「あなたみたいな人がここで働いているのが不思議でね」
「どうしてです?」
アスカはそっと胸を撫で下ろしながら訊いた。
「頭の回転もいいし、受け答えもいい。ここで働くには実に惜しい」
「……そんなこと」
アスカの返事に彼女が気分を害したのだと思ったのか、ヒサシは「失礼」と言って、苦笑した。
「決して、接客業を軽んじているわけではないですよ。ただ接客業というよりは、営業向きだって思ったんだ」
「そんなこと考えてもみなかったわ」
「自分の適性を正確に把握している人間は少ないからね」
「転職する際の参考にさせていただきます」
アスカはヒサシに笑顔で言った。ヒサシが何か言いかけた時、別の客に呼ばれてアスカはヒサシに背を向けた。
ヒサシは口を噤み、視線をアスカからそらした。じっと彼女を見ていることがなんだか急に気恥ずかしくなったのだ。自分でもどうしてそんな風に感じたのかわからず、ヒサシは眉間に皺を寄せた。
アスカはヒサシの方に向き直ると、「それでは、失礼します」と言って、別の客の元へ行ってしまった。
ヒサシはジントニックの入ったグラスに口をつけて、彼女の後ろ姿を目で追った。
然して、美人というわけではないが、気になる女だな、とふと思って、ヒサシはまた苦笑した。最近の自分の行動に少し笑ってしまったのだ。軽率な行動、などと言ったら、声をかけている女に失礼だと思う反面、その言葉が一番しっくりくるような気がしていた。女なら誰でもいいのか、と時々自問してしまうくらい、最近のヒサシは手当たり次第、いいなと思った女に声をかけていた。勿論、仕事に支障が出ないような女にしか声はかけない。会社に押しかけてきたり、浮気をネタにゆすってきたりする女は避けたかった。自分に本気になる女は、妻と愛人の2人もいれば十分だと考えていた。本気――そこまで考えて、ヒサシは深く溜め息をついた。2人を同時に愛することは出来ても、2人の本気を同時に受け止めることに、最近いささか疲れ気味であることは違いなかった。そんな疲れから手当たり次第に声をかけているのかもしれない、と思ったところで、ヒサシは考えるのをやめた。いくら考えたって、今の彼には答えなどわからなかったからだ。
ヒサシは徐に携帯電話をポケットから取り出した。着信もなければ、メールの受信もない。溜め息をついて、再びポケットに携帯電話をしまった。
その後、彼がいくら待っても、待ち人は来なかった。
アスカはベッドの上で大きく伸びをすると、隣でまだ寝ているシンゴに目をやった。静かに寝息を立て、丸まるように眠っている自分の夫を見て、溜め息をつく。
昔はこんな姿を見るだけで、嬉しくなったものだ。隣に自分の愛する人が寝ている、という事実だけでどうしてあんなにも嬉しかったのか、今の自分には到底理解することなど出来ない。あの頃の気持ちと今の気持ちの落差にアスカはもう一度溜め息をついた。
彼女はベッドから出て、ひんやりとしたフローリングに足をつけた時、ふと昨日のヒサシのことを思い出した。選ばれた言葉、眼鏡のブリッジを押し上げるキレイな指、スマートな振る舞い、どれをとっても、胸をときめかせるには十分だった。今、自分の隣で寝息を立てている男とは雲泥の差だ。
アスカはまた出そうになった溜め息を奥歯で噛み殺した。
今日はバーでの仕事は休みだったので、アスカは事務所の椅子に座り、いつものように机の上に足を乗っけながら、書類に目を通していた。左手には書類、右手には煙草を持ち、白い煙を事務所に充満させている。
「別件は上手くいってるみたいねー……」
煙草を灰皿に置き、紅茶の入ったカップに持ち替えると、アスカは紅茶を一口すすった。書類を机に置こうとした時、突然事務所のドアがノックされた。
アスカは慌てて、机から足を下ろす。あともう少しで灰皿を蹴飛ばすところだったが、掠る程度で済んだのを見て、安堵の溜め息をついた。そして、自分の溜め息の多さに1人苦笑する。
「どうぞ」
アスカはドアに向かって言った。ドアは遠慮がちに開くと、ひんやりとした風を一緒に運んできた。ドアの向こう側にいる人物に目を凝らす。そこには髪を丁寧に巻き、お腹が隠れるようなふんわりとしたワンピースを着たカイソウ マキコが立っていた。
