小説「サークル○サークル」01-33. 「作戦」

 シンゴの気持ちなど気付くわけもなく、アスカは食事を終えると事務所に向かった。別れさせ屋の仕事は、バーでヒサシの監視をするだけではない。別の案件の進捗具合も把握し、仕事が順調に進んでいるかをチェックしなければならなかった。
 アルバイトの作った書類に目を通しながら、アスカはキッチンへと向かう。紅茶を淹れて、カップに口をつけながら、彼女は再び椅子の上に踏ん反り返った。
「あともう少しで、この案件は片付きそうね……」
 書類に目を通したことを知らせるサインを書くと、アスカは机の上に足を乗せた。お世辞にも行儀が良いとは言えなかったが、彼女が考えごとをする時はいつもこうだった。
机の上に無造作に置かれた煙草を手に取ると、灰皿の横に置かれたライターで煙草に火をつけた。いつからだろうか。煙草がないと生きてはいけないと感じたのは。昔は煙草なんて吸わなかった。健康のことを気遣っていたし、煙草を吸う他人に嫌悪感すら抱いていた。それなのに、今では1日に何本もの煙草を灰皿に押しつけている。
 些細なきっかけで、人の心は揺さぶられ、知らず知らずのうちに深みにハマっていく。アスカにとって、それが煙草だった。そして、それは恋愛も一緒なのだと、ふと彼女は思って苦笑した。

小説「サークル○サークル」01-32. 「作戦」

「お待たせ」
 シンゴは全ての料理をテーブルに並べると、アスカに笑顔を向けた。アスカの気持ちが遠く離れているのに、シンゴはそうではないようだった。
「いただきます」
 シンゴが席に着くのを待って、アスカは小さな声で言った。頭はまだ若干ぼーっとしていたが、味噌汁にそっと口をつける。温かな液体が身体の奥深くに沁み渡った。こういう時、日本人で良かった、とアスカは大袈裟に思う。
「昨日、随分、遅かったみたいだね」
 シンゴは遠慮がちに言った。
「今、仕事が忙しいの。潜入でバーで働くことにしたから」
「バーで!?」
「どうしたの? 何か問題でもある?」
「えっ、いや……。アスカがバーで働くなんて、予想外だったから……」
「そう? 結構、いい感じよ」
「そうなんだ……。別れさせ屋は大変だね……」
 シンゴはそれきり口をつぐんで、焼き魚に箸を伸ばした。シンゴにとって、バーで自分の妻が働くということは、出来れば避けたいことだと思っていた。何度かシンゴもバーに行ったことはあったが、見ず知らずの人とも気軽に話せるし、店員とも会話を楽しむことが出来る。それが魅力でもあり、シンゴ自身楽しくもあったが、自分の妻がそういった場所で働くというのは、また別の話だった。ささやかなヤキモチだ。
 シンゴは焼き魚を食べながら、アスカの顔をそっと盗み見た。近くにいるのに、少しだけアスカを遠くに感じていた。

小説「サークル○サークル」01-31. 「作戦」

 アスカはそっと目を開け、天井を見つめる。今日も1日が始まった。隣に視線を移せば、すでにシンゴはいなかった。きっと朝食でも作っているのだろう。
 アスカはベッドから抜け出して着替えると、顔を洗って、リビングへと向かった。リビングに行くと、アスカが予想した通り、シンゴが朝食を作っていた。食卓テーブルの前に立つと、味噌汁と焼き魚の匂いがアスカの鼻先をつく。起きたばかりだというのに、彼女の食欲は刺激された。
「おはよう」
 シンゴはアスカの気配に気が付き、後ろを振り向いて言う。
「おはよう」
 アスカはぼーっとしたまま、食卓テーブルの前に立ち尽くす。昨日、置かれていたビーフシチューはすでに片付けられていた。
「もう出来るから、座って待ってて」
「……うん」
 アスカは椅子に座って、シンゴの後ろ姿を見つめる。いつから、この背中にときめかなくなってしまったのだろう。結婚する前はシンゴの後ろ姿にさえ、ときめきを覚えていた。すぐ近くにいることがとても嬉しかった。けれど、今はなんとも思わない。ただそこにシンゴがいる、という事実だけが存在し、それ以上何も思うことが出来なかった。

