シンゴは自分の過去を思い返す。アスカとの結婚はシンゴにとって、二度目の結婚だった。一度目は担当編集者と結婚した。けれど、長くは続かなかった。仕事中だけでなく、プライベートな時間まで、仕事のことが過ぎるようになってしまい、シンゴは一緒にいることを窮屈に感じるようになってしまった。勿論、だからと言って、シンゴは浮気などしなかった。それは妻に対しての誠意などではなく、そういった環境になかったことと、浮気をするだけの度胸がなかったからだ。浮気をするには、それなりの覚悟がいる。バレた時にどうやって切り抜けるのか。バレれば罵られるかもしれないし、殴られるかもしれない。ただ愛想を尽かされるだけかもしれないし、泣かれるかもしれない。どんなことが待っているのかわからなかったけれど、修羅場を迎える可能性は高い。そうなった時、自分がどんな状況にも耐えうるだけの強いハートを持っているのか、と自問した際、シンゴの答えはノーだった。強いハートがないのであれば、浮気はしない方が良い、とシンゴは結論付けたのだ。
シンゴとて、アスカに浮気をしてもらいたいわけなどではない。第一、アスカがヒサシのことを好きだったとしても、ヒサシにその気がないかもしれないではないか。アスカを誘ったのだって、ただ気の迷いや冗談かもしれない。けれど、それは自分がそう思いたいだけだと、シンゴにはわかっていた。そんな気休めはいらない。シンゴは必死で考えた。アスカが浮気に走らないように何をするべきか、それとも走らせて間違いに気付かせ、やめさせるべきか――。
そこまで考えて、ふと自分を振り返った。浮気は良くないことだけれど、浮気をするにはそれなりの理由があるはずだ。その理由は紛れもなく、自分にあるのではないか、とシンゴは思った。うだつのあがらない夫である、という自覚は存分にある。アスカに養い続けてもらっているという後ろめたさもある。けれど、アスカを愛しているという気持ちだけは本物だ。その思いをアスカはわかっているのだろうか。いや、わかっていてもそれはあまり関係ないのかもしれない。相手が自分を愛しているかどうかが問題なのではなく、自分が相手を愛しているかどうかが問題なのだ。もしアスカがシンゴを愛していなければ、「浮気をしない」理由などないに等しい。結婚しているという、ある種の契約だけで、人の心まで縛れないということをシンゴは痛いほど知っていた。
アスカはシンゴの言葉に少し引っ掛かりを覚えながらも食事を完食し、席を立った。食器を片付けようとすると、シンゴが「いいから、お風呂に入ってきなよ」と言ったので、彼女はシンゴの言葉に甘えてそのまま風呂場へと直行する。
シンゴは食器を片付けながら、さっきのアスカの目を思い出していた。明らかにあの目は恋する女の目だ。いくら売れていなくても作家は作家だ。人間観察はどんな場所でもどんな時でも欠かさない。些細な人の表情を見逃したりするわけがなかった。それが自分の妻であれば尚更だ。
シンゴは食器を洗いながら、どうするべきか悩んでいた。「君は恋をしているね」と言えば、アスカのことだから、「そんなことないわ」と言うに決まっている。「恋をしているの?」と訊いても同じことだ。どうすればいいのか――それは、彼女が自覚するような出来事が起こる場面を押さえるしかない。即ち、浮気の現場を押さえるということだ。
僕は一体何を考えているのだろう、とそこまで考えてシンゴは思った。
「女の勘で浮気に気が付き、ケータイを見て確信に変わる。浮気発覚で一番よくあるパターンだってことは、アスカが一番よく知っているだろう?」
「そうだけど……」
しかし、アスカはどこか腑に落ちなかった。マキコがそんなことをするような女に見えなかったからだ。今になって思うと、依頼された時にどうして浮気に気が付いたのか、ということを訊かなかったことを後悔していた。いつもなら、間違いなく訊いていたはずだ。けれど、あの時、なぜかそんなことを訊く気にはならなかった。それはマキコの持つ雰囲気やしぐさが理由だったのだろうが、後悔だけがアスカの気持ちに残る。
「そうやって、依頼者はターゲットの浮気を知り、浮気相手までをも知ってしまった。そして、君のところにやって来た。外で仕事をしていれば、気が紛れるかもしれないけれど、ずっと家にいる専業主婦にとっては、家庭が全てになってしまいがちだからね。自然と視野が狭くなってしまうこともあると思うよ。依頼者が多趣味で習い事をいっぱいしていたとかっていうんなら、また違ってくるとは思うけど」
