分の言葉の意味を素直に受け取ってくれるようにと願った。
「その後どうって、最近は接触してないからわからないわね」
アスカは考え込むような素振りを見せながら言った。
どうやら、シンゴの心配は杞憂に終わったようだ。
「そっか。それじゃあ、俺はそろそろ仕事に戻るよ」
「そう。頑張ってね」
アスカはシンゴに笑顔を向けた。

シンゴは書斎に戻ると机に向かった。スリープしていたパソコンを立ち上げ、書き途中の小説を読み返す。見つけた誤字脱字を直しつつ、気になる言い回しも書き直していく。そうして、途中のところまでやってくると、シンゴは新しい文章を紡ぎ始めた。
パソコンの画面に向かいながら、アスカの話していたことが頭を過る。
アスカはレナをイイコだという。けれど、不倫をするのにイイコなんておかしいではないか。明らかに欲しがってはいけないとわかっているものを欲しがっているのだ。
そして、現在、その欲しがってはいけないとわかっているものを手にしている。手にしている――というよりは、奥さんとシェアしていると言った方が近いかもしれない。
どちらにせよ、不倫なんてする女の子がイイコという表現を用いられて、語られることにシンゴは違和感を覚えていた。彼女はイイコなんかではないのだ。
しかし、それと同時にシンゴはよく耳にする都合のいいフレーズを思い出してもいた。

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小説「サークル○サークル」01-231~01-240「加速」まとめ読み

「ねぇ、やっぱり、今日はイタリアンでもいいかしら?」
アスカの言葉にレナはきょとんとする。
「実は普段は混んでいて入れないイタリアンが、この時間帯なら入れるのを思い出したの。ここなら、いつでも来られるし、どう?」
ここでエスニック料理がいいと言われれば終わりだったが、アスカが強引にここを出ようとしたら怪しまれる。賭けに出るしか方法はなかった。
「イタリアンですかー!? 大好きです!!」
レナは目をキラキラさせて、アスカを見た。
「じゃあ、イタリアンに行きましょう」
アスカは逸る心を抑えて、エスニック料理店を出た。
レナに気付かれないように、アスカはほっと胸を撫で下ろす。
「こっちよ」
アスカは来たのとは反対方向に歩き出した。

イタリアン料理店はアスカの言う通り、席に空きがあり、すぐに通してもらえた。
「ここのピッツァは雑誌やテレビで紹介されるくらい有名なの」
「あっ、私も見たことあります! この前、お昼の番組で紹介されてました」
レナが嬉しそうに話すのを見て、アスカはここにして良かったと思った。

適当に注文を済ませ、アスカはレナと他愛ない会話を交わす。アスカがしたいのは、こんな話ではない。けれど、すぐに本題に入ってしまっては、警戒される恐れがあった。すでにアスカはレナに自分が別れさせ屋であると名乗っているのだ。
お酒も進み、二杯目が運ばれてきたところで、アスカは口火を切った。
「レナちゃんは彼氏とかいるの?」
「はい……。一応」
「どんな人?」
アスカの問いに一瞬躊躇いを見せたものの、レナはヒサシのことを思い出したのか、すぐに笑顔に戻った。
「社会人なんですけど、頭が良くて、カッコ良くて、優しくて……素敵な彼です」
「へぇ、いいわね。羨ましいわ」
「アスカさんんは彼氏いるんですか?」
「一応ね」
アスカは言って苦笑する。勿論、演技だったが、結婚生活を続けていると、苦笑したくなることも多々あるのは事実だった。
「どんな彼氏さんなんですか?」
「そうねぇ……。不器用でどんくさくって、だけど、憎めない人よ」
「へぇ……意外です」
レナは大きな目を更に大きくして驚いた。

