小説「サークル○サークル」01-115. 「加速」

 離婚の原因は元妻の仕事にあった。彼女の仕事は編集者だった。しかも、担当していたのは、シンゴだ。彼女は、良き妻であり、良き編集者だった。けれど、そのことがシンゴを苦しめた。元妻はシンゴには勿体ないくらい出来た人だった。消極的なシンゴに対し、恋愛でも仕事でも積極的だったから、消極的なシンゴが恋愛をし、結婚出来たのは彼女のおかげだったとも言える。年上でしっかりしていて、シンゴは甘えっぱなしだった。無論、そこに原因などあるはずもなかった。原因はシンゴの心の持ちようだった。仕事でもプライベートでも、シンゴは担当編集者といると思ってしまっていたのだ。元妻がただの妻に戻る瞬間をシンゴは見つけられなかった。そうなってくると、プレッシャーしかない。そのプレッシャーを外で発散させれば良かったのかもしれないが、シンゴにはそんな器用なことは出来なかった。そのことがシンゴを兎に角苦しめた。自分の心が安らぐ場所がどこにもなく、結局、シンゴは悩んだ末、離婚という選択肢を選んだ。
 そして、シンゴは作家として、機能しなくなった。

小説「サークル○サークル」01-114. 「加速」

 シンゴは浮かれながらも、アスカの様子をしっかりと観察していた。今日のアスカは特に浮き沈みはないように感じられた。帰ってきた時間を考えても、きっとターゲットと食事に行ったり、それ以上の関係を持ったりはしていないだろう。そう思って、胸を撫で下ろした。
 シンゴにとって、女性はアスカだけであり、離婚なんてことになったら、精神的にも経済的にも困窮することは目に見えていた。何があっても、離婚は避けたい。困窮したくないのは勿論のことだが、離婚したくないのには他にも理由があった。
 離婚をすれば、心も身体もボロボロになってしまう。まるで、使い古された雑巾のようにだ。あの何とも言えない心の奥底のもやもやとした感情は、失恋なんか足元にも及ばない程の破壊力を持っていた。そんな思いを味わうのは一度だけで十分だった。仕事柄、どんなことを経験しても無駄にはならない。経験が作品に繋がっていくし、経験したことを書けば、作品にリアリティが出てくる。だが、作家と言えど、人間だ。経験したくないことだってある。それがシンゴにとっての離婚だった。

小説「サークル○サークル」01-113. 「加速」

「やけに機嫌がいいわね」
 アスカはいつもよりどことなく、浮かれ気味の夫を目の前にして、訝しげに言った。
「そんなことないよ」
 シンゴはそう言いながらも、自分の頬がにやつくのを感じていた。
「そう……」
 アスカはシンゴが何かを隠していると思ったけれど、それ以上は追及しなかった。シンゴに限って、浮気なんて芸当は出来ないだろうし、きっとシンゴが喜ぶことなのだから、些細なことだろうと思ったのだ。
 シンゴはアスカが追及してこないことに少しの物足りなさを感じたが、その反面、ほっとしていた。本当ならば、すぐにでも仕事の依頼が来たことをアスカに伝えたかったけれど、依頼が来ただけであって、その仕事が確定したわけではない。依頼があっても仕事の依頼が流れてしまうことがあるのも、この世界では珍しいことではなかった。流れてしまえば、ぬか喜びさせてしまうことになる。それはアスカにとっても、シンゴにとっても、良いことだとは思えなかった。シンゴは仕事が確定したら、アスカに報告しようと決めていた。

小説「サークル○サークル」01-101~01-110「加速」まとめ読み

「ホントはずっと前から声をかけたいなって思ってたんですけど、勇気がなくって。でも、今日は勇気を出して良かったです!」
青年の嬉しそうな顔にシンゴは面食らっていた。自分の書いた作品がこんなにも人に喜ばれているのを初めて目の当たりにしたような気がしていた。大抵、作品の感想をくれるのは友人や家族くらいのもので、どうしたって、読者の声は著者には届きにくい。今はインターネットがあるから、ショップのレビューで自分の作品の評価を間接的に知ることは出来るけれど、こうやって、直接読者の一人から感想を聞くことは稀だった。
軽快な音が電子レンジから聞こえた。弁当が温まったようだ。青年は手際良く、弁当を取り出して、手提げのビニール袋へと入れた。何も言わず、箸も一緒に入れてくれるのを見て、気が利くな、とシンゴは思った。
「大変お待たせ致しました。ぜひ、またいらっしゃって下さいね!」
笑顔で青年に言われ、シンゴは「あぁ、はい」と言った。青年の勢いに押され、その程度の返事をするのが精いっぱいだったのだ。
「あっ! オレ、キトウ ユウキって言います!」
突然、思い出したかのようにユウキは名乗ると、笑顔のままシンゴを見送った。

