アスカはクローゼットの中から、背中の開いた少し露出度の高い白のニットを取り出す。彼女の唯一の魅力と言っても過言ではないのが、うなじの綺麗さだった。女として、誇れるものがこの部分だけしかないということに、若干うんざりしながらも、アスカはその武器を使うことにした。鏡の前で髪を簡単にアップにする。少し後れ毛が気になったが、きっちりしすぎない方が、かえって相手の油断を誘えていいことを彼女は知っていた。
ボトムにはスカートではなく、ラインストーンのついたジーパンをチョイスする。ミニスカートというコーディネートも一瞬頭を過ったけれど、それはやめた。あまり甘い感じのファッションにしてしまうと、男に媚びているような気がして、嫌だったのだ。男に媚びることは、彼女自身のポリシーに反する。
アスカは手早く着替えると、ブランド品のトートバッグに普段使っているバッグの中身を丸ごと入れ替え、履歴書も一緒に入れた。
「じゃあ、行ってくるわ」
アスカは脱いだ服を脱衣所に持っていく途中でシンゴに言う。
「うん。いってらっしゃい。帰り遅くなるなら、気を付けてね」
「私はいつでも気を付けてるわよ。それじゃあね」
アスカはシンゴの方を振り向きもせずに、出て行った。そんなアスカの後ろ姿をシンゴはただぼんやりと眺めていた。玄関のドアは空しく閉まり、残響だけが彼の耳に残った。
「よし、これで完成っと」
アスカは独り言を言いながら、履歴書を眺める。
「あとはこれをcrashに持っていけば、終わりね」
彼女は下見に行った時に、crashで短期のアルバイトを募集していたのをしっかりと見ていたのだ。
「取り敢えず、洋服を着替えてこなきゃ」
アスカは溜め息混じりにそう言うと、自転車で自分の家へと向かった。
「あれ? 早かったね」
シンゴは洋服を着替えに戻ったアスカを見て、驚いたように言う。髪はボサボサで眠そうな目をしていた。きっと昼寝でもしていたに違いない。アスカはそんな夫の姿を見て、苛立ちを隠しきれなかった。内心舌打ちをし、彼女は夫の前を通り過ぎながら口を開いた。
「帰ってきたわけじゃないわ。着替えて、また出かけるの」
「そう。今日の夕飯は、ビーフシチューにするから、早く帰って来てね。アスカ、好きだろう?」
「今日は遅くなるかもしれないから、先に食べてて。私は帰ってきたら、温めて食べるから」
「そっか……」
困ったような顔をして、シンゴは俯く。けれど、アスカはそんなシンゴの表情などまるで見ていなかった。彼女は仕事のことで頭がいっぱいで、それどころではなかったのだ。
別れさせ屋は頭を使う仕事である。アスカはこの間、依頼のあった案件をどうやって解決に導くかということを、いつものように煙草をふかしながら考えていた。
「まずは身辺調査よね……」
ぽつりとつぶやいて、彼女は眉間に皺を寄せた。ヒサシの行きつけのバー「crash」で接触を図るところまでは、決めていた。バーの下見はすでに済んでいたけれど、突然、毎日バーに通い詰めるのも怪しい。今回はアスカの事務所から近い場所での調査になるので、そのうちアスカの身元がバレてしまうだろう。
そうなってくると、問題はどのように接触するか、だった。隣に座って誘うには、アスカの顔の造りは残念だったし、色気で落とそうにも出るとこも出ていない貧相な身体では、セクシーさの欠片もない。そうなれば、そこにいてもおかしくない必然性が必要となる。
「面倒だけど、しょうがないか」
アスカは煙草を灰皿に押しつけると、引き出しから履歴書を引っ張り出した。
彼女は適当な名前を記入し、学歴もそれっぽいものを書いた。年齢は少し若く記入する。ちょっとだけ見栄を張ってしまうのは、アラサー女の悲しい性だ。誰も咎めようがない。写真は以前の案件で履歴書を作成する必要があった時に撮ったものがあったので、それを丁寧に切り、貼りつけることにした。
ぼーっとしているシンゴをちらりと横目で見遣り、アスカはそれ以上、もう何も言わなかった。シンゴと話すだけで、イライラが蓄積されていく。ストレスの元凶は仕事なんかではなく、夫のシンゴだと随分前から彼女は思っていた。
勿論、彼女はシンゴを愛していたし、今でも愛していることには違いない。けれど、時々、なぜこんな男と結婚してしまったのだろうと、頭を抱えたくなることも多かった。若い頃はシンゴのことを「夢を持っていて、素敵な人」だと思っていた。しかし、時が経つにつれ、作家としていまいちパッとしないシンゴを見ていて、いつまでも現実を見ることが出来ないバカな大人だと思うようになっていった。その心の変化はうだつの上がらない夫を見ていれば、嫌でも起こってしまう。作家で食べていけないのなら、さっさと別の仕事を見つければいい、それが一家の大黒柱の役目だろう、と心の中では思っていたが、作家という仕事に執着しているシンゴに対し、そんなことを言っても無駄だということもすでに今までの経験から、アスカは理解していた。
アスカはシンゴの用意した料理を残さず全て食べ終わると、「ごちそう様」とだけ言って、自室へと行ってしまった。シンゴはその背中を少し寂しそうに見据える。けれど、彼はアスカに声をかけなかった。否、かけることが出来なかったのだ。自分が彼女を怒らせていることに、少なからず、シンゴは自覚があったのだから。
最後まで書かずに何が面白くないんだか、アスカにはさっぱりわからなかった。作品が面白いかどうかは自分が判断することではなくて、編集や読者が判断することなんだから、さっさとプロットを書き上げればいいのに、とも思ったが、アスカはそれも口には出さなかった。言ったところで、何かが変わるわけではないのだ。
「でも、今度は大丈夫! きっと書けると思うよ」
「それは良かったわね」
今の一言はさすがに嫌味ぽかったかな、と思ったが、シンゴはそんなことにすら気が付いていなかったようだった。「書けると思う」では困るのだ。生活のことを考えれば、「書かなければならない」ということをシンゴはわかっていない。アスカの収入があるから、どこかで安心感が芽生えてしまっているのだろう。アスカだって、何もシンゴに生活費の全てを期待しているわけではない。ただ料理は出来ない日が多くても洗濯や掃除などはアスカだってしているわけだから、せめて家賃の半分くらいは入れてほしいと思っていた。けれど、そんなことをシンゴに言って何になるというのだろう。危機感もなければ、大作が書ける気配もない夫を選んでしまったのは、自分自身なのだと、諦めることくらいしか、今の彼女には出来なかった。