「どうして?」
アスカはレナの真意が汲み取れず聞き返す。
「アスカさんは完璧な人と付き合ってるのかなって、思っていたから」
「そんなことないわよ。完璧な人には憧れるけど、結局、最終的に選ぶ人はそういう人じゃないのよね」
「どうしてですか?」
「そうねぇ……。完璧であることより、大切なことがあるからかしら。完璧な人は憧れもするし、尊敬もするわ。自分が完璧ではないから。だけど、それだけじゃ、人間はダメなのよ」
アスカの話にレナはうんうんと頷きながら聞き入っている。
お酒も入っている所為か、アスカは上機嫌で話をし、仕事だということを忘れそうになる。
「極端な話、完璧な人がいいなら、ロボットでもいいわけじゃない。だけど、どこか不完全なところがあるから、その部分を自分が補ってあげたい、助けてあげたいって思うのよ。補うところがない人は、自分がその人のそばにいる明確な理由をなくしてしまうでしょう」
「確かに……」
「昔ね、不倫をしていたことがあるの」
アスカは緻密に練ったシナリオを語り始めた。

「アスカさんが不倫……ですか?」
「そう。間が差したって言うか……ううん。ただ彼のことが好きだったのね」
アスカは昔話を懐かしむように静かに語り出す。レナはその語り口に引き込まれていた。
「彼は随分と年上で私から見たらとても大人だったの。優しいし、紳士的だった」
そこでアスカは言葉を区切り、再び続けた。
「それに同世代の男の子と比べたら、お金も持っていたわ」
くすりと笑って、アスカは言う。
「同世代の男の子にはない安心感もあったし、楽しさもあった彼にハマるのにそう時間はかからなかったの」
アスカはレナの表情を伺いながら、話を進めていく。レナのどんな表情も見落とすわけにはいかなかった。
アスカはそこで一呼吸置いて、パスタを口に運んだ。オイルソースが唇につき、キラキラと光る。レナはオイルソースでキラキラと光るアスカの唇に思わずじっと見入ってしまった。
その唇から紡がれる次の言葉を待っていたのだ。
アスカはオイルソースを紙ナプキンでぬぐうと、水を一口飲み、続けた。

「付き合ってる時は楽しかったの。奥さんのことが時々頭を過ったけれど、それでも私の方が彼に愛されている、彼には私の方がふさわしいって思ってたのよ」
「それは彼がそう言ってたから……ですか?」
レナは遠慮がちに問う。
「ええ。彼はいつも言っていたの。君の方が可愛い。君のことを世界で一番愛してるって。でも、それは嘘だったわ」
「えっ……」
レナの表情が一瞬にして変わる。それもそうだろう。レナは今アスカが言ったことをヒサシに言われているのだ。レナとヒサシがバーに来た時に話していた内容をアスカはこの日の為にしっかりと覚えていた。
「どうして、それが嘘だと……」
「彼は奥さんが一番大切だったのよ。私のことが一番好きだなんて、都合よく私わ繋ぎとめておく為の口実だったの」
「そんな……」
「あなたがそんな顔をすることはないわ。私がバカだったのよ。若かったから……何も知らなかったのね」
アスカの言葉にレナの顔が次第に曇っていった。

アスカはここからが勝負だと思った。レナにヒサシとのことを話させるチャンスはもうすぐそこまで来ている。ここで焦ってしまっては元も子もない。アスカは平静を装いながら、レナが話し出すのを待っていた。
「結局、その方とはどうなったんですか……?」
レナは恐る恐るアスカに訊く。
「別れたわ」
「理由を訊いてもいいですか……?」
「えぇ、理由はね、彼の奥さんに子どもが出来たからよ」
「……!」
「そんなに驚くことじゃないわ。不倫にありがちなパターンよ。私のことを世界で一番愛してると言いながらも、しっかり奥さんともすることはしてたのよね。奥さんとは全然してないなんて言葉を信じちゃうくらい、私も純粋だったってことなのかもしれないけど」
アスカは苦笑して見せる。そのキレイな笑い方からレナは視線を外せなかった。いずれ、自分のもこんな風に笑うのかと思うと、胸の奥が締め付けられる。
レナはヒサシに言われた言葉を思い出し、何度も心の中で反芻した。反芻すればするほど、不安か襲い掛かってくる。気が付けば、レナの瞳には涙が浮かんでいた。