小説「サークル○サークル」01-21~01-30.「依頼」.まとめ読み

 マスターから店内のどこに何が置いてあるかの説明を受け、アスカはメニュー表を渡された。「うちはお酒の種類が多いから、大変だと思うけど、少しずつ覚えていってくれればいいから」マスターはメニュー表を渡す時に、あたかも人の良さそうなことをにこやかに言った。けれど、アスカはこれが口先だけだということに気が付いていた。面接の時の対応からもわかるように、マスターは表面を繕うタイプだ。この手のタイプは、表向きは良いことをいうものの、内心は真逆のことを考えていることが多い。ずっとこの店に求人募集の紙が貼られていたことからもそれは明らかだった。きっとマスターのちょっとした意地の悪い言葉に辟易して、今までの店員も辞めていってしまったのだろう。
アスカは過去にカフェで働いていたことはあったが、同じ飲食業と言っても、バーで取り扱うドリンクの種類は、カフェに比べてかなり多い。ドリンクメニューを覚えることだけで、アスカは根を上げそうになっていた。
 仕事とは言え、面倒な店に来てしまったな、とアスカはメニュー表とにらめっこしながら、内心溜め息をついた。

 時間が深まるにつれて、客足が増え、店内も次第に騒がしくなっていた。
まだカイソウ ヒサシは来ないのね……。今日は空振りかしら、とアスカが溜め息をつきかけた頃、カイソウ ヒサシは、黒ストライプのスーツから伸びる細い足が印象的な若い女を連れて、店に入って来た。ヒサシは黒縁の眼鏡をかけ、スーツをぱりっと着こなし、どこからどう見ても出来る男然としている。これじゃあ、若い女の子がヒサシに靡いても仕方ないわね、とアスカは思いながら、ヒサシと若い女の前に水と温かいおしぼりを持って行った。
「いらっしゃいませ。おしぼりをどうぞ」
 作り笑いを浮かべ、愛想良くアスカは振る舞う。ヒサシはちらりとアスカを見て、おしぼりを受け取ると、すぐさま、隣にいる若い女に視線を戻した。アスカはコースターを2人の前に置きながら、女の様子を窺う。茶色いセミロングの髪には優しくウェーブがかかっており、時折かき上げる髪から覗く耳には、上品なデザインのピアスがつけられている。外見を見る限り、マキコから聞いていたカフェの店員という雰囲気はなかった。
――まさか、別の女……?
 アスカは眉間に皺を寄せ考え込む。すると、突然マスターに名前を呼ばれた。

 アスカは返事をして、マスターの元へと行く。何か小言を言われるのかと、憂鬱な表情を浮かべそうになるのを隠し、アスカは顔を上げた。
「あそこに座った男性のことなんだけど」
 マスターはそう前置きをして、小声でアスカに説明し始める。
「連れてくる女性はほぼ毎回違うから、男性と仲良くなって喋ることがあっても、相手の女性のことにだけは触れないようにね」
「はい……」
 アスカにとって、ある程度予想のつく話だったが、それでもそれなりの衝撃はあった。マキコは気が付いていないだけで、ヒサシの浮気相手は相当数いるようだ。
「ごめん、戻っていいよ」
 マスターはそう言うと、カクテルを作り始める。アスカは再びヒサシたちの前にオーダーを取るために向かった。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 アスカの言葉に2人は顔を上げる。女の大きな目とアスカは目が合った。潤んだ二重の目には長い睫が規則的に並び、ヒサシを見る目は熱っぽい。明らかに上司と部下という関係ではないであろうことは、容易に想像がついた。
「決まった?」
 ヒサシは女に顔を近付けて問う。そこまで近付く必要性なんてないだろう、とアスカは思いつつ、オーダーを待った。

「私、これがいい」
 女はメニューを指差した。アスカからは何の飲み物を指差したのかまでは確認することが出来なかった。
薄暗い店内でもキレイに手入れされた女のネイルは妙に目立っていた。営業職なのだろう。派手なデザインにはしていないものの、ネイルサロンに行っていることは明らかだった。こういった女としての気遣いは、マキコにあっただろうか。一見、些細なことに見えるけれど、そういった細やかな部分で男は相手に女を感じることをアスカは知っていた。思わず、彼女は自分のネイルに視線を落とす。辛うじて、甘皮の処理はしていたけれど、お世辞にもキレイな指先だとは言えなかった。飲食業に潜り込んでいるので、マニキュアは塗れないにしても、手入れのしようはいくらでもある。ふいに女としての自分の劣化具合を感じて、アスカは恥ずかしくなった。
「すみません」
 俯くアスカにヒサシは声をかける。
「はい。お決まりですか?」
 アスカはヒサシに笑顔を向ける。
「ジントニックとピーチフィズを」
「かしこまりました」
 アスカはヒサシに一礼すると、マスターにオーダーを伝えた。

