小説「サークル○サークル」01-206. 「加速」

「君はどうするつもり?」
シンゴの言葉にユウキは押し黙る。シンゴはユウキが口を開くのをじっと待っていた。
いくら時間が経っただろうか。漸く、ユウキが口を開いた頃、シンゴの持つホットカフェオレはすでに空になっていた。
「どうしたらいいのかわかりません。だけど、彼女を守りたいって思うんです」
「じゃあ、君はどうしたら守ることになると思うの?」
「それは……」
ユウキは一瞬シンゴを見て、再び黙った。シンゴはそんなユウキから視線をそらすと、目の前の芝生を見た。今日も犬が飼い主と戯れている。シンゴは幸せそうでいいな、と思った。そんなことを思う自分は幸せだと思っていないのだと、シンゴはこの時気が付いた。やはり、アスカの浮気が思いの外、効いているようだ。
「彼女をあの男から離して、オレが彼女を経済的にも物理的にも精神的にも守ります!」
あらゆるものから守ると言いたいのだろう。シンゴはそんなユウキの言葉に、まだまだ若いな、と思った。

小説「サークル○サークル」01-205. 「加速」

 シンゴが菓子パンを食べ終わる頃、ユウキは漸く視線を上げた。
「どうしたらいいか、わからないんです」
 ユウキはシンゴを見て言った。シンゴはほんの少し残った菓子パンからユウキへと視線を向ける。
「優しく見守る……じゃダメなの?」
「本当なら、きっとそれが一番いいんだと思います。だけど、彼女が捨てられるのだけは嫌なんです。子どもが出来て、都合が悪くなったから、さようなら、なんてあまりにも勝手すぎます。きちんと男には責任を持ってもらいたいんです」
「なるほどね……」
 ユウキの言っていることはもっともなことだったが、シンゴは今まで聞いたり見たりしてきた事実から、それは難しいだろうな、と思っていた。
 さすがにシンゴ自身は不倫をしたことはなかったが、この年になれば、不倫をしている友達や知り合いは男女問わず、結構な数がいる。上手くやっているのは一握りで、その大半は泥沼だ。シンゴが知っている限り、妊娠問題に発展するのも決して珍しいケースではなかった。

小説「サークル○サークル」01-191~01-200「加速」まとめ読み

食卓にカルボナーラとサラダが並び、アスカとシンゴは他愛ない会話を楽しみながら食事を進める。けれど、アスカは自分の気持ちのもやもやの所為で、どこか上の空だった。
「レナとの接触は上手くいきそう?」
「……それなりにね」
「どのくらいの期間で、この仕事は終わりそうなの?」
「さぁ……。レナがターゲットと別れてくれたからかな」
アスカの返事は歯切れが悪い。シンゴはそんなアスカの些細な変化に気が付いていた。しかし、シンゴは敢えて何も言わなかった。シンゴの勘は働いていた。きっとターゲットのことが絡んでいるに違いない。シンゴはそう踏んでいた。そうなれば、シンゴのやることはただ一つだ。再び尾行をして、アスカの状況を確認するほかない。自分のしようとしていることは、何度考えてもダメな男のやることに思えてならなかった。それでも、シンゴは真実を知りたかった。それは夫としてというよりも、もしかしたら、作家としてなのかもしれなかった。

翌日、シンゴはアスカの後をつけるかどうか悩んでいた。どうにも良心が邪魔しているようだった。
公園のベンチで寒い外気に当たりながら、シンゴは遠くを見つめた。芝生の上を飼い主と犬が楽しそうに駆け回っている。のんきでいいな、と思った。
「またこんなところで考えごとですか?」
頭上から声がして、シンゴは顔を上げる。そこに立っていたのは、ユウキだった。
「ああ、君か」
シンゴは然して驚く風でもなく、淡々と言う。
「その様子だと、奥さんの浮気、解決していないみたいですね」
「意外に痛いところをついてくるね」
シンゴは苦笑する。
「シンゴさんが悩んでることは、それくらいしか知らないですから……」
「ご察知の通り、相変わらず、なんの進展もないんだ」
「あれから、尾行は続けてるんですか?」
「いや、してない」
シンゴの言葉にユウキはほっとした表情を見せた。
「最近、シンゴさんコンビニにも来なくなっちゃったし、オレが尾行に連れてってくれなんて言ったから、怒ってるのかと思ってたんです」
「そういうわけじゃないよ」
シンゴはユウキに微笑んで見せた。

