「なんだい?」
シンゴはユウキのただならぬ雰囲気に押されながら、問いかける。ユウキの口から飛び出た言葉はシンゴが予想もしていなかった言葉だった。
「今度、尾行する時は俺も連れていって下さい!」
「えっ」
突然のユウキの申し出にシンゴは面食らった。ユウキの言葉の真意がわからない。
「ダメですか?」
「ダメってわけじゃないけど……。尾行を続けるかどうか迷ってるんだ」
「どうしてですか?」
「何度も妻の浮気現場を見ても、正直へこむだけだからね」
「まぁ、確かに……」
「そういうわけだから、期待しないでいてもらえるとありがたいかな」
「ってことは、尾行する時は声をかけてもらえるってことですか!?」
「あぁ、結構、ハードだけど、それでいいなら」
「ありがとうございます!」
ユウキは満面の笑みで答えた。どうして、そこまでシンゴの尾行に同行したいのかわからなかったが、シンゴはその理由を聞こうともしなかったし、知りたいとも思わなかった。それよりも、一人であの妙なプレッシャーに耐えなくていいんだ、と思うことがシンゴをほっとさせていた。
「実は……」
「実は……?」
シンゴの神妙な面持ちにユウキもつられながら、耳を傾ける。
「浮気されたんだ」
「浮気!? シンゴさんが!?」
「しーっ! 声が大きいよ」
周りに誰か他の人間がいるわけではなかったが、シンゴは慌てて、ユウキを制する。
「すみません……。意外だったもので……」
「そんなわけだから、ちょっとね」
「そりゃあ、落ち込みますよ……。でも、どうしてわかったんですか?」
遠慮なく、ユウキはシンゴに質問する。
「尾行してたんだ」
「尾行!?」
「だから、声が大きいって!」
「どうして、そんなことしたんですか?」
「どうしてって、次の小説の題材が妻の仕事と同じだったからだよ」
「それで尾行して、浮気現場を見てしまった、と……」
「そういうこと」
ユウキは数回うんうんと頷くと、シンゴの方を見た。思わず、シンゴは身を引く。
「尾行は今日もするんですか?」
「いや、わからない。妻の仕事の状況次第だからさ」
「そうですか……。あの、一つお願いしたいことがあるんですけど」
ユウキは真剣な顔をして、シンゴを見据えた。
「おかえり」
何食わぬ顔でシンゴは帰宅したアスカを出迎えた。
「こんな遅くまで起きてるなんてどうしたの? もう寝てると思ってたわ」
「仕事をしてたんだ」
「小説の?」
アスカは驚いたように言う。
「そうだよ。依頼が来たんだ」
「良かったじゃない。これでまた小説が書けるのね」
アスカは嬉しそうに微笑んだ。アスカのこんな顔を見られることは滅多にない。シンゴは心の底から嬉しかった。幸せな気持ちのまま、今日を終わろらせようかと思ったけれど、やはり気になってしまい、訊くことにした。
「最近、仕事はどうなの?」
「仕事? いつも通りよ」
「ターゲットとは接触出来てる?」
「それは勿論。お風呂入って来るわね。まだ起きてるなら、あとで一緒にビールでも飲みましょう」
「大丈夫なのかい? こんな遅くに飲んで」
「大丈夫よ。今日はそんなに飲んで来てないし。あなたの仕事の再開を祝いたい気分なの」
アスカはそう言って、風呂場へと消えていった。
ターゲットとの接触について、アスカは詳しく喋らなかった。それはシンゴを心配させまいとしているのか、それとも、やましい気持ちがあるからなのか。アスカに訊かなければわからないことだった。でも、シンゴに訊くことは出来ない。きっと両方なのだろう、とシンゴは思うことにした。
アスカは上機嫌だった。それもそうだろう、とシンゴは思う。主夫に徹していた夫がやっと重い腰を上げ、仕事を始めたのだ。少なくとも、出会った頃のように作家として小説を書くことをアスカはずっと望んでいたのだ。それを知りながら、アスカが何も言わないことをいいことに、シンゴはアスカに甘え続けていた。
「本当に良かったわ。小説の依頼が来て。あなたは小説を書いているのが一番似合ってる」
アスカは気持ち良さそうに酔いながら、嬉しそうに言う。シンゴが嬉しくなるような言葉を口にするけれど、シンゴは本嫌いのアスカから作品の感想をもらったことなど一度もなかった。
「ありがとう。僕も小説を書ける環境をもらえて、本当に安心しているよ」