世の中にはいろんなタイプの人間がいるものだ、とシンゴは自分とは全く違うタイプの人間に出会うとよく思った。それはまるで異世界の住人よろしく、全くの別物に見えたのだ。同じ時代に生き、同じ言語を操るなどとは彼には到底思えなかった。
シンゴは生まれてこの方、一度も髪を染めたことがない。染めたいと思ったこともなかったし、染める必要性も感じなかったからだ。どうして、多くの人間が折角の黒髪を茶色に染めたいのか、理由も気持ちもわからなかった。だから、「今時」と言われる自分より若い人たちを見ると不思議な気持ちになってしまう。勿論、シンゴが若い頃から、茶髪にするのは当たり前のことだったし、茶髪じゃない方が逆に目立った時代でもあった。そんな環境にいたので、シンゴにとって、茶髪の人間を見ることは然して珍しいことではなかったけれど、その違和感だけは大人になった今でも拭いきれなかった。
ビニール袋に入った温かな弁当を提げながら、シンゴは元来た道を静かに戻る。それはいつもなんだかシンゴを寂しい気持ちにさせた。寂しさはシンゴに溜め息をつかせ、行き場のない気持ちを心の片隅に増殖させていった。シンゴは同じことを繰り返す日々にもういい加減、嫌気がさし始めていた。

次にシンゴがユウキに出会ったのは、あれから数日後のことだった。アスカは仕事に行き、部屋の片付けや洗濯を終えたシンゴは、気分転換にふらふらと近くの公園にやって来ていた。シンゴはベンチでぼーっと何の変哲もない景色を眺めているだけだった。人はほとんどいない。何かくれるんじゃないかと期待して鳩が数羽、シンゴの周りへ寄って来たが、何もくれないとわかると、愛想を尽かしたように一斉に飛び立って行った。
何かの相手をするほどの気力はシンゴには残っていなかった。家事をしただけで、体力と気力を奪われてしまう自分に溜め息をつきたくなる。
空は晴れ、時折、風に乗って雲が流れた。空を見ていると、自分がとってもちっぽけで、自分の仕事の悩みやアスカが浮気に走りそうだということがどうでも良いことのような気になった。それは嫌な気持ちが和らぐという意味では良いのかもしれないが、何も解決に導かれていない、ということを考えると必ずしも良いとは言い切れなかった。シンゴはそのことに気が付いて、はっする。思わず、今度は本当に大きな溜め息が口から零れた。
「どうしたんですか? 溜め息なんかついて」
突然、声が飛んできて、シンゴはドキリとした。声のした方を向くと、そこにはユウキが立っていた。

「あぁ、君は……」
「覚えててくれたんですね。コンビニではいつもありかどうございます。この間はお話出来て嬉しかったです。隣、いいですか?」
ユウキに言われて、シンゴは「あぁ」と言い、少し左端に寄った。
ユウキは遠慮がちにベンチに腰をかけると、シンゴの方を向いた。
「いつもこんな風に公園で小説の構想を練っているんですか?」
ユウキに問われて、シンゴは口籠る。ただぼーっとしていただけだったが、それを口にしてしまうのは憚れた。なんだか読者の夢を壊してしまうような気がして、申し訳ないような気分になったのだ。
「たまにね、こうやって、外の空気でも吸おうかな、と思うことがあるんだ」
シンゴはあたかも仕事のことを考えていたというような体で話し出す。折角の、数少ない読者の為についた嘘だった。
「やっぱり、すごいですね。モノを書くなんて、オレには到底無理ですよ。小学校の読書感想文で精いっぱいです」
「すごくはないよ。日本人なら誰でも日本語で文章が書ける」
自分の仕事のことを話すと、必ずと言っていいほど、読書感想文を引き合いに出されることが多かった。読書感想文が上手いからと言って、小説が書けるわけではなかったし、小説が書けるからと言って、読書感想文が上手いわけでもない。その証拠にシンゴは読書感想文で賞をもらったことなど一度もなかった。