「尾行はもうしないんですか?」
「いや、それを今、悩んでいるところなんだ」
シンゴは神妙な面持ちで言った。ユウキは思わず息を飲む。
「悩んでると言うと……?」
「尾行して知りたい真実がある。けれど、尾行がバレた時のリスクはかなりのものでね。どちらを優先するべきか、迷いどころなんだ」
シンゴの言葉にユウキは深々と頷いた。
「シンゴさんもとても悩まれているんですね」
「僕も……ってことは、君も何か悩み事でも?」
シンゴは少し驚く。シンゴの疑問にユウキは俯き、黙った。ユウキの意外な反応にシンゴは思わず口を噤む。シンゴはユウキが話し出すのを静かに待っていた。
しばらくして、ユウキは意を決したように、シンゴの目を見つめた。
「実は……好きな女の子がいるんです」
「……」
正直、シンゴは「そんなことか」と内心思った。しかし、ユウキの次の言葉を聞いて、その思いは一瞬にして覆った。
「その女の子、不倫してるんです」
シンゴは俄然、ユウキの話に興味が沸いた。

「好きな女の子が不倫?」
「はい……。不倫なんてやめさせたいんです。だけど、どうやって、やめさせたらいいかわからなくて……」
「君とその女の子とはどういう関係?」
「幼馴染です」
「幼馴染か……」
シンゴは腕を組み考え込む。きっとユウキはずっとその女の子のことか好きだったのだろう。けれど、女の子はユウキをただの幼馴染としてしか見ておらず、ユウキの一方通行の恋になっているに違いない。よくある話だ。けれど、よくある話で済ませるには、ユウキが少し不憫だとシンゴは思った。
「どうして、君はその女の子が不倫しているとわかったの?」
シンゴの質問にユウキは俯いたまま、答え始める。
「見たんです」
「……何を?」
「彼女と男がホテルに入っていくところです」
ユウキのその顔には悔しさが滲んでいた。
「けれど、それだけじゃ、不倫しているということにはならないんじゃないかな?」
「いえ、オレ、その男がお腹の大きな別の女の人と歩いているところを見たことがあったんです」
「……でも、それが奥さんだとは限らないだろう? お姉さんとか妹だという可能性だってある」
「……あの雰囲気は違います。オレにはわかるんです」
言い切るユウキにシンゴは頭を抱えていた。ユウキの思い込みである可能性の方が大きい気がしていた。

シンゴは返す言葉を探したけれど、上手い言葉が見つけられない。小説を書く時はあんなにも言葉が溢れるのに、話すとなると、なかなか上手くいかなかった。シンゴは沈黙に耐えられなくなりながら、芝生を駆けまわる犬に視線を向けた。動き回る犬を目で追えば追うほど、考えがまとまらなくなっていく。
沈黙に耐えられなくなったのか、ユウキが真剣な面持ちで話し始めた。
「だから、シンゴさんと一緒に尾行して、尾行のコツを掴みたいっていうか……」
「ちょっと待って。君はその女の子を尾行しようとしてるの?」
シンゴは眉間に皺を寄せて、ユウキを見た。ユウキは真剣な面持ちのまま、シンゴを見て、一つ静かに頷いた。
「……それは、その女の子の不倫現場を押さえたいから?」
「はい、その通りです」
ユウキの返事には重みがあった。相当、思い詰めているらしい。シンゴはそんなユウキの気持ちを想像し、溜め息がつきたくなった。
「やめた方がいい」
シンゴは駆け回る犬に再び視線を向けて言った。犬は楽しそうに飼い主の投げたフリスビー目がけて、ジャンプしたところだった。

「どうしてですか!?」
納得出来ないといった口調でユウキはシンゴに詰め寄る。
「どうしてって、そんなことしたっていいことは何もないからだよ」
「シンゴさんは奥さんの浮気現場を押さえる為に尾行していたんですよね?」
「ああ、そうだよ」
「だったら……」
「だから、やめた方がいいって言ってるんだよ」
シンゴの呆れとも悲しみとも取れない複雑な表情を見て、ユウキは思わず黙った。
「でも……」
「不倫現場を押さえて、“不倫はやめた方がいい”と君が言ったとする。けれど、彼女は不倫をやめるかな?」
「熱意を持って、説得すればきっと……」
「それは君の理想だろ? 不倫がいけないことだってことは、彼女も重々承知のはずだ。けれど、わかっていながら、彼女は不倫をしている。そんな彼女が簡単に不倫をやめられると思う? 僕はそうは思わない」
「……」
ユウキは何も言わなかった。シンゴの言葉がぐさりと胸に突き刺さり、何も言えなくなってしまったのだ。