祝われているのだから、と思い、シンゴは当たり障りのない返答をする。さっきから、ずっとビールを飲んでいるのに、なかなか酔えない。どうしても、アスカがヒサシに言い寄られているシーンが過ぎってしまい、アルコールに浸れないのだ。
「苦労をかけてしまってごめん」
シンゴはビールの入ったコップを置いて言う。その神妙な面持ちにアスカは面食らっているようだった。
「どうしたのよ。急に」
「いや、不甲斐ない夫だったなって思って」
「そんなことないわ、って言ってあげたいけど、それは言えてるわね。でも、いいじゃない、また小説を書くことになったんだから」
「もうこれからは心配かけないから」
「大丈夫よ。最初から心配なんてしてないから。ただ困った夫だな、って思ってただけよ」
歯に衣着せぬアスカの言葉にシンゴはぐさりぐさりと心を刺されるような思いがしたが、自分の蒔いた種なので仕方がない。
「でも……いつも家事を一生懸命やってくれて、とても感謝してるわ。あなたも仕事が忙しくなるだろうし、昔みたいに分担しましょう」
「えっ……」
「何か不満?」
意外なアスカの申し出にシンゴは間の抜けた声を出す。アスカの愛情がヒサシに向かいつつあると思っていただけに、予想外だった。
「ありがとう。そうしてもらえると、僕も助かるよ」
「でも、料理はお願い。私より、あなたが作った方が何倍も美味しいわ」
「わかったよ。今まで通り、夕飯作って待ってるから」
「ありがとう」
シンゴは夫婦らしい会話をしている自分たちにホッとしていた。
これでこそ、夫婦だ。
そう強く思った。
きっと夫婦らしい会話が消えていったのは、いつまでも腐って、小説を書こうとしなかった自分に原因があると思った。ここから、どうやって、巻き返していくかが肝心だ。ヒサシにアスカを取られたくない。シンゴはより一層、そう強く思った。
それからしばらくの間、シンゴはアスカの尾行を続けた。けれど、あれ以来、ヒサシがアスカを強引に口説こうとするシーンに出くわしたことはなかった。アスカはシンゴの仕事の依頼の話を聞いてから、ずっと上機嫌だったし、何も不安に思うことなどないような気もしていた。けれど、現実はそんなに甘くない。シンゴは自分の目に飛び込んできた光景を見て、息を飲んだ。
ヒサシが店から出て来るのと同時にアスカも出て来る。店はまだ閉店の時間ではない。見送りかと思ったけれど、様子がおかしい。アスカがコートを着ているのだ。
ヒサシとアスカは仲良さそうに並んで店を出ると、繁華街の奥へと消えていく。
嘘だろ……? とシンゴは思った。慌てて、自転車に乗って、二人の消えていった方向へとひた走る。
二人の後ろ姿を見つけ、自転車を路肩へ止めると、気付かれないように後をつけた。
シンゴの祈るような思いとは裏腹に、二人はホテルの前で立ち止まると、辺りを確認しながら、ホテルの中へと入っていった。
ホテルに入ったのは今なのだから、すぐに二人のところに行き、ことに及ぶ前に止めることも出来る。けれど、シンゴにはその勇気がなかった。今更自分が二人の元へ行って、何を言えばいいのだろう。すでにアスカの気持ちがヒサシに向いていれば、何を言ったところで後の祭りだ。
今まで、アスカを散々がっかりさせてきたのは自分だ。アスカが他の誰かに心を奪われても、文句なんて言いようがないことも自覚している。けれど、こんなにもあっさりと別の男のところに行かれると、立つ瀬がないとも思った。
シンゴは複雑な気持ちを抱えたまま、しばらく、ホテルの入口を見つめていた。ひょっこりアスカが出て来るのではないか、と期待すらした。けれど、いくら待ってもアスカが出て来る気配はない。泣きそうになるのをぐっと堪えて、シンゴは踵を返す。
シンゴは自転車を止めた場所まで戻ると、自転車に乗り、ゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。
その日の夜、アスカは帰って来なかった。
夜が明けるまで、シンゴはリビングのソファでアスカを待ち続けた。けれど、やがては睡魔に負けて寝入ってしまった。目が覚めれば、アスカの姿があるかと思ったけれど、アスカはいなかった。家に帰宅した形跡もない。