そこまで言って、シンゴは「まぁ、僕も常に家にいる身だからね、依頼者の気持ちがわからなくはないんだ」と付け加えた。
「視野が狭くなる、自分の世界が家庭だけになる。これって、実はとても怖いことだと思わない? 世界は限りなく広いんだ。けれど、依頼者にとってはそうではなかった。狭い世界だから、なんにでもすぐ手が届く。手が届くなら、敢えて触れないという選択をしない限り、簡単に触れることが出来てしまう。本当は触れない方がいいものにも触れてしまうんだ。けれど、触れれば真実を知ることが出来る。もやもやするくらいなら、一層のこと、傷付いても真実を知りたいと思うのが多分人間ってものだと思う。間違いなく、僕だったら、触れてしまうだろうね」
小説の文章のような言い回しに聞き入りながらも、最後の一文にアスカは度胆を抜かれた。そして、すぐに言葉が口をついて出た。
「私のケータイ見てるの?」
驚いた様子で言うアスカに「まさか」と言って、シンゴは笑う。そして、「たとえ話だよ」と続けた。
「だから、たとえどんなタイプの女性だったとしても、ケータイを見るのは別に有り得ない話ではないと思うよ」
シンゴの言葉を受けて、アスカは唸っている。しばらく唸っても答えは出そうにないと彼女は判断し、シンゴの目をしっかりと見据えると、再び口を開いた。
「依頼者がケータイを見て、ターゲットの浮気と浮気相手もわかってたわけでしょう? なのに、どうして私のところに依頼に来たのかしら……?」
アスカはシンゴから視線を外し、テーブルに並べられた食べかけの食事に視線を落とした。
「それは家庭に波風を立てずに別れさせてほしいからだろう? 依頼者がターゲットを問い詰めたりしたら、浮気をやめたとしてもわだかまりは残るからね。それに自分で問い詰めて、ターゲットが浮気相手を選ぶのが怖いからじゃないの?」
「それはそうかもしれないけど……。なんか腑に落ちないっていうか……」
アスカは自分の仕事の甘さに憤りを感じつつ、言いようのない違和感を覚えていた。何かが引っかかる。けれど、何が引っかかっているのかアスカ自身にもよくわからなかった。その引っかかりの一つであろうことをアスカは躊躇いながらも口にした。
「あのね、依頼者は妊娠してるのよ。妊娠がわかったら、急に夫が優しくなるとかってよく聞く話じゃない? 妊娠してるなら、妊娠を伝えて、浮気をやめてもらうことって、有効な方法な気がするんだけど……」
「でも、浮気が一番多い時期っていうのは、奥さんの妊娠してる時だとも言うよね」
「確かに……」
アスカは腕を組み再び唸り出した。パエリアもスープもすでに冷め切ってしまっていた。
翌日の夜、アスカはバーにいた。マキコの依頼再開の申し出があった場合に対応出来るように、少なくともあと1ヶ月は働くつもりでいた。しかし、アスカがバーで働くのは決してそれだけが理由ではなかった。視線の先にはヒサシがいる。心のどこかでアスカはヒサシのことをもう少し知りたいという好奇心に駆られていた。
今まで様々な仕事を請け負ってきたが、一度もターゲットに対して、こんな感情を持ったことはなかった。アスカはいつだって、正確に業務を遂行していたし、ターゲットに心を奪われるようなこともなかった。けれど、ヒサシに会った時、今まで感じたことのない感情が自分のお腹の底から沸々と湧き上がって来るのを感じていた。それはヒサシに会えば会うだけ大きくなっていく。アスカに旦那がおらず、ヒサシがターゲットでなければ、恋と呼ぶにふさわしい感情だったかもしれなかったが、そんな感情をアスカがターゲットであるヒサシに持つことなど許されるわけがなかった。ここでヒサシに恋をしてしまっては、アスカの仕事は台無しだ。アスカは自分の感情に気付かない振りをしながら、しかし目だけはしっかりとヒサシを追っていた。だが、その横には今日も可愛いという言葉がよく似合う女が座っていた。
しばらくすると、ヒサシの隣に座っていた女が化粧室の場所をアスカに訊き、席を立った。
「今日はいつもと雰囲気が違いますね」
ヒサシは女の姿が見えなくなると、アスカに笑顔を向ける。そういう抜かりのなさにアスカは苦笑しそうになった。そして、「あぁ」と言って、彼女は髪留めに手をやる。今日は髪をアップにしていた。
