「もうすぐ出来るから、顔でも洗ってきたら? なんだか眠そう」
アスカは鍋から目を離すと、シンゴの顔を見て言う。
「……うん、そうだね」
シンゴはソファから立ち上がると、アスカに言われた通り、洗面所へと向かった。
冷たい水で頬が濡れる。じゃぶじゃぶと顔を洗うと、フェイスタオルで水を拭った。冷たさから解放されて、なんだかほっとする。そのまま、シンゴは顔を上げた。
洗面台の鏡に映る自分を見て、思わず溜め息をつく。ちっとも冴えない顔をしていたからだ。
こんな冴えない自分とアスカが釣り合うわけなんてない、とシンゴは思う。けれど、一度はそんな自分でも好きになってもらえたのだから、たとえアスカの気持ちがターゲットに移ろっても、もう一度好きになってもらうことは出来るはずだ、とも思う。
しかし、一度こぼれた水が元に戻らないように、一度壊れた夫婦関係が元に戻ることはないようにも思えた。
堂々巡りの想いに、シンゴはどう向き合っていいのか、次第にわからなくなりつつあった。
シンゴが目を覚ますと、夕飯の匂いが鼻先をついた。目を開け、光を感じると、視界が開ける。ぼんやりする頭のまま、キッチンに目をやると、そこには髪を束ね、エプロンをしているアスカの姿があった。
「ごめん……。寝ちゃってたみたいだ」
シンゴはソファからアスカに声をかける。
「いいのよ。疲れていたんでしょう?」
アスカは微笑む。その笑顔にシンゴはじんわりと込み上がる幸せを感じていた。
「仕事は終わったの?」
「ええ。ちゃんとジムにも入会して来たわ」
「じゃあ、あとは、レナと接触すればOKってこと?」
「そうなるわね」
アスカは調理中の料理から視線を外さずに、シンゴに答える。
「レナと接触して、ターゲットと別れさせたら、今回の仕事はやっと終わるわ」
その一言に、シンゴはドキリとした。この仕事が終わったら、アスカはどうするつもりなのだろう、と思ったのだ。アスカはシンゴを捨て、ターゲットと付き合うつもりだろうか。それとも、ダブル不倫をやってのけるつもりだろうか。
仕事が終われば、これっきりとなればいいけれど、そんな生易しい現実が待っているとはシンゴには到底思えなかった。
アスカの後をシンゴがつけていたなんてことがアスカにバレれば、軽蔑されたって仕方がない。アスカの性格上、「私が不安にさせてしまったのね。ごめんなさい」なんてしおらしいことを言うタイプではないことは、シンゴが一番よく知っている。
アスカが浮気をしていて、尚且つ、シンゴがアスカの後をつけていたことがわかれば、離婚は免れないだろう。離婚はシンゴにとって、最悪の結末だ。その最悪の結末を回避する為に、シンゴは今必死でアスカの仕事に協力し、仕事にも精を出している。
動機は不純かもしれないけれど、そのくらいシンゴにとって、アスカはかけがえのない存在だった。
シンゴはプリントアウトした原稿を持って、リビングへと向かう。ソファの前にあるローテーブルに置くと、ゆったりとソファに腰をかけた。足を組み、テレビをつける。テレビにはワイドショーが映り、大物演歌歌手のスキャンダルが取り沙汰されていた。ぼんやりとしたまま、テレビに視線を向けていると、シンゴはうつらうつらとし、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
同じ家にいるから、そこにいるのが当たり前で、そこに存在しているという事実しか確認していなかった、とアスカは言いたかったのでないか、あれは後悔の一言なのかもしれない、とシンゴは思った。
アスカはターゲットと後戻りの出来ない関係になってしまった。けれど、最近、シンゴとちゃんと向き合うようになり、シンゴの良さを改めて確認し、今度はシンゴをないがしろにして、ターゲットに走ってしまったことを後悔し始めている――それが、シンゴが導き出した答えだった。
シンゴはさっきよりも深い溜め息をつくと、作り上げた設定をざっと読み直し、誤字脱字がないことを確認する。プリンターの電源をオンにすると、プリントアウトし、再びその原稿に間違いがないか確認した。
一つのテーマについて、ずっと考えていると、気持ちは荒んでくるし、いい方向になど何一つ考えられなくなってくる。やがて、ドツボにハマり、自分を苦しめていく。そして、そういった重たい空気は相手にだって、いつしか伝わってしまう。けれど、それ以上にシンゴはあることを心配していた。それは、あの日の夜見たことをアスカに言ってしまうのではないか、ということだった。
食事を終えた後、アスカは身支度をして、仕事へと出掛けた。帰りにそのままジムの入会申し込みをしてくるそうだ。
シンゴはパソコンの前に座り、電源を入れ、立ち上げる。アスカが帰ってくるまでに、設定を作り直す為だ。
いつも通り、文章を作成していく。
大方、設定が出来上がったところで、ふとターゲットのことが過ぎった。
今、こうして、自分が設定を作っている間にも、アスカとターゲットは会っているのだろうか。そう思うだけで、シンゴの胸の奥は予想をはるかに超える痛みを訴えた。シンゴはこんなことを考えることにも慣れたと思っていたし、ある程度の諦めもついているような気でいた。
しかし、本当はそんなことはない。ただただアスカに自分だけを見ていてもらいたいのだ。
ふいにアスカが食事中に言った「なんだか、ちゃんとシンゴの顔を見ていなかった気がして」という言葉を思い出していた。
シンゴはアスカがどういう気持ちで言ったのかを考えて、溜め息をついた。