あの時、ホテルに入るのを止めていれば、とも思ったが、今更そんなことを思っても後の祭りだ。昨日の夜も思ったことだが、あの時、止めていたからと言って、アスカの気持ちがシンゴの元に戻ってくるわけではない。場合によっては、別れを告げられる可能性だってある。それならば、何も言わず、何もせず、ただ真っ直ぐに家に帰り、アスカが帰ってくるのを待った方がいい。そう結論づけたはずだった。けれど、シンゴの口からは溜め息が漏れる。
ソファで眠っていた所為であちこちが痛い。寝返りもろくに打てない状況が肩こりと腰痛を増進させたような気がしていた。
一つ大きな伸びをして、そのまま風呂場へと向かう。ぼんやりとしたままの頭で、シンゴは熱いシャワーを浴びた。憂鬱な朝の始まりだった。
アスカは事務所の机の上に足を上げ、書類に目を通していた。昨日、バーでの仕事が終わると、すぐに事務所に戻り、書類の整理をしていた。マキコからの依頼以外にもエミリーポエムには様々な依頼が舞い込んでくる。アスカ以外の従業員が担当している案件であっても、所長であるアスカが確認をしないわけにはいかない。たまたま、バーでの潜入と書類のチェックの日程がかぶってしまったのだ。家に連絡も入れず、事務所に直行したことで、シンゴが心配しているかもしれないな、と煙草に火を点けながらアスカは思った。
電話でもしようかな……と思ったものの、仕事をしていたら邪魔はしたくない、と思い、結局、シンゴに電話はかけなかった。
アスカは煙草の煙を天井に向かって吐き出しながら、昨日の夜の出来事を思い出す。
バーで仕事をしていたら、いつものようにヒサシが女連れでやって来た。自分のことを誘っておいて、別の女と店に来るなんていい度胸をしているな、と思ったのも束の間、やはり動揺していたようで、アスカは普段しないようなミスをした。
ヒサシが連れてきた女のコートにカクテルを零してしまったのだ。コートをハンガーにかけず、膝の上に置いていた為、カクテルでその大半が濡れてしまった。アスカは丁寧に謝ると自分のコートを女に渡した。後日、カクテルで汚れてしまったコートをクリーニングに出して返すので、今日はそのコートを着て帰って下さい、とアスカが提案したのだ。
女は最初遠慮していたものの、コートなしではとてもじゃないけれど、外は寒くて歩けないし、アスカの申し出を受けることにした。
おかげでアスカはバーでの仕事を終えると、寒い中、コートも着ずにタクシー乗り場へと行き、そのまま事務所に向かったのだった。
漸くに朝になったので、コートをクリーニングに持って行くことが出来るな、と思う。アスカはカクテルで汚れたコートを横目で見て、溜め息をついた。
クリーニングに出したら、そのまま、帰宅して、一眠りしようと思い、立ち上がる。
アスカは煙草の火を消すと、コートを紙袋に入れ、事務所を後にした。
アスカはコートをクリーニングに出すと、急いで家に帰った。けれど、すでにシンゴの姿はなかった。きっとどこかに息抜きにでも行っているのだろう、と思い、アスカはシャワーを浴びに行く。
人を好きになることで気持ちがこんなにもやもやすることがあるなんて、今までのアスカは知らなかった。いつだって、恋愛を客観的に見て、涼しい顔をして、対峙してきたのだ。けれど、ここに来て、ヒサシと出会い、余裕がなくなっていった。本来の恋愛の形がこうであるのならば仕方がないことなのかもしれないが、アスカにとっては、自分のペースを乱されたような気がして、癪に障る。しかし、この状況に抗えないのも確かだ。
熱いシャワーを浴び、バスルームから出ると、用意していた洋服へと袖を通す。今日はバーの仕事は休みだ。このまま、今日は事務所に顔を出す必要もない。たまには料理をするのもいいかもしれない、と思ったアスカは髪を乾かすとそのままスーパーへと向かった。
シンゴは落ち込んでいた。あの時、やっぱり止めておけば良かった、と何度も後悔の念が頭を過る。しかし、今更後悔したとて、遅いのも事実だった。
公園のベンチで一人寂しくぽつんと座っているシンゴの溜め息だけが、冷たい空気に溶けていく。今日何度目かの溜め息をついた時、隣に気配を感じた。ユウキだった。
「どうしたの?」
シンゴは隣に座ったユウキを見て言った。
「それはこっちのセリフですよ。どうされたんですか? 溜め息ばっかりついて」
「あぁ、見られてたんだ」
シンゴは苦笑しながら、前を見た。だだっ広い公園はがらんとしていて、なんだか寂しく感じる。
