小説「サークル○サークル」01-71~01-80「動揺」まとめ読み

「君は……」
黙々と食べているアスカにシンゴは思い詰めたような声で言った。アスカは咀嚼しながら、目だけで「何?」とシンゴに問いかける。シンゴは一瞬躊躇うようにアスカから視線をそらし、徐に口を開いた。
「君はその誘いを本当に断りたいと思った?」
「えっ?」
シンゴの言葉にアスカは思わず、手に取りかけたほうとうの入ったお椀をテーブルの上に置いた。
「何言ってるの? 当たり前じゃない」
「そうだよね……。ごめん」
シンゴはアスカを見ずに相槌を打つ。アスカは音のない溜め息をついて、ほうとうの入ったお椀に再度手を伸ばした。
アスカがほうとうをすする音だけが部屋に響く。シンゴは何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。自分の言葉が嫉妬から出たものだという自覚があったからだ。けれど、嫉妬だけでそのように思ったわけでは決してなかった。アスカの仕事のことを話す目は――ヒサシのことを話す目は明らかにいつものアスカとは違っていたのだ。口説かれた話をシンゴにするか、しないか迷ったその目は、いけないことをしている子どものようにキラキラとし、まるで恋をしているように、シンゴには映っていた。

アスカはシンゴの言葉に少し引っ掛かりを覚えながらも食事を完食し、席を立った。食器を片付けようとすると、シンゴが「いいから、お風呂に入ってきなよ」と言ったので、彼女はシンゴの言葉に甘えてそのまま風呂場へと直行する。
シンゴは食器を片付けながら、さっきのアスカの目を思い出していた。明らかにあの目は恋する女の目だ。いくら売れていなくても作家は作家だ。人間観察はどんな場所でもどんな時でも欠かさない。些細な人の表情を見逃したりするわけがなかった。それが自分の妻であれば尚更だ。
シンゴは食器を洗いながら、どうするべきか悩んでいた。「君は恋をしているね」と言えば、アスカのことだから、「そんなことないわ」と言うに決まっている。「恋をしているの?」と訊いても同じことだ。どうすればいいのか――それは、彼女が自覚するような出来事が起こる場面を押さえるしかない。即ち、浮気の現場を押さえるということだ。
僕は一体何を考えているのだろう、とそこまで考えてシンゴは思った。

シンゴとて、アスカに浮気をしてもらいたいわけなどではない。第一、アスカがヒサシのことを好きだったとしても、ヒサシにその気がないかもしれないではないか。アスカを誘ったのだって、ただ気の迷いや冗談かもしれない。けれど、それは自分がそう思いたいだけだと、シンゴにはわかっていた。そんな気休めはいらない。シンゴは必死で考えた。アスカが浮気に走らないように何をするべきか、それとも走らせて間違いに気付かせ、やめさせるべきか――。
そこまで考えて、ふと自分を振り返った。浮気は良くないことだけれど、浮気をするにはそれなりの理由があるはずだ。その理由は紛れもなく、自分にあるのではないか、とシンゴは思った。うだつのあがらない夫である、という自覚は存分にある。アスカに養い続けてもらっているという後ろめたさもある。けれど、アスカを愛しているという気持ちだけは本物だ。その思いをアスカはわかっているのだろうか。いや、わかっていてもそれはあまり関係ないのかもしれない。相手が自分を愛しているかどうかが問題なのではなく、自分が相手を愛しているかどうかが問題なのだ。もしアスカがシンゴを愛していなければ、「浮気をしない」理由などないに等しい。結婚しているという、ある種の契約だけで、人の心まで縛れないということをシンゴは痛いほど知っていた。

シンゴは自分の過去を思い返す。アスカとの結婚はシンゴにとって、二度目の結婚だった。一度目は担当編集者と結婚した。けれど、長くは続かなかった。仕事中だけでなく、プライベートな時間まで、仕事のことが過ぎるようになってしまい、シンゴは一緒にいることを窮屈に感じるようになってしまった。勿論、だからと言って、シンゴは浮気などしなかった。それは妻に対しての誠意などではなく、そういった環境になかったことと、浮気をするだけの度胸がなかったからだ。浮気をするには、それなりの覚悟がいる。バレた時にどうやって切り抜けるのか。バレれば罵られるかもしれないし、殴られるかもしれない。ただ愛想を尽かされるだけかもしれないし、泣かれるかもしれない。どんなことが待っているのかわからなかったけれど、修羅場を迎える可能性は高い。そうなった時、自分がどんな状況にも耐えうるだけの強いハートを持っているのか、と自問した際、シンゴの答えはノーだった。強いハートがないのであれば、浮気はしない方が良い、とシンゴは結論付けたのだ。