「お久しぶりです。どうしました? 取り敢えず、こちらにどうぞ」
突然のマキコの訪問にアスカは驚きつつも、平然とマキコを中に招き入れた。
「すみません……。突然、押しかけてしまって……」
マキコは申し訳なさそうに言った。彼女がどうしてここに来たのかの検討はつく。きっとヒサシと不倫相手の現状を聞きに来たのだろう。アスカは「大丈夫ですよ」と営業スマイルを向けた。
「今、お茶を淹れますから、かけてお待ち下さい」
アスカは言いながら、キッチンへと消える。
「いえ、お構いなく」
マキコは一応遠慮したが、それが建前であることをアスカも知っている。アスカはポットを用意すると、マキコの身体を気遣って、ノンカフェインの紅茶を選んだ。
しばらくすると、アスカはクッキーと一緒に紅茶をマキコの前へと置いた。
「今日はどのようなご用件でしょうか」
予想はついていたが、アスカは取り敢えず訊いた。
「主人のことなんですが……」
マキコは口を開き、申し訳なさそうに言った。
「もう別れさせなくても結構です」
きっぱりと言い放ったマキコの言葉にアスカは自分の耳を疑った。
「今、なんて……?」
我ながらマヌケな返答だと思ったが、それ以外に適当な言葉も思いつかなかった。
「ですから、主人と不倫相手を別れさせなくて、結構だと言ったんです」
マキコは表情一つ変えることなく、もう一度はっきりと言った。
「どうしてですか? こちらの対応に何か不満でも?」
「そういうわけではありません……。ただ別れさせたところで、主人が私のところに戻ってくるとは、とても思えなくて」
マキコは俯いて、紅茶を見つめると、そっと手を伸ばして、カップに口をつけた。
沈黙が落ちる。
アスカはマキコの言葉の真意を探るのに精一杯だった。
アスカが黙っていると、マキコは静かに言った。
「勿論、今までかかった費用は全てお支払させていただきます」
当たり前だ、と頭の中では思ったが、アスカはそれ以上に妙な引っ掛かりを覚えていた。パートをして貯めたお金を全額はたいてでも、旦那と不倫相手を別れさせようとしていたマキコが、突然自分の元に旦那が戻ってこない気がする、というぼんやりとした理由だけで依頼を断ってくるなんて到底思えなかった。理由があるとすれば、もっと別の理由だ。アスカは思考を巡らすが、一向にその理由を思いつけないまま、時間だけが過ぎて行った。
「ご主人が不倫をやめたら、あなたのところに戻ってくる、と思えない事情でも?」
アスカは仕方なく、疑問をそのまま口にした。マキコは眉間に皺を寄せたが、小さな声で「いいえ」と答え、その後に「女の勘、みたいなものです」と付け加えた。
アスカは腑に落ちなかったが、依頼主からそう言われれば、無理に引き留めるわけにもいかない。かかった金額を算出して、また連絡すると伝え、今日のところは帰ってもらうことにした。
「お邪魔しました」
マキコは深々と頭を下げると、エミリーポエムを後にした。階段を降りる度、くるくると巻かれたマキコの髪が揺れるのを見ながら、アスカは苦虫を噛み潰したような顔をした。
マキコが来てから、1週間が経った。けれど、アスカは今日もバーにいる。店内の薄暗さも静かに流れるBGMも何もかもがいつもと同じだった。アスカはオーダーされたドリンクやフードを運びながら、空いた時間でグラスを拭く。オーダーが落ち着いたおかげで、漸く3つ目のグラスに手を伸ばすことが出来た。
マキコに調査をやめていいと言われてから、アスカはバーでの仕事をどうするか悩んだ。しかし、働き始めて数日で唐突に辞められるわけなどなかったし、何より調査の停止がマキコの一時の気の迷いの可能性であることも否めなかった。そうなると、しばらくの間はバーで働かざるを得ない、というのが彼女の出した結論だった。