「何かあったんですか? 話くらいなら、俺でも聞けますよ」
ユウキは心配そうにシンゴの顔を覗く。
「これ、どうぞ」
「ありがとう」
ユウキがコンビニで買ってきた温かい缶コーヒーをシンゴは受け取ると、プルタブを引っ張った。温かな液体が身体の中を流れていく。シンゴはほっと一息つくと、話し出した。
続き>>01-141~01-150「加速」まとめ読みへ
シンゴは落ち込んでいた。あの時、やっぱり止めておけば良かった、と何度も後悔の念が頭を過る。しかし、今更後悔したとて、遅いのも事実だった。
公園のベンチで一人寂しくぽつんと座っているシンゴの溜め息だけが、冷たい空気に溶けていく。今日何度目かの溜め息をついた時、隣に気配を感じた。ユウキだった。
「どうしたの?」
シンゴは隣に座ったユウキを見て言った。
「それはこっちのセリフですよ。どうされたんですか? 溜め息ばっかりついて」
「あぁ、見られてたんだ」
シンゴは苦笑しながら、前を見た。だだっ広い公園はがらんとしていて、なんだか寂しく感じる。
「何かあったんですか? 話くらいなら、俺でも聞けますよ」
ユウキは心配そうにシンゴの顔を覗く。
「これ、どうぞ」
「ありがとう」
ユウキがコンビニで買ってきた温かい缶コーヒーをシンゴは受け取ると、プルタブを引っ張った。温かな液体が身体の中を流れていく。シンゴはほっと一息つくと、話し出した。
時計を見ると、そろそろバーに向かわなければならない時間だった。憂鬱な気持ちのまま、アスカは身支度を整える。今日はラストまでいる日だった。事前にシンゴには食事はいらないと言って出てきている。帰ってから食べることも考えはしたが、夜中に食事をして、そのまま眠ってしまうのは太る為の儀式でしかない。体型維持の為にも休憩中に軽くすませるつもりでいた。
バーには人がまばらにいるだけだった。時間も深まっていき、日付が変わろうとしていた。今日はまだヒサシが来ていない。この時間になっても来ないということは、今日はもう来ないのだろう。そう思って、諦めていた時にドアが開いた。期待に胸を膨らませて、ドアを見ると、少し疲れた顔をしたヒサシが入ってくるところだった。眼鏡の奥の瞳は床を見つめている。ヒサシがふと顔を上げるのと同時にアスカはヒサシと目が合った。
ヒサシは疲れを感じさせないように笑顔をアスカに向ける。それだけで、アスカの胸は高鳴った。これが恋でなければ、なんだというのだろう。アスカはカウンターに近づいて来るヒサシにとびきりの笑顔を向けていた。
「いらっしゃいませ。もう今日は来られないのかと思っていました」
アスカは少し頬を紅潮させ、ヒサシを見上げた。そんなアスカを見て、ヒサシは満足げに口元を綻ばせる。
「それは私が来るのが待ち遠しかったって、解釈してもいいのかな?」
言われて、アスカはドキリとした。確かにヒサシの言葉の通りだったが、それを認めてしまってはいけないと思った。ヒサシとの接触はあくまで仕事だ。今の一言を認めることは、仕事ではなく、恋愛感情を認めることになる。勿論、今の一言を仕事として肯定することは出来る。けれど、すでに仕事ではなく、恋愛としてヒサシとの関係を築きかけているアスカにとっては、そのような肯定の仕方が一番難しかった。
アスカはヒサシから視線を外し、躊躇いがちに口を開いた。
「えぇ」
一瞬の間に計算し、答えを見つけ、アスカは返事をする。その答えには仕事以外の意味合いも含まれていた。
「それは嬉しいね」
「何になさいますか?」
「いつもので」
アスカはいつものようにオーダーを取ると、マスターに告げた。マスターから渡されたバーボンをヒサシの元へと運ぶ手が微かに震えている。アスカはそんな自分に内心苦笑した。今更、恋くらいで緊張してしまうなんて、馬鹿みたいだと思った。
「お待たせ致しました」
アスカが平静を装って、ヒサシの前にバーボンを置こうとした瞬間、ヒサシがアスカの手を握った。
「えっ……」
驚いて、アスカはヒサシの顔を見る。ヒサシは笑顔を絶やさず、そのままじっとアスカを見つめた。
「そろそろ、私の相手をしてくれてもいいんじゃないかな?」
ヒサシは余裕の笑みを浮かべ、アスカを見ていた。その笑顔を見て、彼女はヒサシに全て見透かされていることに気が付いた。
「なんのことでしょうか?」