 次々に入ってくる客に挨拶をしながらも、アスカの神経はヒサシたちに向けられ続けていた。薄暗い店内の中では、ついつい行動が大胆になりがちだ。ヒサシは何の躊躇いもなく、女の太腿と太腿の間に右手を滑り込ませた。女は少し困ったような顔をして、ヒサシを見ている。きっとその少し困った顔がヒサシにはたまらないのだろう。ヒサシの口角がほんの少し上がったことをアスカは見逃さなかった。
――バカな男……。
 アスカはヒサシの行動に半ば呆れながら、ドリンクが出来上がるのを待った。マスターに呼ばれ、オーダーのドリンクとお通しを受け取ると、アスカはヒサシたちの元へと向かう。
「お待たせ致しました。ジントニックとピーチフィズ、お通しのスープになります」
 アスカは笑顔を浮かべて、2人の前にオーダーの品とお通しを並べた。ヒサシはアスカのことなどお構いなしに、女の太腿に手を伸ばしたまま、何やら熱心に話している。女の方は少し冷静で、アスカの声に顔を上げ、軽く会釈した。若干、太腿に置かれたヒサシの手を迷惑そうに感じているようにも見える。
 不倫を始めてまだ日数が経ってないか、今日が不倫初日ってところかしら……。アスカは2人を観察しながら、そう結論付けた。

不倫の初期は警戒を怠らない。けれど、不倫が日常化してくるに従って、その行動は次第に大胆になっていく。ヒサシは数えきれないくらいの不倫をしているだろうから、大胆な行動に出ても何もおかしくない。それに引き換え、女の方はそんなに数をこなしていないのだろう。どこか不安げな表情を浮かべ、時折、辺りを気にしていた。
「ねぇ、奥さんいるんでしょう?」
 アスカは甘ったるく話す女の声を聞き逃さなかった。仕事をしている振りをして、ヒサシたちの近くに留まった。真ん前に行かないのは、会話を中断されると困るからだ。聞こえそうで聞こえない距離、というのが、一番望ましい。
 ヒサシは寂しげな表情を浮かべ、女の瞳を見据える。店内の薄暗さと酒の勢いも手伝って、女は更に潤んだ瞳でヒサシを見上げた。
「あぁ。いるけど、上手くいってないんだ」
 不倫をする男の常套句だ。アスカは思わず吹き出しそうになるのをぐっと堪えた。
「ホントに?」
「あぁ、本当だよ。同じ家に住んでるってだけで、別に触れたいなんて思わない」
 嘘つけ、とアスカは思う。マキコのお腹には子どもがいる。触れたくもないのに、セックスをするなんておかしな話ではないか。ただ単にセックスをしたいだけでマキコを抱いたのだとしたら、救いようがない。残念ながら、どういうつもりだったのかを確認するには、本人に本心を訊く以外の方法がない。アスカは気を取り直して、2人の会話に耳をそばだてた。

「信じていいの?」
 女は大きな瞳を数回しばたたかせて、言った。
「あぁ。つまらない嘘なんてつかないよ」
 ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つ。マキコは浮気相手と別れさせたいと言っていたけれど、こんな男、捨ててしまった方が残りの人生正解なのではないか、とアスカは思う。
「今日は泊まっていくだろう?」
 ヒサシの言葉に女はグラスに視線を落とす。本心から迷っているのか、迷っている振りをしているのか、アスカには定かではないが、少なくとも断るという即決をしないのは確かなようだ。
「でも……」
 女は困ったようにグラスについた水滴をいくつも指ですくった。ヒサシはそんな女の太腿から手をどけることなく、耳元に唇を近付ける。
 それ以上先はホテルでやってよ、と思いながらも、アスカは観察を続けた。2人がどういう結論を出すのか、アスカには知る必要があったのだ。
「迷うことなんてないだろう?」
 ヒサシは女の耳元から唇と、身体を離して言った。しかし、依然として、ヒサシの右手は女の豊満な太腿に置かれたままだ。女はヒサシの顔を見上げる。
「ううん。服が困るわ。明日も仕事だもの。同じ服を着て出勤なんて、はたしないと思わない?」
「スーツだろう? わからないよ」
「男の人にはわからないかもしれないけど、女同士の目って、とても厳しいものなのよ」
 女はヒサシの瞳をしっかりと見据えて言った。