「どうしたの? 大丈夫?」
アスカは少し驚いたようにレナを心配する。これも計算のうちだった。
「大丈夫です……。すみません」
レナはバッグからハンカチを取り出し、溢れそうな涙を拭った。
アスカはそんなレナを見ながら、人のモノを取ろうとしている女が、この程度のことで泣くなよ、と内心思ったが、おくびにも出さずにレナを心配する振りをした。
「実は私……」
レナはそこまで言って、口を閉ざす。ヒサシとの不倫を言い出すべきか、どうか迷っているようだった。
アスカはじっと待つ。ここで話を促すのも不自然だったし、アスカの想定している方向とは別の方向に話が展開しても困る。ここは黙って、レナが自発的に話すのを待つのが得策だった。
一体、何分過ぎただろう。
レナは思い詰めた表情で俯き、口をへの字に結んでいる。
沈黙のあまりの長さに煙草を吸いたくなったが、アスカはぐっと堪えた。
今が勝負どころだ。アスカは煙草の誘惑に抗いながら、黙りこくっているレナをただじっと見据えていた。

「実は私……」
レナはもう一度同じ台詞を口にした。アスカはそんなレナを黙ったまま、見据えている。
レナの唇がわずかに震えている。口に出すのも憚られるのだろう。それは彼女が不倫を心の底から肯定していないことを伺わせていた。
「私、不倫しているんです」
レナは俯いたまま、言った。その表情は苦悶に満ちている。アスカはそんなレナを優しい眼差しで見つめた。
「そうなの……。もう長いの?」
アスカの言葉にレナは小さく頷いた。
「2年になります」
もう少し短いと思っていたアスカは面食らったが、レナには動揺を悟られないように僅かな微笑みを浮かべたまま、再び質問を口にした。
「彼はどんな人?」
「優しくて、大人で、紳士的で、頭の良い人です」
「そう……素敵な人なのね」
「はい……。私にはなくてはならない人です」
「でも、彼は結婚している……」
「……」
「……ごめんなさい。そんなことわかってるわよね。だから、辛いんだものね」
アスカはレナの味方であるような口振りで話を進めていった。

「奥さんがいる人を勝手に好きになって、付き合って、それが良くないことだってわかってて……。それで辛いなんて、自分勝手ですよね……」
「そんなことないわ」
アスカはレナがそこまで考えていることに驚きながら、レナを肯定する言葉を口にした。レナに自分がレナの味方である、と思わせることがアスカにとっては大切だった。そうでなければ、心を開いて、全てを話してもらえない。全て話してもらった上で、いかにレナを不倫から脱却させるかがアスカの腕の見せ所なのだ。
「自分勝手ですよ……。奥さんに申し訳なくて……」
「ねぇ、そこまで思うのに、どうして、不倫を続けるの?」
レナが本心からその言葉を口にしているのか、それとも、イイコを演じる為に口にしているのかを見極める為に、アスカは意地悪だな、と思いながらも問う。
「私にとって、彼は大切な人で……。彼がいなかったら、私は生きていけないから……」
レナは一言一言噛み締めるように言う。レナにとって、ヒサシが必要な人であるということは、事実のようだった。