しかし、アスカも怯まず、笑顔で返す。この程度のことで怯んでいては、別れさせ屋の所長など務まらない。自分に言い聞かせるように、アスカは心の中で何度も大丈夫と唱えて、しっかりとヒサシの目を見据えた。
「駆け引きはやめにしない? 私は君に惹かれている。そして、君も私に惹かれている。違うかな?」
「……」
アスカは何も言い返すことが出来なかった。気の利いた台詞も突き放す言葉も何も思い浮かばなかったのだ。ただ黙って、ヒサシの目を見た。今ここでそらしてしまっては、相手の思うツボだ。毅然とした態度を取らなければ、完全に相手のペースに持って行かれる。それだけは避けたかった。
「何をそんなに怖がっているの?」
「怖がってなんかいません」
「それは嘘だ。君は私に惹かれながら、けれど、それを否定しようとしている。それはなぜか……。私の素性がよくわからないからかな?」
「……」
アスカは敢えて答えない。素性は全て知っていた。誰と結婚し、どんな会社に勤めているのか。ここのバーで働くようになってから、ヒサシがどれほど沢山の女を抱いているのか。わかっていても、ヒサシに惹かれているのだと思って、アスカは泣きたくなった。馬鹿にも程がある。
「何も不安に思うことはないよ。だって、私と君は同じだろう?」
何を言っているのかわからず、アスカは眉間に皺を寄せた。
「何を言っているのか、わからないって顔だね」
「えぇ……」
「お互い既婚者ってことさ」
「!」
アスカは今度ばかりは心底驚き、一瞬頭の中が真っ白になった。どうして、ヒサシは気が付いたのだろうか。アスカは仕事柄、結婚指輪もしていなかったし、一度だって結婚しているなんて話はしなかった。
「どうして、わかったのか……。不思議かな?」
ヒサシの微笑みがアスカを追い詰めていく。
すぐさま、ヒサシの言葉を否定しようと思ったが、ヒサシの確信に満ちた態度にアスカは否定するのをやめた。ここで余計なことを口にすれば、マキコから依頼されていることがバレる可能性がある。それよりも、ヒサシが握っている情報を全て聞き出す方が先だ。
「どうして、そうお思いに?」
「簡単なことさ。私と同じ匂いがする」
ヒサシの余裕の表情にアスカは言葉を思いつけずにいる。抽象的な言葉は肝心なことを何も示さない。アスカはヒサシが何を知っているのかを聞き出そうと思考を巡らしてはみるものの、有効な質問を思いつけなかった。
「どうしたの? 難しい顔をして、黙って。キレイな顔が台無しだよ」
嘘つき、とアスカは内心思う。自分が美人ではないことをアスカが一番知っている。過小評価ではない。事実として、アスカはそれを受け入れていた。ヒサシの妻であるマキコは美人だ。あれだけの美人を毎日見ていて、よく自分を美人と言えるな、とアスカはヒサシのしたたかさに嫌悪する。
「心にもないことは言わない方が身の為ですよ」
アスカは口からつい出た台詞にはっとする。これではまるでヒサシの妻がマキコであることを知っているみたいではないか。
「謙遜は良くないな。私は思ったまでを言っただけだよ」
ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つ。
「そうでしょうか。私にはお世辞にしか聞こえません」
アスカはぴしゃりと言う。しかし、ヒサシはアスカの視線に動揺する気配もない。
「お世辞なんて言わないよ。……今日の夜は空いてる?」
お互いが既婚者だとわかっていながら、堂々と誘ってくるあたり、ヒサシはアスカが思っている以上に女に慣れている。ここで引き下がるのは簡単だが、誘いに乗らなければ始まらない。別れさせ屋として状況を把握する為に、普段なら誘いに乗って、根掘り葉掘り情報を聞き出すけれど、今回は少し勝手が違った。アスカは確実にヒサシに思いを寄せている。この状況でヒサシの誘いに乗ってしまえば、ミイラ取りがミイラになる可能性は高い。誘いに乗る怖さがアスカを躊躇させていた。
ヒサシと不倫相手を別れさせる為の方法は、ヒサシにアプローチをかける以外にも用意している。そちらの方法を取ればいいだけ、とは思うものの、ヒサシへのアプローチが上手くいっている以上、別れさせ屋として、こちらの方法を優先すべきだという気持ちもあった。
「黙っているということは、イエスととってもいいのかな?」