「だから、泊まれない?」
 ヒサシは眉間に軽く皺を寄せて訊いた。
「えぇ、残念だけど」
「そうか……」
 ヒサシはあからさまにがっかりしたような態度を取る。こうして、女の同情を引いているのかもしれない。けれど、女の意思は固いようだった。
「ごめんなさい」
 女はそう言って、千円札を1枚カウンターに置くと、店を後にした。
 ヒサシは出て行く女の後ろ姿をぼんやり眺め、彼女が去ってしまった今も何も言わずにグラスを傾けている。アスカは一部始終を見届けると、別の客のオーダーを取りに行った。

 バーの仕事が一段落して、アスカが岐路に着いたのは、夜中の2時を回った頃だった。シンゴがビーフシチューを作って待っていると言っていたことをアスカはふと思い出す。こんな時間にビーフシチューはさすがに胃に重たい。アスカは憂鬱な気分を抱えたまま、タクシーを拾うと乗り込んだ。
 アスカはタクシーに乗り込み、行き先を告げる。窓の外を見遣ると、ネオンがチカチカと安っぽい明るさを放つのが気になった。タクシーから見える窓の外の景色は、呼吸するスピードよりも早く変わっていく。まるで、人の気持ちのようだな、とアスカは思った。

 自分のシンゴに対する気持ちも、浮気をするヒサシの気持ちも、結局のところ、辿り着いた先が違うだけであって、結婚当初の温かで希望に満ちていた頃の気持ちと異なっているという意味では同じだ。もがき苦しんでいる重さが同じなのだとしたら、ヒサシも苦労しているな、とアスカは同情の気持ちさえ持ってしまう。別れさせ屋という仕事をしているから、浮気をされている人の味方だと思われることが多いけれど、実際、彼女は浮気をする人の気持ちにより近いところにいる。別れさせ屋は仕事であって、それ以上でもそれ以下でもない。アスカはそんな自分の立ち位置に時々苦笑してしまう。けれど、彼女のその冷淡とさえ思える割り切りこそが、この仕事に必要なことだった。いちいち、依頼者に同情していては、精神がもたない。

 アスカは家に着くと、静かに鍵を開け、中に入った。部屋の電気は全て消えている。真っ暗な中にも人の気配があった。アスカは人と暮らしているのだということをこういう瞬間に感じる。

リビングの電気を点けると、並べられた食事はすでに冷め切っていた。アスカはリビングに掛けられた時計を見上げる。時刻はすでに2時半を回っていた。明日の朝はゆっくり起きるにしても、やはり食事に手をつけるのは躊躇われた。胃に重たいからだけでなく、今食べてしまったら、きっと無駄な肉へと直結してしまう。最近たるんできた腹であったり、二の腕が気になるのだ。贅肉がつくのは一瞬だが、それを落とすには莫大な時間と努力が必要となる。シンゴには悪いけれど、食べるのをアスカは断念した。
「明日、謝ればいいよね……」
 ぽつりと呟いて、彼女はそのままバスルームへと直行する。熱い風呂に浸かり、疲れを癒したら、今日はそのまま何もせずに眠るつもりでいた。

 目覚まし時計は鳴らない。たっぷり眠りたい時、アスカは決して目覚まし時計を鳴らさないのだ。幸い、シンゴも自由業の為、目覚まし時計を必要としない。同じ寝室で眠っていて、相手の目覚まし時計の音に起こされずに眠れることが、アスカがシンゴと眠る上で唯一の利点と言っても過言ではなかった。正直なことを言ってしまえば、別の寝室で眠りたいというのが、彼女の本音だったが、それを実行に移すほど、彼女は不人情ではない。しかし、同じベッドで一緒に眠る意味をアスカは見出すことが出来なくなっていた。

