小説「サークル○サークル」01-181~01-190「加速」まとめ読み

生活をしていると特別なことよりも、日常の当たり前の出来事の方が圧倒的に多い。いかに、その当たり前の時間を一緒に過ごして楽しいかが結婚をすると大切になってくる。
くだらないことでも話せて笑い合える方が、断然楽しい。そういうことに、シンゴは結婚してから気が付いた。
それはシンゴ自身、一度結婚に失敗しているから気が付けたことかもしれない。
アスカとジムの近くのパン屋の話をして、笑い合える。傍から見たらどうでもいいような、そんなことでさえ、シンゴにとっては、意味を持つ。それは相手がアスカだからだ。
シンゴは楽しそうに話すアスカを見ながら、自分にとっての幸せや結婚を考えていた。
「手が止まってるけど……口に合わなかった?」
アスカは心配そうにシンゴに訊く。
「いや、そんなことはないよ。とても美味しい。ちょっと考え事をしてしまっただけだよ」
「仕事のこと?」
アスカはすかさず問う。
「ああ」
シンゴは誤魔化す為に嘘をつく。
アスカのことを考えていたとは、さすがに言えなかった。

「仕事大変なのね」
アスカは心配そうに言う。
「そんなことないよ。アスカに比べたら、楽だと思うな」
「ううん、何もないところから作品を生み出すのって、想像が出来ないくらい大変なことだと思うの。私には出来ないことよ。本当にすごいと思うわ」
シンゴは素直に嬉しかった。自分の仕事を認めてもらえるということが、自分の存在価値を認められたような気がしていた。
「アスカは明日からレナに接触するの?」
「ええ、ジムの入会も終わったし、ジムに通いながら接触して、様子を見るつもり」
「仕事とは言え、ジム通いは健康の為にも良かったかもね」
「ふふ、そうかもしれないわね」
アスカはまた楽しそうに笑った。夫婦の会話が皆無だった、あの寒々しい雰囲気が嘘のようだった。
けれど、シンゴの脳裏にはいつだって、ヒサシのことが過ぎっていた。
アスカがこうやって、楽しそうに笑うのは、ヒサシの存在が関係しているかもしれない。そう思うと、胸の奥が痛んだ。

食事を終え、シンゴは自室にこもる。仕事をする為だ。書き出しから、いくらか進んでいた。今までのアスカと自分のことを書けばいいのだ。執筆に詰まるということは特になかった。
けれど、いつか執筆が現実に追いついてしまう。その時が問題だ。
そして、シンゴは事実をもっと詳細に知りたいと思うようになっていた。アスカはいつからヒサシと関係を持っているのか、何がきっかけでヒサシに惚れたのか、今後、どうするつもりなのか――。
そこまで考えて、シンゴは深い溜め息をつく。空しかった。
原稿を書く度に訪れる悲しみとも切なさともとれる、痛みを伴った感情は、シンゴの心を蝕んでいく。
シンゴは原稿を書く手を止めた。
パソコンの画面の明るさがやけに眩しく感じる。
「……そうだ」
シンゴは画面を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……もう一度すればいいんだ……」
シンゴが思いついたのは、至極単純なことだった。
――そうだ、もう一度、尾行をすればいいんだ。
この答えが正しいかどうか、シンゴにはまだわからなかったけれど、シンゴにはそれ以外に方法はないように思えていた。

翌朝、アスカはジムで汗を流すと、レナの働くカフェへと向かっていた。アスカは今日何度目かの欠伸をかみ殺す。
さすがに久々の早起きはアラサーの身体には堪えた。しかも、その後、アスカを待っているのは、ジムのトレーニングマシーンだ。元々、文科系で運動とは無縁の学生時代を送って来た。そんなアスカがジムに通って、運動をすることになるとは、誰が予想出来ただろうか。アスカ自身、全く想像のつかない出来事だった。人生は何があるかわからないものたなぁ、としみじみ思う。これから、毎日この生活をしなければならないのかと思うと、アスカは憂鬱だった。
アスカはジムから数分の場所に位置するカフェへとやって来ていた。問題はヒサシと鉢合わせないかということだった。少しだけ緊張しながら、カフェの自動ドアの前に立つ。
「いらっしゃいませー!」
自動が開いた瞬間、笑顔で迎えてくれたのは、他でもないレナだった。
アスカは澄ました顔でレジへと向かう。カウンターにはドリンクメニューが置かれてあった。

アスカはしばしメニューを見つめる。ここで無難にコーヒーを頼んでしまっては、レナの印象に残る確率は低い。出来るだけ、他の客が頼まないようなドリンクを頼む必要があった。そして、これから毎日、そのドリンクを飲み続けなければ意味がない。
飽きがこなくて、尚且つ印象的なものを……と悩んでいると、ふとホワイトモカというドリンクが目に留まった。ホワイトチョコレートをベースにしたコーヒーだった。
「すみません、ホワイトモカを下さい」
アスカはメニューを指差しながら、オーダーする。
「かしこまりました。サイズはいくつになさいますか?」
「Mサイズでお願いします」
「店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「450円です」
レナはテキパキと仕事をこなしていく。アスカはそんなアスカの姿に好感が持てた。ドリンクのオーダーを通したレナは、会計へと戻る。
「500円お預かりいたします」
そう言って、レナは500円をキャッシャーに入れ、50円を取り出すと、レシートともにアスカに差し出した。
「50円のおつりでございます」
レナは笑顔で言うと、少し離れたカウンターを指した。
「あちらのカウンターでお出ししますので、前でお待ち下さい」
「はい」
アスカもレナに笑顔を向けた。