「悪いことは言わない。余計なことはしない方がいい」
「……」
「素人がどうこう出来る問題じゃないんだよ」
「……奥さんは別れさせ屋なんでしたっけ……」
「ああ、そうだよ。プロだって、不倫をやめさせるのは大変なんだ。素人の熱意なんかで、不倫は終わらない」
「……」
シンゴの言っている通りだとユウキは思った。倫理に反しているとわかっていながらするのが不倫だ。それを始めることも続けることも、それ相応の覚悟があるはずだった。勿論、何となくという理由で不倫をしている人もいるだろうが、少なくとも彼女は何となくなんて理由で不倫をするようなタイプではない。それはユウキが一番よくわかっていた。きっと彼女にとって、不倫相手にしか埋められない何かがあったに違いない。
「……わかりました。尾行はやめます」
ユウキは思い詰めた表情で言う。
「そうか、良かったよ」
シンゴはほっと胸を撫で下ろした。
「だけど、尾行には連れて行って下さい」
「どうして?」
「どうしてもです」
ユウキは一歩も引かない。その態度を見て、建前上行かないとは言ったけれど、彼女を尾行する気なんだな、とシンゴは確信していた。

「そんなに尾行について来たいならついてくればいい。足手纏いになるようなら、容赦なく置いて行く。それでいいなら」
「はい! ありがとうございます!!」
ユウキは満面の笑みで返事をした。

シンゴはユウキと別れると、真っ直ぐ家に帰った。家に帰っても誰もいない。しんとしていて、どこか肌寒い。人がいないということは、こういうことだ。少しの物悲しさを感じながら、シンゴは手洗いとうがいをいつも通り済ませると、書斎へと向かった。
パソコンの電源を入れ、原稿を書き始める。パソコンのライトが目に染みた。
自分のしようとしていることが実はとても馬鹿馬鹿しいことだ、ということに、ユウキを諭している自分を見て気が付いた。
尾行なんてするもんじゃない。したって、何の足しにもなりはしない。ただ空しさや遣る瀬無さが募るだけだ。
ユウキと勢いで尾行の約束をしてしまったものの、シンゴは悩んでいた。尾行をすること自体もそうだったが、何より浮気をしている妻の姿を他人に見せるというのは、いささか男のプライドが傷ついた。浮気されていることを告白している以上、今更だと思われるかもしれないが、それとこれとは別問題だった。

パソコンに向かっている時は余計なことを考えずに済む。沸き出て来る言葉を打ち込み、並べていき、時折、読み返しては、その並び順を変えた。
だから、小説を書いている時だけは、心穏やかになれるんだと思っていた。
けれど、本当に書くということは、そういうことではない、ということをシンゴは知ってしまった。
自分の傷を見て、抉り、目をそらしたい事実を直視し、その事実から与えられる悲しみや憤りに打ちのめされるのではなく、言葉に変換していくことが書くことだったのだ。
シンゴはそうした現実に翻弄されながらも、小説を書き進めた。彼には今は書くことしか出来なかったし、一人でアスカの浮気にやきもきしているよりは、いくらか気が紛れた。
シンゴはパソコンの画面を見つめながら、休むことなく、手を動かした。見る見るうちに画面が文字で埋まっていく。その光景を見ながら、シンゴは少しだけ安心していた。
それは自分が悲しみに翻弄されるだけでなく、言葉に置き換えられる、という事実を目の当たりにしたからだった。