相変わらず、ヒサシは毎回違う女を連れてバーにやって来た。今日、連れてきた女は黒髪のストレートヘアが印象的なエキゾチック美人だった。毎日毎日違う女を連れてくる、そんな光景を見ていたアスカは大学の食堂の日替わりメニューをなんとなく思い出していた。それくらい、見事な日替わり振りだったのだ。
勿論、代金を支払うのはヒサシだ。決して、毎日の出費として、財布に優しい金額ではなかったが、当の本人は涼しい顔をして支払いを済ませて帰っていく。一体、どれだけ稼いでいるんだろう、とアスカはそんなヒサシを見送りながら少し羨ましくなった。
ヒサシの振る舞いは女から見れば魅力的だ。女が男に欲する色気も十分とは言えなかったが、若い女を虜にするのに必要な分は持っている。だからと言って、不倫というリスクを犯してまで付き合いたいと思えるほど、イイ男かと訊かれれば、アスカはノーだという気もしていた。不倫はリスクが高すぎる。不倫していたことが相手の奥さんにバレれば、慰謝料だって請求されるのだ。そんなスリリングな恋愛を好んでしたいとは、いくら旦那に不満のあるアスカでもやはり思えなかった。
けれど、ヒサシと付き合っている不倫相手たちにはそんなことは関係ないのだろう。それくらい、ヒサシに入れあげているのだとしたら、一体何が理由なのか。アスカは首を捻った。そして、一つの結論に辿り着く。そうか、テクニシャンなのか、と。そこまで考えてアスカは一人苦笑する。自分がそんな下世話なことを考えてしまったことに、急に気恥ずかしさと居た堪れなさを感じたのだ。いくら自分が最近ご無沙汰だからと言って、そんなことを想像してしまうなんて、とも思った。でも……とアスカは思う。そう考えるのが、一番しっくり来るのも事実だった。
ただバーに飲みに来て終わり、なんて子供じみた関係のはずがない。むしろ、ヒサシは大人の関係を望んでいるに違いない。第一、マキコは今妊娠中なのだ。妊娠中にセックスが出来ないわけではなかったが、ある程度落ち着いてからしかすることは出来ないし、身体のことを考えたら、マキコは嫌がるかもしれない。そう考えると、辻褄が合うような気がしていた。
ヒサシがいつも連れてくる女が違うのは、違う女で楽しんでいるのか、それともアスカの想像したこととは真逆のこと――つまり、テクニック不足で同じ女を二度抱けないか、のどちらかだろう。
そこまで考えて、アスカはふとマキコの依頼内容を思い出した。「主人とその不倫相手を別れさせたいんです!」とマキコは言っていた。不倫相手、と断定するからには、一度だけの関係ではないということだろう。そうなると、その女だけはヒサシにハマったということになる。よっぽどの場合を除いて、何人もの女に愛想を尽かされるような男に女がハマる確率は低い。そうなると、テクニック不足ではない、ということになり、やはり最初にアスカが立てた仮説が有力だということになる。ただその場合、どうして1人を除いて、一度きりなのか、ということが腑に落ちない。
アスカはグラスを拭きながら、止まることのない思考を巡らせ続けていた。
翌日、アスカは久々に早い時間に帰宅していた。バーのバイトは休みだった。アスカのいつもより早い帰宅にシンゴは驚きながらも嬉しそうに彼女を出迎えた。
「お疲れ様。もうお風呂沸いてるよ」
笑顔で言うシンゴに対し、アスカはそっけなく「お風呂入って来る」と言って、脱いだコートをシンゴに預けると、バスルームへと向かった。シンゴはアスカのコートを受け取ると、彼女の遠くなる後ろ姿を黙って見送る。バスルームのドアの奥へとアスカの姿が消えた瞬間、シンゴの口からは溜め息が漏れた。
擦れ違いが重さを増していくことにシンゴはなす術もなく、立ち尽くす。ふいに過去の記憶が頭を過った。お世辞にも楽しい記憶とは言い難い。出来れば、今思い出すのは避けたい記憶だ。
シンゴはアスカと結婚する前、結婚していたことがあった。勿論、アスカと出会った頃は独身だったし、倫理に反するような付き合いはしていない。そもそも、不倫なんて度胸のいることをシンゴが出来るわけなどなかった。シンゴはまた自分が離婚へと向かっているような気がして、仕方がない。前の離婚の時もこんな感じの前兆があったな、とどこか他人事のように思い出していた。