続き>>01-31~01-40.「作戦」 まとめ読み

小説「サークル○サークル」01-11~01-20.「依頼」.まとめ読み

 最後まで書かずに何が面白くないんだか、アスカにはさっぱりわからなかった。作品が面白いかどうかは自分が判断することではなくて、編集や読者が判断することなんだから、さっさとプロットを書き上げればいいのに、とも思ったが、アスカはそれも口には出さなかった。言ったところで、何かが変わるわけではないのだ。
「でも、今度は大丈夫! きっと書けると思うよ」
「それは良かったわね」
 今の一言はさすがに嫌味ぽかったかな、と思ったが、シンゴはそんなことにすら気が付いていなかったようだった。「書けると思う」では困るのだ。生活のことを考えれば、「書かなければならない」ということをシンゴはわかっていない。アスカの収入があるから、どこかで安心感が芽生えてしまっているのだろう。アスカだって、何もシンゴに生活費の全てを期待しているわけではない。ただ料理は出来ない日が多くても洗濯や掃除などはアスカだってしているわけだから、せめて家賃の半分くらいは入れてほしいと思っていた。けれど、そんなことをシンゴに言って何になるというのだろう。危機感もなければ、大作が書ける気配もない夫を選んでしまったのは、自分自身なのだと、諦めることくらいしか、今の彼女には出来なかった。

 ぼーっとしているシンゴをちらりと横目で見遣り、アスカはそれ以上、もう何も言わなかった。シンゴと話すだけで、イライラが蓄積されていく。ストレスの元凶は仕事なんかではなく、夫のシンゴだと随分前から彼女は思っていた。
 勿論、彼女はシンゴを愛していたし、今でも愛していることには違いない。けれど、時々、なぜこんな男と結婚してしまったのだろうと、頭を抱えたくなることも多かった。若い頃はシンゴのことを「夢を持っていて、素敵な人」だと思っていた。しかし、時が経つにつれ、作家としていまいちパッとしないシンゴを見ていて、いつまでも現実を見ることが出来ないバカな大人だと思うようになっていった。その心の変化はうだつの上がらない夫を見ていれば、嫌でも起こってしまう。作家で食べていけないのなら、さっさと別の仕事を見つければいい、それが一家の大黒柱の役目だろう、と心の中では思っていたが、作家という仕事に執着しているシンゴに対し、そんなことを言っても無駄だということもすでに今までの経験から、アスカは理解していた。
 アスカはシンゴの用意した料理を残さず全て食べ終わると、「ごちそう様」とだけ言って、自室へと行ってしまった。シンゴはその背中を少し寂しそうに見据える。けれど、彼はアスカに声をかけなかった。否、かけることが出来なかったのだ。自分が彼女を怒らせていることに、少なからず、シンゴは自覚があったのだから。

 別れさせ屋は頭を使う仕事である。アスカはこの間、依頼のあった案件をどうやって解決に導くかということを、いつものように煙草をふかしながら考えていた。
「まずは身辺調査よね……」
 ぽつりとつぶやいて、彼女は眉間に皺を寄せた。ヒサシの行きつけのバー「crash」で接触を図るところまでは、決めていた。バーの下見はすでに済んでいたけれど、突然、毎日バーに通い詰めるのも怪しい。今回はアスカの事務所から近い場所での調査になるので、そのうちアスカの身元がバレてしまうだろう。
そうなってくると、問題はどのように接触するか、だった。隣に座って誘うには、アスカの顔の造りは残念だったし、色気で落とそうにも出るとこも出ていない貧相な身体では、セクシーさの欠片もない。そうなれば、そこにいてもおかしくない必然性が必要となる。
「面倒だけど、しょうがないか」
 アスカは煙草を灰皿に押しつけると、引き出しから履歴書を引っ張り出した。
彼女は適当な名前を記入し、学歴もそれっぽいものを書いた。年齢は少し若く記入する。ちょっとだけ見栄を張ってしまうのは、アラサー女の悲しい性だ。誰も咎めようがない。写真は以前の案件で履歴書を作成する必要があった時に撮ったものがあったので、それを丁寧に切り、貼りつけることにした。

「よし、これで完成っと」
 アスカは独り言を言いながら、履歴書を眺める。
「あとはこれをcrashに持っていけば、終わりね」
 彼女は下見に行った時に、crashで短期のアルバイトを募集していたのをしっかりと見ていたのだ。
「取り敢えず、洋服を着替えてこなきゃ」
 アスカは溜め息混じりにそう言うと、自転車で自分の家へと向かった。