アスカはカウンターでホワイトモカを受け取ると、喫煙席へと向かう。
ガラスで区切られたスペースに灰皿を持って行き、レナの姿がよく見える席を選んで、
ソファに腰を下ろした。アスカの他に客は1人しかいない。会社の就業時間内なので、こんな時間に店内でのんびりくつろげる人は少ないのは当たり前だった。
アスカはホワイトモカに一口、口をつけると、すぐさま煙草に火をつけた。ホワイトモカが思いの外、甘かったのだ。アスカは毎日飲む地震をなくしていた。
けれど、ゆっくり時間をかけて飲むことを考えると、これはこれで良いような気がしていた。
レナはどの客にも笑顔で接している。勤務態度は至って真面目で、嫌味など全くない。大きな瞳にふんわりしたボブヘアが女の子らしく、大抵の男なら、レナのようなタイプにはいとも簡単になびいてしまうような気さえした。
アスカはホワイトモカをちびちびと飲みながら、そのほとんどの時間を煙草を吸うことに費やしていた。

退屈だな、とアスカは思うけれど、レナの観察を怠るわけにもいかない。どんなタイプなのかをしっかり見極められれば、接触した時の攻略方法も自然と見えてくる。
アスカ煙草に手を伸ばす。けれど、煙草の箱は空になっていた。
「……」
からっぽの煙草の箱を見て、アスカは溜め息をついた。カップの中にはまだホワイトモカが残っている。
アスカはホワイトモカを一気に飲み干すと、飲み終わったカップを返却口へと持って行った。
「ごちそう様でした」
アスカが声をかけると、少し離れたところから、「ありがとうございました」という声が飛んできた。
アスカは初日の偵察を終えると、まっすぐに帰路へと着いた。
何かと疲れる1日だな、と内心ごちた。

アスカが帰宅すると、シンゴが夕飯の準備をしていた。
「ただいま」
アスカが言うと、キッチンにいたシンゴが漸く気が付いたようで、キッチンから少し顔をのぞかせた。
「おかえり。あともう少しで夕飯出来るよ」
シンゴは笑顔でアスカを出迎えた。

「うん、ありがとう」
アスカはそう言うと、コートを部屋にかけに行く。
アスカはなんだか最近の自分とシンゴの関係に不思議な安心感を得ていた。それは今まで感じたことのない安心感だった。
けれど、アスカがそういった安心感を得られているのは、ヒサシの存在が大きいこともわかっていた。ヒサシとの一件があってから、罪悪感からシンゴに対する態度が自分でも優しくなったと自覚していた。そんな時、シンゴが仕事にやる気を出し、会話が増えた。いろんなことが重なった結果だったが、それが良かったのか悪かったのか、アスカにはわからない。ただ夫婦関係を立て直すという意味では良かったと言える。しかし、アスカの恋心から見れば、それは良いことだとは言い切れなかった。ヒサシへの想いが募っていくのに、シンゴと関係が良くなれば、万が一、ヒサシの下へ行くことになった時、シンゴを必要以上に傷つけてしまうことになる。それはあんまりにもひどい仕打ちのような気がしていた。

アスカはバーの仕事を辞めてから、ヒサシには会っていない。ヒサシと会っていたのは、接触が目的であり、その接触は仕事だった。その為、アスカは積極的に動くことが必要だったし、動くことが出来た。自分の恋心だけで接触を試みようとしていたのであれば、結婚していることがちらつき、きっとアスカは躊躇したに違いない。
アスカにとって、ヒサシはターゲットであると同時に、気になる存在だ。けれど、それを表に出すことも出来なければ、ヒサシに打ち明けることも出来ない。
ヒサシに誘われた時、もしヒサシの誘いに乗っていたら……そう思うことも正直あった。考えること自体がナンセンスだということはわかっているけれど、それでも考えてしまう。それくらい、アスカの心は未だヒサシに傾いていた。
勿論、アスカは冷静さを忘れてはいない。だからこそ、シンゴとの関係を修復しようともしているし、ヒサシと唯一接触できるバーも必要がなくなれば、すぐさま辞めた。そうした判断をした自分を見て、アスカは仕事とプライベートの線引きが自分には出来るということに安心していた。仕事とプライベートの境目が曖昧になった時、そのどちらも上手くいかないのだということをアスカは経験から知っていたからだった。

「夕飯出来たよ」
シンゴの声がキッチンの方から聞こえる。自分がどれだけクローゼットの前でぼーっとしていたかを思い知らされた。アスカは自分が思っている以上に、ヒサシのことを気にしている。ターゲットだということを頭では理解していたが、心の方が言うことを聞かないらしかった。
アスカは溜め息をつくと、リビングへと向かった。

リビングに行くと、ガーリックのいい匂いが漂ってくる。
「今日の夕飯は?」
アスカは席に着きながら言う。
「今日はカルボナーラだよ。アスカ好きだろ?」
シンゴは卵を黄身だけにする作業をしながら言う。
「うん、ありがとう」
アスカは答えながら、カルボナーラが好きだったのは、数年前だったんだけどな……と心の中で思う。好きは好きだが、ここ最近のアスカはカルボナーラを食べなくなった。年と共に、胸やけを起こすことがちらほらあったからだ。しかし、シンゴはその事実を知らない。シンゴとの距離は一時より明らかに縮んではいるが、それでもまだとても近いところにいるわけではないのだとアスカは痛感していた。

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