数日後、久々にシンゴはコンビニやって来ていた。コンビニにはシンゴの他にもう一人雑誌を立ち読みしている客しかおらず、閑散としている。シンゴは店内をぐるっと一周すると、菓子パンコーナーにやって来た。今日の昼ご飯は菓子パンに決めた。
シンゴは新商品の菓子パンとレジ横にあったホットのカフェオレを手にすると、ユウキのいるレジへと向かった。
「いらっしゃいませ」
ユウキは笑顔でシンゴを出迎えてくれた。手際良く、ユウキはレジに商品を通していく。
「あの、今日はもうこれから帰られるんですか?」
会計を済ませたシンゴにユウキは、他の客には聞こえないように小声で訊いた。
「いや、公園で食べようかと思って」
「オレももうバイト終わるんで、待っててもらえませんか?」
「ちょうど良かった。僕も君に話したいことがあったんだ」
「それじゃあ、いつもの公園で」
「ああ、待ってる」
シンゴはそう言うと、商品の入ったレジ袋を持って、コンビニを後にした。
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小説「サークル○サークル」01-181~01-190「加速」まとめ読み

生活をしていると特別なことよりも、日常の当たり前の出来事の方が圧倒的に多い。いかに、その当たり前の時間を一緒に過ごして楽しいかが結婚をすると大切になってくる。
くだらないことでも話せて笑い合える方が、断然楽しい。そういうことに、シンゴは結婚してから気が付いた。
それはシンゴ自身、一度結婚に失敗しているから気が付けたことかもしれない。
アスカとジムの近くのパン屋の話をして、笑い合える。傍から見たらどうでもいいような、そんなことでさえ、シンゴにとっては、意味を持つ。それは相手がアスカだからだ。
シンゴは楽しそうに話すアスカを見ながら、自分にとっての幸せや結婚を考えていた。
「手が止まってるけど……口に合わなかった?」
アスカは心配そうにシンゴに訊く。
「いや、そんなことはないよ。とても美味しい。ちょっと考え事をしてしまっただけだよ」
「仕事のこと?」
アスカはすかさず問う。
「ああ」
シンゴは誤魔化す為に嘘をつく。
アスカのことを考えていたとは、さすがに言えなかった。

「仕事大変なのね」
アスカは心配そうに言う。
「そんなことないよ。アスカに比べたら、楽だと思うな」
「ううん、何もないところから作品を生み出すのって、想像が出来ないくらい大変なことだと思うの。私には出来ないことよ。本当にすごいと思うわ」
シンゴは素直に嬉しかった。自分の仕事を認めてもらえるということが、自分の存在価値を認められたような気がしていた。
「アスカは明日からレナに接触するの?」
「ええ、ジムの入会も終わったし、ジムに通いながら接触して、様子を見るつもり」
「仕事とは言え、ジム通いは健康の為にも良かったかもね」
「ふふ、そうかもしれないわね」
アスカはまた楽しそうに笑った。夫婦の会話が皆無だった、あの寒々しい雰囲気が嘘のようだった。
けれど、シンゴの脳裏にはいつだって、ヒサシのことが過ぎっていた。
アスカがこうやって、楽しそうに笑うのは、ヒサシの存在が関係しているかもしれない。そう思うと、胸の奥が痛んだ。

食事を終え、シンゴは自室にこもる。仕事をする為だ。書き出しから、いくらか進んでいた。今までのアスカと自分のことを書けばいいのだ。執筆に詰まるということは特になかった。
けれど、いつか執筆が現実に追いついてしまう。その時が問題だ。
そして、シンゴは事実をもっと詳細に知りたいと思うようになっていた。アスカはいつからヒサシと関係を持っているのか、何がきっかけでヒサシに惚れたのか、今後、どうするつもりなのか――。
そこまで考えて、シンゴは深い溜め息をつく。空しかった。
原稿を書く度に訪れる悲しみとも切なさともとれる、痛みを伴った感情は、シンゴの心を蝕んでいく。
シンゴは原稿を書く手を止めた。
パソコンの画面の明るさがやけに眩しく感じる。
「……そうだ」
シンゴは画面を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……もう一度すればいいんだ……」
シンゴが思いついたのは、至極単純なことだった。
――そうだ、もう一度、尾行をすればいいんだ。
この答えが正しいかどうか、シンゴにはまだわからなかったけれど、シンゴにはそれ以外に方法はないように思えていた。

