小説「サークル○サークル」01-30. 「作戦」

リビングの電気を点けると、並べられた食事はすでに冷め切っていた。アスカはリビングに掛けられた時計を見上げる。時刻はすでに2時半を回っていた。明日の朝はゆっくり起きるにしても、やはり食事に手をつけるのは躊躇われた。胃に重たいからだけでなく、今食べてしまったら、きっと無駄な肉へと直結してしまう。最近たるんできた腹であったり、二の腕が気になるのだ。贅肉がつくのは一瞬だが、それを落とすには莫大な時間と努力が必要となる。シンゴには悪いけれど、食べるのをアスカは断念した。
「明日、謝ればいいよね……」
 ぽつりと呟いて、彼女はそのままバスルームへと直行する。熱い風呂に浸かり、疲れを癒したら、今日はそのまま何もせずに眠るつもりでいた。

 目覚まし時計は鳴らない。たっぷり眠りたい時、アスカは決して目覚まし時計を鳴らさないのだ。幸い、シンゴも自由業の為、目覚まし時計を必要としない。同じ寝室で眠っていて、相手の目覚まし時計の音に起こされずに眠れることが、アスカがシンゴと眠る上で唯一の利点と言っても過言ではなかった。正直なことを言ってしまえば、別の寝室で眠りたいというのが、彼女の本音だったが、それを実行に移すほど、彼女は不人情ではない。しかし、同じベッドで一緒に眠る意味をアスカは見出すことが出来なくなっていた。

小説「サークル○サークル」01-29. 「作戦」

 自分のシンゴに対する気持ちも、浮気をするヒサシの気持ちも、結局のところ、辿り着いた先が違うだけであって、結婚当初の温かで希望に満ちていた頃の気持ちと異なっているという意味では同じだ。もがき苦しんでいる重さが同じなのだとしたら、ヒサシも苦労しているな、とアスカは同情の気持ちさえ持ってしまう。別れさせ屋という仕事をしているから、浮気をされている人の味方だと思われることが多いけれど、実際、彼女は浮気をする人の気持ちにより近いところにいる。別れさせ屋は仕事であって、それ以上でもそれ以下でもない。アスカはそんな自分の立ち位置に時々苦笑してしまう。けれど、彼女のその冷淡とさえ思える割り切りこそが、この仕事に必要なことだった。いちいち、依頼者に同情していては、精神がもたない。

 アスカは家に着くと、静かに鍵を開け、中に入った。部屋の電気は全て消えている。真っ暗な中にも人の気配があった。アスカは人と暮らしているのだということをこういう瞬間に感じる。

小説「サークル○サークル」01-28. 「作戦」

「だから、泊まれない?」
 ヒサシは眉間に軽く皺を寄せて訊いた。
「えぇ、残念だけど」
「そうか……」
 ヒサシはあからさまにがっかりしたような態度を取る。こうして、女の同情を引いているのかもしれない。けれど、女の意思は固いようだった。
「ごめんなさい」
 女はそう言って、千円札を1枚カウンターに置くと、店を後にした。
 ヒサシは出て行く女の後ろ姿をぼんやり眺め、彼女が去ってしまった今も何も言わずにグラスを傾けている。アスカは一部始終を見届けると、別の客のオーダーを取りに行った。

 バーの仕事が一段落して、アスカが岐路に着いたのは、夜中の2時を回った頃だった。シンゴがビーフシチューを作って待っていると言っていたことをアスカはふと思い出す。こんな時間にビーフシチューはさすがに胃に重たい。アスカは憂鬱な気分を抱えたまま、タクシーを拾うと乗り込んだ。
 アスカはタクシーに乗り込み、行き先を告げる。窓の外を見遣ると、ネオンがチカチカと安っぽい明るさを放つのが気になった。タクシーから見える窓の外の景色は、呼吸するスピードよりも早く変わっていく。まるで、人の気持ちのようだな、とアスカは思った。

小説「サークル○サークル」01-27. 「作戦」

「信じていいの?」
 女は大きな瞳を数回しばたたかせて、言った。
「あぁ。つまらない嘘なんてつかないよ」
 ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つ。マキコは浮気相手と別れさせたいと言っていたけれど、こんな男、捨ててしまった方が残りの人生正解なのではないか、とアスカは思う。
「今日は泊まっていくだろう?」
 ヒサシの言葉に女はグラスに視線を落とす。本心から迷っているのか、迷っている振りをしているのか、アスカには定かではないが、少なくとも断るという即決をしないのは確かなようだ。
「でも……」
 女は困ったようにグラスについた水滴をいくつも指ですくった。ヒサシはそんな女の太腿から手をどけることなく、耳元に唇を近付ける。
 それ以上先はホテルでやってよ、と思いながらも、アスカは観察を続けた。2人がどういう結論を出すのか、アスカには知る必要があったのだ。
「迷うことなんてないだろう?」
 ヒサシは女の耳元から唇と、身体を離して言った。しかし、依然として、ヒサシの右手は女の豊満な太腿に置かれたままだ。女はヒサシの顔を見上げる。
「ううん。服が困るわ。明日も仕事だもの。同じ服を着て出勤なんて、はたしないと思わない?」
「スーツだろう? わからないよ」
「男の人にはわからないかもしれないけど、女同士の目って、とても厳しいものなのよ」
 女はヒサシの瞳をしっかりと見据えて言った。

小説「サークル○サークル」01-26. 「作戦」

不倫の初期は警戒を怠らない。けれど、不倫が日常化してくるに従って、その行動は次第に大胆になっていく。ヒサシは数えきれないくらいの不倫をしているだろうから、大胆な行動に出ても何もおかしくない。それに引き換え、女の方はそんなに数をこなしていないのだろう。どこか不安げな表情を浮かべ、時折、辺りを気にしていた。
「ねぇ、奥さんいるんでしょう?」
アスカは甘ったるく話す女の声を聞き逃さなかった。仕事をしている振りをして、ヒサシたちの近くに留まった。真ん前に行かないのは、会話を中断されると困るからだ。聞こえそうで聞こえない距離、というのが、一番望ましい。
ヒサシは寂しげな表情を浮かべ、女の瞳を見据える。店内の薄暗さと酒の勢いも手伝って、女は更に潤んだ瞳でヒサシを見上げた。
「あぁ。いるけど、上手くいってないんだ」
不倫をする男の常套句だ。アスカは思わず吹き出しそうになるのをぐっと堪えた。
「ホントに?」
「あぁ、本当だよ。同じ家に住んでるってだけで、別に触れたいなんて思わない」
嘘つけ、とアスカは思う。マキコのお腹には子どもがいる。触れたくもないのに、セックスをするなんておかしな話ではないか。ただ単にセックスをしたいだけでマキコを抱いたのだとしたら、救いようがない。残念ながら、どういうつもりだったのかを確認するには、本人に本心を訊く以外の方法がない。アスカは気を取り直して、2人の会話に耳をそばだてた。


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