小説「サークル○サークル」01-111. 「加速」

 シンゴは久々にノートパソコンの電源を入れた。起動音が懐かしい。真っ暗な画面が点滅し、やがてパスワードの入力画面が出た。シンゴはパスワードを入力すると、メーラーを立ち上げる。読まれていないメールはゆうに百を超えていた。仕事関係者からのメールから読もうと、日付順から差出人順にメールを並べ替えた。けれど、いくらスクロールしても、仕事関係者からのメールは見当たらなかった。
「……こんなもんだよな……」
 シンゴは溜め息をついて、シャットダウンもせずにノートパソコンを閉じようとした。いくらスクロールしたって、仕方がない。しかし、シンゴがノートパソコンを閉じようとしたその瞬間、見覚えのある名前が目に飛び込んできた。
「嘘……だろ……」
 言葉が掠れ、自分の動揺にはたと気付く。画面にはシンゴが小説を書けなくさせた張本人の名前があった。
 急速に速まっていく鼓動を落ち着けようともせず、シンゴは急いでその差出人からのメールをクリックした。

小説「サークル○サークル」01-110. 「加速」

 シンゴはアスカの帰りを待つ間に夕飯の用意をして、風呂を沸かし、余った時間にぼんやりとテレビを観た。バラエティ番組では最近引っ張りだこのピン芸人がネタを披露している。すでにそのネタは数十回見たことがあった。同じネタばかりやるような芸人はあっという間に消えていく。視聴者が飽きるスピードは瞬きと同じくらい速い。シンゴは飽きが来始めたネタを最後まで見ることなく、チャンネルを変えた。すでにそのネタのオチを知っていたからだ。
 ニュースを見ながら、シンゴはぼんやりと昼間のユウキとのやりとりを思い出していた。ニュースを見ているはずなのに、全く映像も音声も頭の中に入ってはこない。自分の話したストーリーを面白そうだと言ってくれたユウキへの申し訳なさを感じると同時に、そろそろ本腰を入れて、小説を書かないとまずい時期に来ていることに頭を悩ませていた。書けと言われて書けるなら、とっくに書いている。シンゴが小説を書けなくなってしまった理由は明々白々だった。

小説「サークル○サークル」01-109. 「加速」

「別れさせ屋の女所長の元に一人の依頼者がやってくる。その依頼者の夫は浮気をしているから、別れさせてほしいというのが、依頼内容だった。いつもの仕事内容と然して変わらないことに安心しつつ、女所長は依頼を受けた。けれど、業務を遂行していくうちに女所長はどんどんターゲットである依頼者の夫に好意を持っていって――っていう話だよ」
「それ、続きが気になります! でも……」
「でも?」
 ユウキは少し戸惑ったように言葉を続けた。
「今までの作風と雰囲気違いますよね」
「そうかな……」
 言われて、シンゴはでっち上げたストーリーだから、仕方ないな、と思った。
「いつ頃、発売なんですか?」
「それはまだ決まってないんだ」
 書きもしていない小説の発売日など決まっているわけもなかった。シンゴは目の前にいる青年のキラキラした目を見て、ほんの少し罪悪感を抱いた。目の前の読者は自分の作品が読める日を楽しみにしている。けれど、小説など書いてはいなかったし、でっちあげたストーリーは自分の身近に起きている事実だった。これがもし事実だと知ったら、目の前
青年はきっとがっかりするに違いない。自分のしてしまったことに、シンゴはなんだかいたたまれない気持ちになっていた。
「発売日決まったら、教えて下さいね!」
 そう言って、ユウキは無邪気に笑った。その笑顔がユウキと別れた後もシンゴの心の中に随分と長い間、留まっていた。

小説「サークル○サークル」01-108. 「加速」

「別れさせ屋の女の話を書いているんだ」
 咄嗟に出た言葉に、シンゴ自身も驚いた。それは紛れもなく、自分の妻のことだった。別れさせ屋という職業についてならば、いくらだって、いろんな説明が出来る。シンゴが自分の仕事以外で最も――編集者という一番身近な仕事関係者を除いてという意味だが、知っている職業だったからだ。
「別れさせ屋ですか?」
「そう。少し変わった主人公だろう?」
「そうですね。そんな小説は今まで読んだことがありません」
「探偵と少し迷ったんだけど、別れさせ屋は別れさせることに特化している分、面白いかなって思ったんだ」
「ってことは、恋愛小説ですか?」
「恋愛小説……になるのかな……。いまいち、僕はジャンルに疎くってね」
「どんな話なんですか?」
「どんな話か……」
「言える範囲内でいいので、教えて下さい!」
 ユウキにせがまれて、シンゴは腕を組み、しばし考え込む。それはいくらかポーズを含んでいた。すでにシンゴは話す内容を決めていた。決めていたというよりは、それしかなかったといった方が正しかった。

小説「サークル○サークル」01-107. 「加速」

「新作、書かれてるんですか?」
「あぁ、今、ちょうど書いているところだよ」
 そう言って、シンゴはしまった、と思った。特に何かを書いているわけではなかった。依頼がないということもあるが、何より書きたいものが今の彼には見つからなかった。何を書いていいのかわからない。小説を一年に何冊も書いていた時は、そんなことが自分に降りかかるなんて思いもしなかったけれど、現実に今、シンゴは書くべきことも書きたいことも見つけられず、主夫業に専念している。作家として、仕事はしたい。けれど、自分の引き出しが空っぽになって、何も出てこなくなってしまったのだ。空っぽの引き出しはいくら開けたって空っぽのままで、とうとう何も出て来ることはなかった。そして、今に至る。
「どんな話を書いてるんですか?」
「……」
 ユウキに訊かれて、シンゴは咄嗟に言葉が出てこなかった。何も書いていないのだから、何も答えられなくて当たり前だ。どんな話かをでっちあげるには、少しの時間が必要だった。
「すみません……。そんなこと、俺に言えないですよね」
「いや、少しくらいなら、大丈夫だよ」
 そして、シンゴは書いてもいない小説の話を始めた。


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