小説「サークル○サークル」01-134. 「加速」

 それからしばらくの間、シンゴはアスカの尾行を続けた。けれど、あれ以来、ヒサシがアスカを強引に口説こうとするシーンに出くわしたことはなかった。アスカはシンゴの仕事の依頼の話を聞いてから、ずっと上機嫌だったし、何も不安に思うことなどないような気もしていた。けれど、現実はそんなに甘くない。シンゴは自分の目に飛び込んできた光景を見て、息を飲んだ。
 ヒサシが店から出て来るのと同時にアスカも出て来る。店はまだ閉店の時間ではない。見送りかと思ったけれど、様子がおかしい。アスカがコートを着ているのだ。
 ヒサシとアスカは仲良さそうに並んで店を出ると、繁華街の奥へと消えていく。
 嘘だろ……? とシンゴは思った。慌てて、自転車に乗って、二人の消えていった方向へとひた走る。
 二人の後ろ姿を見つけ、自転車を路肩へ止めると、気付かれないように後をつけた。
 シンゴの祈るような思いとは裏腹に、二人はホテルの前で立ち止まると、辺りを確認しながら、ホテルの中へと入っていった。

小説「サークル○サークル」01-133. 「加速」

「どうしたのよ。急に」
「いや、不甲斐ない夫だったなって思って」
「そんなことないわ、って言ってあげたいけど、それは言えてるわね。でも、いいじゃない、また小説を書くことになったんだから」
「もうこれからは心配かけないから」
「大丈夫よ。最初から心配なんてしてないから。ただ困った夫だな、って思ってただけよ」
 歯に衣着せぬアスカの言葉にシンゴはぐさりぐさりと心を刺されるような思いがしたが、自分の蒔いた種なので仕方がない。
「でも……いつも家事を一生懸命やってくれて、とても感謝してるわ。あなたも仕事が忙しくなるだろうし、昔みたいに分担しましょう」
「えっ……」
「何か不満?」
 意外なアスカの申し出にシンゴは間の抜けた声を出す。アスカの愛情がヒサシに向かいつつあると思っていただけに、予想外だった。
「ありがとう。そうしてもらえると、僕も助かるよ」
「でも、料理はお願い。私より、あなたが作った方が何倍も美味しいわ」
「わかったよ。今まで通り、夕飯作って待ってるから」
「ありがとう」
 シンゴは夫婦らしい会話をしている自分たちにホッとしていた。
 これでこそ、夫婦だ。
 そう強く思った。
 きっと夫婦らしい会話が消えていったのは、いつまでも腐って、小説を書こうとしなかった自分に原因があると思った。ここから、どうやって、巻き返していくかが肝心だ。ヒサシにアスカを取られたくない。シンゴはより一層、そう強く思った。

小説「サークル○サークル」01-132. 「加速」

 アスカは上機嫌だった。それもそうだろう、とシンゴは思う。主夫に徹していた夫がやっと重い腰を上げ、仕事を始めたのだ。少なくとも、出会った頃のように作家として小説を書くことをアスカはずっと望んでいたのだ。それを知りながら、アスカが何も言わないことをいいことに、シンゴはアスカに甘え続けていた。
「本当に良かったわ。小説の依頼が来て。あなたは小説を書いているのが一番似合ってる」
 アスカは気持ち良さそうに酔いながら、嬉しそうに言う。シンゴが嬉しくなるような言葉を口にするけれど、シンゴは本嫌いのアスカから作品の感想をもらったことなど一度もなかった。
「ありがとう。僕も小説を書ける環境をもらえて、本当に安心しているよ」
 祝われているのだから、と思い、シンゴは当たり障りのない返答をする。さっきから、ずっとビールを飲んでいるのに、なかなか酔えない。どうしても、アスカがヒサシに言い寄られているシーンが過ぎってしまい、アルコールに浸れないのだ。
「苦労をかけてしまってごめん」
 シンゴはビールの入ったコップを置いて言う。その神妙な面持ちにアスカは面食らっているようだった。

小説「サークル○サークル」01-131. 「加速」

「おかえり」
 何食わぬ顔でシンゴは帰宅したアスカを出迎えた。
「こんな遅くまで起きてるなんてどうしたの? もう寝てると思ってたわ」
「仕事をしてたんだ」
「小説の?」
 アスカは驚いたように言う。
「そうだよ。依頼が来たんだ」
「良かったじゃない。これでまた小説が書けるのね」
 アスカは嬉しそうに微笑んだ。アスカのこんな顔を見られることは滅多にない。シンゴは心の底から嬉しかった。幸せな気持ちのまま、今日を終わろらせようかと思ったけれど、やはり気になってしまい、訊くことにした。
「最近、仕事はどうなの?」
「仕事? いつも通りよ」
「ターゲットとは接触出来てる?」
「それは勿論。お風呂入って来るわね。まだ起きてるなら、あとで一緒にビールでも飲みましょう」
「大丈夫なのかい? こんな遅くに飲んで」
「大丈夫よ。今日はそんなに飲んで来てないし。あなたの仕事の再開を祝いたい気分なの」
 アスカはそう言って、風呂場へと消えていった。
 ターゲットとの接触について、アスカは詳しく喋らなかった。それはシンゴを心配させまいとしているのか、それとも、やましい気持ちがあるからなのか。アスカに訊かなければわからないことだった。でも、シンゴに訊くことは出来ない。きっと両方なのだろう、とシンゴは思うことにした。

小説「サークル○サークル」01-130. 「加速」

 シンゴはアスカにもヒサシにも気が付かれないように、自転車に乗ると、大急ぎで家へと戻った。
 近道を最大限に活かして自転車を飛ばした。
 アスカが駅まで歩く時間とタクシーで通れる道から導き出した時間を考慮すると、どうにかシンゴの方が早く家に着ける程度だった。
 北風が吹く寒い夜なのに、帰ってきたら汗だくになっていたけれど、仕方がない。
 こうでもしなければ、アスカの後をつけることは出来ないのだ。
 シンゴがアスカを尾行しているのには、きちんとした理由があった。
 小説を書く為だ。
 小説を完成させる為にアスカがどんな風に仕事をしているのかを知りたかったのだ。しかし、無論、理由はそれだけではない。
 アスカの素行が知りたかったのだ。尾行するなんて、お世辞にも褒められることではないことはシンゴだってわかっている。けれど、そこまでさせる程、シンゴは追い詰められていた。
 アスカが浮気をするのではないか、と思う度にいつも憂鬱な気持ちがシンゴにのしかかっていた。その結果として、もやもやとする気持ちはお腹の底に滞留した。けれど、それをアスカにぶつけることは出来ない。かと言って、他の誰かに言うことも出来ない。
 もやもやは溜まる一方で、出口を見つけられずに、シンゴは随分と苦しんだ。苦しんだ結果の尾行だった。


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