「君、仕事は?」
「今日は遅番でちょうど今帰りなんです。あっ、お昼ご飯もう食べました?」
「いや、まだだけど……」
「廃棄するおにぎりもらってきたんですけど、一緒にどうですか?」
「でも……」
「どうせ、一人でご飯食べるんなら、オレと食べましょうよ。今、自販機でお茶買ってきますから」
ユウキはそう言い残すと、ビニール袋に入ったおにぎりを置いて、自動販売機まで走って行ってしまった。空を見上げれば、さっきと変わらず、雲が静かに流れている。
「お待たせしました! ウーロン茶と緑茶、どっちがいいですか?」
「緑茶をもらってもいいかな」
「はい、どうぞ」
シンゴはユウキからペットボトルの緑茶を受け取ると、ポケットから財布を取り出した。
「わざわざ買ってきてくれて、ありがとう」
そう言って、シンゴは二人分の小銭をユウキの前に差し出した。
「いいですよ、そんなの。オレが無理やり誘ったようなものですし」
「遠慮せずに取っておいてよ。大人に気を遣うものじゃない」
ユウキは渋々シンゴからお金を受け取って、怪訝な顔をした。
「あの……多いんですけど……」
「このくらいご馳走するよ」
シンゴの微笑みにユウキは笑顔で頷いた。

「おにぎりは気にしないで下さい。タダでもらってきたものですから。鮭とたらことツナマヨどれがいいですか?」
「じゃあ、鮭で」
「はい、どうぞ」
ユウキはがさがさとビニール袋から鮭のおにぎりを取り出すと、シンゴに手渡した。続いて、自分のたらこおにぎりも取り出すと、包装を慣れた手つき取り外した。
「ありがとう、いただきます」
シンゴもユウキに少し遅れて、おにぎりの包装を外し始める。
「それにしても、こうやって、コンビニ以外で会えるのって新鮮ですよね」
「確かにそうだね。生まれて初めてだよ。店で知り合った店員さんとご飯一緒に食べるの」
「オレも初めてです。しかも、憧れの作家さんと一緒なんて」
ユウキが嬉しそうにおにぎりにかぶりつくのを見ながら、シンゴは不思議な気持ちになった。売れなくなり、書店にさえ、過去の作品が数冊しか置かれなくなった自分のことをこんなにも憧れているのだ。隣で楽しそうに喋る彼を見ていると、このままではいけない、と思った。作家としてやるべきことをしていないのではないか、とシンゴは胸の奥が痛むのを感じていた。

「新作、書かれてるんですか?」
「あぁ、今、ちょうど書いているところだよ」
そう言って、シンゴはしまった、と思った。特に何かを書いているわけではなかった。依頼がないということもあるが、何より書きたいものが今の彼には見つからなかった。何を書いていいのかわからない。小説を一年に何冊も書いていた時は、そんなことが自分に降りかかるなんて思いもしなかったけれど、現実に今、シンゴは書くべきことも書きたいことも見つけられず、主夫業に専念している。作家として、仕事はしたい。けれど、自分の引き出しが空っぽになって、何も出てこなくなってしまったのだ。空っぽの引き出しはいくら開けたって空っぽのままで、とうとう何も出て来ることはなかった。そして、今に至る。
「どんな話を書いてるんですか?」
「……」
ユウキに訊かれて、シンゴは咄嗟に言葉が出てこなかった。何も書いていないのだから、何も答えられなくて当たり前だ。どんな話かをでっちあげるには、少しの時間が必要だった。
「すみません……。そんなこと、俺に言えないですよね」
「いや、少しくらいなら、大丈夫だよ」
そして、シンゴは書いてもいない小説の話を始めた。