「……変ですか?」
アスカは急に不安になって訊く。そんなアスカをヒサシは優しい眼差しで見据えた。
「いえ、とてもお似合ですよ。いつもより、色っぽく感じるけどね」
ヒサシの言葉にアスカは自分の頬が高揚していくのを感じていた。
「それはありがとうございます」
店内が薄暗くて良かったと思いながら、アスカは頭を下げた。これ以上、ヒサシの前にいることが恥ずかしくて、アスカがヒサシの前から立ち去ろうとしたその時だった。
「ねぇ、今日、この後、空いてる?」
「えっ……?」
突然過ぎる言葉に思わず聞き返す。アスカはヒサシの目を見た。その目は真剣そのものだ。一瞬、胸が高鳴った。が、アスカはすぐに自分の立場を思い出す。冷静さを失っては、この仕事を遂行することなど到底出来はしない。アスカは過ぎった気持ちを悟られないようににっこりと微笑んだ。
「お相手の方に申し訳ないです」
遠慮がちに、だがしっかりとアスカは言った。
「君なら、きっとそう言うと思ったよ」
ヒサシは余裕の笑みを浮かべながら、アスカを見遣る。
「仕方ないね、今夜は彼女の相手をすることにするよ」
ヒサシはいけしゃあしゃあと言い放つと、アスカに微笑んだ。そこへタイミング良く、女が戻ってくる。アスカはお辞儀をすると、カウンターの奥へと向かった。
アスカは濡れたグラスを手に取り、一つ一つ丁寧に拭いていく。グラスを持つ手に思わず力が入った。あのセリフはなんなんだ――アスカはヒサシの態度にイライラせずにはいられなかった。「仕方ないね、今夜は彼女の相手をするとこにするよ」とはあまりにも上から目線の発言ではないか。毎晩連れてきている女に自分は興味がないけれど、自分に好意を持ってくれるからここへ連れて来て、ベッドを共にするというのだろうか。ヒサシは自分がモテることを知っている男だと思う。けれど、あの発言はどうしたって、許しがたい。そして、アスカははっと我に返る。どうして、そこまで相手の女の立場で考えてしまっているのだろうか、と。
それは紛れもなく、アスカの意思に反して、アスカが次第にその女の立場に近付いている証拠だった。
ヒサシと女のことが気になったが、アスカはちらちらと少し離れた場所から見ることしか出来ずにいた。会話の内容を知りたい――いや、仕事の一環として聞かなければならない、と思うのだが、いかんせん、身体が思うように動かなかった。知りたいと思う反面、どこかで知ることを怖いと思っている自分がいるのだ。
こんなことでどうするの、仕事なのに。そう思ってはみても言いようのない、釈然としない気持ちだけが頃の奥底に滞留するのを感じていた。
そうこうしているうちに、ヒサシが片手を挙げた。アスカは一瞬ドキリとしたものの、平静を装い、ヒサシたちの前に行く。
「お待たせ致しました」
アスカはいつもと同じセリフを口にする。
「チェックをお願いします」
ヒサシは口元に薄っすら笑みを浮かべ言った。「かしこまりました」とアスカは伝票を取りに行く。
これからきっとヒサシと女はベッドをともにするのだろう。仕方のないことだけれど、なんだか遣る瀬ない気持ちになった。アスカは伝票とカルトンを持ち、再びヒサシたちの前へと行く。締めつけるような空しさだけが、アスカの心の中を支配していった。
「伝票でございます」
アスカは伝票をヒサシに手渡す。ヒサシが受け取る瞬間、ちらりと隣の女を見遣った。栗色の巻き髪がいかにもといった今風の若い女だ。その女のネイルには、凝ったデザインのアートが施され、手にはしっかりとブランドもののバッグがあった。女はカウンターの上にある空になったグラスをぼんやりと眺め、財布を取り出す気配すらない。アスカにはそんな女の態度が理解出来なかったし、気に入らなくもあった。一瞬過ぎった「私の方がいい女なのに」という気持ちは単なる僻みでしかない。第一、成熟しかけている大人という意味では、アスカの方がいくらか年が上なのだから当たり前であったし、何よりこの女はアスカより幾分もキレイだった。アスカにはない美貌を持ち合わせているという点では、明らかに女の方が優れている。
ヒサシは数枚の一万円札を伝票に挟むとアスカに渡した。アスカはそれを丁寧なしぐさで受け取ると、「かしこまりました」と言ってレジへと向かう。釣り金とレシートをカルトンの上に乗せ、ヒサシのところへ再度持って行った。