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「成り立つんじゃない?」
アスカはムール貝を口に運びながら言った。いつも思うことだが、やはりこの味を好きになれない。それでも、なぜか毎回チャレンジしてしまう自分に半ば呆れていた。
「じゃあ、君は友情関係の成立した男友達を持っているんだね?」
言われて、アスカはしばし考え込む。何人か男友達の顔が浮かんだが、果たして、本当にそこには友情しかなく、恋愛感情は皆無だと言い切れるのだろうか。強く迫られたら、恋に落ちてしまいそうな友達が二人いることに気が付いた。けれど、それ以外は全員恋愛対象外だ。しかし、相手の男友達に自分に対する恋愛感情が皆無だと言い切れるだろうか。心の中のことは、本人にしかわからない。
「そうね。だいたいは、成り立つんじゃないかしら」
「ということは、成り立たない関係性でありながら、友達関係を続けている、ということだね」
「そういうことになるわね。そういうシンゴはどうなのよ」
「僕? 僕は成り立たないと思っているよ。だから、女性と二人きりで食事を行くなんて、浅はかな真似はしない。編集担当者は別だけどね」
シンゴの言葉にアスカは黙るしかなかった。
アスカはそっと目を開け、天井を見つめる。今日も1日が始まった。隣に視線を移せば、すでにシンゴはいなかった。きっと朝食でも作っているのだろう。
アスカはベッドから抜け出して着替えると、顔を洗って、リビングへと向かった。リビングに行くと、アスカが予想した通り、シンゴが朝食を作っていた。食卓テーブルの前に立つと、味噌汁と焼き魚の匂いがアスカの鼻先をつく。起きたばかりだというのに、彼女の食欲は刺激された。
「おはよう」
シンゴはアスカの気配に気が付き、後ろを振り向いて言う。
「おはよう」
アスカはぼーっとしたまま、食卓テーブルの前に立ち尽くす。昨日、置かれていたビーフシチューはすでに片付けられていた。
「もう出来るから、座って待ってて」
「……うん」
アスカは椅子に座って、シンゴの後ろ姿を見つめる。いつから、この背中にときめかなくなってしまったのだろう。結婚する前はシンゴの後ろ姿にさえ、ときめきを覚えていた。すぐ近くにいることがとても嬉しかった。けれど、今はなんとも思わない。ただそこにシンゴがいる、という事実だけが存在し、それ以上何も思うことが出来なかった。
「お待たせ」
シンゴは全ての料理をテーブルに並べると、アスカに笑顔を向けた。アスカの気持ちが遠く離れているのに、シンゴはそうではないようだった。
「いただきます」
シンゴが席に着くのを待って、アスカは小さな声で言った。頭はまだ若干ぼーっとしていたが、味噌汁にそっと口をつける。温かな液体が身体の奥深くに沁み渡った。こういう時、日本人で良かった、とアスカは大袈裟に思う。
「昨日、随分、遅かったみたいだね」
シンゴは遠慮がちに言った。
「今、仕事が忙しいの。潜入でバーで働くことにしたから」
「バーで!?」
「どうしたの? 何か問題でもある?」
「えっ、いや……。アスカがバーで働くなんて、予想外だったから……」
「そう? 結構、いい感じよ」
「そうなんだ……。別れさせ屋は大変だね……」
シンゴはそれきり口をつぐんで、焼き魚に箸を伸ばした。シンゴにとって、バーで自分の妻が働くということは、出来れば避けたいことだと思っていた。何度かシンゴもバーに行ったことはあったが、見ず知らずの人とも気軽に話せるし、店員とも会話を楽しむことが出来る。それが魅力でもあり、シンゴ自身楽しくもあったが、自分の妻がそういった場所で働くというのは、また別の話だった。ささやかなヤキモチだ。
シンゴは焼き魚を食べながら、アスカの顔をそっと盗み見た。近くにいるのに、少しだけアスカを遠くに感じていた。
シンゴの気持ちなど気付くわけもなく、アスカは食事を終えると事務所に向かった。別れさせ屋の仕事は、バーでヒサシの監視をするだけではない。別の案件の進捗具合も把握し、仕事が順調に進んでいるかをチェックしなければならなかった。