翌朝、アスカはジムで汗を流すと、レナの働くカフェへと向かっていた。アスカは今日何度目かの欠伸をかみ殺す。
さすがに久々の早起きはアラサーの身体には堪えた。しかも、その後、アスカを待っているのは、ジムのトレーニングマシーンだ。元々、文科系で運動とは無縁の学生時代を送って来た。そんなアスカがジムに通って、運動をすることになるとは、誰が予想出来ただろうか。アスカ自身、全く想像のつかない出来事だった。人生は何があるかわからないものたなぁ、としみじみ思う。これから、毎日この生活をしなければならないのかと思うと、アスカは憂鬱だった。
アスカはジムから数分の場所に位置するカフェへとやって来ていた。問題はヒサシと鉢合わせないかということだった。少しだけ緊張しながら、カフェの自動ドアの前に立つ。
「いらっしゃいませー!」
自動が開いた瞬間、笑顔で迎えてくれたのは、他でもないレナだった。
アスカは澄ました顔でレジへと向かう。カウンターにはドリンクメニューが置かれてあった。

アスカはしばしメニューを見つめる。ここで無難にコーヒーを頼んでしまっては、レナの印象に残る確率は低い。出来るだけ、他の客が頼まないようなドリンクを頼む必要があった。そして、これから毎日、そのドリンクを飲み続けなければ意味がない。
飽きがこなくて、尚且つ印象的なものを……と悩んでいると、ふとホワイトモカというドリンクが目に留まった。ホワイトチョコレートをベースにしたコーヒーだった。
「すみません、ホワイトモカを下さい」
アスカはメニューを指差しながら、オーダーする。
「かしこまりました。サイズはいくつになさいますか?」
「Mサイズでお願いします」
「店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「450円です」
レナはテキパキと仕事をこなしていく。アスカはそんなアスカの姿に好感が持てた。ドリンクのオーダーを通したレナは、会計へと戻る。
「500円お預かりいたします」
そう言って、レナは500円をキャッシャーに入れ、50円を取り出すと、レシートともにアスカに差し出した。
「50円のおつりでございます」
レナは笑顔で言うと、少し離れたカウンターを指した。
「あちらのカウンターでお出ししますので、前でお待ち下さい」
「はい」
アスカもレナに笑顔を向けた。

アスカはカウンターでホワイトモカを受け取ると、喫煙席へと向かう。
ガラスで区切られたスペースに灰皿を持って行き、レナの姿がよく見える席を選んで、
ソファに腰を下ろした。アスカの他に客は1人しかいない。会社の就業時間内なので、こんな時間に店内でのんびりくつろげる人は少ないのは当たり前だった。
アスカはホワイトモカに一口、口をつけると、すぐさま煙草に火をつけた。ホワイトモカが思いの外、甘かったのだ。アスカは毎日飲む地震をなくしていた。
けれど、ゆっくり時間をかけて飲むことを考えると、これはこれで良いような気がしていた。
レナはどの客にも笑顔で接している。勤務態度は至って真面目で、嫌味など全くない。大きな瞳にふんわりしたボブヘアが女の子らしく、大抵の男なら、レナのようなタイプにはいとも簡単になびいてしまうような気さえした。
アスカはホワイトモカをちびちびと飲みながら、そのほとんどの時間を煙草を吸うことに費やしていた。

退屈だな、とアスカは思うけれど、レナの観察を怠るわけにもいかない。どんなタイプなのかをしっかり見極められれば、接触した時の攻略方法も自然と見えてくる。
アスカ煙草に手を伸ばす。けれど、煙草の箱は空になっていた。
「……」
からっぽの煙草の箱を見て、アスカは溜め息をついた。カップの中にはまだホワイトモカが残っている。
アスカはホワイトモカを一気に飲み干すと、飲み終わったカップを返却口へと持って行った。
「ごちそう様でした」
アスカが声をかけると、少し離れたところから、「ありがとうございました」という声が飛んできた。
アスカは初日の偵察を終えると、まっすぐに帰路へと着いた。
何かと疲れる1日だな、と内心ごちた。

アスカが帰宅すると、シンゴが夕飯の準備をしていた。
「ただいま」
アスカが言うと、キッチンにいたシンゴが漸く気が付いたようで、キッチンから少し顔をのぞかせた。
「おかえり。あともう少しで夕飯出来るよ」
シンゴは笑顔でアスカを出迎えた。