けれど、レナはどうしてそこまでヒサシを必要としているのだろうか。アスカは可能性を模索する。
そこで彼女が思いついたのは、金銭的な援助だった。けれど、金銭的な援助であれば、レナの容姿をもってすれば、ヒサシに固執することもないだろう、という気もする。
アスカは質問を重ねた。
「その気持ち、わかるわ……。でも、どうして、彼がいないと生きていけないと思うの?」
「それは……」
レナは言いづらそうに視線を泳がせる。訊かれたくないことだったのだろう。アスカは質問するのが早かったかもしれない、と思ったものの、口に出してしまった言葉を取り消すことは出来ない。レナが答えてくれるのを黙って待つしかなかった。
「私にもよくわからないんですけど、きっと……私に優しくしてくれるのは彼だけで、私を必要としてくれるのも彼だけだったからだと思います」
「必要とされる?」
「ええ、彼は私がいないと生きていけないと言ってくれたんです」
アスカは思わず頭を抱えたくなった。その衝動を我慢して、優しい眼差しを崩さないようにレナを見た。
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小説「サークル○サークル」01-221~01-230「加速」まとめ読み

アスカは大きな溜め息をつくと、煙草に火をつけた。
煙がたゆたい、煙草の香りが部屋に充満していく。
何度も煙を吐き、煙草が短くなると、アスカは灰皿に押し付けた。
続けて、二本目の煙草に火をつける。同じようにあっという間に煙草は短くなった。
すぐに終わってしまう煙草を見ながら、アスカはふと自分の人生について考える。
別れさせ屋の仕事にはやりがいを感じていたし、楽しいとも思う。この仕事に就けて、本当に良かった、そう言える。けれど、どこかでこの仕事を選ばなかった時のことを考えてしまうのも事実だった。
アスカにはシンゴと結婚する前、恋人がいた。結婚を考えられる相手だった。その恋人は言った。「結婚したら、仕事は辞めて、家庭に入ってほしい」と。
結婚を考えていたはずなのに、その恋人にプロポーズをされ、そう言われた時、アスカは嬉しいという気持ちよりも、どうしよう、という気持ちが大きかった。
彼の出した条件は自分の仕事を否定しているように聞こえたのだ。

確かに恋人はアスカより、数歳上で大手企業に勤めるエリートサラリーマンだったから、彼の収入だけで十分生活していくことは出来たし、彼の仕事の忙しさを考えると、家庭に入り、彼を支えるのが一番良い方法だとも思えた。
けれど、アスカは家庭に入るという、その条件を飲むことが出来なかった。話し合いに話し合いを重ねた結果、見据えている将来が違うという結論から、アスカはその恋人と別れた。
その数年後、アスカはシンゴと出会い、シンゴの猛アタックにとうとう結婚を決めたのだ。自分にはこういうタイプの方がお似合いなのかもしれない、その時はそう思って結婚したが、結婚生活が続くにつれて、うだつのあがらない夫に結婚は間違いだったのかもしれない、と思うことも度々だった。
自分のした選択が良かったのか悪かったのか、アスカには時々わからなくなる。
人生は選択の連続で、その答えが正解かどうかなのかは、死ぬ時にならないとわからない。否、死んでもわからないものなのかもしれない。
けれど、生きていれば、常に自分の判断の正解不正解を気にしてしまう。
少なくとも、アスカはマキコから依頼を受けてから、様々なことを考え、そして、悩んでいた。

アスカは三本目の煙草の火を消すと立ち上がり、コートを着た。レナと約束している時間が迫ってきていたのだ。
事務所を後にすると、アスカは映画館へと向かった。

映画館の前に行くと、すでにレナは映画館に立っていた。
「ごめんなさい。待った?」
アスカの言葉にレナは顔を上げ、首を左右に振った。
「いえ、私もさっき来たところですから」
レナはそう言って、微笑む。
「それなら良かった。中に入りましょうか」
アスカとレナは映画館の中へと足を踏み入れた。

ペアチケットを座席指定のチケットに交換して映画館の中に入ると、ポップコーンを持っている客が幾人か見受けられた。その姿を見て、アスカはレナの働いているカフェでホワイトモカを飲んだだけで、朝から何も食べていないことに気が付いた。
ポップコーンを買えば良かったな、と思いながら、座席に着いた。
ふとレナのことが気になって、ちらりと視線を向けると、少し緊張した面持ちで前を見据えている。アスカもスクリーンに目を遣った。