アルバイトの作った書類に目を通しながら、アスカはキッチンへと向かう。紅茶を淹れて、カップに口をつけながら、彼女は再び椅子の上に踏ん反り返った。
「あともう少しで、この案件は片付きそうね……」
書類に目を通したことを知らせるサインを書くと、アスカは机の上に足を乗せた。お世辞にも行儀が良いとは言えなかったが、彼女が考えごとをする時はいつもこうだった。
机の上に無造作に置かれた煙草を手に取ると、灰皿の横に置かれたライターで煙草に火をつけた。いつからだろうか。煙草がないと生きてはいけないと感じたのは。昔は煙草なんて吸わなかった。健康のことを気遣っていたし、煙草を吸う他人に嫌悪感すら抱いていた。それなのに、今では1日に何本もの煙草を灰皿に押しつけている。
些細なきっかけで、人の心は揺さぶられ、知らず知らずのうちに深みにハマっていく。アスカにとって、それが煙草だった。そして、それは恋愛も一緒なのだと、ふと彼女は思って苦笑した。
時間が来ると、アスカはバーへと向かった。相変わらず、商店街は賑わっている。
ある程度、状況証拠を掴み、ヒサシと個人的に接触出来るようになったら、次はヒサシの浮気相手に接触しなければならない。本来ならば、同時進行でやりたいところだったが、いかんせん、エミリーポエムには人がいない。アスカは出来る限り、自分で出来ることは自分でやらなければならなかった。今までそれでどうにかやってこられはしているが、時々アスカはどうしようもない疲労感に襲われる。そんな時、彼女は年齢を思い知らされた。仕事を分担したい、と心底思ったが、今更、弱音を吐くのはどうかしている、とも思う。自分がやらなければ、誰かがやってくれるものではないということを一番よくわかっているのはアスカ自身だったからだ。
バーに行く道すがら、アスカは自分の格好に視線を落とした。別れさせ屋として、事務所にいる時は大して気になんてしなかったが、バーで働くとなると、別だ。多くの人に出会い、多くの人に見られる。それには、事務所にいる時とは違った緊張感があった。カウンターにいると、まるで値踏みをされているような気分になることさえある。そんな気持ちになるのは、自意識過剰だとわかっていたけれど、自分は女である、と自覚する瞬間でもあった。
昨日と同様、アスカはバーの仕事をしながら、ヒサシをまだかまだかと待っていた。
ヒサシがこのバーの常連だとすれば、昨日の接触で新しい店員が入ったという認識が生まれたはずだ。これを使う手はない。アスカは頭の中で自分を印象づける為に今日は時間を使う予定だった。
しばらくして、バーのドアが開いた。ドアベルが鳴り、アスカはふいに顔を上げる。「いらっしゃいませ」と入って来た客に笑顔を向けた。アスカの笑顔の先にはヒサシが立っていた。
ヒサシは笑顔を返すと、昨日と同じ席に腰を下ろす。今日は女を連れていない。待ち合わせでもしているのだろうか。
「いらっしゃいませ。おしぼりをどうぞ」
アスカは昨日と全く同じセリフでヒサシを迎えた。
「ありがとう」
昨日とは打って変わって、ヒサシはアスカにやわらかい口調で応えた。一体、どういう風の吹き回しだろう、とアスカは思ったが、笑顔を崩さずに「ご注文はお決まりですか?」とヒサシの顔を覗き込んだ。すると、ヒサシはメニューを見ずに「ジントニックを」とだけ言った。
アスカはオーダーを通すと、ヒサシのところにお通しのスープを持っていこうと、ちらりとヒサシを盗み見た。ヒサシはアスカが振り向いたのとほぼ同時に腕時計に視線を落とし、一瞬眉間に皺を寄せる。そのしぐさから、アスカはヒサシが女と待ち合わせをしていることに気が付いた。
「お通しでございます」
アスカは昨日と同じようにスープをヒサシに出す際、しっかりとヒサシの目を見て微笑んだ。
「ありがとう」
昨日は女がいた所為かはそっけなかったヒサシだったが、今日は何をするにもやけに愛想が良い。ヒサシの笑顔は女心の奥の方をくすぐる何かがあった。きっと普通の女なら、昨日と態度が違うことくらいあっという間に許せてしまうだろう。しかし、アスカはただ冷静に「嫌なヤツ」と思っただけだった。