「うん、ありがとう」
アスカはそう言うと、コートを部屋にかけに行く。
アスカはなんだか最近の自分とシンゴの関係に不思議な安心感を得ていた。それは今まで感じたことのない安心感だった。
けれど、アスカがそういった安心感を得られているのは、ヒサシの存在が大きいこともわかっていた。ヒサシとの一件があってから、罪悪感からシンゴに対する態度が自分でも優しくなったと自覚していた。そんな時、シンゴが仕事にやる気を出し、会話が増えた。いろんなことが重なった結果だったが、それが良かったのか悪かったのか、アスカにはわからない。ただ夫婦関係を立て直すという意味では良かったと言える。しかし、アスカの恋心から見れば、それは良いことだとは言い切れなかった。ヒサシへの想いが募っていくのに、シンゴと関係が良くなれば、万が一、ヒサシの下へ行くことになった時、シンゴを必要以上に傷つけてしまうことになる。それはあんまりにもひどい仕打ちのような気がしていた。

アスカはバーの仕事を辞めてから、ヒサシには会っていない。ヒサシと会っていたのは、接触が目的であり、その接触は仕事だった。その為、アスカは積極的に動くことが必要だったし、動くことが出来た。自分の恋心だけで接触を試みようとしていたのであれば、結婚していることがちらつき、きっとアスカは躊躇したに違いない。
アスカにとって、ヒサシはターゲットであると同時に、気になる存在だ。けれど、それを表に出すことも出来なければ、ヒサシに打ち明けることも出来ない。
ヒサシに誘われた時、もしヒサシの誘いに乗っていたら……そう思うことも正直あった。考えること自体がナンセンスだということはわかっているけれど、それでも考えてしまう。それくらい、アスカの心は未だヒサシに傾いていた。
勿論、アスカは冷静さを忘れてはいない。だからこそ、シンゴとの関係を修復しようともしているし、ヒサシと唯一接触できるバーも必要がなくなれば、すぐさま辞めた。そうした判断をした自分を見て、アスカは仕事とプライベートの線引きが自分には出来るということに安心していた。仕事とプライベートの境目が曖昧になった時、そのどちらも上手くいかないのだということをアスカは経験から知っていたからだった。

「夕飯出来たよ」
シンゴの声がキッチンの方から聞こえる。自分がどれだけクローゼットの前でぼーっとしていたかを思い知らされた。アスカは自分が思っている以上に、ヒサシのことを気にしている。ターゲットだということを頭では理解していたが、心の方が言うことを聞かないらしかった。
アスカは溜め息をつくと、リビングへと向かった。

リビングに行くと、ガーリックのいい匂いが漂ってくる。
「今日の夕飯は?」
アスカは席に着きながら言う。
「今日はカルボナーラだよ。アスカ好きだろ?」
シンゴは卵を黄身だけにする作業をしながら言う。
「うん、ありがとう」
アスカは答えながら、カルボナーラが好きだったのは、数年前だったんだけどな……と心の中で思う。好きは好きだが、ここ最近のアスカはカルボナーラを食べなくなった。年と共に、胸やけを起こすことがちらほらあったからだ。しかし、シンゴはその事実を知らない。シンゴとの距離は一時より明らかに縮んではいるが、それでもまだとても近いところにいるわけではないのだとアスカは痛感していた。

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小説「サークル○サークル」01-204. 「加速」

 シンゴは菓子パンを食べていた手を止めて、ユウキを見た。
「まだそうなると決まったわけじゃない」
「えっ?」
「不倫相手の男が彼女を取るとは限らないだろう」
「そんな……! じゃあ、彼女は子どもを堕ろすってことですか!?」
 血相を変えて言うユウキにシンゴは一瞬ひるむ。しかし、平静を装って、ユウキの目をじっと見た。
「よくあることだよ。不倫の大半は男の火遊びだ。男が本気になるのは珍しいと思うよ」
「……」
「君は彼女がその男と結婚してもいいの? 彼女のこと、好きなんでしょう?」
「そうなんですけど……」
 ユウキの返事はいまいち歯切れが悪い。シンゴは不思議に思って、首を傾げた。
「子どもを堕ろすことは褒められたことではないと思うけど、彼女が不倫をやめる、いいきっかけになると思うよ」
「……ですよね……」
 シンゴの言葉にユウキは思い詰めた表情で相槌を打つ。
 ユウキは思い詰めた表情のまま、地面を見つめていた。話し出す様子もなければ、おにぎりを食べ始める気配もない。シンゴは仕方なく、菓子パンにかぶりついた。


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