「あれ? 早かったね」
 シンゴは洋服を着替えに戻ったアスカを見て、驚いたように言う。髪はボサボサで眠そうな目をしていた。きっと昼寝でもしていたに違いない。アスカはそんな夫の姿を見て、苛立ちを隠しきれなかった。内心舌打ちをし、彼女は夫の前を通り過ぎながら口を開いた。
「帰ってきたわけじゃないわ。着替えて、また出かけるの」
「そう。今日の夕飯は、ビーフシチューにするから、早く帰って来てね。アスカ、好きだろう?」
「今日は遅くなるかもしれないから、先に食べてて。私は帰ってきたら、温めて食べるから」
「そっか……」
 困ったような顔をして、シンゴは俯く。けれど、アスカはそんなシンゴの表情などまるで見ていなかった。彼女は仕事のことで頭がいっぱいで、それどころではなかったのだ。

 アスカはクローゼットの中から、背中の開いた少し露出度の高い白のニットを取り出す。彼女の唯一の魅力と言っても過言ではないのが、うなじの綺麗さだった。女として、誇れるものがこの部分だけしかないということに、若干うんざりしながらも、アスカはその武器を使うことにした。鏡の前で髪を簡単にアップにする。少し後れ毛が気になったが、きっちりしすぎない方が、かえって相手の油断を誘えていいことを彼女は知っていた。
ボトムにはスカートではなく、ラインストーンのついたジーパンをチョイスする。ミニスカートというコーディネートも一瞬頭を過ったけれど、それはやめた。あまり甘い感じのファッションにしてしまうと、男に媚びているような気がして、嫌だったのだ。男に媚びることは、彼女自身のポリシーに反する。
 アスカは手早く着替えると、ブランド品のトートバッグに普段使っているバッグの中身を丸ごと入れ替え、履歴書も一緒に入れた。
「じゃあ、行ってくるわ」
 アスカは脱いだ服を脱衣所に持っていく途中でシンゴに言う。
「うん。いってらっしゃい。帰り遅くなるなら、気を付けてね」
「私はいつでも気を付けてるわよ。それじゃあね」
 アスカはシンゴの方を振り向きもせずに、出て行った。そんなアスカの後ろ姿をシンゴはただぼんやりと眺めていた。玄関のドアは空しく閉まり、残響だけが彼の耳に残った。

 シンゴは時折考える。どうして、こんな風になってしまったのか、と。けれど、答えは一向に出る気配がなかった。誰が悪いわけでも、何が悪いわけでもない、と彼は思いたい。しかし、自分に非があることは明らかだった。薄々感じてはいるのだ。自分の不甲斐なさに、アスカが次第にイライラを募らせているということも、それを解消する為には自分が作家として、しっかりやっていかなければいけないということも。でも、シンゴにはどうしたらいいのかがわからなかった。自分の中に書きたいものはぼんやりとある。しかし、それを形にするにはまだ早い。この気持ちは作家にしかわからないし、第三者にいくら説明したからと言って、理解してもらえるものでもなかった。シンゴはそれをわかっているだけに、アスカに表面的なことしか伝えられず、結果として、軽い言葉の羅列になってしまうのだ。
――もう少し、時間をかければ……。
 シンゴはそう思いながら、アスカを見送った後、机に向かった。パソコンの画面は明るく、開かれたワードには未だ一行しか書かれていない。『僕の奥さんは別れさせ屋で働いている。』彼は自分の実体験を元に小説を書こうとしていた。

 駅に向かう道すがら、アスカはぼんやりとシンゴのことを考える。シンゴのことは愛している、と確かに思う。けれど、顔を見たり、話したりするだけでうんざりしてしまう自分がいるのもまた事実だった。確実に自分たちの愛情は行き違い始めている。どうにかしたい。以前のように、シンゴをもっと大切に思いたい。そう思ってはみるものの、彼女は何度愛そうと思っても、感情の波に抗えずにいた。シンゴと別れて、別の男とやり直す、ということも考えてはみたけれど、いかんせん、この仕事で出会いなどあるはずもない。今更1人になることは気がひけた。今ここで別れてしまっては、今まで支えた分を損してしまう、という思いが彼女にないことがせめてもの救いだろう。
 アスカは改札を抜け、電車に乗り込むとドアの前に立ち、溜め息をついた。電車が動きだし、景色が少しずつ変わっていく。景色が変わっていくのに、気持ちは同じ場所に停留し続けている。そのもどかしさが今のアスカには耐え難かった。