「君、新しく入ったコだよね?」
ヒサシの前を離れようとした瞬間、声をかけられた。アスカには願ってもみないチャンスだったが、多少面食らったのは言うまでもない。
「はい。昨日から……」
遠慮がちに言うアスカにヒサシは笑顔を向けた。自分は警戒に値しない人間だと言いたげだ。
「よくここには来るんだ。よろしく」
「よろしくお願いします」
アスカは頭を下げると、その場を後にした。客はヒサシだけではないのだ。ヒサシにばかり、かまけている場合ではない。ただ注意深く、ヒサシのことを遠くから観察した。ヒサシは何度も何度も時計を気にしている。待ち合わせの女がなかなか来ないのだろうか。
マスターからヒサシが注文したドリンクを受け取ると、アスカはヒサシの元へと向かった。騒がしい店内の中で、ヒサシのいる空間だけ、やけに静かに感じた。この男の持つ不思議な雰囲気に、女はやられてしまうんだろうな、とアスカは思った。
「お待たせ致しました。ジントニックです」
アスカは時計を気にしているヒサシに言った。ヒサシはアスカがカウンター越しとは言え、目の前に来ていたことに気が付いていなかったようだ。慌てて、顔を上げて、「ありがとう」と微笑んだ。
「あのさ」
ヒサシはジントニックに一口、口をつけると、アスカの顔をじっと見た。店内が薄暗いからと言って、整った顔の男にじっと見つめられるのは、嫌だった。彼女は自分の造形が美しくないことを知っているからだ。思わず、目を反らしたい衝動に駆られながらもじっと耐えた。これは仕事なのだ。浮気調査の為にこのくらいのことが我慢出来なければ、別れさせ屋の所長なんて務まるわけがない。
「何でしょうか?」
声をかけてきたきり、黙っているヒサシにアスカは言った。少しでも早く、この緊張する状況から脱したかった。
「少し、話し相手になってもらえないかな」
ヒサシの突然の申し出にアスカは心底驚いた。仕事中でさっきから忙しく、カウンター内を行ったり来たりしているバーの店員相手に、こんなことをさらっと言ってのけるのだ。どんなシチュエーションでもきっと物怖じしないで、女に声をかけられるのだろう。
「すみません。マスターに聞いてきますね」
アスカは新人らしく、そうヒサシに答えると、マスターに話し相手になっていても大丈夫かと訊いた。すると、意外にもマスターからはあっさりとOKがもらえて、彼女は拍子抜けしてしまった。
「お待たせしました。大丈夫です」
アスカはヒサシの元に戻って来るなり言った。
「良かった」
「もしかして、お約束の方が来られないんですか?」
アスカはさっきから時計を気にしていたヒサシに言った。
「鋭いね。その通りだよ」
「時計を気にされていたから……」
「格好悪いところを見られていたようだね」
「そんなことないですよ。待ち合わせの時間にやってこなければ、誰だって時間が気になるものです」
「フラれちゃったかな……」
ヒサシはそう言って、酒を煽った。
「仕事が終わってなくて、まだ来られないだけかも」
アスカの言葉にヒサシは苦笑した。
「だといいんだが……」
「やけにネガティブな答えばかりですね」
「男ってのは、いつも自信がないものさ。特に、気になる女性に対してはね」
「そうかしら? この間のあなたは、そんな風に見えなかったけど」
「よく見てるんだね。探偵みたいだ」
ヒサシの言葉にアスカは一瞬ドキリとした。
「それは褒め言葉?」
アスカは微笑みをたたえて、誤魔化す。ヒサシはアスカの動揺には気付いていなようだった。アスカはそっと胸を撫で下ろした。
「君は頭の良い女性だね」
そう言って、ヒサシはグラスに残っていたジントニックを一気に喉に流し込む。
「そんなことはないですよ。至って、普通です」
「頭が良くない、と言わないところがまたいい。頭が良いと言われて、頭が良くないと答えるのは、嫌味にしか聞こえないからね」
「私は事実しか言わない主義なんです」