結婚が上手くいってなければ、浮気くらいしたくなる。意識しているのか、無意識なのか、その違いはあるにせよ、浮気をしたいと思うことに男女間の差異はほとんどないのだろう。新しい刺激が欲しい、パートナーより素敵な相手がいて心惹かれるなど、浮気なんて、恋に落ちるのと同じくらい単純で、星の数ほど理由があるに違いない。
けれど、結婚しているのに浮気に走る、となってくると、恋に落ちるのと話は別だ。理性はどこへ行ったのか、という問題がある。しかし、そもそも色恋に理性を求めること自体がナンセンスな気もしていた。そして、シンゴは考える。アスカの浮気を肯定したくはない。浮気をしそうな状況なら今すぐにでも止めたい。だけど、今ここでそんなことを口にしても、火に油を注ぐようなものかもしれないとも思っていた。反対されれば、余計に浮気をしたくなるかもしれない。アスカは本当に自分の気持ちに気が付いていないのに、気付くきっかけを自分が与えてしまうかもしれない。だったら――自分が変われば良いのだ、とシンゴは思った。もう一度、自分がアスカを振り向かせればいい。離れてしまった気持ちをまた自分に向ければいいんだと思った。シンゴにはそれが何よりも安全で手っ取り早いように思えた。幸いにも最近会話が成立するようになってきている。今日だって、あんなにたくさん話せたではないか。きっと険悪な一時期よりも今の方が状況は幾分もマシになっている。そう思っていた。

アスカはシャワーを浴びながら、仕事のことを考えていた。アスカが請け負っている仕事以外にも事務所としていくつか仕事をしている。アルバイトたちもよく働いてくれていて、特に心配するような状況でもなかった。一番の問題はアスカが抱えている案件だ。マキコからは連絡はまだない。たった二、三日では状況は変わらないだろう。気長に待つしかないけれど、やはりイライラや不安は次第に募っていく。そんな時、シンゴが温かい食事を作って待っていてくれるというのは、幾分心が和んだ。アスカの話を聞いてくれて、尚且つ的確なアドバイスもくれる。作家という仕事柄か、シンゴの発想はいつだってアスカとは違っていたし、良い刺激にもなった。けれど、シンゴにはどうしても男を感じなくなっている。極端な話をすれば、セックスをしたいと思わない、ということだ。シャワーを浴びながら、アスカは自分の身体に視線を落とす。いつから誰も自分の身体に触れなくなったのだろうか。お湯が滑り落ちていく肌は今もまだきちんと水を弾き、肌理の細やかさは健在だ。なんだかそんな自分の身体を見ていると、可哀想に思えてきた。きちんと女として機能するのに、使われていないということが情けなくもあり、勿体なく思えてしまう。そんなことを思ってしまう自分は贅沢なのだろうか。アスカはシャワーを止めて、溜め息をついた。

アスカは今日も事務所に寄った後、バーに来ていた。アルバイトは今も続けている。マキコに調査の停止を求められてからすでに二週間が過ぎていた。時間が過ぎるのはとてつもなく早い。その間、シンゴとは言葉を交わすことが増えたけれど、特に大きな変化はなかった。相変わらず、男として見ることが難しく、ただの同居人と化していた。もしかしたら、彼が仕事に意欲を見せ、彼の収入がアスカの収入を上回ったり、活き活きとした表情を見せるようになれば、少しはこの状況も改善されるのではないか、と思っていたけれど、シンゴにその様子は微塵も見えない。主婦業は完璧だったが、それだけだった。その点、今目の前にいるヒサシは魅力的だった。今日は珍しく一人で飲みに来ている。きっとここで待ち合わせをしているのだろう。少し遅れて、またいつものようにキレイな女の子が来るに違いない。そして、彼はその女の子とホテルへ消えていくのだ。
そんなことを思っている自分にアスカはうんざりした。最近の自分は色恋のことばかり考えている。仕事に精が入っていないようにさえ思えた。