 アスカの腕時計は午後5時半を指していた。腕時計から顔を上げると、黙々と目的地まで歩いて行く。風は家を出た時よりも冷たくなっていた。
駅から続く商店街で擦れ違うのは、スーパーの袋を下げた主婦や学校帰りの中高生ばかりだ。アスカも見方によってはスーパーに向かう主婦に見えただろうが、背中の開いたニットが少し場違いな印象を与えていた。
駅から徒歩8分のところに「crash」はあった。パッと見、ラブホテルかと見間違いそうになる外観にアスカは思わず吹き出しそうになる。何度見ても見慣れない外観は、白と黒のコントラストが明らかに商店街の中で浮いていた。
 ドアをゆっくりと開けると、カランカランとドアベルが控えめに鳴る。アスカはゆったりとした足取りで店内に足を踏み入れた。薄暗い店内には静かなBGMがかかっており、客は時間が時間だけに、誰1人としていない。
「いらっしゃい」
 そう言って、出迎えてくれたのは、「crash」のマスターだった。年の頃なら、40代後半といったところで、昔はそれなりに遊んでいたんだろうと思わせる雰囲気を漂わせている。アスカは調査の為に数回通っていたので、マスターの顔はよく覚えていた。けれど、マスターが自分を覚えているかどうか、アスカにはわからなかった。顔を覚えてもらっていなければ、事前に連絡も入れず、履歴書を持って来たのは、印象が悪いだけだろう。しかし、電話で約束を取り付けなければ、取り敢えず面接だけはしてもらえる可能性がある。アスカにとって、突然履歴書を持って来たのは、一種の賭けだった。

「あの……」
 席にもつかず、カウンターの前で佇んでいるアスカにマスターは怪訝な顔をする。
「何か……?」
「求人の貼り紙を見て、面接を受けさせていただきたくて、来たんですけど……」
 そう言って、アスカはおずおずとトートバッグの中から、履歴書を取り出した。
「あぁ、フロアレディ募集の貼り紙のことですね……」
 マスターは表情を一変させる。眉間に寄せられた皺は消え、その代わり、目元に笑い皺が見えた。作り笑いなのはすぐにわかったが、それでも多少は歓迎されていることに、アスカはほっと胸を撫で下ろす。
「幸い、店内に客もいないし、そちらのソファ席へどうぞ」
 マスターは笑顔を絶やさぬそのままでカウンターから出て来ると、アスカをソファ席へと案内した。
「失礼します」
 向かいの席にマスターが腰をかけたのを見計らって、アスカは遠慮がちにソファに腰をかける。
「えーっと……ハタノ モモエさん……。年齢は27歳……。ほぅ、前職は書店員ですか」
「はい。本が好きなので……」
 アスカは本当のことを言う。子どもの時から本が好きだった。出来ることなら、作家になりたいと思っていた時期もある。大きな嘘を並べ、小さな嘘は極力つかない、ということをアスカはモットーにしていた。そうすれば、意外にも大きな嘘はバレずに済むのだ。

「でも、どうして、またうちの店に? 全く違う職種でしょう?」
 マスターは履歴書から顔を上げて、アスカに問う。アスカはマスターの視線を受けて、にっこりと微笑んだ。
「実は数回ここに飲み来たことがあるんですけど、その時、とてもこのお店を気に入って……。こういうお店で働きたいなって思ったんです」
 アスカは普段とは違いおしとやかに振る舞った。今のアスカからは、机の上に足を上げて、煙草をふかしている姿など到底想像することなど出来ない。
「あぁ……。思い出しました。よくカウンターの左端で飲んでいた……」
「覚えててくれてたんですか?」
 アスカは大袈裟に喜んで見せる。マスターは鼻の下を少しだけ伸ばした。
「こういう仕事をしていると、ある程度は人の顔を覚えてるものですよ」
 マスターは誇らしげに言う。アスカは内心「私のことすぐにわかんなかったくせに、嘘つけ」と思ったが、微笑みを崩さないようにマスターを見つめていた。
 アスカの造形は美しくない。けれど、どうすれば、愛想良く、愛嬌のあるように見えるか、ということは熟知していた。勿論、自分がそういったしぐさをしたところで、大した威力がないこともわかっている。けれど、しないよりはした方がマシだということも彼女は知っていた。
「いつから入れるの?」
 マスターは履歴書に視線を落としたまま言った。アスカは待ってましたとばかりに口元を上げる。
「今日から入れます」
 こうして、アスカは今日の夜から、crashのフロアレディとして働くことになった。

続き>>01-21~01-30.「依頼」.まとめ読み


dummy dummy dummy