アスカは意味ありげに微笑み、「何を飲まれますか?」とヒサシの空になったグラスに視線を向ける。
「同じものを」
アスカはヒサシのオーダーをマスターに伝えに行き、しばらくして、ジントニックを持って、ヒサシのところに戻ってきた。
いけすかないヤツだとばかり思っていた。けれど、悪いヤツ、というわけではないようだ――アスカは2度目の接触でヒサシに対してそう感じていた。
頭の回転も良ければ、受け答えにも嫌味がない。外見はスマートで、声のトーンもちょうど良い。女が放っておかない理由も自分が接してみて、想像していた以上によくわかった。
「お待たせ致しました」
アスカはジントニックをヒサシの前に置く。
「一つ気になることがあるんだけど、訊いてもいいかな?」
ヒサシは遠慮がちに言った。今までの態度とは違って、アスカも一瞬驚いた。
「はい。どうぞ」
「嫌だったら答えなくていいんだけど――」ヒサシはテーブルに視線を落とし、しばし考えた後、「どうして、ここで働くことにしたの?」と言った。
「仕事を探していて……。たまたま、このバーに何度か来たことがあって、いいお店だなって思ってたんです」
「そうか……」
ヒサシの問いにアスカは一瞬ドキリとした。自分の素性がバレているのかと思ったのだ。自分が別れさせ屋だとバレた時点で、この依頼は失敗ということになる。失敗したというだけならまだ良いが、別れさせ屋に依頼したことがバレて、依頼者とターゲットが離婚なんてことになったら大問題だ。それだけは何としてでも避けなければならない。
アスカはヒサシの次の言葉を息を飲んで待っていた。
続き>>01-41~01-46.「作戦」 01-47~01-50.「動揺」まとめ読みへ
「そんな中学生みたいな発想するかしら?」
「女の半数以上は、そうだと言っても過言ではないと思うけど」
「でも、私はそうじゃないわ」
「アスカはね。君は少し変わってるから」
シンゴはさらりと言ってのける。内心腹も立ったが、アスカは言い返さなかった。心当たりがありすぎたのだ。自分は人とはどこか違う。それは指摘されなくとも、自分で気が付いていることだった。でなければ、大学卒業と同時に別れさせ屋など開業したりしない。
「男ってのは、浮気する生き物だって言うだろう?」
「そうね。でも、ここに例外がいるわ」
「あぁ、僕はしないね」
アスカは浮気なんてする度胸がない、という皮肉を込めて言ったつもりだったが、シンゴには伝わっていないようだった。むしろ、良い意味で受け取っている様子さえ窺える。
「なんにでも例外っていうのはあるものさ」
シンゴは涼しい顔をして、ビールを飲み干した。
「だいたい、男女の友情ってものが成り立つと思うかい?」
シンゴの話は尚も続く。いつもなら、この辺でもういいと思うところだったが、今日のアスカは違った。アルコールも手伝って、いささか良い気分なのも確かだが、何よりシンゴの話は興味深かった。久しぶりにシンゴが作家である、ということを彼女に思い出させていた。
「ねぇ、どうして、依頼者が依頼を断って来たかわかってる?」
シンゴは眉間に皺を寄せたそのままで言った。シンゴの言葉にアスカは「わからないけど」とあっさりと答えたが、はっとして続けた。「もしかして、あなた、わかっているの?」その言葉を待ってましたとばかりに、シンゴは不敵な笑みを浮かべた。アスカは一瞬背筋がぞっとする。二の腕をこすりながら、アスカはシンゴのその不敵な笑みから目を離せずにいた。
「依頼者が依頼を断ってきた理由を本人は色々と繕うだろうけど、本当の理由はたった一つだけだと思うよ」
そこでシンゴは言葉を区切る。
「もったいぶらずに教えてよ」
仕方ないな、と言いたげにシンゴは口を開いた。
「君とターゲットが恋に落ちたらどうしよう、という不安からだよ」
「まさか」
アスカはシンゴの言葉を鼻で笑った。
「君は何もわかってない」
シンゴは鼻で笑ったアスカの目を見つめて言う。その目は真剣そのものだ。
「どういう意味よ」
「そのままの意味さ。女は全て浮気相手になりうる、というのが彼女の本心だと思うよ」
シンゴは事もなげに言った。