ヒサシは眼鏡の奥のその大きな目でアスカを見上げた。
「それは……」
はっきりとノーとは言えない自分に苛立ちが募る。アスカはヒサシの視線を遮るように床に視線を落とした。
「今日は閉店まで?」
「……はい」
「ふーん……そっか」
ヒサシはそれきり何も言わなかった。アスカは不安を募らせながらも、どこか期待している自分に溜め息を零した。
バーでの仕事が終わり、アスカは裏口から出て、駅の方向へと歩き出す。タクシー乗り場へ向かう為だ。
「お疲れ様」
声がした方に視線を向けば、そこにはヒサシが立っていた。閉店からすでに三十分が経っていた。
「どうして……」
「私がここで待っていることは予想済みだと思うけど」
「そんなこと……」
「まぁ、いいよ。こんなところで立ち話もなんたがら、飲み直しに行こう」
「でも……」
「でも? 拒否する理由があるとは思えないけど」
「十分あると思います」
「たとえば?」
「お互い既婚者です」
「やっぱり、そうだったんだ」
「えっ?」
ヒサシの言葉にアスカは間抜けな声を出す。
「君が既婚者かどうか、ホントは知らなかったんだ」
「それじゃあ、引っかけたってこと?」
「引っかけただなんて、人聞きが悪い。確かめただけだ」
ヒサシの言葉にアスカはあからさまに嫌そうな顔をすると、
「もう遅いんで、それじゃあ」
とその場を立ち去ろうとした。けれど、ヒサシがそれを許さない。ヒサシはアスカの腕をぎゅっと握ると、そのまま抱き寄せた。鼓動が一つ大きく跳ねる。アスカはそんな自分に嫌気がさした。
「抵抗しないんだね」
ヒサシの挑発するような言葉にアスカはその手を振りほどこうとする。
「離して下さい」
「どうして?」
「どうしてって、わからないんですか!?」
「もっと私を好きになってしまうから?」
ヒサシに言われ、アスカは自分の体温が急激に上がるのを感じていた。
「そういうわけじゃ……」
「いい加減、素直になれよ」
そう言うと、ヒサシはアスカを抱き寄せた。突然の出来事にアスカは一瞬呼吸をするのを忘れた。
「……ずっとこうしたかった」
アスカはヒサシの言葉に胸の奥はぎゅっと鷲づかみにされたような錯覚に陥る。こんなセリフ、随分と聞いていない。少なくとも、シンゴはこんなことを言ってくれたことなどなかった。
「今日は一緒にいてくれるよね?」
ヒサシの言葉に頷こうとしたけれど、あと一歩のところでアスカは思い止まった。相手ターゲットだ。ここでアスカがヒサシと一晩を共にしてしまったら、契約不履行だ。
「それは出来ません」
「旦那に後ろめたいから?」
「……はい」
そういうわけじゃない、と思ったものの、それは口には出さなかった。
アスカはヒサシの腕から逃れると、ヒサシの方を一度も見ずにその場を去った。
――そして、その一部始終を見ている人影が一つ。
そっと胸を撫で下ろしていたのは、二人のやりとりをずっと見ていたシンゴだった。
シンゴはアスカにもヒサシにも気が付かれないように、自転車に乗ると、大急ぎで家へと戻った。
近道を最大限に活かして自転車を飛ばした。
アスカが駅まで歩く時間とタクシーで通れる道から導き出した時間を考慮すると、どうにかシンゴの方が早く家に着ける程度だった。
北風が吹く寒い夜なのに、帰ってきたら汗だくになっていたけれど、仕方がない。
こうでもしなければ、アスカの後をつけることは出来ないのだ。
シンゴがアスカを尾行しているのには、きちんとした理由があった。
小説を書く為だ。
小説を完成させる為にアスカがどんな風に仕事をしているのかを知りたかったのだ。しかし、無論、理由はそれだけではない。
アスカの素行が知りたかったのだ。尾行するなんて、お世辞にも褒められることではないことはシンゴだってわかっている。けれど、そこまでさせる程、シンゴは追い詰められていた。
アスカが浮気をするのではないか、と思う度にいつも憂鬱な気持ちがシンゴにのしかかっていた。その結果として、もやもやとする気持ちはお腹の底に滞留した。けれど、それをアスカにぶつけることは出来ない。かと言って、他の誰かに言うことも出来ない。
もやもやは溜まる一方で、出口を見つけられずに、シンゴは随分と苦しんだ。苦しんだ結果の尾行だった。
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