アスカは映画の話が進むにつれて、憂鬱な気分になった。なぜなら、不倫をしている男女の三角関係のストーリーだったからだ。洋画だったので、なんだか少し遠い世界の物語のような気がしたのがせめてもの救いだった。
アスカはつい浮気をされている妻ではなく、浮気相手に感情移入してしまう。それは自分とその女とを重ね合わせて見てしまっているからだ。
レナを横目で見遣ると、真剣な眼差しをスクリーンに向けているのがわかった。
なんたが当てつけみたいね……とアスカは内心思ったが、映画に夢中になっているレナを見て、まぁ、いいか、という気持ちになった。
映画の中で妻は言う。いかに不倫で低俗で野蛮なのかを。けれど、不倫をしている女は言う。いかに不倫が魅力的でスリリングかを。二人の会話は平行線を辿る。男はそれを遠くから見ているだけだ。
そうだ。男はいつだってずるい。
アスカの気持ちはそこへ辿り着く。一度に二人の女性を愛してしまうのは仕方のないことなのかもしれない。それが男の本能なのだというのならば、女は諦めるしかないのかもしれない。
だからと言って、自分のやっていることを全て正当化しようとするその態度にアスカは次第に腹が立っていた。

本能で浮気をするのだとしても、少しは申し訳なさそうにしてもらいたいのだ。本心でどう思っているかはこの際問わない。少なくとも、自分の目には後悔していたり、反省していたりしているように映るように振る舞ってほしいのだ。
けれど、映画の中の男にはそれがない。
フィクションだとわかっているけれど、アスカは沸々と沸きあがる怒りを抑えることが出来なかった。それはきっと、ヒサシの態度とその男の態度が重なっているからだろう。
よくよく考えると、ヒサシはとんでもない男だ。妻がいながら、レナという愛人を作り、本命の愛人以外にもたくさんの女と簡単に寝てしまう。
なのに、アスカはそんな男に想いを寄せてしまったのだ。愚かだ。自分を心底バカだと思った。
それでも、どこかでまだヒサシを求めてしまっている自分にアスカはうんざりしていた。
レナとヒサシを別れさせるのは、別れさせ屋の仕事としてだったけれど、どこかで自分の為でもあるような気さえしていた。

ヒサシの周りにいる他の女と全て別れさせ、自分だけを見てもらいたい。そんな気持ちがアスカの心の片隅にはあった。
それはしたたかな独占欲だ。そして、別れさせ屋として、他の女と別れさせた後、そのしたたかな独占欲は更に強くなり、マキコとも別れさせたくなるだろう。
愛情と似て非なる独占欲はたちが悪い。アスカは映画を観ながらそう思った。
映画も中盤に差し掛かり、女同士の闘いが熾烈さを増していく。
実際にこういった闘いはあるのだろうけれど、現実には静かな闘いの方が多い。たとえば、別れさせ屋に依頼するとか、探偵に依頼するとかして、自分は直接手を下さないのだ。
直接手を下さないことにより、夫婦関係に表立った亀裂は入らない。気が付けば、夫は自分の元に戻って来て、再び穏やかな生活を何事もなかったように手に入れられる。
でも、それは結局、表向きには、というだけの話だ。波風を立てない解決は、大きく自分から色々なものを奪ったりしないけれど、心の奥底にどす黒い何かを置いて行く。