「別れさせ屋の女の話を書いているんだ」
咄嗟に出た言葉に、シンゴ自身も驚いた。それは紛れもなく、自分の妻のことだった。別れさせ屋という職業についてならば、いくらだって、いろんな説明が出来る。シンゴが自分の仕事以外で最も――編集者という一番身近な仕事関係者を除いてという意味だが、知っている職業だったからだ。
「別れさせ屋ですか?」
「そう。少し変わった主人公だろう?」
「そうですね。そんな小説は今まで読んだことがありません」
「探偵と少し迷ったんだけど、別れさせ屋は別れさせることに特化している分、面白いかなって思ったんだ」
「ってことは、恋愛小説ですか?」
「恋愛小説……になるのかな……。いまいち、僕はジャンルに疎くってね」
「どんな話なんですか?」
「どんな話か……」
「言える範囲内でいいので、教えて下さい!」
ユウキにせがまれて、シンゴは腕を組み、しばし考え込む。それはいくらかポーズを含んでいた。すでにシンゴは話す内容を決めていた。決めていたというよりは、それしかなかったといった方が正しかった。

「別れさせ屋の女所長の元に一人の依頼者がやってくる。その依頼者の夫は浮気をしているから、別れさせてほしいというのが、依頼内容だった。いつもの仕事内容と然して変わらないことに安心しつつ、女所長は依頼を受けた。けれど、業務を遂行していくうちに女所長はどんどんターゲットである依頼者の夫に好意を持っていって――っていう話だよ」
「それ、続きが気になります! でも……」
「でも?」
ユウキは少し戸惑ったように言葉を続けた。
「今までの作風と雰囲気違いますよね」
「そうかな……」
言われて、シンゴはでっち上げたストーリーだから、仕方ないな、と思った。
「いつ頃、発売なんですか?」
「それはまだ決まってないんだ」
書きもしていない小説の発売日など決まっているわけもなかった。シンゴは目の前にいる青年のキラキラした目を見て、ほんの少し罪悪感を抱いた。目の前の読者は自分の作品が読める日を楽しみにしている。けれど、小説など書いてはいなかったし、でっちあげたストーリーは自分の身近に起きている事実だった。これがもし事実だと知ったら、目の前
青年はきっとがっかりするに違いない。自分のしてしまったことに、シンゴはなんだかいたたまれない気持ちになっていた。
「発売日決まったら、教えて下さいね!」
そう言って、ユウキは無邪気に笑った。その笑顔がユウキと別れた後もシンゴの心の中に随分と長い間、留まっていた。

シンゴはアスカの帰りを待つ間に夕飯の用意をして、風呂を沸かし、余った時間にぼんやりとテレビを観た。バラエティ番組では最近引っ張りだこのピン芸人がネタを披露している。すでにそのネタは数十回見たことがあった。同じネタばかりやるような芸人はあっという間に消えていく。視聴者が飽きるスピードは瞬きと同じくらい速い。シンゴは飽きが来始めたネタを最後まで見ることなく、チャンネルを変えた。すでにそのネタのオチを知っていたからだ。
ニュースを見ながら、シンゴはぼんやりと昼間のユウキとのやりとりを思い出していた。ニュースを見ているはずなのに、全く映像も音声も頭の中に入ってはこない。自分の話したストーリーを面白そうだと言ってくれたユウキへの申し訳なさを感じると同時に、そろそろ本腰を入れて、小説を書かないとまずい時期に来ていることに頭を悩ませていた。書けと言われて書けるなら、とっくに書いている。シンゴが小説を書けなくなってしまった理由は明々白々だった。

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小説「サークル○サークル」01-112. 「加速」

 息を止めて、シンゴはメールの本文に目を通す。そこには相手の近況と仕事の依頼をしたいという内容が書かれていた。
「まさか……」
 シンゴは信じられないといった面持ちで、再度メールに目を通した。何度読んでもメールには仕事の依頼について書かれていた。シンゴは高鳴る胸を落ち着けようと、席を立ち、コーヒーを淹れた。ミルクをたっぷり入れて、口をつける。そして、もう一度、画面を見た。そこには先程、二度読んだメールが表示されている。シンゴはマグカップをパソコンの隣に置くと、キーボードに手を伸ばした。
 なんて書こうかなんて考えてはいなかった。けれど、書くべきことは一つしかない。仕事を請けたい、それだけだ。勿論、今のシンゴに小説が書けるのかなんてわからない。書こうとしても書けないかもしれない。けれど、いつまでも書けないと立ち止まっているわけにはいかないのも確かだ。
 差出人の名前を見て、シンゴは大きく息を吐く。酸素が身体中を駆け巡るような気がした。呼吸を整えると、シンゴは元妻にメールを書き始めた。


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