ヒサシは珍しくバーボンを頼んだ。アスカはオーダーされたバーボンとミックスナッツを持って、ヒサシの元へと行く。ヒサシのところにオーダーの品を持って行くだけなのに、ドキドキする自分に内心苦笑した。これではまるで片思いをしている中学生のようではないか。
ヒサシの前に着くと、アスカはオーダーの品をテーブルの上に置いた。
「バーボンとミックスナッツでございます」
アスカの姿を見て、ヒサシは笑みを零した。瞬間、アスカは胸の奥がきゅんとしたことに驚いた。完全に自分がヒサシに気持ちを奪われていることに気が付いた瞬間だった。
「今日は一人なんだ」
訊いてもいないのにヒサシは言った。
「そうなんですね」
「今、珍しいと思ったでしょう?」
「はい」
アスカは素直に答えた。今更、ヒサシになんの遠慮がいると言うのだろう。嫌という程、ヒサシが違う女を連れて来ていたのを見ていたのだ。
「たまには一人で飲みたくなることもあるんですよ」
ヒサシは言って、苦笑する。伏し目がちの目に何だか哀愁まで感じてしまうから不思議だ。完全にヒサシに心を奪われているのだ、とアスカは思った。どこか冷静でいられるのは、彼女がヒサシとの接触は仕事の一環だという自覚をしているからに他ならない。けれど、いつか仕事だというこの自覚を飛び越えてしまいそうなことに、アスカは不安を感じていた。

「だから、今日は少し話し相手になってもらえませんか?」
相変わらず、紳士的な物言いにアスカはくらっとしてしまう。
「はい。幸い、今日はお客様もいつもより少ないですし」
アスカが笑顔で返すとヒサシも微笑み返した。こんなにも容易く微笑み返す男はなかなかいないが、それが女の心を簡単に掴んでしまえる理由なのかもしれない。アスカはヒサシが激昂したり、不機嫌になったりする情景を思い浮かべることが出来なかった。いつでも穏やかに物事を解決してしまえるような気がしていた。きっと女をイライラさせたりはしない。そんな風にさえ思えた。
女は余裕のある男に弱い。それをきっとヒサシの端々に出る態度で感じるのだ。そして、妻帯者でありながらも、他の女はヒサシの魅力に憑りつかれてしまう。もしかしたら、この余裕は妻帯者だからこそのものかもしれない。けれど、ヒサシの魅力に憑りつかれた女にはそんなことなど関係なくなってしまうのだろう。独身の男にはない魅力で女の心はいとも簡単に骨抜きにされてしまうのだ。

他愛ない会話が進んでいく。最近の天気予報が当たらないとか、日に日に寒さが増しているとか、見知らぬ誰かとでも交わせるような内容の話ばかりが続いていた。傍から見ていれば、和気藹々としているように見えるが、そんな状況にあってもアスカは物足りなさを感じてしまう。もっとヒサシのパーソナル部分が知りたい、もっと自分のことを知ってもらいたい、と彼女は思わずにいられなかった。けれど、そんなことは口が裂けても言えない。それは仕事としてヒサシに接触しているからなのか、それともただ単にヒサシに恋するあまり嫌われるのが怖くて言い出せないのか、アスカにもよくわかってはいなかったが、明らかにそういった感情は恋をしたから持つものだということを彼女は自覚していた。そんな自分に嫌気がさしたけれど、アスカはどうすることも出来ずにいた。
そんな時だった。ヒサシから意外な言葉が飛んできた。
「そう言えば、ご結婚されているんですか?」
「えっ……」
アスカは一瞬言葉に詰まる。
「どう見えますか?」
咄嗟の判断にしては上出来な返しだ。まさか、ヒサシからそんな質問をされるなど微塵も思っていなかったアスカは、ヒサシの次の言葉にどう答えるべきか頭を悩ませていた。

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小説「サークル○サークル」01-83. 「動揺」

 ヒサシの言葉に浮かれている自分がいる。けれど、これは仕事なのだと冷静なもう一人の自分が諭す。揺れ動く気持ちの中でアスカはヒサシに笑顔を向けた。どうとでも取れる笑顔だ。嬉しいとも、ふざけたことを言わないでとも。アスカはヒサシの前から去ろうと、踵を返した。ふいに強い力で腕を引っ張られて、彼女は振り向く。ヒサシの大きな手がアスカの左腕を掴んでいた。
「何か?」
 アスカは冷静を装いながら言う。それ以上の言葉はとてもじゃないが、思いつけなかった。
「離したくないと言ったら怒る?」
「それは……」
 ヒサシの目はいつになく真剣で、アスカは答えに詰まった。目を伏せ、適当な言葉を探すけれど、気の利いたセリフを思いつけない。アスカが迷っている間にも、ヒサシの手に込める力が強くなる。「離して下さい」と言おうとして、顔を上げた瞬間、アスカは自分の身に起きたことを一瞬理解出来なかった。
 ヒサシの唇が喋ろうとしたアスカの唇を塞いでいたのだ。あまりの出来事にアスカはされるがまま、その場に立ちつくしていた。反論しようにも唇を塞がれていては、声を発することさえ出来ない。やっとの思いで、アスカはヒサシの肩に手を当て押しのけようとした。