アスカは自分で映画を選んでおきながら、映画が終わりに近づくにつれて、次第に嫌な気分になっていっていた。最初はレナへの当てつけのように感じていたものの、中盤に差し掛かったあたりから、まるで自分への戒めのような気がしてきたのだ。
久々の映画鑑賞だというのに、映画を楽しむ、という気分にはなれなかった。勿論、アスカは仕事としてレナに接近する為に映画を観ているのだから、楽しむ必要はない。けれど、嫌な気分になる必要性もないのだ。
溜め息が漏れそうになるのを喉元でくっと止めて、アスカは字幕を追った。
映画はクライマックスに近付くにつれて、ハッピーエンドへと向かって行く。
主人公は浮気をされている女なのだから、ハッピーエンドは言うまでもなく、夫が不倫相手と別れて、自分の元へと帰ってくることだ。
けれど、見方を少し変えて、不倫相手の女が主人公だったら、男が妻と別れて自分のところへやって来るのが、ハッピーエンドとなったはずだ。
立場によって、ハッピーエンドは異なる。映画としては、ハッピーエンドという終わり方をしていたけれど、不倫相手の女に感情移入して見ていたアスカは、バッドエンドを迎えたような気分だった。

やがて、映画はエンドロールを迎えた。
エンドロールが終わった後、館内に電気が点く。二、三言葉を交わして、アスカとレナは立ち上がり、映画館を出た。
「誘ってくださって、ありがとうございました」
レナはにこっと微笑むと、頭を下げる。
「いいのよ。ペアの鑑賞券もらっただけだし。こちらこそ、付き合ってくれてありがとう」
「実はずっと仲良くなりたいなって思ってたんです」
レナは少し頬を染め、アスカを窺うように見た。
「私と?」
アスカは半分演技をしながら答える。
「はい。いつもスマートでカッコ良くて、素敵だなぁって思ってて」
レナはものの言い方もしくざの一つ一つも、どれをとっても可愛らしかった。マキコとは真反対のタイプだ。ヒサシがレナに惹かれるのも、少しわかるような気がするな、とアスカは思った。
「この後、時間はある?」
アスカの目的は映画を観た後にあった。食事に誘い、ヒサシとの関係を聞き出すのだ。聞き出した後、数日から数週間でヒサシと別れさせるのがアスカの目標だった。

この後、予定があると言われても、携帯の番号さえ交換してしまえば、こちらのものだ。第一、レナはアスカに好意を持っている。
レナはアスカに再び微笑みを向け、「この後、大丈夫です」と答えた。
アスカはほっと胸を撫で下ろす。後日でいいと言ったって、出来る事なら、数日空くのは避けたかった。タイムロスは少ない方がいいに決まっている。
「良かったら、食事にでも行かない? 夕飯には少し早いけど、この近くの良い店を知っているの」
「いいんですか? 嬉しいです」
レナは本当に嬉しそうに言う。アスカも悪い気はしなかった。
本来ならきっとレナのことを嫌いになっているだろう。事実を知っているのは、アスカだけだったが、レナが恋敵であることに変わりはない。けれど、自分に対して好意を持ち、可愛く振る舞うレナを見て、嫌いになどなれるはずもなかった。そんな自分の気持ちにアスカは驚いてもいた。
アスカは複雑な気持ちのまま、下調べをしておいたエスニック料理の店へレナと向かった。

ゆっくり色々なことを聞き出したかったアスカは、エスニック料理の店へと向かう道中では、敢えて、会話の内容を映画の話題に絞った。
アスカは映画の話をしながらも、頭ではレナに訊き出す内容をまとめ、手順を確認していた。
レナとヒサシをいかに早く別れさせるかは、アスカの腕にかかっている。今まで色々な遠回りをしてしまった分、アスカは焦っていた。
「ここよ」
エスニック料理屋のドアを開けた瞬間、アスカの背中には嫌なものが走った。
アスカの目に飛び込んで来たのは、ヒサシだったのだ。浮気相手と来ているのか、仕事で来ているのかはわからない。
けれど、こんな早い時間に仕事を抜け出してくることが出来るのだろうか。それとも、平日だというのに、休みだというのだろうか。
理由はどうあれ、ヒサシが同じ店にいるというのはまずい。幸いにも店員はまだアスカたちがやって来たことに気が付いていなかった。アスカは機転を利かせて、レナの方を振り向いた。

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