「お待たせ致しました。お返しでございます」
アスカは小銭の乗ったカルトンをヒサシの前に置いた。「ありがとう」とヒサシは言い、振り向くことなく、店を後にした。
ヒサシと女の後ろ姿を見送りながら、アスカはもやもやとした気持ちだけが心の中で渦巻くのを感じていた。
アスカが深夜に家に着くと、シンゴは珍しく起きていた。
「おかえり」
笑顔で出迎える夫にアスカは「ただいま」と応える。昨夜、会話があった所為か、以前ほどシンゴに対して、嫌な感情はなかった。アスカは脱いだコートをハンガーにかけると食卓に着き、シンゴはタイミング良く、温かい食事をアスカの前に並べた。
「夜も遅いから、あまり重くないものにしたよ」
シンゴに言われて、アスカは目の前の食事に視線を落とした。はらこめしとほうとうが湯気を立てている。小鉢には小松菜が入っていた。
「健康的ね」
アスカの言葉にシンゴは満足そうに頷いた。
「君のことだから、カロリーも気にするだろうと思って、和食にしたんだよ」
シンゴの言葉にアスカは素直に「ありがとう」と言った。「いただきます」と言って、彼女は食事を始める。シンゴもそれに付き合う形で向かいの席に座った。
「夜遅くまで大変だね」
「えぇ、そうね。でも、大分慣れたわ」
「今日もターゲットは他の女を連れて来た?」
「えぇ。毎回、違う女なのには本当に呆れるわ。そう言えば……」
アスカはほうとうを持ち上げて、手を止めた。
「そう言えば?」
鸚鵡返しに問うシンゴにアスカは黙ったまま、視線を彷徨わせた。言うか言わないか、一瞬心に躊躇いが生じたのだ。しばらくして、アスカは口を開いた。
「口説かれたの」
「えっ!?」
アスカの言葉にシンゴは目を丸くした。
「口説かれたって、君が?」
「私以外の誰の話をするのよ」
「そりゃそうだけど……。そうか、君が口説かれたのか……」
「何? 私が口説かれることがそんなに不思議?」
少しむっとした様子で言うアスカに、慌ててシンゴはかぶりを振った。
「そんなこと言っていないじゃないか。いや、まさか、君にまで接触を図ろうとするなんて、大した度胸だな、と思って」
「それどういう意味?」
「あっ、えっと、君が思っているような意味じゃなくて、別れさせ屋である君を口説くなんて、度胸があるって意味」
言い繕うのに必死なシンゴは額に汗を滲ませている。「まぁ、いいわ」と言って、アスカはほうとうを啜った。
「それで、君はどうしたの?」
「断ったわよ」
「なんて?」
「お相手の方に申し訳ないですって」
「へぇ……」
「何よ、誘いに乗った方が良かったわけ?」
アスカは言って、シンゴを睨みつける。シンゴは大袈裟に首を左右に振って見せた。
「そんなこと思うわけないじゃないか。ちゃんと断ってくれて、安心したよ」
「でしょうね」
アスカはつっけんどんに言い放つと、今度ははらこめしに手を伸ばした。
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「君は……」
黙々と食べているアスカにシンゴは思い詰めたような声で言った。アスカは咀嚼しながら、目だけで「何?」とシンゴに問いかける。シンゴは一瞬躊躇うようにアスカから視線をそらし、徐に口を開いた。
「君はその誘いを本当に断りたいと思った?」
「えっ?」
シンゴの言葉にアスカは思わず、手に取りかけたほうとうの入ったお椀をテーブルの上に置いた。
「何言ってるの? 当たり前じゃない」
「そうだよね……。ごめん」
シンゴはアスカを見ずに相槌を打つ。アスカは音のない溜め息をついて、ほうとうの入ったお椀に再度手を伸ばした。
アスカがほうとうをすする音だけが部屋に響く。シンゴは何か言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。自分の言葉が嫉妬から出たものだという自覚があったからだ。けれど、嫉妬だけでそのように思ったわけでは決してなかった。アスカの仕事のことを話す目は――ヒサシのことを話す目は明らかにいつものアスカとは違っていたのだ。口説かれた話をシンゴにするか、しないか迷ったその目は、いけないことをしている子どものようにキラキラとし、まるで恋をしているように、シンゴには映っていた。