小説「サークル○サークル」01-82. 「動揺」

「お待たせ致しました」
 しばらくして、アスカはヒサシに呼ばれて、再び彼の前に立っていた。
「おかわりを」
 静かにヒサシは言い、アスカはドリンクの注文をマスターに伝えに行く。ドリンクが出来上がると、ヒサシの元へと運んだ。
「バーボンでございます」
「ありがとう」
 ヒサシはドリンクをコースターの上に置こうとしたアスカから、わざと手を添えて受け取った。初めて触れるヒサシの手にアスカの鼓動は高鳴った。
「キレイな手をしているね」
 ヒサシは事もなげに言う。
「そんなことありませんよ」
 アスカは速まる鼓動に気付かれないよう、俯きながらヒサシの言葉に応えた。
「白くて、細くて、もっと触れたいと思ってしまう」
 歯の浮くようなセリフもヒサシは照れることなく口にする。それは酒が入っている所為なのか、生まれ持った才能なのか、アスカには測りかねたが、それでも彼に言われると嫌な気はしなかった。まるで、漫画や小説の主人公になった気分さえするのだから、自分も手に負えないな、と呆れてしまう。アスカが顔を上げると、ヒサシの両の瞳がアスカをじっと見据えていた。

小説「サークル○サークル」01-81. 「動揺」

「そうだなぁ……。落ち着いているから、既婚者なのかな、と思ったけれど、若そうだし、独身かな?」
 ヒサシは然して悩んだ様子もなく、さらりと答えた。
「えぇ、そうなんです」
 アスカはあっさりとヒサシの言葉を肯定した。
 それが良かったのか悪かったのか、アスカにはわからない。けれど、仕事を遂行しているという点では正解だと思った。少なくとも、これでヒサシが自分を浮気相手の一人にする可能性は上がった、さすがのヒサシも既婚者をターゲットにすることはないだろう、と踏んだのだ。アスカは次に言うべき、適当な言葉を探していたけれど、見つけることが出来ずにいた。ヒサシが口を開こうとした瞬間、遠くの席からアスカを呼ぶマスターの声が聞こえた。
「すみません、失礼します」
 アスカは会釈をし、ヒサシの元を後にする。内心、そっと胸を撫で下ろした。あのまま、あの場にいては、きっと何かしらボロを出していたに違いない。アスカはマスターの指示従い、別の客に食事を運ぶ。そんなアスカの姿をヒサシはじっと見据えていた。

小説「サークル○サークル」01-80. 「動揺」

 他愛ない会話が進んでいく。最近の天気予報が当たらないとか、日に日に寒さが増しているとか、見知らぬ誰かとでも交わせるような内容の話ばかりが続いていた。傍から見ていれば、和気藹々としているように見えるが、そんな状況にあってもアスカは物足りなさを感じてしまう。もっとヒサシのパーソナル部分が知りたい、もっと自分のことを知ってもらいたい、と彼女は思わずにいられなかった。けれど、そんなことは口が裂けても言えない。それは仕事としてヒサシに接触しているからなのか、それともただ単にヒサシに恋するあまり嫌われるのが怖くて言い出せないのか、アスカにもよくわかってはいなかったが、明らかにそういった感情は恋をしたから持つものだということを彼女は自覚していた。そんな自分に嫌気がさしたけれど、アスカはどうすることも出来ずにいた。
 そんな時だった。ヒサシから意外な言葉が飛んできた。
「そう言えば、ご結婚されているんですか?」
「えっ……」
 アスカは一瞬言葉に詰まる。
「どう見えますか?」
 咄嗟の判断にしては上出来な返しだ。まさか、ヒサシからそんな質問をされるなど微塵も思っていなかったアスカは、ヒサシの次の言葉にどう答えるべきか頭を悩ませていた。


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